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〜VINE AND GRACE MINISTRYの日記です♪〜

神学的探究

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終末論研究



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岡山英雄著『小羊の王国 改訂版』(いのちのことば社)をゆっくり読んでいます。

教会において、私たちは異動による職場環境の変化、何らかのものを手放す、試練など、問題が山積しています。

不思議にも、全員が何らかの重い課題だったり、新しい責任を持つようになりました。

ですから、終末論研究は机上の空論としてでなく、ましてや、組織神学における苦手分野の克服ってゆう理由で学んでいるわけじゃないです。

岡山氏の言う「三年半の現在」が、説教と牧会に役立つからです。

「三年半」の苦難とは、黙示録が書き送られた一世紀の教会の現実であるとともに、あらゆる時代において地上の教会が直面する困難の総称でもあり、またその頂点としての来臨直前の全世界的な苦難である」(同書118-119)。

1Ti 5
23 μηκ??τι ?δροπ??τει ?λλ? ο?ν? ?λ??γ? χρ? δι? τ?ν στ??μαχον κα? τ??? πυκν???? σου ?σθενε??α??

「クスロー」は「クスローメ」(現代式発音)の現在形・命令形ですが「使う」「利用する」「神から与えられた地上の賜物・祝福を享受して用いる」という意味。

英語の「use」(NIV)です。

私たちは、試練の中、神様からの祝福を受けると嬉しいわけです、神様の祝福と賜物という恵みに頼ってしまいがちですし、それが私たちの喜びであり慰めです。

ですが、キリスト者にとって、「現在の三年半」の私たちには、神の恵みは神の御心のために「利用する」「用いる」べきものであって、神の恵みを神御自身よりも上に置き、握りしめて離さないのが私たちの罪であり、弱さでもありますよね。

神の恵みは神のために使うべきであって、どんなにすばらしい恵みでも、恵みを偶像化し恵みに私たちが使われる関係、左右されてしまうことを、神は望んでいないのです。

岡山氏はヨブ記を終末論における現在的な苦難と位置付けているので、ヨブ記からの引用をします。

「そして言った、「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」。」
ヨブ記 1:21 JA1955

キリスト教と脱構築

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脱構築と言えば、デリダの代表的用語ですが、無と否定の思想でなく、責任を含む、無制限な肯定の思想と言われます。
脱構築的な肯定も責任も「決定不可能なもの」の経験における「決定」ということと深く関係している(高橋哲哉著『デリダ 脱構築と正義』講談社学術文庫125頁)。

脱構築における「決定不可能なものの決定」は、プラトン主義のような「決定不可能なものを外部の悪として追放する暴力的決定」ではないとする(同上、125頁)。

プラトン主義が暴力的決定か否かは直接、著作を調べてみたいと思う。

脱構築における「決定」は「問いの可能性についての問いの共同体」を基礎づけるという。

ウェスレー的な意味で、信仰は決断であり決定である。

神という不可能性の中の「決定」は、キルケゴールやカミュから「飛躍」とされている。

そのような「飛躍」こそ、共同体を基礎づけるとしたら?

通常の意味での「教会」という現場はわかりやすい。

自由な「決定」を下し、最悪の場合、「決定」できない者を、共同体の内部にいながら、外部へと排除すれば良いのだから。

「決定」できない者には、信仰の決断だけでなく、貧しい者、障害と病気に苦しむ者、孤独な者たちなどが含まれている。
http://bible.com/423/1co.1.27-28.ntv

一致という観点から、最低限、教会共同体は、信仰義認、三位一体、キリストの十字架と復活を中心とした福音が不可欠であろう。

そして教会共同体に万一、何らかの暴力的な排除があるとしたら、教会共同体の「人間観」が問われている。

教会共同体の、脱構築的な「決定」は「否定」や「排除」によって実現されるものではない。

むしろ、徹底的な「無」を人間観に導入すること。

第一コリント1:28の「εξουθενω」は「無視する」「軽視する」「軽蔑する」「蔑む」「辱める」という意味。

「εξουθενω」は名詞の「ουδει??」「ουδεν」に基づいており、「無」「無に等しいもの」「全く価値のないもの」を意味している。ラテン語では「nihil」。

「神は〜を選んだ」と言われる時、少なくとも第一コリント1:27-28ではアオリスト時制が使われている。

例えば、当該箇所の「εκλεγομαι」は「選ぶ」「選び出す」「選び取る」という意味で、「εκ」は「中から外へ」というのが基本的意味である。

ただ選ぶというのではなく、内部から外部へと取り出すのだ。

神の主権的な選びは、過去における唯一の、キリストの十字架と復活を前提にする。

即ち、神は教会共同体の中から、或いは、世の中から「無のような私たち」を選び、キリストの救いに定め、暴力的に排除せずに「不可能な決定」を下す。

神の主権的な選びは、そのような脱構築的な「決定」と「責任」によって、新しい共同体を実現させる。

キリストには不可能も不条理もなく、信仰と決定、及び、弟子たちに対する責任を、完全に引き受ける御方である。

キリストは私たちを「無」の中から外へ連れ出す。

神が不可能な決定を下した結果、信仰は啓示され、私たちはキリストに対する信仰を追認する。

教会共同体の「責任」とは、世話焼きの責任を取ることではない。司牧であり、牧会である。

要するに、神の「決定」を信じるように、慰め励ましていくことであろう。

私たちは、神を信じることが「不可能性の決定」であると知っているだろうか?

「不可能性」を「不可能性」として把握していないなら、未だに神の「決定」を追認していることにはならない。

そして、「無」が「世」だと錯覚する時、神と人間に対する「暴力的な排除」が開始される。
暖かい日ですが、今日は、持病(特定疾患)の診察となります。

私は先天性の身体障害があり、両腕を、自由に動かせる感覚を知りません。

なお、後天性の特定疾患のため、ある程度の健常を保てた状況から、一日一日が闘病生活である暮らしに慣れないでいます。

先天性の障害者、且つ、後天性の病気を発症した者として、先天性の障害は不治の病に等しく、後天性の障害には過去の健常と比べるので事故のようなものです。

このような平凡な日常生活と、神学的霊性は何の関与が存在するのか、それとも存在しないのか。

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アタナシオスが古代教会のもっとも重要で、尊敬される教父であることは、間違いありません。しかし、何よりもまずこの偉大な聖人は、「ロゴス」、すなわち神のみことばの受肉を熱心に考察した神学者です。神のみことばは、第四福音書の序文が述べるように、「肉となって、わたしたちの間に宿られた」(ヨハネ1・14)からです。そのためアタナシオスは、アレイオス(Areios 250-336年)派の異端のもっとも重要かつ最強の反対者でもあります(ベネディクト16世『教父』ペトロ文庫、90頁)。

キリストの受肉は、クリスマス・メッセージに限定不可能です。気候的にも、降誕日は、10-11月という有力説もあります。

私たちが注目したいのは、キリストの受肉こそ、苦痛からの解放、──否、苦痛の只中の信仰であり、神との関係における霊的基礎であるという点です。

キリストの受肉は、両性論(キリストは神の御子であり、完全な人間である)では、完全な人間性に該当します。

このように、子たちは血と肉とに共にあずかっているので、イエスもまた同様に、それらをそなえておられる。それは、死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし、 死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放つためである。 確かに、彼は天使たちを助けることはしないで、アブラハムの子孫を助けられた。 そこで、イエスは、神のみまえにあわれみ深い忠実な大祭司となって、民の罪をあがなうために、あらゆる点において兄弟たちと同じようにならねばならなかった。 主ご自身、試錬を受けて苦しまれたからこそ、試錬の中にある者たちを助けることができるのである。 (ヘブル人への手紙 2:14-18 JA1955)

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キリストの受肉は、決して思弁でなく、歴史的事象に還元できるものでもない。何故なら、主は試練を共にして下さる御方だからである。その唯一絶対の根源が、キリストの受肉なのである。

彼らのすべての悩みのとき、主も悩まれて、そのみ前の使をもって彼らを救い、その愛とあわれみとによって彼らをあがない、いにしえの日、つねに彼らをもたげ、彼らを携えられた。 (イザヤ書 63:9 JA1955)
ヨーゼフ・ラッツィンガーを突破口にして、カール・ラーナー、イブ・コンガール等の、現代カトリック神学を学ぶことになった(福音主義神学の重要な関連書、翻訳文献等は、恐らく殆ど、読了済みだった)。

特に、現代カトリック神学研究のきっかけを与えてくれたラッツィンガーを知りたくて、ファーガス・カー著『二十世紀のカトリック神学』(教文館)を調べてみた。

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ギリシア正教会府主教ダマスキノスは、当時、教理省長官だったラッツィンガーに手紙を書いている。『主イエス』という宣言が「正教会は、ローマ・カトリックから見れば、いくぶん劣った教会であり、ローマ・カトリック教会のみが唯一の真の教会とみなされねばならない」(同書302頁)という意味を懸念したのである。

基本的に、ラッツィンガーは法王だった時、即ち、ベネディクト16世だった時は、正教会に対して非常に好意を表明している。その分、プロテスタントの諸教会とは一致できないと考えていたフシがある。

ところが、カトリックとプロテスタントは同じ西方教会なので、神学的に共通点が多く、フィリオ・クェ的に、東方教会はアリウス主義等の影響もあるはずなのに。

神学的な不一致にも関わらず、ラッツィンガーは以前の教え子ダマスキノスに、カトリック教会も「傷を負っている」と答えている。

なお、第二バチカン公会議において、ラッツィンガーは、カール・ラーナーと連携して活動した。

ラッツィンガーは、幾人かの司教たちが教会一致に関連する項目において過度なマリア崇敬を持ち出そうとしたことに対して、それは障碍であると嘆いている。彼が皮肉を込めて評しているところによれば、ある人々はヨセフ、ロザリオ、および世界をマリアに捧げることとマリアの聖なる御心に対する信心等々以外には関心を持っていないように思われたのである──そしてそれは、彼らには神学上の知識が欠落していることを示しているのであった(同書306頁)。


所謂、トマス主義に対する評価を検討する必要のなかったラッツィンガーだったが、その分、ハイデガー、ヤスパース、ニーチェ、ベルクソン、ブーバーに加えて、オリゲネス、婚姻神秘主義、バルタザール、シャルダン、ラーナーから大きな影響を受けることになった。

イブ・コンガールは「危険な学識経験者たち」という記録に、ラーナーだけでなく、ラッツィンガーも数えている。

理由は何だろうか。

それは、一般に認められているように、司教の団体性に関する公文書の助祭職に関する最後の三行において、彼らが独身性について言及しなかったからである(同書307頁)。

プロテスタントからすると、絶句してしまう批判内容だが、ラッツィンガーが婚姻の秘跡を大切にしていることが伺える。

キリストの体としての教会、聖霊の宮としての教会を教えられることは多いが、キリストの花嫁としての教会が何故か強調されない。

神論において、愛の神、義の神、聖なる神は本質的な視点である。義の神はキリストの体、聖なる神は聖霊の宮に対応している。

それなのに私たちは、キズ付いたままであり、神の愛を信じることに困難さを覚えている。何故なら、婚姻がただの象徴以上の秘跡であることを、誰も教えてくれなかったからだ。

若い者が処女をめとるようにあなたの子らはあなたをめとり、花婿が花嫁を喜ぶようにあなたの神はあなたを喜ばれる。 (イザヤ書 62:5 JA1955)

Holy Mystery

私たちは次のことをいつも心に留めておかなければならない。すなわち、イエス・キリストは私たちを癒しかつ救うことに関わるすべてにおいて、私たちを人格とし人間とする活動に専心しているのであって、断じて私たちを非人格的にし非人間的にする活動に携わっているのではない。その結果、私たちは、キリストとの関わりのすべてにおいて、信仰をもって人格的に応答することにより、以前には決してありえなかったほどに真実で完全な人間とされるのである(トーランス著『キリストの仲保』キリスト新聞社、8頁)。

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『バルト初期神学の展開』で有名なトーランスの著作である。

冒頭、「この一連の講義の目的は、神学生、説教者、牧会者、そのほか教会の指導者や奉仕者が福音について神学的に考えることができるように助けることにあり、その結果、その多様な務めを果たすための福音の内容について、もっとしっかりした理解を持てるようにすることにある」(同書3頁)と、トーランスは書いている。

逆説的に言うと「神学的に考えること」と「多様な務めを果たすための理解」こそ、〈福音〉に不可欠だと述べている。もっとしっかりした理解を……!という風に。

キリスト教信仰は断じて「知性の犠牲」ではない。三位一体論や、キリスト論における両性論等、言語化することが難解な〈神秘〉は確かに存在するし、存在しなければならない。そして、「語りえないことについては人は沈黙せねばならない」(ヴィトゲンシュタイン『論理哲学論考』岩波文庫、)。

しかしながら、「知性の犠牲」、若しくは「思考停止」は、キリストを信じる信仰の出来事と正反対である。

ひとりの律法学者がきて、彼らが互に論じ合っているのを聞き、またイエスが巧みに答えられたのを認めて、イエスに質問した、「すべてのいましめの中で、どれが第一のものですか」。 イエスは答えられた、「第一のいましめはこれである、『イスラエルよ、聞け。主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である。 心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。 第二はこれである、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これより大事ないましめは、ほかにない」。 (マルコによる福音書 12:28-31 JA1955)

τ? ο?ν ?στι? προσε?ξομαι τ? πνε?ματι, προσε?ξομαι δ? κα? τ? νο?? ψαλ? τ? πνε?ματι, ψαλ? δ? κα? τ? νο?.

「思いを尽くし」の「思い」は「διανοια??」が使われており、「理解力」「思考力」等の「考える能力としての心」を意味している。

キリストは「理解力」「思考力」を尽くして、神を愛することを強調している。

もしわたしが異言をもって祈るなら、わたしの霊は祈るが、知性は実を結ばないからである。 すると、どうしたらよいのか。わたしは霊で祈ると共に、知性でも祈ろう。霊でさんびを歌うと共に、知性でも歌おう。 (コリント人への第一の手紙 14:14, 15 JA1955)

??ν γ?ρ προσε?χωμαι γλ?σσ?, τ? πνε?μ? μου προσε?χεται, ? δ? νο??? μου ?καρπ??? ?στι.
τ? ο?ν ?στι? προσε?ξομαι τ? πνε?ματι, προσε?ξομαι δ? κα? τ? νο?? ψαλ? τ? πνε?ματι, ψαλ? δ? κα? τ? νο?.

両方の節において、「知性」という言葉は「νου??」であり、「〈ψυχη〉の知性面」だが、「διανοια??」と殆ど同じ意味である。

神に対して、「霊性」に対置された「知性」で祈らなければならない。即ち、神との祈りは、私たちには「霊性」的と同時に「知性」的な関係なのだ。

霊性と知性の回復は、キリスト教信仰の人間観において、「人格的な応答」を可能にさせるものである。

但し、トーランスにおいては「人格的な応答」は、人間の応答責任でなく、「キリストの無条件の恵み」(同書9頁)に基礎付けられている。

その人間性におけるイエス・キリストは、「恵みのすべて」が「人間の無」を意味するのではないという事実を象徴している。まさにその逆であって、神の愛に対する人間の応答の自発性と自由においてこそ、十分で真正なる人間存在の回復が起こる(同書199頁)。

神を愛し、神に祈るために、「キリストはすべての人のために死なれた」という〈普遍的贖罪〉の教理を推奨し、〈限定的贖罪〉の教理に反対するもの、そのようにトーランスは批判されたらしい。

なぜなら、キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである。わたしたちはこう考えている。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである。 (コリント人への第二の手紙 5:14 JA1955)

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「キリストが全世界を同等に愛して世のためにご自分をお与えになったとすることが正しいなら、夫の花嫁とキリストの花嫁との相似関係は壊れてしまう」(パーマー著『カルヴィニズムの五特質』つのぶえ社、72頁)としながら、カルヴィニズムは〈限定的贖罪〉を以下のように主張する。

というのは、キリストが教会だけでなく──花嫁だけでなく──それ以外の人々のためにもご自身をささげるように、夫は自分の妻以外のものを愛し自分をささげなければならないという命令になるからである。これは聖書に反することである。聖書は夫が一人の妻を持つべきであると教えている(同書72頁)。

他方、古典的カルヴィニズムは、神の愛は様々に変容するという考え方が土台にあると思われる。神の選びという条件下でのみ、神の愛の変容は説明され得るという(エサウとヤコブのように)。

アルミニアンとカルヴィニズムとの対立は、どのように把握すれば良いのだろうか。

贖罪についてのこのような合理主義者の思考法はたいへん嘆かわしい。なぜなら、それが実際に行っていることは、キリストの血の効果を値踏みすることで、聖霊の活動を論理的な関係に置き換えようとするものだからである。キリストの贖罪死は、究極的に神の無限の存在に根拠を持つ聖なる秘儀(holy mystery)として、最大の崇敬と畏敬の念をもって探究されるべきである。贖罪の理由、その「なぜ」と「いかに」は、神の聖なる愛の中に隠されており、この聖なる愛の前では天使たちですら顔を覆い、私たちの詮索好きの理性からこの秘儀を保護するのである(同書10頁)。

そのような「説明不可能」の「奇跡」として、トーランスは以下の聖句を引用している。

生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。 (ガラテヤ人への手紙 2:20 JA1955)

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