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永井均著『これがニーチェだ』(講談社現代新書)は、1998年に発行されている。ニーチェ入門書としては、批判的に、やや印象批評的なもので、好き嫌いが分かれると思われる。 「何故、人を殺してはいけないのか」という馬鹿げた問いが、真面目に検討されていた怖い時代である。曰く、そのような絶対的な道徳規範は存在しないとか。 但し、著者はニーチェに傾倒している者こそ、危険視している。また、キリスト教に対するニーチェの姿勢が、ただの無神論と異なる指摘をしているので、一読の価値はある。 だが、2001年9月11日に、アメリカ同時多発テロが起きる。 2010年、北野武監督の暴力的な作品、「アウトレイジ」が上映される。 2011年3月11日、東日本大震災により、続編「アウトレイジ・ビヨンド」の国内上映が延期される。 2001年、特に2011年は、倫理と生命における高貴さが、改めて確認された年であり、それ以前の哲学的著作とそれ以後を区別して読むべきだと思う。 昨日、「アウトレイジ」がテレビで再放送されていたが、あまりの残虐さと暴力に強い抵抗感を覚えた。SFなどと異なり、空想と日常生活の中間的な作品なので、生命の問題、暴力の問題を考えざるを得なかった。 北野は、「アウトレイジ」シリーズを、エンターテイメントだと発言しており、本当はラブ・ストーリーを描きたかったらしいが、真意と経過は不明である。 現在、何故、殺してはならないのかという問い自体が、非常に邪悪であろう。だからこそ、死の問題を乗り越えて、生の問題を考え抜くイタリア現代思想に魅力があるのだ。 岡田温司著『イタリア現代思想への招待』(講談社選書メチエ)は、フランス現代思想以降の(ジャック・デリダ以降と言うべきか)道案内としては最適の見取図になっている。 楽観的なアントニオ・ネグリや、悲観的なジョルジュ・アガンベンの著作は数多く翻訳されているが、残念ながら、否定の思考のマッシモ・カッチャーリ、神の敗北のセルジョ・クインツィオ等は殆ど紹介されていない。 何故なら、フランス現代思想と違い、イタリア現代思想は、カトリック神学、ギリシア語、ラテン語、古代哲学、美学等に関する深くて広い造詣がなければ、中々、理解しにくいからだ。 とは言え、フランスとイタリアの国境的な思想の区別に関心はない。 ニーチェ=否定の思考、神の死から、実存主義におけるヒューマニズム、構造主義のよる主体性=人間の死を経て、現代思想は、いよいよ、キリスト教神学へと接近している様相を呈している。恐らく、最低限、イタリア現代思想を学ぶには、聖書を通読し、キリスト教思想を知らなければ、浅い理解になってしまう。特に、イタリア現代思想は、中身は濃いが、何より読みやすいので、フランス現代思想の方が高尚だと錯覚する可能性があり、注意が必要だ。 アガンベンは『残りの時』(岩波書店)というローマ書注解を書いている程であり、『王国と栄光』(青土社)などは、キリスト教神学を知らなければ、わけがわからない。 そして、神学と現代思想を学ぶ意味は、知的好奇心でなく、キリスト教から「宗教」的な要素を剥ぎ取る思考作業なのである。キリスト教会において、自明であり、常識とされている事柄があまりにも多い。中々、信仰義認が探究と結合していない実態が蔓延しているから、福音の真理を弁証する備えが弱体化しているのではと感じる。 聖霊によって、言うべき言葉が与えられることを確信しながらも、霊性だけでなく、知性でも祈り、主に仕えよと聖書は私たちに教えている。 神の栄光と、キリストの愛の故に、知恵と知識が用いられ、自然にも触れながら、シンプルな信仰生活を送ることができますように。 ちなみに、エマニュエル・レヴィナスは、倫理的な意味で、徹底的に学ぶ価値のあるユダヤ人哲学者である。 |
哲学
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高校生の時から読んでいるニーチェの『ツァラトゥストラ』だが、改めて読み、綱渡りをする者を飛び越える道化師、兵卒でなく戦士であること等、読んでいて、言葉が腹に入ってくる。他に、現象学、ドゥルーズ、アリストテレスを読む予定(レヴィナスとアガンベン、ヴィルノ、デリダは例外)。
日本の作家や民族学者の中で、稀に、凄く不気味なテキストが存在する。市販されているものもあれば、入手不可能なものもある。私は弱虫なので、正直、怖い。昔、カニバリズムの研究をしようとして挫折した経緯あり。映画『生きてこそ』の「原作」を批評したのが精一杯だった。横断性と迂回。 自分が正しいと主張するより、不正を受け取っておくほうが高貴である。ことに自分が正しい場合にそうである。ただ、それができるのは、豊かな人間に限る(ニーチェ著『ツァラトゥストラ』)。ニーチェは本来、引用することが不可能な人間であろう。理論でなく、実践の書しか書いていない。 しかし、『ツァラトゥストラ』を読めば読むほど、キリスト教と国教会に対する苛烈な批判だらけで、キリストを直接、攻撃している言葉が殆ど見当たらない。あまりに奇妙な神学者、オーバーヴェックと友人だったのも摩訶不思議である。試練の後、僅かに、久しぶりのニーチェの著作を味わい楽しんでいる。 同一化の巧妙な罠。別の言葉を使っていても、結局、同じことを喋っている。そこ-ここには、まるで批判が存在しない。観察してみると、鵜呑みばかりで、読書行為に複数性と唯一性があっても、多様性が見当たらない。「似ている」という不気味さ。 既に「語られたもの」、過去に表現されたという「恐怖感」は、否定の道である。しかし、否定を否定する時、自分自身の嘘と偽りを、その功利主義を、利己性を打ち砕く準備はできているだろうか。 そうでなければ「似ている」ことの閉鎖構造=(まさに)収容所空間、即ち、極限的な同一化を生成する「異形のもの」に騙されてしまう。しかし、それらは他者でもなければ、テクストでもない。他なるもの=全体性であって、無限ではない。収容所空間に出現し、壊れてしまった〈私〉という別の仕方から。 提示されたものが、常に新しければそれで良い。ならば、問いたい。限界状況は、絶えず変化するものと、決して変化できないものの途上=綱渡りであると。知ったかぶりはいただけない。試練と地獄と自業自得は違うからだ。 レヴィナス的な「家」(οικος)の廃棄と欠如こそ、間主観的、且つ「類似的」(!)にさせる罠となる。他なるものは、超越論的自我が貪り喰らい続ける未知/既知の還元主義、オデュッセウス的自己(self)である。他者を語りながら、自己とコギトの無垢な関係性に没落させる他なるもの。 何故、気付かないフリをするのだろうか。気付いていない幻想に逃げ込むのか。読むことと書くことが引き裂かれているのに、実践では、現象学的類似性の境界に至ってしまう。超人は到来せず、主体性の終焉が叫ばれる。 そんな時、強い気概で改めて独立することに何の保証はない。利己的な自己は高貴という仮面を被った損得勘定に過ぎない。果たして、言葉は身体に響いただろうか。秘密主義は収容所空間そのものである。何故なら、他者を直視せず、逆に無関心と冷静を装い、非・状況倫理的な地下室の手記だから。 誰にでも開かれたテクストと愛する他者に、閉鎖的な言語構造と、関心事の存在しない他なるものへの志向性が対置されている。何とも滑稽な構図なのだが、誰もが互いに似てくると、訣別の時が既に到来している。女性の中には専制君主と奴隷があると、ツァラトゥストラは語ったが、男性は一体どうなのか。 正しいのであれば、暴力に対する抵抗は、恥ずべきことだ。支配と権力の圧政に閉じ込められ、打ち砕かれることは、最良の処方箋である。私はそれを試練、或いは存在することと呼ぶ。 教える者は自分自身をまず教え、周囲に他なるもの(人間=動物扱い)でなく、他者(異なる人間)を置くべきだ。そうでなければ、いずれ、自滅し破滅するであろうだからこそ、人間は克服され、飛び越えられるためでなく、ただ没落していき、絶対的不可能性に躓かなければならない。稲妻ではなく、稲妻を落とされた者として、辛うじて生き残るのは誰か。 |
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記号論(記号学)や構造主義は、非常に難解だが、フェルディナン・ド・ソシュール(1857-1913)を、その出発点としている。 スイスの言語学者ソシュールの業績は、『一般言語学講義』(岩波書店)に集約されている。講義を学生たちが編集したものなので、更に研究したいならば、丸山圭三郎著『ソシュールを読む』(講談社学術文庫)が推薦図書である。 記号学も構造主義も、ソシュールを読んでいないと、問題設定そのものが理解できない。また、キリスト教の立場(ユスティノスのロゴス・キリスト論)からは、キリスト=λογος(ロゴス)なわけで、「言葉」をソシュール言語学によって考えることは、極めて有意義である。 ソシュール言語学を学ぶと、私見では、その亜流の記号学や言語学的構造主義を回避できる。ソシュールから、ポスト構造主義に移行可能なので、研究時間の手間が省けるはずだ。 キリスト教と聖書を「テクスト」だとか、「エクリチュール」という風に解釈する気は毛頭ないし関心もない。 しかしながら、目下、ロゴス・キリスト論の有効性の可否を考えているので、何かの役に立てば嬉しい。 このようにユスティノスはあらゆる真理が一つのものであること、したがって知と信仰もまた一体のものであることを強調し、この一体性の根拠が神的ロゴスであるキリストにほかならないことを見出した(リーゼンフーパー著『西洋古代・中世哲学史』平凡社ライブラリー、184頁)。 |
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仮眠後(ショーペンハウエルやニーチェに怒られそうだが)、内田樹氏の『レヴィナスと愛の現象学』(文春文庫)の第二章・非-観想的現象学を読み終えた。内田氏は、他の著作では非常に読みやすい日常語を使う。だが、レヴィナス論は難解だが、レヴィナスの著作自体が超難解なので仕方ない。
第二章では、フッサール現象学批判が展開されている。「志向性」(意識は対象に対する意識である)と「明証性」(対象の了解=包含、汲み尽くし)を観想的だとレヴィナスは指摘した後、フッサールの対象=事物に対して(全体性)、「書物」と「愛する人」(無限)を対置させる。 確かに、モノとコトガラと違い、聖書だとか、大好きな本、愛する恋人、愛する家族を理解し尽くしたとは誰も言えない。 フッサールの事物を自我に還元可能とする全体主義的な「自我」や「自我の類似性」としての「他我」は、間主観性の地平で、自然を世界に変容させている。しかし、レヴィナスは「他者」を、主体にとっての無限の「意味」(フランス語では、方向という意味もある)だと考えた。 レヴィナス「神の現象学」がありうるし、あるべきだと考えていた。「未知のものである絶対的なもの」を既知に還元することのない、「知の思惟」、「同化吸収でも統合でもない思惟」がありうると考えていた(同書145頁)。 この辺りに、神学と倫理学、公共哲学に加えて、他我→他者→隣人の基本線と変容の痕跡を、トレース可能とさせる接触点が存在している。現在、他者から隣人への移動を、私は思索中である。 文庫とはいえ、読むには思考の鍛錬となる。第一章は「師弟論」だったが、学ぶ者から教える者になった者は、「師」を求めると書いていた。確かにその通りで、教えることに注意するためには、師との関係において出現する特殊な、以前とは異なる主体が不可欠となる。 神の呼びかけは「私」をまっすぐに「他の人間」へと差し向ける。「神の声を聴く」というのは、神秘主義者が考えているような法悦的、幻覚的な経験ではない。それは私を人間の世界に、私以外の誰によっても代替しえぬものとして、具体的に位置づける。 ちょうど師にとってすべての弟子がその学知の完成にとって必要な「かけがえのないもの」であるように、神にとって私は、人間たちの中にあってかけがえのないものとして指名されるのである。それゆえ神の召命は私をまっすぐに「他の人間」のもとへと差し向ける(同書167-168頁)。 しかしながら、「模倣の欲望」(ルネ・ジラール)には警戒しなければならない。そのためには、主体・媒介・対象の三角形的欲望の構造を認識する必要がある。何故なら、レヴィナス的な「他者」が、「媒介」への模倣になった場合(他者=神々・偶像・言いなり・類似性等)、神と隣人への接近可能性は捨象されてしまうからだ。 未だに、レヴィナスの著作を読解する力はないが、神学的思考を強靭にし、聖書を解釈し、何よりも、神の愛によって生きるための「糧」としたい。 |
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定立(テーゼ)に対する反定立ほど、厄介なものはない。ところが、反定立を認識する過程は、個人的作業じゃない。あくまでも、仲間たちとの関係によって教えてもらうことなのだ。 言われたくない事柄だって、自負と偏見が強い私たちには多い。だから、教えられること/教えることの地平を、一旦、突き放すならば、相手に質問することを大切にしたくなる。 キリストに問うことで、何を得られるのだろうか。無論、リラの望む答えが与えられることではない。 何かを問うことは、相手を信頼するに等しい。信頼抜きの質問は、ただの批判であり、中傷に過ぎない。 一人で何かが可能だとは思わない、とゆうか、思えない意識は、自己卑下でなく、ヨブのように「友情」を慕っている自然の感情なのであり、断じて否定することはない。 先日、リラは或る場所に行ったのだが、そこは最大の罪の場所であった。 過去、誰もがリラに、そこに行ってはならないと叱責した。機会は何度もあったが、時を逃していたわけである。 絶えず、罪意識に悩まされて、真の意味で罪が赦されている存在感覚がない年月を送っていた。 神の測り知れない計画があったに違いない、そのように現在では断言可能だが、当時は、激しい霊的苦痛に悩まされていた。 居場所。神が備えられた仲間たちとの関係が結ばれる絆である。 神の愛に至る方向転換は、キリストに対する復活信仰のサインである。 疲れたり、諦めそうになったり、自分自身を責めたり、すべてを責任転嫁で済ませようとするならば、反定立は残存したままであろう。 日々、私たちは、キリストの十字架を仰ぎ見て、罪意識が除去されたことを思い出したい。 忘れてはならないが、自分自身を過度に責める時、あまりにも疲労困憊であることも多い。憩いと安息に加えて、友情があるならば、神の霊が助け手を絶対に届けて下さるはずだ。 時が満ちるまで、安易に、対立の統合(ジンテーゼ)してはならない。神を待ち望もう。 |
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