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		<channel>
			<title>シンフォニーチャペルの栞</title>
			<description>初めまして☆

リラと申します。

シンフォニーチャペルのブログに訪問して下さり、ありがとうございます！

ブログを開設しました(^^)/

記事はゆっくりとアップさせていく予定です。

足跡を残して下さると、非常に嬉しいです。

宜しくお願い致します。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/vine_and_grace2005</link>
			<language>ja</language>
			<copyright>Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.</copyright>
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			<title>シンフォニーチャペルの栞</title>
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			<description>初めまして☆

リラと申します。

シンフォニーチャペルのブログに訪問して下さり、ありがとうございます！

ブログを開設しました(^^)/

記事はゆっくりとアップさせていく予定です。

足跡を残して下さると、非常に嬉しいです。

宜しくお願い致します。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/vine_and_grace2005</link>
		</image>
		<item>
			<title>終末論研究</title>
			<description>&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
&lt;p class=&quot;img&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-38-80/vine_and_grace2005/folder/399363/77/14388677/img_0?1469470703&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 1&quot; class=&quot;popup_img_340_500&quot;/&gt;&lt;/p&gt;&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
岡山英雄著『小羊の王国 改訂版』(いのちのことば社)をゆっくり読んでいます。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
教会において、私たちは異動による職場環境の変化、何らかのものを手放す、試練など、問題が山積しています。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
不思議にも、全員が何らかの重い課題だったり、新しい責任を持つようになりました。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
ですから、終末論研究は机上の空論としてでなく、ましてや、組織神学における苦手分野の克服ってゆう理由で学んでいるわけじゃないです。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
岡山氏の言う「三年半の現在」が、説教と牧会に役立つからです。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
「三年半」の苦難とは、黙示録が書き送られた一世紀の教会の現実であるとともに、あらゆる時代において地上の教会が直面する困難の総称でもあり、またその頂点としての来臨直前の全世界的な苦難である」(同書118-119)。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
1Ti 5&lt;br&gt;
23 μηκ??τι ?δροπ??τει ?λλ? ο?ν? ?λ??γ? χρ? δι? τ?ν στ??μαχον κα? τ??? πυκν???? σου ?σθενε??α??&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
「クスロー」は「クスローメ」(現代式発音)の現在形・命令形ですが「使う」「利用する」「神から与えられた地上の賜物・祝福を享受して用いる」という意味。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
英語の「use」(NIV)です。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
私たちは、試練の中、神様からの祝福を受けると嬉しいわけです、神様の祝福と賜物という恵みに頼ってしまいがちですし、それが私たちの喜びであり慰めです。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
ですが、キリスト者にとって、「現在の三年半」の私たちには、神の恵みは神の御心のために「利用する」「用いる」べきものであって、神の恵みを神御自身よりも上に置き、握りしめて離さないのが私たちの罪であり、弱さでもありますよね。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
神の恵みは神のために使うべきであって、どんなにすばらしい恵みでも、恵みを偶像化し恵みに私たちが使われる関係、左右されてしまうことを、神は望んでいないのです。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
岡山氏はヨブ記を終末論における現在的な苦難と位置付けているので、ヨブ記からの引用をします。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
「そして言った、「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」。」&lt;br&gt;
ヨブ記 1:21 JA1955&lt;br&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/vine_and_grace2005/14388677.html</link>
			<pubDate>Fri, 15 Jul 2016 14:52:21 +0900</pubDate>
			<category>哲学</category>
		</item>
		<item>
			<title>キリストにある千差万別</title>
			<description>&lt;br&gt;
&lt;p class=&quot;img&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-38-80/vine_and_grace2005/folder/344634/27/14370127/img_0?1467699241&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 1&quot; class=&quot;popup_img_480_388&quot;/&gt;&lt;/p&gt;&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
キリスト教信仰と一口で言っても、一致と多様性の原則から、必ずしも、いつも一緒というわけにはいかないと思う。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
教会史を紐解くと、古代教会では「三位一体」、宗教改革では「信仰義認」、十八世紀は「聖化」、二十世紀は「聖霊」、そして二十一世紀の今は「教会」について議論されている。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
既に投稿したクレーマーの『信徒の神学』への感想が、私たちの教会論に関する一定の理解になっています。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
世においては、色々な教団教派がありますが、異端を除き、私たちはキリスト教信仰で一致しています。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
ですが、聖書解釈、神学的な方向性の違い、教会形成における様々なスタイルなどの豊かな多様性も存在しますよね。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
親友と友人の違いを、個人的に考えてみると、&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
1誰よりも仲良しであり、喧嘩もするけど、最終的に親友との関係は壊れないし、壊したくない。&lt;br&gt;
2周囲が親友を攻撃したり、無関心を装ったりしても、常に親友の味方であること。&lt;br&gt;
3キリストの福音だけで、何よりも話が盛り上がれること。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
以上の三点に比べたら、他の些末な相違点は問題にもならないはず。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
だけど、これって教会と教会の関係、聖徒同士の関係、教職同士の関係でも同じだと思うです。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
ですから、親友や結婚相手が「クリスチャンなら誰でもいい！」と考える人がいないように、私たちは互いの個性を理解し合いたいですよね。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
その意味で、私たちは一寸先は闇ですが、キリストに学び続けながら不条理と困難の中を改めて生きていこうと思います。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/vine_and_grace2005/14370127.html</link>
			<pubDate>Tue, 05 Jul 2016 15:11:18 +0900</pubDate>
			<category>宗教</category>
		</item>
		<item>
			<title>今好きになる、キリストを。</title>
			<description>&lt;br&gt;
&lt;p class=&quot;img&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-38-80/vine_and_grace2005/folder/388216/25/14361925/img_3?1467701447&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 1&quot; class=&quot;popup_img_480_480&quot;/&gt;&lt;/p&gt;&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
教会開拓に携わるようになると、新しい出会いに感激します。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
たった一人、家の教会に来てくれただけでもう大歓迎のお祭り状態……まぁ、私たちの場合ですけどね！&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
ネットワーク・チャーチの考え方を採用しているので、家の教会を中心にして、遠隔地のメンバーたちとインターネット端末で結び、リアルタイムの礼拝や学びを提供してきました。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
唯一の目的は古風かもしれませんが、福音を徹底的に明確にしていくことです。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
その結果として、無数の問題が解決されていくのを、光栄なことに見させてもらいました。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
その後は、愚かだと思われるかもしれませんが、本人に任せ、近隣の地域教会に参加したいなら引き継ぎをし、そのまま私たちのメンバーになりたいなら、そのようになります。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
以前も書きましたが、私たちの家の教会はインターネット・チャーチではありません。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
絶対にリアルタイム制をやめません。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
なお、家の教会に集まる方々の応対も当然しますし、メンバー同士の結婚式などもありました。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
それなのに何故、信仰共同体が数的に成長しないのか。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
最高目標の7-10人にさえなったことがありません。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
やはり、同労者の存在を５年以上も祈り、未だに与えられていないことが大きいですが、弟子育成でしょうね、やっぱ。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
ただし、最近救われて私たちのメンバーになってくれた方は関西在住ですが、毎週一回、弟子育成を受けてくれています。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
主の取り扱いが激しい方なので、これからどうなるか楽しみです♪&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
そして、新しい出会いがあれば、悲しい別れも数多く経験してきました。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
所詮、ネットワーク・チャーチなんて、近所の教会に通うことと比較にもなりません。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
だからこそ、私は私でしか伝えられないことをストレートにぶつけていきます。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
別れの時、「何かあったら気軽にまた来てね」と言った時、元メンバーが号泣したこともありました。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
可哀想に……彼ら彼女たちは、教会からそんな愛情の一粒さえも味わったことがなかったんです。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
そして私は、家の教会という謎のスタイル故に、伝統的な教団教派の牧師たちから馬鹿にされまくりです。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
JCMNとエリヤハウスだけが、キズだらけの私たちを受け入れて下さいました(体調不良のため、今は参加できてませんが)。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
他方、地域の「一部」の牧師の方々とは、時々ですが良好な関係を築けています。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
若い世代の牧師の方々は、現在の地域教会システム、神学校による献身者養成に疑問を感じている場合もありますね。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
経済的には、現在の地域教会システムは破綻していくと思います、何せ、皆さん、仕事もお金もないですから……。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
教会堂等に回すお金があるなら、病気で入院したメンバーの手術費用に回そうとか、障害で働けない方々への日常生活費として援助しよう、とか、普通のお金の使い方になっていくことを夢見ています。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
LYREの曲に「神様、大好き」ってありますよね。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
同じように「教会、大好き」って心から思えるような一人ひとりになっていきたいものです。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
今好きになる、キリストを♪&lt;br&gt;
&lt;br&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/vine_and_grace2005/14361925.html</link>
			<pubDate>Fri, 01 Jul 2016 11:10:00 +0900</pubDate>
			<category>宗教</category>
		</item>
		<item>
			<title>マタ～リ、ほのぼの♪</title>
			<description>&lt;br&gt;
&lt;p class=&quot;img&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-38-80/vine_and_grace2005/folder/344634/73/14360573/img_1?1467332515&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 1&quot; class=&quot;popup_img_480_423&quot;/&gt;&lt;/p&gt;&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
開拓当初、私たちはたったの二人からスタートしました。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
初めはひたすら聖書をメッセージし、互いに教えられたことをシェアするだけ。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
元々、約1000人が集うメガチャーチのメンバーだったのですが、ある深刻な出来事をきっかけに、全国的に有名な宣教師の助言を受けながら、別の教会を探す放浪の旅をしている最中、神に献身することになった次第です。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
現在、その教会は福音によって回復し、再度、神に用いられています、感謝ですね。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
さて以前も考察しましたが、私たちのような教会のスタイルを、家の教会、シンプルチャーチ、ハウスチャーチなど、様々な呼び方があります。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
しかしながら、私たちはリアルタイムとインターネットをリンクさせたり、実際に集まったりと、定住型というより、遊牧型。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
聖礼典(信仰告白とバプテスマ)、一緒に集まることの代わりに、ネットワークで地理的制約を壊していること。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
地下教会的に活動しているため、表舞台には立っていないこと。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
上記の二点が信仰共同体として人々が集まることよりも、牧会・宣教型になっている理由だと思われます。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
特に、地域教会で対応されなかった方々への牧会やミニストリーは解決まで時間、お金、精神力、体力、時間など、すべて投資せざるを得ませんでした。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
今回、無理のないように、主日、土曜(礼拝準備)、水曜(ミニストリー)に奉仕をし、持病が苦しいため、他の日々は療養に専念したり、神学を研究したり、歌の練習などをしています。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
正直、次から次へと問題対応に追われて、まともに寝ること、食べることもできなかった二年前と比べると、のんびりさせてもらっています。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
これからどうしようかな～って祈ったり考えたりしても、過去のように１年ごとの計画や、ヴィジョンをすえることもしていません。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
JCMNや、他の地域教会の友人牧師たちと話してても、私の奉仕が一体何なのか、理解された試しがありませんけど(私でもわかってないのだからあたりまえ)、「私たちにはできない形で、主に用いられてる」とはよく言われます。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
それなのに、神の御前で徹底的に謙遜となれない自分自身の罪があり、キリストを信頼しながらも頑固さや悲しみが存在します。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
自分自身とその弱さでなく、神を常に見上げていきたいですね。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/vine_and_grace2005/14360573.html</link>
			<pubDate>Thu, 30 Jun 2016 15:33:56 +0900</pubDate>
			<category>宗教</category>
		</item>
		<item>
			<title>福音宣教と教会形成</title>
			<description>&lt;br&gt;
&lt;font face=&quot;sans-serif&quot;&gt;&lt;span style=&quot;padding-top:10px;padding-bottom:10px;height:auto;max-width:100%;margin:0px auto;&quot;&gt;&lt;p class=&quot;img&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-38-80/vine_and_grace2005/folder/344634/90/14264790/img_4?1467208942&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 1&quot; class=&quot;popup_img_480_479&quot;/&gt;&lt;/p&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style=&quot;&quot;&gt;最後の牧会から数えて約二年間、ひたすら療養生活と、目的が定まらない葛藤の中で生きてきました。&lt;/span&gt;&lt;/font&gt;&lt;br&gt;
&lt;font face=&quot;sans-serif&quot;&gt;&lt;span style=&quot;&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/span&gt;&lt;/font&gt;&lt;br&gt;
&lt;font face=&quot;sans-serif&quot;&gt;私的には非常に長い期間を、何とか忘れようとしていた日々の暮らしだったと思います。&lt;/font&gt;&lt;br&gt;
&lt;font face=&quot;sans-serif&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/font&gt;&lt;br&gt;
&lt;font face=&quot;sans-serif&quot;&gt;しかしながら、そうであったとしても、神はすべてを益として下さる御方だと信じます。&lt;/font&gt;&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
ローマ人への手紙 8:28&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
数ヶ月前から、歌手、声優等の卵たちや、実際にプロとして活動しているSNSを利用するようになり、若い方々と交流するようになりました。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
LINEの人間関係とか使い方、ボカロ・カルチャー、アニメ、漫画に関する知識は、小学生から大学生までと、それ以外の世代だと、殆ど断絶状況にあると学びました。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
私は学生ではないし、キリスト教会の他の諸先生方よりも、神学や霊性と、インターネットとリアリティーを結合させるよう、巡回伝道に加えてツールを駆使していたつもりです。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
しかしながら、現代のインターネット環境は私たちの予想の斜め上です。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
まず、自分のインターネット常識は通用しないと考えて間違いないです。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
で、私は若い方々からLINEによる人間関係、及び、特有の専門用語、流行のサブ・カルチャーを教えてもらい、彼らの仲間になっていきました。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
具体的に深い話を聴いてみると、ネットによって人格形成された彼らもまた、私たちと同じ課題、同じ問題、同じ罪、同じ救いを求めていることが明らかになりました。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
そこで私は、意図的にでないのですが、歌投稿アプリで(長沢先生のアカウントもあり驚きましたが)、何度もランキング・インを果たしました。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
祈りながら、ついには人気曲1位になった後、区切りがついたかなぁ…と考えて距離を置くようになりましたが、周囲を確認すると、何でも話せるような人間関係が幾つか構築されていたのです。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
そのような方々に勇気を出して伝道していった結果、キリストを信じ受け入れる方や、実際に新生して水のバプテスマを執行させてもらった方もいます(その方は私たちのミニストリーのメンバーとなり、主日礼拝と週一のバイブル・スタディを、遠隔地ながら継続しています。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
ただし、スタイルとしては、主の召命を受けてからの教会形成と宣教の方法論に変化はありません。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
現時点で今までと違うのは、他教会では対応できなかったクリスチャンの方々の牧会や、キリスト教信仰の種蒔きをされた方々への内向きの伝道でなく、ノンクリスチャンに対する外向きの伝道にシフトしたことでしょうか。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
伝道していて、信じる方々と、信じない方々・拒絶する方々が明確になりますが、伝道しながらも牧会に集中していた時と異なり、信じない方々を神に委ねていくことは苦しく悲しい気持ちが伴います。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
同じスタイルというのが、以前の様々な牧会におけるトラウマと重なり、他に良い知恵はないかと模索中ですが、以前と違い、PCが壊れており、端末がスマホとタブレットだけという限界もあります。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
基本的に私たちは、以前のように教会共同体を集めようとするのでなく、本人の意向を尊重し、近隣の教会に行きたいと言えば、他の地域教会を紹介するようにしました。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
でも、困ったことに、私たちが出会う方々は、クリスチャン/ノンクリスチャン問わずに、かなり特殊な問題を抱えているケースばかりなので引き継ぎ作業は困難を極めます。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
これからですが、つい最近、信仰告白と洗礼式を執行した方に礼拝と牧会を集中させていきます。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
二年目の正直？&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
制度的なキリスト教の中において、アウトサイダー的に伝道、礼拝、牧会する私たちはどこからも、いかなる経済的支援も受けていません。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
それでも日々の僅かな食事を心から感謝していますし、すべての奉仕、巡回伝道、メンバーへのプレゼント等は、最低限の生活費を削り自費で捻出しています。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
大学生時代、クリスチャンになった後、早期に断食祈祷院を利用したり、何度も貧しい生活を経験したことが役立っています。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
日本は、教団・教派からの支援、牧師への謝儀、宗教法人格、立派な教会堂、税理士や公認会計士によるマネージメント等がしっかりしている都市型の教会も多いですが、私たちはそれらすべての恩恵を受けず、あえて福音一本槍で歩んでいます。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
苦しいこと、逃げ出したくなること、試練と困難に挫折することも日常茶飯事ですが、キリストの愛のために生きることができますように。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
なぜなら、二年間、霊的に死んでいた私のような者を、主は再び召し、福音宣教の働きを託して下さったからです。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
何度、人々から別れを告げられても、諦めずに福音自体を報いとすることができますように。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
「わたしが福音を宣べ伝えても、それは誇にはならない。なぜなら、わたしは、そうせずにはおれないからである。もし福音を宣べ伝えないなら、わたしはわざわいである。 進んでそれをすれば、報酬を受けるであろう。しかし、進んでしないとしても、それは、わたしにゆだねられた務なのである。 それでは、その報酬はなんであるか。福音を宣べ伝えるのにそれを無代価で提供し、わたしが宣教者として持つ権利を利用しないことである。」&lt;br&gt;
??&lt;br&gt;
その代わり、神は良い御方なので、すべての必要を満たして下さり、パウロとピリピ教会とのコイノニア的な関係があれば、更に教会共同体の形成と、宣教と巡回伝道、牧会に集中できると信じます。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
再度、ブログ更新に導かれていき、新しい出会いがあればと願っていますが、宗教としてのキリスト教と(霊性神学のフーストン、新正統主義のブルンナー、内村鑑三などから批判される制度的キリスト教、職業的宗教家)と、キリストに対する信仰オンリーを曖昧模糊にしてはならない確信を妥協しないまま、全国の既存の地域教会の諸先生方と教会員の方々と、単純な友情関係をこれからも広げていこうと思います。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/vine_and_grace2005/14264790.html</link>
			<pubDate>Fri, 13 May 2016 13:04:29 +0900</pubDate>
			<category>宗教</category>
		</item>
		<item>
			<title>キリスト教と脱構築</title>
			<description>&lt;p class=&quot;img&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-38-80/vine_and_grace2005/folder/399363/29/13646629/img_1?1458860861&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 1&quot; height=&quot;560&quot; class=&quot;popup_img_1536_2134&quot;/&gt;&lt;/p&gt;&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
脱構築と言えば、デリダの代表的用語ですが、無と否定の思想でなく、責任を含む、無制限な肯定の思想と言われます。&lt;br&gt;
脱構築的な肯定も責任も「決定不可能なもの」の経験における「決定」ということと深く関係している(高橋哲哉著『デリダ 脱構築と正義』講談社学術文庫125頁)。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
脱構築における「決定不可能なものの決定」は、プラトン主義のような「決定不可能なものを外部の悪として追放する暴力的決定」ではないとする(同上、125頁)。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
プラトン主義が暴力的決定か否かは直接、著作を調べてみたいと思う。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
脱構築における「決定」は「問いの可能性についての問いの共同体」を基礎づけるという。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
ウェスレー的な意味で、信仰は決断であり決定である。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
神という不可能性の中の「決定」は、キルケゴールやカミュから「飛躍」とされている。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
そのような「飛躍」こそ、共同体を基礎づけるとしたら？&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
通常の意味での「教会」という現場はわかりやすい。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
自由な「決定」を下し、最悪の場合、「決定」できない者を、共同体の内部にいながら、外部へと排除すれば良いのだから。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
「決定」できない者には、信仰の決断だけでなく、貧しい者、障害と病気に苦しむ者、孤独な者たちなどが含まれている。&lt;br&gt;
&lt;a HREF=&quot;http://bible.com/423/1co.1.27-28.ntv&quot; TARGET=&quot;_blank&quot;&gt;http://bible.com/423/1co.1.27-28.ntv&lt;/a&gt;&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
一致という観点から、最低限、教会共同体は、信仰義認、三位一体、キリストの十字架と復活を中心とした福音が不可欠であろう。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
そして教会共同体に万一、何らかの暴力的な排除があるとしたら、教会共同体の「人間観」が問われている。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
教会共同体の、脱構築的な「決定」は「否定」や「排除」によって実現されるものではない。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
むしろ、徹底的な「無」を人間観に導入すること。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
第一コリント1:28の「εξουθενω」は「無視する」「軽視する」「軽蔑する」「蔑む」「辱める」という意味。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
「εξουθενω」は名詞の「ουδει??」「ουδεν」に基づいており、「無」「無に等しいもの」「全く価値のないもの」を意味している。ラテン語では「nihil」。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
「神は～を選んだ」と言われる時、少なくとも第一コリント1:27-28ではアオリスト時制が使われている。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
例えば、当該箇所の「εκλεγομαι」は「選ぶ」「選び出す」「選び取る」という意味で、「εκ」は「中から外へ」というのが基本的意味である。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
ただ選ぶというのではなく、内部から外部へと取り出すのだ。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
神の主権的な選びは、過去における唯一の、キリストの十字架と復活を前提にする。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
即ち、神は教会共同体の中から、或いは、世の中から「無のような私たち」を選び、キリストの救いに定め、暴力的に排除せずに「不可能な決定」を下す。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
神の主権的な選びは、そのような脱構築的な「決定」と「責任」によって、新しい共同体を実現させる。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
キリストには不可能も不条理もなく、信仰と決定、及び、弟子たちに対する責任を、完全に引き受ける御方である。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
キリストは私たちを「無」の中から外へ連れ出す。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
神が不可能な決定を下した結果、信仰は啓示され、私たちはキリストに対する信仰を追認する。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
教会共同体の「責任」とは、世話焼きの責任を取ることではない。司牧であり、牧会である。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
要するに、神の「決定」を信じるように、慰め励ましていくことであろう。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
私たちは、神を信じることが「不可能性の決定」であると知っているだろうか？&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
「不可能性」を「不可能性」として把握していないなら、未だに神の「決定」を追認していることにはならない。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
そして、「無」が「世」だと錯覚する時、神と人間に対する「暴力的な排除」が開始される。&lt;br&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/vine_and_grace2005/13646629.html</link>
			<pubDate>Wed, 29 Jul 2015 18:33:30 +0900</pubDate>
			<category>哲学</category>
		</item>
		<item>
			<title>キリストにある新しい人</title>
			<description>&lt;p class=&quot;img&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-38-80/vine_and_grace2005/folder/344634/64/13408364/img_3?1430209259&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 1&quot; height=&quot;560&quot; class=&quot;popup_img_480_640&quot;/&gt;&lt;/p&gt;&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
昨春だったと記憶しています。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
重い問題を抱えた或るメンバーが、様々な経緯と解放を受けながらも、結局、離れ去り、過去、縁のあった伝統的教会に無断で移ってしまいました。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
詳細は守秘義務があるので何も言えませんが。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
しかしながら、私たちが受けた事柄に関しては共有可能と思います。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
実は、ブログ更新をしていなかったのは、その件が影響しており、主が再び私を導いて下さるまで、礼拝奉仕以外、殆ど何もしないと決意したからです。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
長い間、そして今でも休むことにしています。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
&lt;p class=&quot;img&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-38-80/vine_and_grace2005/folder/344634/64/13408364/img_4?1430209259&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 2&quot; height=&quot;560&quot; class=&quot;popup_img_480_640&quot;/&gt;&lt;/p&gt;&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
さて、私たちは先の伝統的教会の牧師と引継ぎ等の話をしたのですが、いつものことながら見下され、馬鹿にされた次第です。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
私以外の奉仕者も、その牧師と話したのですが、同じ扱いを受けて憤っていました。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
あまりの、「古い体質」故に。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
そして、その奉仕者は私に「今までこんなに苦しい環境、他教会との人間関係に耐えてきたなんて、本当に知らなかった」「すみませんでした」「何故、既存の地域教会が酷いことばかり言ってくるのか、とても悔しいです」など、打ち明けてくれた。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
私は慣れていたが、今回の事案では、神の導きと守りに委ねることにしたのだ。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
曖昧なことしか書けず申し訳ないが、その後、私は生き方を変えることにした。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
少なくとも、そのように祈り続けている。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
エリヤは、バアルの偽りの預言者たちから逃走した後、神に語られ、新しい使命を授けられた。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
私もまた、新しい使命が人からでなく、神から与えれるまで何もすることはできないと考えた。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
自分から何かをしようとするならば、私たちは必ず失敗してしまう。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
神の導きにより、扉が開かれるならば、あとは服従していくだけ、まぁ、ふっついていくだけである。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
以来、神学や語学を徹底的に、不完全ながらも学ぶことを辞め、主に聴きながら服することに限って生きている。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
正直に告白すると、厳しい現実の僅かな言語的反映である、このようなブログをよく投稿できたものだと、自分自身、驚いている。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
でも、そのような季節があっても良いわけだし、キリストにあって私たちは真に自由とされている。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
キリストにある新しい人として歩むことは、古きを捨て去ることと並行作業である。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
他者のために、燃え尽きに至るまで己を鞭打つ時もあれば、キリストを憩いとして何かを待ち望む時もある。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
主の時の到来を信仰で受容できるようになりたいものだ。&lt;br&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/vine_and_grace2005/13408364.html</link>
			<pubDate>Tue, 28 Apr 2015 17:20:59 +0900</pubDate>
			<category>宗教</category>
		</item>
		<item>
			<title>賛美奉仕者訓練会</title>
			<description>午前中、歯医者で治療後、賛美奉仕者訓練会を初めて実践した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
賛美奉仕者（基本テキストを学び終えた方）と共に、主日礼拝の賛美を練習することができた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;p class=&quot;img&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-38-80/vine_and_grace2005/folder/388183/56/12099256/img_0?1430237118&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 1&quot; height=&quot;560&quot; class=&quot;popup_img_480_640&quot;/&gt;&lt;/p&gt;
&lt;br /&gt;
主から教えられ、共有した点は、以下の通りである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
〇身?卜?は存在しない。賛美は賛美である。&lt;br /&gt;
機材、配置、ソングブック用意、PA等、すべてが賛美奉仕であること。&lt;br /&gt;
聖書の言葉を土台にすること。&lt;br /&gt;
さГ襪海函&lt;br /&gt;
チ蠎蠅剖別召畔任伝わらなかった場合、少しでも圧迫感を与えないため、頁でなく、曲名で語り直すこと。&lt;br /&gt;
ΦГ蠅肇函璽は短くすること。&lt;br /&gt;
録音し、賛美奉仕者訓練会が終わったら、即、フィードバックすること。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
スキルの問題は、あまり問題じゃない。神に対する応答と、人々に対する配慮が大切である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
声量・演奏云々の話は、その次の問題である。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/vine_and_grace2005/12099256.html</link>
			<pubDate>Sat, 01 Mar 2014 12:22:29 +0900</pubDate>
			<category>洋楽</category>
		</item>
		<item>
			<title>試練を共にして下さる神</title>
			<description>暖かい日ですが、今日は、持病（特定疾患）の診察となります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私は先天性の身体障害があり、両腕を、自由に動かせる感覚を知りません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、後天性の特定疾患のため、ある程度の健常を保てた状況から、一日一日が闘病生活である暮らしに慣れないでいます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
先天性の障害者、且つ、後天性の病気を発症した者として、先天性の障害は不治の病に等しく、後天性の障害には過去の健常と比べるので事故のようなものです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このような平凡な日常生活と、神学的霊性は何の関与が存在するのか、それとも存在しないのか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;p class=&quot;img&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-38-80/vine_and_grace2005/folder/399363/71/12095971/img_0?1398702306&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 1&quot; height=&quot;560&quot; class=&quot;popup_img_457_640&quot;/&gt;&lt;/p&gt;
&lt;br /&gt;
アタナシオスが古代教会のもっとも重要で、尊敬される教父であることは、間違いありません。しかし、何よりもまずこの偉大な聖人は、「ロゴス」、すなわち神のみことばの受肉を熱心に考察した神学者です。神のみことばは、第四福音書の序文が述べるように、「肉となって、わたしたちの間に宿られた」（ヨハネ1・14）からです。そのためアタナシオスは、アレイオス（Areios 250-336年）派の異端のもっとも重要かつ最強の反対者でもあります（ベネディクト16世『教父』ペトロ文庫、90頁）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
キリストの受肉は、クリスマス・メッセージに限定不可能です。気候的にも、降誕日は、10-11月という有力説もあります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちが注目したいのは、キリストの受肉こそ、苦痛からの解放、──否、苦痛の只中の信仰であり、神との関係における霊的基礎であるという点です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
キリストの受肉は、両性論（キリストは神の御子であり、完全な人間である）では、完全な人間性に該当します。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このように、子たちは血と肉とに共にあずかっているので、イエスもまた同様に、それらをそなえておられる。それは、死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし、 死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放つためである。 確かに、彼は天使たちを助けることはしないで、アブラハムの子孫を助けられた。 そこで、イエスは、神のみまえにあわれみ深い忠実な大祭司となって、民の罪をあがなうために、あらゆる点において兄弟たちと同じようにならねばならなかった。 主ご自身、試錬を受けて苦しまれたからこそ、試錬の中にある者たちを助けることができるのである。 (ヘブル人への手紙 2:14-18 JA1955)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;p class=&quot;img&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-38-80/vine_and_grace2005/folder/399363/71/12095971/img_2?1398702306&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 2&quot; height=&quot;560&quot; class=&quot;popup_img_481_640&quot;/&gt;&lt;/p&gt;
&lt;br /&gt;
キリストの受肉は、決して思弁でなく、歴史的事象に還元できるものでもない。何故なら、主は試練を共にして下さる御方だからである。その唯一絶対の根源が、キリストの受肉なのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
彼らのすべての悩みのとき、主も悩まれて、そのみ前の使をもって彼らを救い、その愛とあわれみとによって彼らをあがない、いにしえの日、つねに彼らをもたげ、彼らを携えられた。 (イザヤ書 63:9 JA1955)</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/vine_and_grace2005/12095971.html</link>
			<pubDate>Fri, 28 Feb 2014 11:14:31 +0900</pubDate>
			<category>哲学</category>
		</item>
		<item>
			<title>宣教と教会</title>
			<description>よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、神の御使たちの前でよろこびがあるであろう」。 (ルカによる福音書 15:10 JA1955)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最近、地域の方と、食事会をしたり、カラオケで歌う機会があった。数年も関係作りをしているのだが、中々、主を信じて下さらない。とゆうか、それ以上に、その方が礼拝に参加したのは一度だけ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
改めて、宣教の難しさを覚え、時に意気消沈してしまう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
キリスト教神学は、教会の侍女に過ぎないのであって、それ以上でもそれ以下でもない。目的は、神を愛し、隣人を愛することである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
キリストを信じて、罪から救われた方々を開拓以来、洗礼式の執行により、僅かに見せてもらっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一人の魂が救われるのは奇跡であり、最高の喜びである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同時に、私たちは救いに関して、一切何もできず、神だけが主権的に働いて下さるのだ。私たちは最善と全力を尽くすが、本当に何もできない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神学研究に多忙だったが、教会のことが気になって仕方なかった。特に、牧会と宣教である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;p class=&quot;img&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-38-80/vine_and_grace2005/folder/344634/66/12095166/img_0?1393520222&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 1&quot; height=&quot;560&quot; class=&quot;popup_img_343_640&quot;/&gt;&lt;/p&gt;
&lt;br /&gt;
確かに、神学研究は霊性を変革し、説教に絶大な影響を与えている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしながら、真剣に祈り、すべてを捨てても、一人の魂が救われたり、信仰者であっても、信仰の回復が起きるなら、私は幸せである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そのような方々が集まる教会を、私は愛しているし、何らかの事情で教会がキズつけられると泣いてしまう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ある意味、私は満身創痍なのだが、他方、時間、体、経済、飲食等を犠牲にしても、いつだって、誰かが救われることを望んでいる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そののち、イエスは今や万事が終ったことを知って、「わたしは、かわく」と言われた。それは、聖書が全うされるためであった。 (ヨハネによる福音書 19:28 JA1955)</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/vine_and_grace2005/12095166.html</link>
			<pubDate>Fri, 28 Feb 2014 01:55:36 +0900</pubDate>
			<category>宗教</category>
		</item>
		</channel>
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