VISTA Schol?? ビスタ スコーレ

さわやかな世界を創りましょう!

全体表示

[ リスト ]

先達十話シリーズ 第六編
                                       青春の瞳かがやく
                              眞 ちゃん 十 話
                                            <その一>
                                     
                                     まとめ   やじま いわを
       イメージ 1     第13回日本ジャンボリー第4サブキャンプにて 〔2002年 矢島 巖撮影〕                                           

メモランダム  根 岸 眞 太 郎

  明治43年(1910年)4月17日 東京市本所横網町生まれ
 ボーイスカウト日本連盟相談役・元ボーイスカウト日本連盟事務局長
  江戸相撲の版元の家に生まれ 7歳のときに十代根岸治右衛門を襲名するが、戦後「人間天皇」の宣言を機に歴代の家業を日本相撲協会に返上し、以後一代限りの年寄となる。その後、中央大学を卒業後は相撲協会の宣伝部に勤め、戦中は第二十五軍参謀本部宣伝班軍属としてマレー・スマトラ勤務となり、特に西スマトラ・ランポン洲政庁宣伝班長時代には多彩な活躍をした。 復員後はボーイスカウトの人脈に嘱望され、鉱工業・食品業・観光サービス業等々の要職と、社会教育審議会専門委員など文教関係の委員等を歴任してきた。
  ボーイスカウト運動には、大正14年(1925年)の大日本東京海洋少年団入団に始まり、東京少年団に移籍後は東京連合少年団の指導スタッフとして活躍し、昭和12年(1937年)オランダにおける第5回世界ジャンボリーの日本代表として参加してベーデン-ポウエル卿の人柄に接した数少ないスカウトとして活躍。戦後は千葉県市川第1隊船橋第6団を興して千葉県連盟副連盟長、日本連盟事務局長等の要職を歴任した。また、その間、アメリカのシフスカウト専従指導者養成機関を修了して、特に朝霧高原で行った第13回世界ジャンボリーでは、誘致運動から会場環境や歓迎体制整備等の陣頭に立ち、また同時に開かれた世界会議事務局長の大任を果たしたほか、日本連盟スカウト会館、那須・山中野営場等の拡張整備に奔走した。
 これらの功績により、平成6年にはボーイスカウト日本連盟から「きじ章」を、また世界機構からは昭和50年にブロンズ・ウルフ章、他にアメリカ連盟、フィリピン連盟、ブラジル連盟、韓国連盟からも功労賞を受賞している。また、国からは昭和54年に藍綬褒章、昭和59九年には勲四等旭日小綬章を受章している。

    

 目  次

                   <連載1>
          メモランダム 根岸眞太郎
          写  真
      はじめに・・・・・・・・・・・・・・・  
       第  一  話 海から陸へ     ・・・・・・・・  
       第  二  話 十代 根岸治右衛門 ・・・・・・  
       第  三 話 スマトラ暮らし    ・・・・・・・・
       第  四 話 日の丸秘話 ・・・・・・・・・・・・・・  
      第  五  話 マジョリティ ジャパン   ・・・・・  
                        
                                       <連載2>
       第  六 話 事務局流転ばなし   ・・・・・・ 
       第  七 話 ハート ツゥ ハート  ・・・・・・ 
       第  八  話 スポンサーシップ    ・・・・・・ 
       第  九 話 彌榮百枚  ・・・・・・・・・・・ 
       第  十 話 少年達のための運動 ・・・・・・

   

はじめに 

  このシリーズは、私のスカウティングに夢と誇と力を授けてくれた先達を訪ね、その人柄を話しことばのまま記録し伝える自主プロジェクトの自費限定出版として始めた。 
 そして、各師の熱き想いを3、40ページの小冊子にまとめ、パソコンレベルの100部限定で印刷し、半数はご本人に差し上げあとは日本連盟の資料室ほか、支援者の各位に謹呈してきた。
 試行版は、平成7年に戦前戦後のスカウト運動を支えた横浜山手のジョン・ミトワさんの米寿祝いに出した「ミトワ十話」で、ネーミングは、氏と親交の深かった日本の戦後初代チーフスカウト三島通陽総長の「スカウト十話」に倣ったが、ファミリーネームの「ミトワ」と「十話」を符合させたジョンさん好みの洒落のつもりでもあった。 それが米寿の祝宴で大評判となり、スカウトクラブの機関誌に連載されるなどに気を良くして、「○○さん十話」の名を継ぐことに決めた。
 既に、学校とスカウト運動両方での恩師山田利雄師の「利っちゃん十話」、百二歳を迎えたチーフスカウトの「渡邉昭総長十話」、ベーデン-パウエル卿の理想を究め伝える鹿野重師の「鹿野さん十話」、気迫に満ちた求道の鈴木了正師の「了正さん十話」、教師流ディレクター佐藤俊夫師の「佐藤さん十話」を出版した。
 また、ご本人のリクエストやクチコミなどでこの冊子を知った人々から増刷の熱望もあるが、それが有償では出版目的から外れてしまう。そうした事情から、、ご本人リクエストの増刷分は実費ご負担を願い、その他の増刷はしない代わりに、冊子ではないCD版による「先達十話シリーズ」の頒布を考えている。

 さて、根岸眞太郎師との深い関わりは、昭和45年(1970)に始まる。
 それは、師がアメリカ連盟の人脈と結んだ「国際キャンプスタッフ計画派遣」の第三次派遣隊に資格年齢の上限ぎりぎりで参加し、アメリカ南部レキシントン郊外 ゴーシェン・スカウト・キャンプ場のコミッショナースタッフとしてひと月半の大任を果たした後、師も学ばれたシフスカウト専従指導者養成機関などを周りながら、「スカウティング イズ ア ゲーム」の発見と自信に燃えて帰ってきてからである。
 当時、空前絶後36名の派遣隊は、年長の私と2人の副長を除いてはみな毛並みの良い大学生で、大阪の埋立処分場跡地のジャンボリー会場にいた鼻や耳に銀環をぶら下げたベンチャーやローバー達とは、全く別物別世界の、「スカウトらしい日本の青年スカウト達」だった。
 その後、機関誌への長期連載や、トレーニングチームの作業やいろいろな会議や大会などでお目にかかったが、いつでもどこでも日本連盟のコミッショナーやどの幹部よりも粋な着こなしとスピーチでその場を盛り上げ、要職のご苦労を微塵も見せないハッピー スカウティングを振りまいて下さった。
 その師との念願のインタビューを取り持ってくれたのが、30年来の盟友、館山の佐久間邦彦氏と船橋で師と同じ団の鈴木誠氏である。良く晴れた待望の3月27日、鈴木氏のアレンジによる船橋の精工舎保養施設で、師の歯切れのいい江戸弁を浴びながら、時空を超えたスカウトのタイムマシンを体感した。

                平成15年7月21日(海の日)
                                                                                       やじま いわを



 第  一 話 海から陸へ 

 僕の生まれは、東京の本所で今の国技館があるところ。 今は墨田区横網町って云うんですが、当時は、
本所横網一丁目16番地。 
 父親は相撲協会の理事で、九代目根岸治右エ門の弟、根岸静次郎でした。
 僕がその十代目を継いだのですが、感じるところがあって、世襲をぶっ切っちゃったんですよ・・・・。 

 僕が十代目根岸治右衛門を継いだのは七歳のときでしたが、当時の新聞に、「七歳で年寄とは、これ如何に」なんて云う記事が出たそうです。(笑い)
 そうやって7歳で襲名はしたけれど、昭和8年まで大学に行ってる間、相撲協会にはほとんど顔を出したこともないし、ただ相撲の版元と云うことで番付の版権だけをもらって生活してたんです。
イメージ 2

 だから、番付には、= 發行元 本所松坂町二丁目拾貳番地  根岸治右エ門 = 
 となってましたが、僕が辞めてから、発行元を相撲協会に変えたんです。
 それから中学1年のとき、関東の大震災で一時間もたたないうちに全部焼けちゃって、駒込に行ったんです。 大正12年(1923年)・・・・4月に一年生になって大震災が9月の1日ですからね。着るものも何んにもなし・・・・。
 僕がボーイスカウトになったのは大正14年(1925年)2月11日、駄々っ子でしょうがないからって、父が入れたんです。 
 あの頃は、ボーイスカウト日本連盟の中に海洋部と云うのがあって、その海洋少年団の団長をされていた小山団長と云う方は、皇太子時代の昭和天皇様がイギリスへいらしたときの供奉艦(ぐぶかん=行幸の随伴艦)の艦長で、海軍少佐でした。
 だから、その海洋少年団で「ちかい」をたててそこの鼓笛隊に志願して、その年の5月27の海軍記念日に東郷元帥だとか偉い方が来て、そう云う方々と一緒に写真撮ったのが最初ですよ・・・・。神様の東郷元帥と並んだ写真です・・・・。 
 また、そのときの主な指導者が、花田忠一郎先生と田村喜一郎(海軍中尉)と云う方で、陸と海のスカウト指導者でした。       
 その花田さんから、僕らは「そなえよつねに」と云う言葉を教わって、「何をするにも、備えよ常に」だったしこれはいい言葉だと思った。 
 また、田村さんからは「5分前」と云う言葉を習って、「何をするのにも5分前」・・・これも準備ですよね。 この二つの言葉は、僕の人生の「宝物(たからもの)」になりました。
 それと、ボーイスカウトの初代総長後藤新平(東京市長)さんに可愛がられた米本卯吉さんと云う方の「健康と信用は人生の宝なり」です。 この二つともは失ったら取り戻すことはなかなか難しいし、これは子供達にもよく徹底しなければいかんと云っていました。
 それから、2年くらいたって海洋から陸へ上がりました。
 そこは、英国のギルウェルコースを出てきた花田さんが作った東京連合少年団教導隊と云う隊で、指導者の質を上げようとしたんです。    
 それで花田さんが隊長で僕が副長となって、東京市内の団から21人の班長を集めて1年間、毎週土曜と日曜日に、多摩川の砧(きぬた=世田谷区)と云う所でキャンプをしながらボーイスカウトの訓練をしたんです。
 ところが、そう云うことをすると一つの「派閥」ができるって云うんで2年間でやめさせられたんですがね・・・・それも毎週土・日ですから、自分の本隊との縁が薄れてしまうとか、自分達の隊長の云うことを聴かなくなるって、えらく叱られました。
 でも、今でも行かれるなら、砧のあのキャンプサイトに行ってみたいと思います。
 それから戦争が始まるまでは、東京少年団から本所少年団って云うのを別に作りまして、お相撲さん関係の子供達をみんなボーイスカウトに入れてたんです。
 ですから、常の花だとか鳳(おおとり)とか立浪とか国技館関係の子供を中心としたのが本所少年団がでした。 その中には、中央大学の学長になった高木友之助君と云うのもいましたね。
 また、戦前の活動で思い出に残るのは、昭和12年(1937年)にオランダのフォーゲレンザムでの第5回世界ジャンボリーに行ったことで、宮本団長以下10名の日本派遣団がベーデン-ポウエル卿を囲んで撮った写真もあります。 

 第  二  話 十代 根岸治右衛門  

 私は職業を17、8回変えてるんです。
 ところが、自分で変わったのは一つもなくて、全部お前はあっちは行け、そこまで片付いたらこっちへ行けって云う具合で、就職運動って云うのは一度もやったことがないんです。
 一番最初はね、版元だった先代治右エ門のカオで相撲協会に入って、それから戦争に行って帰ってきたら天皇様が平民になられたんで、そのとき初めて日本鋼管の林甚之丞さんて云う前のボーイスカウトの総コミッショナーだった方にね、「私はお相撲の社会も嫌だしもう必要がなくなって、何かって云うと、大学出て土俵にも上がらないくせに何ごとだと云われるから、辞めます」って云ったんです。
 そうしたら、「俺んとこの会社に来い」って、入れてもらったんです。
 これは、スマトラにいた頃、ブキティンギに来られた林さんが病気になったとき、全快後パレンバンまでお送りしたことがあったからでしょうね。
 また、この方は東京湾汽船――今の東海汽船の社長をしていて、伊豆の大島にボーイスカウト東京連盟の野営場を作って寄付した方です。
  そして戦後ボーイスカウトが復活するとき、その施設を東海汽船に買ってもらってそれを元に使ったんですよ。 
 それから後は、それが片付いたらこっちへ行け、次はあっちと云う具合で、とうとうブルドーザーって云うあだ名までついちゃってね。
 いろいろな財団法人や公益団体のほかに、企業だけでも、諏訪鉱業開発・日本鋼管・藤田観光・東海汽船・山崎製パン・ニューライフ・奥村組・水沼電業・アルファインテル・・・・・・
 相撲のほうは僕で十代目だけど、先代までの時代には、経営のほうもソロバン持てる者はだれもいなかったんです。
 それで、僕の「版元」って云うのは経理部長みたいなもんですが、そのうちに大学出た笠置山や武蔵川と云うのも入ってきたり、お相撲のごひいき筋がいろいろと口を出すようになって・・・・すると僕は要らなくなちゃってね。 じゃぁもう辞めるって・・・・。
  だから、戦争から帰ってきて2年目に相撲協会に「根岸治右衛門」って云う名跡を寄付する。その代わり以後は誰にも継がせないし一銭ももらわないと云って、その名跡はいまだに相撲協会にあるんです。
 それで協会の記録にも、私がそうしたって云うことが書いてあるんです。
  そうしたら、周りの者だの親類から、「何千万っていうものをタダで返すのは何事だ」って云うんでね・・
  みんな自分が欲しいわけでもないし、僕は先祖からもらったもんだから名を汚さないうちに大事に神格化して相撲協会に寄付しちゃおうって云う気になった、と説明して了解を得ました。
  でも、相撲もこの頃は国際化になったから、今に「国技館」て云うのをやめて「国際館」って云う名に付けなおすかな・・・・。(笑い)
 この頃じゃぁ、1年に一ぺん、相撲協会が呼んでくれるときには行きますが、あとは行かないことにしています。  「ゴッツァンです」って云えばお小遣いになる・・・・そんな世界ですからね―。
 ボーイスカウトの世界でも、私はどちらかと云うと教育面よりも運営のほうが主でした・・・・。
 特にシフ スカウト リザベーション(Schiff Scout Reservation =スカウト専従指導者養成機関:米国)で約50日の訓練を受けましたからね。
 動機は、日本で世界ジャンボリーを開くに当たって、ビジネスサイドの者としてスカウティングをどうやるかを勉強しようって云うんで、村山有君がアメリカの事務総長アーデン・バーバー氏を紹介してくれて行ったんです。 そして、シフと云う専従のスカウト指導者を養成する最高機関で勉強したこととそこで得た人脈・・・・これがその後の私にとって非常に役に立ったんです。

 第  三 話 スマトラ暮らし

 本年1月のタイでやった第20回世界ジャンボリー、みんな暑い暑いと云ってたけど、僕にはそれほどでもなかった・・・・。 なにしろ、戦時中はスマトラにいたからね・・・・。
 その頃、僕は東京で相撲協会の宣伝班にいましてね、矢萩さんて云う陸軍の報道部長がよく照國万藏(てるくに=横綱)の師匠の幡瀬川(はたせがわ=関脇)と云う料理屋においでになって一緒に呑んだんですよ。
 そのときに、「軍人は、戦争は上手だけれど民心の把握についてはなちゃぁいない。 また今は宣伝の時期でもないから、松竹、日活、国技館やその他の宣伝部員を集めて30人ぐらいの陸軍宣伝部員にしようじゃないか。」と云う話が出て、僕もその中の一人に・・・・。 僕は「丙種合格」ですけどね。
 「私はいいですよ。でも相撲協会が許すかどうか分かんない」と云ったら、「そんなことはもう全部話して決まってるんだから大丈夫だよ」ってね。
 それで、陸軍の偕行社(かいこうしゃ)と云うところへ行って、まず最初に軍属の服を着て、敬礼のしかたとかサーベルを着けたりとか、そう云う訓練を2週間してから、37、8人でしたか箱根丸と云う船に乗って14、5日かかってシンガポールに着いたんです。
  ところが、国を出るときは、めいめいの資格をこの人は少佐相当官とか大尉相当官とか、また.この人は判任官相当とか、みんなそれに合った制服を着て悠然と出てきたのに・・・・。
  着いたら、「ああ、よく来た。きみ達の部屋はここだ」と連れて行かれたのがひどい所でね、毎晩博打ばっかりやってる労務者達と一緒なんですよ。
 それで、僕が代表して司令部に行って、「我々は、お前は少尉相当官だとか云われてきたのに、これは何事ですか」って云ったら、「いや、陸軍には給与通報って云うのがあって、それが来なければ人間が来たって誰もみんな一緒なんだ」と云うんで、さらに「けしからん」とやったんですよ。
 そしたら、根岸専任嘱託は反軍思想があるって、陸軍省に電報が入ったんですって。 そうしたら、平櫛少佐がとんで来られて、僕が呼び出された。
 「お前、反軍思想があると言うが、何事か」って云うんで、「じつは、こう云うことだ」と云ったら、「ああ、それはそうだ、約束が違うんだ」と・・・・。 
 平櫛少佐は帰ってすぐ給与通報を送ってくれたんですよね。 そうしたら、急にちゃんとした部屋をもらって下男下女をつけて立派に生活させてもらいました。
 そのうちに今度は二十五軍と云うのがスマトラへ行くことになったので、僕もそれと一緒にスマトラに行って、西スマトラの三方山に囲まれたブキティンギという町の軍政部で、宣伝班長をやったのが最初です。
 それまでインドネシアの人たちはオランダに非常にいじめられていたんですね。だから、日本軍が来ても、オランダが日本に変わっただけで、我々はいつまでたっても独立なんかできないって、初めは協力しなかったんです。 
 それで、布を持って行ったり食糧持って行ったり、とにかく現地の住民を日本のほうに向かせようとしたんです。
 そこへ日本が小磯内閣のとき、「近くインドネシアの独立を許容するであろう」との閣議決定が伝わり、その翌日からガラッと変わっちゃって、我々を本当の仲間として協力してくれるようになりました。
 住んでいたのは川沿いでしたが、軍政部のあったところと宿舎があったところの間に赤道が通っていました。 だから、日本からきてこっちからあっちの方へ唾をすれば、北半球から南半球に飛ばしたことになるなんてバカな話をしたもんです。
  そのときに、僕は子供達を集めてボーイスカウト的な訓練で「兵補」(へいほ)って云うのを作ったんですが、これは、僕がしてきたスカウト訓練みたいな班制教育で、いよいよのときには軍隊にも協力すると云うもので、日本の歌も教えたし訓練もして・・・・、だからアメリカに云わせれば戦犯者ですよ。 (笑い)
 その頃、司令部の庭にゾウを飼っていたんですよ。四尺ぐらいだったかな・・・・今はどうしているかな・・・・。 誰がくれたか、どっかの村長がくれたんですが・・・・軍政官にお願いしてね。  タイやインドネシアでは、ゾウは王様のシンボルですからね・・・・。うれしかったですよ。
 それから、日本から米作りの先生って云う方を呼んで、米の栽培をしてもらったんです。そうしたら、これが非常にいいんですね。 
 そこで、日本の技術は大したもんだと云ってたら、ゾウが来て、ひと晩でみんな食べちゃった・・・・。
 「なぁんだ、日本人はゾウのためにお米作ってたのか」って笑われましたが、野生のゾウは2、30頭が一緒に歩き回りますからね・・・・。
 一度はゾウ狩りにも行きました――向こうの軍人とお巡りさんと三人で・・・・。
 これは、一週間っていうものドリアン以外何んにも食べない。――普通に行ったら、人間の匂いがするからゾウが来ないんです。 だから、ドリアンの臭いで人間の匂いを消すと、ゾウは知らずに来るんです。
 そばに川があって、ゾウがそこに水を飲みに来る・・・・。そのときにズドーンと撃つわけです。 それは雌のゾウでしたが、その象牙でパイプとハンコを作り、今も大切に持っています。
 終戦の少し前でしたが、スカルノ・ハッタ(インドネシア独立の父=のち大統領)と云った人達を連れて日本の南方軍総司令官寺内(寿一:伯爵)元帥にお会いしたら、「君達の独立のためには最後の一兵まで戦うから、一生懸命やってくれ」って云われたんです。
 それで、元帥にお目にかかって一週間ぐらいたったら戦争がおしまいになっちゃった。
 すると、スカルノがね、「日本の寺内閣下ともあろう者がウソを云ったじゃぁないか」と云うから、
 「あんたは寺内元帥が一番偉いと思っているけれど、日本にはもっと上に天皇陛下と云う方がいらっしゃるんだ。だから、この方がパッとおっしゃったら全部決まるんだ」と云ったら、「あ、そんな偉い方が日本にいたのか」ってね。
 それで、いよいよ終戦で、日本軍は捕虜収容所に入ることになった・・・・・みんなランポン州からパレンバンまで貨車に乗せられて・・・・ところが、私だけは前の晩に新任の政庁の長官になったアブドラ・アバスと云う人が来て、「あんたは非常に良くやってくれたから、収容所まで特別の自動車で送ってあげるよ」って云われてね、僕はランポン一号と云う車で送ってもらったんです。 それで、パレンバン島と云う所へ行きました。
 そこには、各地にいた宣伝班が九十人ぐらいみんな集まっていて、器用な人が木で小屋を作ってそこに住んでいたんです。
 そしたら、イギリスの将校が来て、「これは誰が作ったか」って云うんで「我々が作りました」と云ったら、
「君たちの命を救うためにブタを飼ってるんで、これをブタ小屋にするから出て行け」ってね・・・・(笑い)
 そうしているうちに、ラジオなんか聴けるようになったら、天皇様が「人間天皇」におなりになった・・・・。
 で、そのとき、私も相撲協会の根岸治右衛門なんて云う昔の名前でお相撲さんと一緒になってご贔屓にお辞儀をしてね、お金もらいながら生活するのなんか嫌だから、何とか帰ったら日本の再建のために努力したいって、代々の根岸治右衛門の名跡を相撲協会に返す決心をしたわけです。
  だから、スマトラはそう云うところで、僕には懐かしい所でした。

 第  四  話 日の丸秘話

 「社団法人国旗協会」を作ったのはね――。 
  日本が戦争に敗けたから国旗を揚げられないって云うが、やはり日の丸の国旗を立てなきゃぁいかんってその運動を興したんです。 
 その発端ですが・・・・、日本を占領したマッカーサー(米元帥)の総司令部では、日本人に日の丸を掲げることを禁止していたんですよ。
 それが、昭和23年(1948年)1月でしたか、ボーイスカウトが日比谷公園で大会をしたんです。
  そうしたら、村山有(たもつ=日本連盟理事=ジャパンタイムズ社会部長)が、「ひとつ、国旗行進をやろうじゃぁないか」って云い出しましてね・・・・。
 「いやぁ、いま総司令部からいけないって云われてるから・・・・」――
 「いやぁ、そんなことはいいよ、マッカーサーが何て云おうがいいから」って、結局、宮城前から大通りを通って有楽町まで日の丸行進をやったんです。 
 そうしたら、沿道のみんなが喜んでね・・・・。
 ところが豈に図らんや、MP(憲兵)がビューと来て、すぐに計画した村山有を連れてっちゃった・・・・。
 しかし、彼は英語も良くできるし、大丈夫だと思っていたら、じつは、彼はその前にマッカーサーと会っていたんです。
 と云うのは、彼が捕虜収容所の仕事をしていたときに、仲間から、あいつは英語もできるから捕虜をいじめたのは村山だと云われて、戦犯容疑で引っ張られちゃった。 
 それで、しょぼしょぼしていたら、収容所時代の捕虜で顔見知りだった少佐が通りかかったんです。
 そして、「お前ここへ何しに来たんだ」って云うから、
 「いやぁ、何だか知らないけど、俺は捕虜をいじめて大変悪いヤツだって、これから裁判にかかるんで呼び出されたんだ」って云ったら、
 「冗談云うな、あの収容所で一番ジェントルマンだったのはお前じゃないか。よし、俺がマッカーサーのところへ連れてってやる」って――許されて――
 それ以来、彼はマッカーサーと仲良しになったんですね。
 それが今度は日の丸行進です。 
 彼はマッカーサーに、「あの行進でどれだけ日本人が喜んだか分からないだろう。ほんとにこれ大事なことなんだから、日の丸の掲揚を早く許しなさい」ってね。
 それからほどなく、国旗の掲揚が許可されました。
 それで、このことを記念して国旗協会て云うのが出来たんです。
 この話は、橋本龍太郎(第八二、三代総理大臣)先生もどこかの講演でお話していましたが、確かこの前パレスホテルでB-Pフェロー(B-P World Fellow=スカウト運動支援篤志家の国際団体)の集まりのときに、何かの資料を基に全部話していましたね。 
 また、村山君って人はそういうことを平気でやれる人でしたが、彼にはまだまだエピソードがあります。 

 

第  五  話 マジョリティ ジャパン  

 これは国際的な話ですが・・・・・。
 1967年(昭和42年)にアメリカで第12回の世界ジャンボリーをしたとき、シアトルでの世界会議で日本もヨーロッパト並んで世界ジャンボリー開催に立候補したんです。 
 そうしたら、アメリカのみんなが何とか日本に取らせようと非常に心配してくれて・・・・。ところが、当時の動きは、ヨーロッパ勢はアフリカは全部ヨーロッパに入れるだろう、だからヨーロッパが勝つんだ日本は敗けるから立候補しても駄目だと云う情勢でした
 そこで、世界ジャンボリーでは日本からも5百人ぐらい参加したんですが、そこの「アローパーク・サブキャンプ」という全部アフリカの人たちのサブキャンプのキャンプチーフに僕が指名されたんですよ。
 初めは、日本の中に入るか、日本と仲のよいところへ行けると思っていたのに、とは云いながらアフリカのスタッフ達といろいろと交友を深めてサブキャンプを盛り上げることができたんです。
 また、アメリカの人々が南米とか各地域を回って、「是非日本にやらせてほしい」と言ってくれました。
 そして、ジャンボリー後のシアトル(の世界会議)で選挙をやったら、アフリカ勢が全部日本に入れて、それで勝てたんです、日本が・・・・。
 アメリカの仲間達がそこまで心配してくれたこと・・・・日本人がアフリカ勢のサブキャンプのチーフになるはずはないんですから・・・・。 
 そこで、シアトルでは久留島(秀三郎=総長)先生が誘致演説をすると云うのを、ここはひとつ鳴海(重和=在米二世・日本連盟国際委員)君にやらせてくれ、彼が招致演説をしたら、ああ日本人でもあれだけ英語が喋れるんなら大したもんだとなるからって云うことになったんです。 
それで、聴衆がグァーとなった。 
  世界会議の発表の仕方というのは、どこが何票、どこが何票とは言わないんです。ただ、選考委員会の決定だけを伝えるだけなんです。
 そして、「マジョリティ ジャパン」の声を聞いたんです。 
 思わず「うぉおぉっ」と声をあげたら、勝つと思っていたヨーロッパ勢が、すぐに紅いバラの花を僕らのテーブルに持ってきて祝福してくれたんです・・・・・。 僕が逆の立場だったら、そんなことできなかっただろうな。 それで、この次のときは僕もリレハンメルへの誘致に協力しようと約束して応援したんです。
・・・・そんなウラ話があったんですよ。
                       <以下次号>

この記事に

閉じる コメント(0)

コメント投稿

顔アイコン

顔アイコン・表示画像の選択

名前パスワードブログ
絵文字
×
  • オリジナル
  • SoftBank1
  • SoftBank2
  • SoftBank3
  • SoftBank4
  • docomo1
  • docomo2
  • au1
  • au2
  • au3
  • au4
投稿

.


みんなの更新記事