暇日記

暇にあかせて思いつくまま身辺雑記を記します

全体表示

[ リスト ]

イメージ 1











































もう何年も積読にしておいたものをオーストリア・アルプスのチロル地方でヴァカンスの合間にキャンプ地のテントの中で読了した。

70年代にジャズ喫茶でアルバイトをしていたときに時々アン・バートンのものをターンテーブルに載せて聴いたこともあり、また彼女がオランダ人の歌手である、ということから、もうだいぶ前に古書店で見つけ、そのままにしてあったオランダ語の本書である。 英語版、日本語版はあるのだろうか。 カバーの写真は彼女の代表アルバム、「ブルー・バートン」のものが使われており、本書のタイトルも「ブルー・バートン、あるオランダジャズ歌手の思い出」となっている。

著者のアネケ・ミュラーは70年代に初めてラジオで彼女の声を聴いてからバートンのファンになり、89年にバートンの体調がすぐれないとの報で彼女に連絡しようとしたところ訃報に接して、その後、バートンに親しい人たちと連絡をとり本書の成立となった、と「紹介」のところに記されているが46葉の白黒写真を含め、彼女の伝記、身近な人たちの思い出、ジャズ・ヴォーカリストたちとの交流録、ジャズミュージシャンたちのバートン評、新聞・雑誌の評、彼女のアルバムにまつわる話、ディスコグラフィーというような構成になっている。

クレジットは下記のとおり。


Blue Burton、

Herinneringen aan een Nederlandse Jazz-zangeres、 1933−1989

Anneke Muller

UITGEVERIJ CONSERVE

153P

ISBN 90 5429 129X 1999

目次

はじめに

紹介

1  1933−1955 Johanna 'Ansje' Rafalowicz の成長期
2  1955−1961 音楽によって Ansje が Ann Burton になる
3  1961−1968 デン・ハーグ時代
4  Blue Burton; 突破口
5  インタビュー集
6  1969−1980 世界を巡って、ロンドン、東京 及び ニューヨーク
7  自国では小さなスター、日の昇る国では
8  By My Self Alone
9  He's Funny That Way
10 新しい出会い、 ヘレン・メリル、マーク・マーフィー
11 New York State Of Mind
12 1980−1989 浮き沈み
13 It might as well be、、、、、ターニング・ポイント
14 回想
15 アン・バートンとメディア
16 アン・バートンを巡る人々のコメント
17 謝辞
18 ディスコグラフィー

読後の印象は、この人には他のジャズメン以上に戦争の傷が大きくその性格、仕事に影響している、ということだった。 ユダヤ人として戦中家族がちりじりばらばらになり、殆どがアウスシュビッツなどで死亡したなかでかろうじて農家を一人転々と移動、かくまわれながら成長していった中で、後年、戦争中のことは辛いことが多すぎて話したくないというものの、いくつかの話が語られているが、そのなかでカトリック信者になりたいと願い出て体よく断られた話が印象的だ。 

其の事がユダヤ人としてのアイデンティーの放棄となること、当局からの疑いを防ぐために他の子供たちと一緒に参加していたカトリック教会の日曜学校でひとりだけ別室で過ごし、大人とは違う子供の思惑からただ一生懸命聖書を読み、カトリックの洗礼をうければ他の子供たちと一緒になれると努力したあげく、さまざまな周りの配慮から断られたことが大きな傷となった、と記されており、宗教、偏見、子供の共同体、家族に帰属したいという願望のあらわれが叶えられなかった失望の大きさとして思い出となったものだろう。 後年の彼女の性格を理解するには戦争中の少女期の回想が示唆的である。

150cmほどの身長だ、と書かれているのにも驚いた。 オランダ人は平均身長では世界一の国であり2mを越すものも町の中では珍しくない。 彼女が日本に公演旅行したときには自分に合った国だ、と感じたらしい。 それはただサイズだけではなしに日本人の西洋的な押し付けのなさ、静かな人々、表情が素直にでる、というところにもあるようだ。 特に日本人ファンの名前が出てくる。 彼女のキャリアの中で日本、というのがかなり大きな比重を占めているようだ。 本書でも Kleine Ster in land van rijzende zon (自国では小さなスター、日の昇る国では)という章を置いているほどで、70年代の日本のジャズ事情とその後オランダのジャズの変遷を総合すると当時から世界第二位のジャズ市場で成功することの意味がオランダのメディアでどのように扱われたのかとも対照され、日本での好評が成功に繋がっていることはたしかだ。 その事情は現在でもかわらない。 同じレコードが日本ではオランダの10倍売れるらしい。

もしバートンが存命なら多分会って話を聴く機会があったに違いないのだが残念なことだ。 写真の中にも何人か見知った人の若いときの顔がみられて頬の肉が緩む。 逝去した人もいるし存命の人もいるけれどその人たちとはバートンのことを話した事がなかったが、其の中で印象的だったのはドラマーのジョン・エンゲルスのバートンについての思い出だ(139p) 「初めてアンと会ってしごとをしたのはピア・ベックのバンドでのことだった。 アンは明らかにオランダでは過小評価されていて、テキストを重視するはっきりとした性格付けを舞台でしていて、選曲の面でも私の好みのものと重なるものをたくさん演った。 78年にワルシャワ演奏旅行前に交通事故で医者にドラムを叩くのを止められていたけれど無理をして出かけたのが思い出だ。 アンは舞台では神経質で、急ぐことはないぞ、ゆっくり、ゆっくり、ジャズに終わりなんてないんだから、とサインをおくってブレーキをかけた。」 といっているのが他のジャズメンたちの賛辞の多い中で率直な印象として残った。 ジョン・エンゲルスはチェット・ベーカーのドラムスとして日本旅行にも同行していてそのDVDをやっと日本で見つけた、と何年か前に嬉しそうにいっていたことも思い出される。

ジャズ・ヴォーカルの中でバートンが特に日本で評判がいい、ということを想っていた。 彼女の英語に癖がない、ということが理由のひとつだろうか。 つまり分かりやすい、ということだ。 スタンダードのバラードが多い。 ゆったりで感情をひかえめに想いをこめてはっきり歌う、ということか。 逆に言うと癖がなく、それが欧米ではジャズ・プロパーの間で「ものたりない」、というように取られがちだったから上のエンゲルスの発言のようになるのだろうか。

当時と今のジャズ・ボーカルは大きく変わった。 ボーカルだけではなく、ジャズということ全体が変わったのだ。 それはジャズ自体が変化の中の産物であり、他の事象と同様当然のことでもあり、広島、長崎に原爆が投下されて65年経つ現在、人気というのはその後の社会、人の好みの変化にも対応しているようだ。 バートンがこのビジネスで活動した時期には「ジャズ」・ボーカルは黒人女性のスターが目白押しに活躍していて、幾人かの例外はあっても白人の女性ジャズ・ヴォーカリストは全体からすると少数派だった。 現在ではそれが大きく変化しているようで、濃く強いリズム感と汗で聞かせるものから「短小軽薄」時代を通過した、しゃれてクールなものが好まれがちだ。 もしバートンが今も存命なら現在のヴォーカル界で正当に再評価されているに違いなく、オランダだけに限るとリタ・ライスやフリーチェ・カウフェルドと共に舞台で元気に歌っていることだろう。

ただ、私生活での人との付き合い方ではどうだろうか。 戦後65年である。 その跡はいつまでも深く刻まれ日常の中で影に日向に現れる。 けれどそれはビジネスとは関係のないプライバシーで、猫と限られた親しい人たちの中で向かい合うだけのことだ。 彼女も他の多くの人と同様、普通の戦争の犠牲者なのだ。


.


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事