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「中立」という言葉をご存知だと思う。主観的な思い込みと良心の疚しさが激しい方々もいれば、客観的な傍観者になることに罪悪感を覚えない。いずれの罠にも埋没しないための「中立」。
残念ながら、そのような「第三者」は幻想に過ぎない。相手に対して、たった一言で始末したくなるのが、私たちの罪深さである。何故って、「あなたは〜だから」と断言してしまえば、楽だからだ。それまで受けてきた善も悪も、相働いて益となるのではなく、こんなに与えてきたのに何を言うかと考えてしまう。 リラは或る方から、時間を経過しているにも関わらず、或る種の決めつけをされてしまい、非常に衝撃を受けた。既に訣別し、互いに別々の道を歩んでいるのだが、その方は未だに誰かを責めたり、自分自身を責めたりしておられる。 基本的な別れの気持ちは、信仰に伴った愛である。愛は、敵のためにさえ祈るのであって、自分自身が隣人になることだ。愛ではなく、訣別してもなお、非難を続ける姿に、その方に対する奉仕は、すべて無駄だったと理解した。 元々、自分自身の事柄は、誰かに教えてもらえないはず。リラに限らず、その方の霊的・精神的な異質性は、多くの牧師の方々、ソーシャル・ネットの知人・友人から指摘されていた。しかも、その方の属している教会の諸先生方からも、嘆きの言葉しか聞けなかったのである。 リラは周囲から「早く関係を断絶しなさい」と言われ続けたが、その方の問題が解決するまでは頑固に関与させてもらった。 時が満ちて、その方が自立し、霊的には不安もあったが、訣別の時を示されて、リラは、その背後にいる多くの兄弟姉妹の声を代弁した。常識を伝えただけなのだが、すっかり、その方は別の相談者をリラと交換しており、対話は不可能だった。 確かに、相性なり、基本的な方向の違いは存在するので、別れの時が到来するのは仕方ない。しかし、レッテルを貼られたまま、現在でも憎まれたり、呟かれていると、リラは悲しくなってくる。あなたは他の多くの兄弟姉妹にも「○○○」と言うのですか。自分の思惑通りに行かなかったから、過去に受けたキズの数々と、現在の軽薄な幸せを思い浮かべるのだろうか。聖書は、人間ではなく、主のして下さった恵みを思い出せと励ましているのに。 今のあなたになれたのは、主のおかげ。すばらしい隣人が共にいるのも、リラでも、あなたでもなく、主の愛の導きなのです。 完全などないから、後悔したり、恨んだり、レッテルを貼りたくなる気持ちは、十分、理解しているつもりです。 苦しみと悲しみの中で、あえて、あなたに弁明しようとしても、きっと、リラ個人の言い訳にしか解釈できないでしょう。 リラは不完全で、取るに足りない者ですし、あなたにとって、最初は道案内人でしたが、あなたの意向に沿わなくなり、捨て去られた者となりました。ただの場所塞ぎ、且つ、ボロボロの雑巾です。 ですが、リラの願いは、あなたが過去の様々な罪の鎖から開放されて、自由になることです。実際、今、昨年では考えられない恵みの下にいるではありませんか。 但し、リラは罪人の最たる者です。あなたがキズを受け、リラが邪魔になる程、苦しんだことも知っています。リラだけではなく、信頼できる兄弟姉妹も心配していました。主の言葉に仕える者は常に、己の義を主張してはならないと感じます。ですから、リラ経由で受けた善も悪も、すべてを神が断固として裁いて下さることを信じて欲しい。そして、リラは言い分を抑えて、あなたに謝罪します。申し訳ありませんでした。 キリストがあなたに謝罪して命まで捨てて下さったのに、リラがあなたを放置し、祈らず、悔い改めないならば、信仰者として失格に違いありません。 リラのあなたへの信頼と努力は何だったのでしょうか。周囲からも協力を依頼し、時間も体調不良も投げ打ちました。あなたの言葉に左右され、行動は混乱を極めましたし、仲間も失いました。 でも、あなたは世話になったと言いながら、あなたの行動を誇りにしている。だから、リラは○○○として突き放されている。 主も捨てられました。だからこそ、あなたと訣別した後に批判されることは、非常に辛く、泣いても泣ききれません。同時に、あなたが喜んでいる生き方をされているなら、リラたちも嬉しいのです。 聖書の引用は一切せず、言葉足らずの気持ちをぶつけてみました。あなたへの信頼は変わりません。 主に守られて、幸せになって下さい。慰めがありますように。。 |
☆リラ☆の日記帳
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先月、或る方と月例研究会をする話をした。頻度としては少ないが、早速、8月下旬に、現代思想をテーマに、皆で研究会をする予定だ。スタイルとしては、導入、発表、質疑応答みたいな。自由な流れにしようかと、これから調整したい。
誘いたい参加者は、何人かいる。軌道に乗ってきたら、一人ずつ連絡したいと思う。 ミニストリーにおいて、初めての知性的アプローチを試みますが、楽しく学び合えたらと思います。 |
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明日は、シンフォニーチャペルに遠方より来て下さる方が、礼拝に参加する。 色々なSNSに書いているのだが、2012年は、それまでの壮絶な激務から一旦離れて、安息の年にしようと決めている。 休憩を取ると、不思議に対人関係がゆっくりとだが広がってきた。やはり、自分自身が多忙にし疲れていると、他者に焦燥感が流れてしまう。 神を礼拝すること、キリストを信じる信仰は本来、試練の中の安らぎである。 そのような教会になりたい、単純に。 パウロが召されて使徒となったように、私たち一人ひとりも、召されて聖徒とされたわけだが、キリストの故に、何事も、歓喜と喜びを動機にしていなければ、神の愛に基礎を置いた生き方とは言えないであろう。 1:10兄弟たちよ。それだから、ますます励んで、あなたがたの受けた召しと選びとを、確かなものにしなさい。そうすれば、決してあやまちに陥ることはない(第一ペテロ書)。 罪の赦しが明確にされているからこそ、そのまま召しと選びを確かなものにしなければならない。「確かなものにしなさい」とは、ギリシア語の「βεβαιος」(ヴェヴェオス)が使われており、「堅固な」「確実な」「有効な」等の意味を持つ。 しかしながら、別に、自分自身の自由意思で確かなものにせよと言われているわけではないと解釈したい。「βεβαιος」(ヴェヴェオス)は、「(売買契約や権利証書を)保証する」というニュアンスも含まれているからだ。保証されていることを、いよいよ、信じて深めなさい。 或る意味で、神の召命を受けているという厳然たる<事実>は新しい契約であり、神の選びは特権意識を齎すものではなく、神の国に入る証書である。 あたりまえのことだが、神の召命とは何か、神の選びとは何かと問うことは、自分自身と神との関係が曖昧である証拠であり、そのような曖昧さを私たちは回避することが不可能なのである。 逆説的に、だからこそ、キリストの十字架による贖罪に回帰するしか、生きる術は存在しない。 ★★★★★★★★ ギリシア語表記に関して、記事では今後、極力、現代式発音で既述していく。国内の神学校、神学大学、神学部等で教授されるのは、殆ど、古典式発音(エラスムス式発音)の人工的な再建言語である。国外でも事情は変わりはないが、言語学においては、現代ギリシア語(現在、ギリシア人が使用している)が、新約聖書時代のコイネー・ギリシア語(共通ギリシア語)の直径言語だと言われている。 国内では、現代式発音で学べる学校は、南山大学、大阪聖書学院に限定されると思われる(記憶違いかもしれないが)。 なお、現在、リラの出身大学を中心にして、人間関係をゆっくりと構築中である。可能ならば、自主ゼミや、研究会方式で、時間と場所を調整して開催したい。まだ、構想している段階ですが。 無論、信頼関係があるならば、ブログ関係者も歓迎します。ゲストブックに内緒投稿をお願いします。返信します。 *写真は、ネストレ・アーランド(第27版)のギリシア語新約聖書の校訂本である。牧師、神学生、若しくは、何の資格がなくても、既に開拓している方々なら、一冊は持っていたい。
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そうか、そ〜ゆうことだったのか…。エリヤハウスの帰り道に、色々な問題に頭を悩ませていたのだが、上記のみことばを思い出して、霊的な土台が形成された。 まだまだ、不安や問題意識を背負っているが、主の霊に具体的に方向転換することが、解放の秘訣なのではないか。 休息、癒しに加えて、楽しむことも大事だと教えられた。平凡なことだが、まず、自分自身が祝福感に満ちて喜ばないと無理。 苦しい場所を、何度も通過させられるが、祈っていきたい事柄を知ること自体、主の大きなあわれみである。 |
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昨日は、Week3の初日だった。午前中は、体力的に厳しかったが、午後からは非常に恵まれて疲労が吹き飛んだ。 基本的に、祈りのミニストリーなので、信頼関係の中に、自分自身の頑固さが打ち砕かれて、聖霊で満たされること、神の愛を注がれることに集中したい。 詳細は受講して経験するしかないミニストリーだが、意気消沈の度合いは強いので、神に対する期待感は高まる。 帰宅してから、食事をして即座に就寝したが、今までの疲れだとか、思い煩いが噴出し、 ぐったりしている。 今週、金曜までだが、何とか乗り越えて、今年秋のWeek4につなげたい。 |





