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宇喜多直家:うきたなおいえ
1529年-備前守浦上氏の臣宇喜多能家(よしいえ)の居城砥石城で生まれる。幼名は八郎。
1534年-島村貫阿弥(盛実)に砥石城を落とされ祖父、能家が自害。
父、興家(おきいえ)や母、弟らと、ともに脱出逃亡。城(住む家)を失うが豪商、阿部善定のもとに愚鈍なふりをして暮らす。
1543年-浦上家に仕え、播州合戦で初陣を飾り、浦上宗景より乙子城を賜る。
1549年-ときの砥石城主を浦上宗景の命により殺害し、奈良部城を賜る。
1559年-祖父の仇、島村貫阿弥と妻の父中山備中守信正を謀殺し沼城の城主となる。
1561年-ホモの穝所元常のもとに美男子の岡清三郎を送り暗殺し、龍の口(たきのくち)城を落とす。
1566年-遠藤又次郎、喜三郎兄弟というスナイパーに三村家親を暗殺させる。
1567年-三村家親の子、三村元親が父の仇討ちに2万の兵で攻め入るが、5千の兵で返り討ちにする。(明禅寺合戦)
1570年-金光宗高を切腹させ、石山城を奪う。
その後、豊臣秀吉が進出。毛利と織田家の間を行ったりきたりしながら、最終的に織田家につく。
1581年-病にて死去
年代順に列挙していますが・・・
軽く解説していこう。軽くで、すむかな?
戦国武将なのだが、あまり評判はよくないですよね。
でも、私は好きとは言わないが、大変面白い人だと思います。
大河かなんかにしてくれたら、絶対見ます!!
まず、何が面白いか。地位としてはそんなに高くはなかったものの、お城で生まれたところから
5歳で、ホームレスになる。で、商人の家で居候。そこからの追い上げのすごいこと。
最終的には息子の秀家が、五大老のひとりにまでなる。
で、その追い上げ方が、陰謀や策略、寝返りなど、あの手この手を尽くす。
そこが、汚いということで、評判が悪いんだけど、戦国の世だからなあ。
頭はよかったと思います。
でも、それだけじゃないとこに、魅力を感じる。
例えば1567年の明禅寺合戦で、劣勢なのに純粋に武力のみで勝っている。
面白い話は、いっぱいあってね。
秀家のお母さん。おふくさんというのだが、実は、直家とは再婚。
元旦那は、三村家親に攻められて死んでいます。
そのとき、直家は旦那を助けずにおふくさんを助ける。
どうやら、おふくさんは、相当な美人だったようです。
あくまでも、私の想像だけど。
その根拠として、直家がわざわざ助けに行ったというのもあるが
なんとあの豊臣秀吉がいいよっている節がある。
だって、秀家の秀は、秀吉の秀だし。
秀吉が養子にして、名前を秀家にしちゃった。
(もっとも小早川秀秋とか、秀をもらった人は何人かいるけど。)
さて、余談として、1570年、石山城を奪うとなっているが
この石山城、後に、秀家の改築で、岡山城になっています。
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歴史
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上杉景勝:うえすぎかげかつ
1555年生−1623年没。上杉謙信の甥で養子。上田長尾氏の長尾政景の次男。御館の乱(1578-1579)で、同じく上杉謙信の養子で、北条氏政の弟の上杉景虎を打ち破り、上杉家の跡を継ぐ。その後、織田信長勢に攻められ、魚津城が陥落したが、その前日に織田信長が本能寺で死亡。からくも上杉家の滅亡を免れる。それからは、豊臣秀吉に従臣し、五大老まで上り詰める。秀吉の死後は会津で、最後まで徳川家康に反抗していたが、関ヶ原ののち降伏。その後許されて、米沢藩主となり、米沢城で亡くなる。
昔はさ、お家断絶を避けたいとか、お家のためにとか言っていたようなイメージがあるが、上杉家に関して言えば、理解できない。
というのも、まず、一番有名な、上杉謙信が、もともと上杉じゃないもんね。上杉の家臣の長尾家だった。親父さんが、結果として上杉家をつぶすような形になってしまったので、その汚名を返上しようとして、なんか知らんけど上杉になってしまった。でも、子供が生まれなかったので、養子を貰う。一人は親戚筋のこの景勝。でも、家督を譲ろうとしたのは、どうもまったく関係のない後北条氏出身の景虎の方。まず名前が、謙信の若いころの名前の景虎を与えているし、春日山の頂上は謙信、その下に景虎、さらに下に景勝が住んでいたことからもわかる。そのため、謙信の葬式中に、景勝は、景虎を奇襲することになった。この不意打ちと騙しがね、どうも、私が景勝を好きになれない理由になっている。
上杉家のためとか、全然関係ないとこで騒動起こしているような感じがするし。ただ単に自分の保身のために戦っている感じがする。
異論はあると思いますけど。
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久しぶりの事典からのアップです。 |
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禹:う |



