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詩篇62:10-12 口語訳
62:10 あなたがたは、しえたげにたよってはならない。かすめ奪うことに、むなしい望みをおいてはならない。富の増し加わるとき、これに心をかけてはならない。 62:11 神はひとたび言われた、わたしはふたたびこれを聞いた、力は神に属することを。 62:12 主よ、いつくしみもまたあなたに属することを。あなたは人おのおののわざにしたがって報いられるからである。 詩篇62:11-12を、ある問題との関連で、主から与えられたのですが、祈りながら少し釈義してみました。 わたしは普段、聖書は新改訳第三版を使っていますが、62:12は「恵み」と訳されています。 でも、妙に気になる!(▭-▭) スチャ まず、ギリシャ語訳70人訳聖書(LXX)を調べたら、「ελεο?」(エレオス)となっていました。「慈悲」「憐れみ」「同情」という意味。英語だと「mercy」です。 新改訳第三版の「恵み」だと、ギリシャ語の「χαρι?」(カリス)が使われるはずで、英語なら「grace」ですね。 実際、口語訳でも、新共同訳でも、フランシスコ会訳でも、「ελεο?」を「慈しみ」と訳出しています(KJVでも、mercy)。 主はあわれみと慈しみに満ちた御方。 わたしたちは「神の偉大な支配力」(κρατο?=クラトス)の代わりに「圧制」「暴力」に頼ってしまう。 「神の慈しみ」よりも、むしろ、「かすめ奪うこと」「富の増し加わること」に望みを置いてしまう。 「神の力」「神の慈しみ」は、一度、確かなものとして告げられるものですが、それらを受け取るわたしたちは二度に限らず、何度も聞き続ける必要があります。 神の言葉を「力」と「慈しみ」として、キリストを通して聞き続けていきましょう。 ローマ書10:17 口語訳 10:17 したがって、信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。 |
聖書釈義
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口語訳聖書・伝道の書。 3:1 天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。 伝道の書3:1は有名な箇所だが、「There is a time for everything, 」の「a time」は「χρ??νο??」が使われており、一定の期間・季節を示す。すべての事柄には、時間を要することがある。 だが、「and a season for every activity under the heavens: 」の「a season」には「καιρ????」が使われている。新共同訳では両方、「時」としているが、口語訳は「季節」「時」、新改訳は「時期」「時」と厳密に訳出されている。 だから、事柄に関しては時間を要し、すべての実践は神の時に基づいている。では、神の時(καιρ????)とは、何を意味しているのだろうか。キリストの十字架の時と、キリストの再臨の時のことである。十字架は信仰の、再臨は希望の根源的な土台だ。 十字架(罪と律法からの救済)と再臨(神の時々の取り扱い)を引き裂いてはならないように、信仰と希望を別々に考えてはならない。神の愛は信仰と希望を結び合わせ包括する。 口語訳聖書・第一コリント書。 13:13 このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。 信仰(πιστι??)、希望(ελπ????)、愛(αγ??πη)。神の愛は救済の出来事としては信仰義認だが、その後、頑張らなければならない、証を立てなければならない、奉仕すべし云々と、律法主義の罠により、初めの愛を忘却し燃え尽きてしまう場合も少なくない(むしろ、事例としては沢山だ)。 キリストに対する信仰は、神に対する望みに溢れていなければ、聖化されることを、即ち、神から時々に取り扱われることを拒絶してしまう。ちなみに、伝道の書3:2-11の「時」はすべて「καιρ????」が使われている。自分自身で〈時を移さず〉というワケではない。 それなのに私たちは、神の時を逃してしまった〜!とか焦燥感に襲われていないだろうか。信仰と希望が乖離すると、神の愛より、不安と恐怖に支配されてしまう。信仰・義認だけで満足していないか。希望・聖化だけで十分としていないか。キリストこそ、唯一、神の時を満たして下さったのである。 口語訳聖書・第二コリント書。 6:2 神はこう言われる、「わたしは、恵みの時にあなたの願いを聞きいれ、救の日にあなたを助けた」。見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である。 「恵みの時」(καιρ????)であり、「救いの日」(ημ??ρα=昼、主の日)だ。時の問題は、一般的な地上に流れる時間(??ρα)と違い、マルタのように、私たちがアレコレと動いても「良い方を選んだ」とは言えない。 時を有効利用し効率的に過ぎることで、主に対するマリヤの信仰(=キリストの言葉を聞き続ける)を奪ってはいないか?自分自身にとってのマリヤは、果たして、誰だろうと問いかけてみること。 口語訳聖書・ルカ福音書。 10:41 主は答えて言われた、「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。 10:42 しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」。 |
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ローマ書(聖書口語訳) 10:17 したがって、信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。 信仰は「聞くこと」(ακο??)から、特に、「神の言葉」(? δ? ?κο? δι? ??ματο?? Θεο?)を「通して」聞くことである。「言葉」は「ρ??μα」が使われており、「神の語りかけ」というニュアンスだ。ギリシア語訳聖書のEPT(1904年)では「神」(θεο??)である。 但し、欽定訳聖書(KJV、1611年)はもちろん、J.カルヴァンの『ローマ書註解』(1539年)以前から、ローマ書10章17節は「神の言葉」(異本)となっていた。 これは16節の「誰が福音を信じたのか」という言葉を、「だから」「それ故に」と、パウロは受け答えているのだ。信仰は「キリストの言葉を聞くこと」だが、へブル語では「シェマー」で、「聞くこと」と「従うこと」の両方の意味がある。キリストの言葉を聞き続ける者だけが従うことが可能とされる。 申命記(聖書口語訳) 6:4 イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である。 ……云々と釈義を試みても、聖書解釈に確かさを含ませる以外に用途はないが、やっぱり、聖書の言語に通じ、翻訳では誤読、若しくは、表層的な通読になるのを避けたいものである。大切なのは、釈義をした後の、福音のメッセージを放つことだと思う。 教会奉仕者など、狭義の献身者に限らず、信仰者は誰でもライフ・メッセージを生きるように召されているものだ。教職と平信徒の隔ての壁など、キリストが打ち壊して下さった。キリストと神の語りかけを、今日も聞いていこう。 ルカの福音書(聖書口語訳) 10:39 この女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、御言に聞き入っていた。 |
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自分自身を含めて、誰もが間違いやすいと思う。福音と律法の境界線を、曖昧にしてしまう私たちだ。
富める青年の話を引用するまでもなく、「戒めとは何か」という質問自体を、主は無効としながら、神の愛(αγαπη)の欠如を指摘しておられる。主は別に、富める青年の施し自体を問題視したわけではない。 富に支配されている人間が、己の中には、一切、善を願いながら、自分ではしたくない悪を実行している状況に対して、神の愛が唯一欠如していると、主は彼に教えられたのだ。 すべてを捨てて、施しをすることができません、主よ、助けて下さいと言っていたならば、神は喜んで彼を富の支配から解放し、キリストの十字架という神の愛を示したであろう。 聖書の「戒め」とは、言うまでもなく、十戒のことである(出エジプト記20章、レビ記19章参照)。 当時、ユダヤ人たちは、613の戒めを遵守しようとしていた。 しかし、はっきり言うと、自分自身の力で律法を守ろうとするならば、実行しようとするならば、破滅しかないであろう。 主は律法の行いによって、神から義を受けようと考えていた律法学者やパリサイ人たちに、「偽善者たちよ」(υποκριτ��)と糾弾している。 ルカの福音書(聖書口語訳)。 13:15 主はこれに答えて言われた、「偽善者たちよ、あなたがたはだれでも、安息日であっても、自分の牛やろばを家畜小屋から解いて、水を飲ませに引き出してやるではないか。 13:16 それなら、十八年間もサタンに縛られていた、アブラハムの娘であるこの女を、安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったか」。 戒めと律法を改めて考えてみると、戒めと律法自体は「聖なるもの」「霊的なもの」「正しいもの」だと聖書は断言している(ローマ書7章参照)。 だから、戒めと律法に対して、極端に敏感で、質問しなくては気持ちが収まらないならば、以下の聖句が理解不能となる。 テモテ書第一1章。 1:8 わたしたちが知っているとおり、律法なるものは、法に従って用いるなら、良いものである。 1:9 すなわち、律法は正しい人のために定められたのではなく、不法な者と法に服さない者、不信心な者と罪ある者、神聖を汚す者と俗悪な者、父を殺す者と母を殺す者、人を殺す者、 1:10 不品行な者、男色をする者、誘かいする者、偽る者、偽り誓う者、そのほか健全な教にもとることがあれば、そのために定められていることを認むべきである。 1:11 これは、祝福に満ちた神の栄光の福音が示すところであって、わたしはこの福音をゆだねられているのである。 即ち、福音信仰は、律法を包括しているのだ。主は、律法学者とパリサイ派の人々を「υποκριτ��」(偽善者)、即ち、「演技者」と呼んでいる。 神の愛を演技する、コレが「偽善者」の本質である。 マルティン・ルターの『ローマ書序文』を読むならば、「律法を実践すること」は不可能であって、「キリストを信じる信仰によって律法を満たすこと」が、聖霊による導きだと理解できる。 「満たす」という言葉は、ギリシア語の「πληλω」が使われており、戒めと律法の「実践」でなく、キリストに対する信頼によって実現していくものなのだ。 マタイの福音書(聖書口語訳)。 5:17 わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。 5:18 よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。 5:19 それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。 5:20 わたしは言っておく。あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない。 キリストが完全に戒めと律法の要求を成就して下さった。 だからこそ、私たちは、自発的に、ひたすら、主を信じ抜いて、聖霊によって、神の言葉を満たしていく者に造り変えられたのである。 ローマ書(聖書口語訳)。 8:3 律法が肉により無力になっているためになし得なかった事を、神はなし遂げて下さった。すなわち、御子を、罪の肉の様で罪のためにつかわし、肉において罪を罰せられたのである。 8:4 これは律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされるためである。 このような道を、聖書は「律法」でなく「自由の律法」だと教えている。 キリストの十字架を信じる私たちは、律法廃棄論者でもなければ、律法主義者でもない。主義主張と廃棄の〈狭間〉に、神の愛は聖霊によって注がれるのだ。 ヤコブ書。 2:12 だから、自由の律法によってさばかるべき者らしく語り、かつ行いなさい。 2:13 あわれみを行わなかった者に対しては、仮借のないさばきが下される。あわれみは、さばきにうち勝つ。 |
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現在、ヨブ記の釈義に挑戦中である。 ヘブル語を本格的に学んだことはないので、ヘブル語を翻訳している英語ツールに頼るしかないので、厳密に釈義をしているとは言えない。だが、私は学者ではないし、ヘブル語を極めるには時間が足りない(ギリシャ語も不完全なのに…汗)。 ヨブ記は、初期の頃、何度も読んだだけではなく、試練の中に置かれた時、19章25節が与えられ、強烈な励ましと慰めを受けた書である。 1−2章までを、序論として区分した後、1ー5節までを研究してみたわけである。 あまりにも膨大な資料と、諸々の解釈に辟易しながらも、1節ずつ、将来的な講解説教のために、釈義を実践中である。 詳細は、説教に至るまで公表しないが、一つ興味深い箇所があった。 for Job said, It may be that my sons have sinned, and cursed God in their hearts. Thus did Job continually. 上記は、KJVからの引用だが、NIVとNLTでも事情は同じであり、新改訳第三版や新共同訳、関根正雄訳でも、1章5節を参照してもらいたいのだが、後半部分に、ヨブの息子たちが心の中で「神を呪った」のかもしれないと記されている。 「呪った」という言葉は、ヘブル語の「バラーフ」が使われており、直訳すると「(神を)祝福する」という意味だ。それじゃ、意味が逆に訳されているのかという疑問が発生して調べてみた。 これは、敬虔な書記たちが、直接的な表現を上品な言い回しに変えた個所として知られているものの一つである。『新聖書注解・旧約3』(41頁、いのちのことば社)。 これだけを読むと、何とも頼りない説明に思ってしまったが、実際は、他にも同じ変更箇所が複数、存在しているのだから認めざるを得ない。『理由もなく』(教文館)の著者、佐々木勝彦氏(東北学院大学教授)も、「意訳」であり「婉曲表現」だと言っている。 聖書には、そんなワケアリがあったと、初めて知りました。 そもそも、ユダヤ人たちは、神の固有名である「YHWH」を発音不能にさせたくらいですから、あり得る話なのでしょう。 研究時間が取れるようになったので、ヨブ記の研究以外にも、アップしていきたいと思います。
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