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先達十話シリーズ 第六編
                                  青春の瞳かがやく
                            眞 ちゃん 十 話
                                      <その二>
                                          
                                  まとめ   やじま いわを


 
イメージ 1

           創始者ベーデン-ポウエル卿を囲む日本派遣団  (後列左が根岸師)
            第8回世界ジャンボリー派遣団〔オランダ:1937年〕

第   六  話 事務局流転ばなし

 日本連盟の本部が今の三鷹に定まるまで各地を転々としたのには、いろんな話があります。
 とにかく日本連盟はカネがなかったですからね。
 月島にあった事務局は、久留島先生が東海汽船の会長をしていて僕がその会社の営業部長のときに、久留島先生からボーイスカウトは建物がないし職員も増えたからぜひ(勝鬨橋に近い)あの倉庫を貸せよと云うんで、年に1万円で借りてもらったんです。ところが、僕が日本連盟の事務局長になったら、会社からあれを返せと云うんです。何でだと云ったら、もう古いし危なくてしょうがないし雨が降ったらポッカリ浮いて防潮堤からどっかへ行っちゃうって云うんで、そりゃぁ大変だと――。(大笑い)
 それから次の巴町(虎ノ門)は、古田誠一郎(先達)さんが、やっぱりちゃんとした建物がなきゃぁいかんと云ってあそこを借りて、ボーイスカウト会館を作る構想を練ったんです。
 それでも巴町じゃぁ狭くてしょうがないと云うところへ、日本連盟の役員(常任理事)で滋賀の樫原信暁(県連理事長)って云う本願寺派の坊さんが、浅草本願寺の2、3階が空いてるからあれを借りようってね。そして移ったんです。
 それから、三鷹の土地ですが、あれは文部省の土地だったんです。
 そして、ボーイスカウト振興国会議員連盟がいろいろやって下さって、いよいよ借りる契約をする段になっていろいろ調べたら、利用の目的が寄付者の意志に反するからって駄目になっちゃったんです。 
 というのは、あそこは、農業の教育のために寄付したんだから、他に売るなんてけしからんと云うんです。 そこで、文部省が川向うに同じぐらいな広さの替わりの土地に演習林を作って、こちら側をボーイスカウトに分けてくれたんです。
 そのときに、非常に骨を折ってくれたのが中村梅吉さん(文部大臣)と社会党の長谷川正三さん(文教委員長)と云う代議士とね、この2人が一生懸命やってね――だから、社会党だってずいぶんボーイスカウトを応援してくれたんですよ。
 また、日本連盟総裁の石坂(泰三=経団連会長)さんが一生懸命やってくれたんです。
 それから日本で世界ジャンボリーをするのに募金運動をしたんですが、あのときにもボーイスカウト振興国会議員連盟にじつによく働いてもらいました。
 それは、寄付行為に対する免税のことですが、これはなかなか通らないんです。
 あのときは福田(赳夫=後に第六七代総理大臣)さんが大蔵大臣で、越智(通雄=後に内務大臣=世界スカウト国会議員連合理事)さんが秘書官やっていて頼みに行ったら、「ボーイスカウトだからって通したら、今度はおかしな団体なんかが世界のナントカをするって云うときにまた出さなきゃならない。だから絶対に駄目だ」って云うので、「そんなことはない」と、ボーイスカウト振興国会議員連盟に頼んで陳情書を出してもらったら、大蔵省のお役人が、「ボーイスカウトにはこんなに応援者がいるんですか」・・・・ただし許可を出すに当たって、ひとつ条件があるって云うんです。 
 それは、世界ジャンボリーは分かったけれど、この計画の中にあるスカウト会館は外国から来るスカウトがいろいろと使うためだと云うんなら、ジャンボリーが終わったら取り崩しなさいと―― まあ、政府としても、ほかが変な会館作ろうと云ったとき面白くないものでも前例になると――
 そこで、「よろしゅうございます。世界ジャンボリーが終わったら壊します」って一筆書いたんです。
そして、ジャンボリーが済んだときに、石坂さんが大蔵大臣にお会いになって、「折角出来たものを、きみ、壊したってしょうがないだろう。無駄な話だから置いといてやれよ」って・・・・・。  それじゃぁよろしいってあの会館があるんですよ。
 この話は、石坂さんの「きみにはもう頼まない」って云う本で城山三郎が書いた石坂さんの年代記の中にも書いてますよ。

 第  七 話 ハート ツゥ ハート

  国際キャンプ スタッフ(計画派遣プログラム)も、日本連盟内ではずいぶん反対があったけれど、押し切ってやりました。
  「第一、言葉の分からないのがアメリカへ行って、そんなことできるかい」って――
 そうしたら、向こうのチーフスカウト、アーデン・バーバー(Arden G. Barber)が、
 「言葉なんか関係ないんだ。いいじゃぁないか。 折紙をこうやって折るったって、日本料理作るったって言葉は要らない。 日本のゲームだって」 ってね―― 
 とにかく日本とアメリカアメリカが仲良くするためには、日本がこれに参加しないと云うことはない。
 それからアメリカ連盟は それまでは日本語は分からないからと英語圏内ばかり呼んでいたのを、初めて日本語の国からということになって―― 
 日本からも1967年から始めて、ずいぶん多くのスカウトを出しました。
 派遣と云えば、昭和12年(1937年)に三島通陽(戦後初代総長)先生が団長でシャム派遣団が、シャム(今のタイ王国)へ行った。
 そして、向こうの寺院に行ったとき、派遣団のみんなが仏舎利塔にお参りをするのをシャムの皇太后さまがご覧になられたんですね。 
 それで感心されて、派遣団が帰るときに仏舎利を日本に贈ろうと云うことになったんです。
 そして、佐倉にいた北村隆治っていうのが、その箱を下げて日本に帰ってきましたが、細野紀久雄とか・・・もう現存されてる人はいないだろうけれど・・・・
  ところが、それをどこに納めようかって云うときに、どこにでもと云う訳にはいかないから、東京市の公園課長の井下さんて云う方がそれを預かって、震災記念堂に安置したんです。
 それから戦後になって、あそこではどうもいかんからって、高尾山の坊さんが、ひとつ仏舎利塔を建てるからぜひ移してくれと云うんで高尾山に落ち着いたわけです。
 それで、毎年4月8日の花祭りにはボーイスカウトが行って法要をしているんですよ。
 ところで、ベーデン-ポウエル卿の伝記「英雄二つの生涯」――著者のウイリアム・ヒルコート(William Hillcourt)って人は、ベーデン-ポウエルの生前からずぅっと一緒にいたんですよ。 そして、彼と奥さんとでベーデン-ポウエルのことをいろいろと調べてまとめたものです。
 ちょうどアフリカのダカールであった世界会議(第29回=1981年)に出かけたとき、ビル・ヒルコートから、「これは良い本だからと、世界で4カ国か5カ国で出しているけれど、日本でも出さないか」って云われてね・・・・。 
 それで、渡辺総長に話したら、「それはきみ、出すのはいいけど大変だぞ。しかし、今ベーデン-ポウエルの本がいろいろ出ているけれど、どれも中途半端だから、今度は立派なものを出してくれ」って云われるんで、「いやあ、ヨコのものをタテにするんですから簡単ですよ」って云ったのはいいけれど、10年たっても出来ない。
  それで、原本を切り離して中央大学のローバーに、「お前はここ」、「お前はここを訳せ」って分担してもらって、全編の文章を私が統一したものです。 そして、出すときにその本を手伝ってくれた全部の人の名前(翻訳=安齋忠恭・青木勝彦・伊比厚士・新藤腆和・白井 満・篠田登志雄、渉外=河上徹二・鳴海重和、出版=平野陽三)を入れたんです。
 その中央大学は、日本連盟の理事長をされた小林芳夫さん(神戸銀行頭取)も卒業生でね、ローバー隊を創設して一生懸命やられたんですよ。
  しかし、いつになってもベーデン-ポウエルの書かれた理想や精神は大切なものです。 ただ、当時としては大事な文献だと云っても、時代が違うと云うことを頭に入れながら読まないとね・・・・ それは、丁度明治の時代、伊藤博文たちがしたそのままのことを今やったんじゃぁ、まずいと云うことでしょうか。
 それにしても、日本のスカウト運動は、どちらかというとベーデン-ポウエル直伝の佐野(常羽=我が国指導者訓練の祖)先生、古田(誠一郎=先達)先生・・・・みんなイギリス系なんですよ。 
 それは、良い人間を作れば頭数が少なくてもいいんだと云うのがイギリス流――ところがアメリカ流は、数を増やして底上げをしながら全部を良くしていこうと云う違いがあるんです。 
 ですから、関忠志(中央理事会総主事)さんやアメリカのシフを出た私とか松平(頼明=先達)さんはイギリス系とは一寸違ったところがあるんでしょうか―― 「広くあまねく」―― そうすればみんな良くなるじゃぁないかって――
 だから、朝霧でやった第13回世界ジャンボリーの少し前にスカウトの増強運動やったときでも、「そんなことやって何になるんだ」と、ずいぶん叱られたものですよ。
 でも、僕はやって良かったと思っています。 
  あのとき、日本で世界ジャンボリーをするには富士山の見えるところでやろうじゃないかと云いましてね、久留島先生も「そりゃぁ大賛成だと」・・・・
 ところが、静岡県のほうが、御殿場でやりたいって云うんです。 しかし先生は、世界中からスカウトが来るのに、アメリカ兵が駐屯して演習している御殿場よりも、そんな基地のない裏側にもっていこう、と云うことで山梨県側の朝霧高原になったんです。 
 ところで、朝霧のジャンボリー会場の用地は公有地ではなく、月島にあった前川製作所という産業用の大きな冷凍機を作る会社の土地で、前川さんから3年間無償で借りたんです。
 そこへ道をつけたり、3年も前から芝を種子から蒔いて育てたり、自衛隊に支援してもらってどうやら理想的なキャンプ場を作ったつもりだったんですよ。
 だけど、やっぱり僕は土地の見方を研究しなくてはいけなかった・・・・。あの台風で、水に埋まっちゃったんですからね。 そりゃぁやっぱり事務局長だった僕の責任だと思っていますよ。
 ですから、そのときの皇太子様(今上天皇)の「お言葉」も、普通の天気でなさる「お言葉」を戴いておりましたのを前の晩にご宿泊所までお持ちし、台風のことを殿下ご自身で筆を入れられて、「明日はこれでしましょう」って云われたんです。
  そのときに殿下は、イギリス隊のキャンプサイトが避難しなかったので、「どうしてですか」って訊かれたら、イギリスのリーダーが、「台風のときでもキャンプを続けられるのが本当のスカウトです」って・・・。それから次にフィリピン隊のサイトに行かれたとき、「フィリピンにも台風はありますか」って云われたら、彼らは、「いやぁ、私のところは台風の輸出専門でございます」って・・・。(笑い)
 そして、互いの心で結ばれたスカウトの世界が、こうして拡がって行ったんです。

 第  八   話 スポンサーシップ 
 東京でいちばん先にボーイスカウトショップを出したのは、銀座の松屋ですよ。
 同級生の古屋君が社長をしていてね、彼もボーイスカウトに熱心で、裁判官から転身して家業を継いだ人ですが――  
 そこへ、僕がここを拡げろあれをこうしろって云うもんだから、「おい、千円儲けるまでにどれだけお辞儀をしてどれだけ従業員使ってるか分かってんのか」って云うから、「分かんないよ、分かったらカネなんか集めに来れないじゃぁないか」ってね――(笑い)
 しかし、僕がケシカランと思ってるのはハンバーガーですよ。 
 あのMがあそこまで大きくなったのはボーイスカウトのおかげなんですよ。アメリカで第12回世界ジャンボリーをやったときには、スポンサーが全部Mだった。
 それで、日本に来たときに、僕と松屋の社長との関係を知ってるもんだから、銀座松屋のウインドーを全部呉れって云うの・・・・そしたら松屋の社長がね、「オレも親父からもらった店で、そんな立喰いするようなことはやりたくない」ってね。
 それから今度は、東海汽船にいたころ三越の海水魚展示用の水を「あけぼの丸」で運んだ縁で、岡田社長に頼んだら、彼もノーとは云えなくなって出させてくれた――。ところが、ちっとも売れないの――アメリカで売れてるのに日本でどうして売れないかってね。
 そのうちに、朝霧の第13回世界ジャンボリーが終わって、2千何百人ていうアメリカ派遣団ののスカウトが来てね、それがみんな立喰い――それを日本の若いのが見て真似するようになったんです。
 だからMも、出店が百軒ぐらいのときまでは僕のところにも招待状が来てたんですよ。だけど、その後は行っても会わせもしないんだな・・・・カネ取られると思ってね・・・・(笑い)
 しかし、カネ集めるんですからね。少しは図々しくなけりゃぁねって――
 でも、事務局にいた頃は、ボーイスカウトも活発で石坂さんていう大物がおられたし、お金も集まりましたね。
 経団連のトップの人が石坂さんを訪ねてくると、「おい、きみはいま何をやってるのか」と訊いて、「なんとか会社の何々をやってます」――すると、「そんな下らないことよりボーイスカウトにいくらかでも顔を出せ」ってね。
 その石坂さんが総裁になられたとき、僕が1937年(昭和十二年)にオランダの世界ジャンボリーに行ったときの写真をお見せしたんです。
 そしたら、「おい、根岸くん、これ僕の頭に黒い毛が生えてるぞ・・・早速これを複写して一枚くれないか。僕にも黒い毛があったことをみんなに見せなきゃぁいけない」ってね。(大笑い)
 それから、千葉連盟の維持財団も、役員はみんな一流会社の社長ですよ――。この人たちが理事会にはほとんど集まりますよ――代理ではなくご本人が――。来ないと、「どうして来ないんだ」って電話かけるから、みんな感心してますよ。 お宅の理事会はスゴイねって。
 議事録見て、これホンモノですかって――
 うちは孫も維持財団に入ってますが、このあいだ理事長が、「根岸さんの親類だけでも十何人入ってる」って云ってました。
 僕は、金額は少なくても数で増やしてきたのが良かったんですよ。だから、会員数では千葉が一番多いでしょう。
 初めは、東京電力の千葉支店長が中学の後輩だったので、「うちのボーイスカウトは全部お宅の電気使ってるんだ。」――
 そしたら、「はい」ってひと言――それが大口の一軒でした。
 それから、国鉄へ行って、「ボーイスカウトはほとんど国鉄に乗ってるから」って3万円。 山崎パンへ行っては、「スカウトはみんな山崎パンが好きだ」って5万円――それから今度は船食へ行って、「お宅と山崎は同格ですから」って云ったら「出します」ってね。 
 だから、銀行だって、千葉銀行は年に30万、あとの二つの銀行は年に10万出してくれます。            
 でも、そう云うふうに回るのが大変なんです。
 それも、事務局長の中村菊治さんがいたから できたんですよ。
 そうやって、1億3千万ぐらい集めたかな。 だから、ボーイスカウトの千葉県連に毎年3百万渡せるんです。
  それも、もう20年もやってきたから今年で辞任して若い方に引き継ぎますよ。

 

第  九 話 彌 榮 百 枚

 ホントに僕は、ボーイスカウトだけでの無趣味でね。写真はよくやりますが絵も描けません。
 僕が戦後ボーイスカウトに復帰したのは同和鉱業の久留島(秀三郎=五代総長)先生とのつながりで、これも私が勤めていた諏訪鉱業(鉄鉱石採掘会社)との関係です。
  健康法は、以前は剣道をやってましたが、今は毎朝のラジオ体操と、寝る前に青竹を六百回踏んでますが、何といっても、ボーイスカウトに出かけて漫談するのが一番です。
 食事も量は食べられないけれど、あんまり気遣いませんね。何でも食べてますよ。また、酒は飲みません。もとは、日本酒でござれ焼酎でござれ何でも呑みましたが、今は全然やりません。
 また、浅草で3百年ぐらい続いている日蓮宗の本法寺と云う寺の檀家総代をしています。
 でも、僕んとこは、ボーイスカウトは孫までの三代だけど、ガールスカウトは四代です。家内と、娘と、孫と、曾孫と・・・・ 長女のほうは国分寺にいてガールスカウト一点張りでね、次女は家内と二人でガールスカウトを一生懸命やっています。 
 家族は、世界ジャンボリーでもどこでも、一人じゃぁ行かしてくれないから、費用は倍もかかるんですよ。 それで娘とか家内が行くから楽しめないの・・・・うるさいことばかり云うから・・・・
 このあいだ困ったのは、色紙ですよ。 船橋第6団から頼まれた・・・・・
 今までは、頼まれると渡辺先生(総長)に色紙でも何でもお願いしたんですが、あのときは先生が転んで怪我をしたから書けないよって――それで、どうしようかと云ったら、「君が書けよ」って・・・・だから、「僕に書けるわけがないでしょ」って云ったんですが・・・・・
 そこで、図々しくも、前に渡辺先生(総長)に書いていただいた「彌榮」って云うのをお手本に、百枚ぐらい書いてお見せしたら、「これは、僕の字とおんなじじゃぁないか」ってねぇ・・・・(大笑い)
 あれはつらかったね。色紙書くって云うのは――。  
 第一、僕が行ってた暁星中学って云うのは、小学校にも「お習字」がないんです。 フランス語の学校だから、筆なんか持ったこともなかった。 それで、必要がありゃぁタイプライターだって何だってあるんだから、そんなもの要らないなんて偉そうに云ってたので、今でも手紙を書くにも何にしても、恥ずかしくていられないんですよ。

 第  十  話 少年達のための運動

 最近は日本連盟にもほとんど出かけません。 
 もう、相談役なんて云うのは用があるときには出ますが、うるせぇから相談役にでもしておけって云うところでしょうかね。
 それにしても、最近のスカウティングは理屈が多くなってね・・・・
 しかし、子供達の指導者は理論だけじゃぁ駄目なんですよ。
 また、この頃のスカウトやリーダーは、何かの集会だと云っても、カバンや何かにユニフォームなんか入れて電車に乗ってくるでしょ。
 僕なんかの子供の頃は、団杖を持ってロープを腰に下げて・・・・まるで犬殺しみたいな格好して電車に乗っていた。 炊事をするにしても、全部焚き火でしょ。 
 キャンプの仕方についてもナベ、カマぶら下げて、みんなで担いで行きました。
 うちの家内なんかに云わせると、昭和24年ぐらいにキャンプへ行くときは、お母さん達がみんなナベ持って、まるで乞食の行列みたいだったって・・・・しかも、コゲついたナベで一寸触るとススがつくようなのでね。
 それが、この頃はみんな自動車だからね・・・・。
 また、最近はボーイスカウトの日本連盟も女の子を入れて、女子の「富士スカウト」も出てきましたが、アメリカでは、女の子を入れると男が来なくなる、教育面を考えない「おいでオイデ」の手段じゃぁないかと言ってますよ。
  しかしアメリカでは、スカウトの数を増やすこと、資金を作ること・・・・これがエキゼクティブ(専従指導者)の仕事だと云われました。
 でも、ローバーに女性を入れたのは、日本では中央大学が初めて――しかも、僕が事務局長のときに――それでみんなが、「事務局長をしていていいんですか」って云うから、「ああ、団委員で登録した正式な加盟員ならいいんだ」ってね・・・・。 
 それも時代の変化でね、、そうとやかく云うことはありません。
 ところで、僕は「隼章」が無くなったのを知らなかったんで、このあいだ日本連盟へ行ったとき、富士スカウトは167人だと云うから、隼は何人いるんだと訊いたら、「隼は千葉県連だけでございますから、私の方では分かりません」って笑われた。
 千葉県連では、「隼顕彰」というのをやっています。 だから千葉にはまだ「隼」があるんです。
 それを、総コミッショナーがいる県連だからって、問題にしたいのもいるらしいが、とにかく、この運動に、あんまり難しいことでワクを作らない方がいいんですよ。 
 これは、「少年達のための運動」ですからね。 だから、スカウト達には、ただ、「良いことと悪いことが分かる人間になりなさい」と、それしか云いません。
 ただ、スカウティングで今も昔も変わらないことは、キャンプサイトを、来たときよりも帰るときは美しくして帰ること、それと、ここが汚れていると気がついたら、目をつけた人がすぐにそれをきれいになおす。
 目についたら必ず責任をもってなおす・・・・良くないと思ったらすぐになおす・・・・
 これがボーイスカウトなんです。
                                                                  < 完 >



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