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しかし、幼児洗礼ではなく、再洗礼でもない。偏らずに、自覚的な信仰と、教会の責任を強調した功績は大きい。 だから、娘は就学前にも関わらず、信仰告白をしているので、幼い年齢かもしれないが、洗礼を妨げる要素は存在しない。 更に、幼児洗礼を授けていないので、娘なりの自覚的信仰を大切にしたい。その意味で、娘を今後、シンフォニーチャペルで信仰を養育に努力すべきである。家族の問題だけではなく、新しい姉妹が教会共同体に組み込まれ、建て上げられることだからだ。 責任は重いが、まだ祈り考えるべきである。信仰告白と洗礼は終わりじゃなくて、すべての始まりなのだから。 |
洗礼論
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さて、このように述べてきたが、難しいことは言わない。リラは「信仰告白をしたならば、天国に行ける」と確信している。アルミニウス主義や、ウェスレー主義ではなく、ルター主義でもない。リラはあくまでも、古典的な穏健カルヴァン主義を基軸にしながら、聖霊の力と働きを強調し、教会の回復を祈り願っている。 バルトは、自覚的な信仰と再洗礼を引き離した上で、前者を肯定し、後者を否定する。では、自覚とは何歳の出来事を想定しているのか。成人年齢であり、未成年者の飲酒・喫煙じゃない、未成年者の洗礼に否定的だ。 |
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幼児洗礼は、信仰告白、カテキズム(教理問答)、聖書研究等の教会訓練を、分離させてしまうこと。 カルヴァンは、キリスト教綱要で幼児洗礼に二章も割いているが、神学的思考と聖書引用は、こじつけとまで言わずとも、かなり弁明に必死であること。 幼児洗礼を、宗教改革者たちは、再洗礼派という急進主義と違い、割礼との類似性にその根拠を置いている。再洗礼派は自覚的な信仰告白を洗礼の絶対条件とし、幼児洗礼を否定、脱線したのも無理はない。 バルトは、幼児洗礼を克服するために、再洗礼以外の手段はないだろうかと問題提起した。幼児洗礼も唯一の洗礼であり、無効にならないが、教会はキズを受け、しみとしわを持つことになると言う。 |
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既に、娘は信仰告白の祈りをしている。娘の洗礼を祈り、考えることで、私たちの問題点に取り組むべきであろう。 要するに、妻は、自分では福音派だと思い込んでいたが、何かモヤモヤしていたらしい。リラと対立し、喧嘩することも多かった。 結論から言えば、福音派と福音主義の違いを認識していなかったことにある。原因は、非常に高度な神学的矛盾だった。しかし、ここではそのような問題は詳述しない。 霊的出生の秘密が存在しており、産みの親は改革派だが、育ての親は福音派だった。しかし、リラは福音主義だという点が味噌である。 神学的・聖書的混乱は、基礎の教えとされる洗礼にまで波及し、価値観に破壊的な混乱を与えてしまう。 対話しながら私たちは、神の最高の善に対して、無知であることが暴露される。しかし、伝えられなければ、誰が信じることが出来るだろうか。 |
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