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:)最近、自分の好きな音楽家たちがぼくの今の年齢、つまり60歳の頃何をしていたかを知ろうとしている。今日は、マイルスだ。

マイルス・デイヴィス(1926年5月26日 - 1991年9月28日)は、65歳で没している。マイルスの墓はNYブロンクス区ウッドローン墓地にある。ぼくの今の年齢の頃、というのはマイルスが最後の復活を遂げた頃だ。1981年リリース『新生マイルス』の6年ぶりの復帰作である『マン・ウィズ・ザ・ホーン』でそれは始まる。

破綻をめざして突っ走り、『アガルタ』・『パンゲア』で通り越したマイルス。そこでミュージシャンとして終わってしまっても良かったのかもしれない。単なるジャズ・ミュージシャンの一人であれば、突っ走ったあげくの死というのもそれなりにカッコよかったろう。しかし、マイルスは創造をやめない現役にこだわり続けた。まったく後ろを省みず、自ら良しとするものは取り上げるという姿勢を貫き通した。これは真似ができない生き方である。それが6年間のブランクの後の復活ということになる。

CBSのこの復帰作はマーカス・ミラーの徹底的なサポートのもとに成立している。それ以外にもマイルス自体を大衆化というか時流に乗せて売り出そうという、スタイリストも演出家も全てがチームを組んだようなCBSの恣意も見え隠れする。しかし、マイルスの復活したトランペットはそういった幾多の恣意や意図をくぐり抜け、自らの意思を伝えてくれる。そこにぼくはシビレル。

もはやジャンルでもなく、曲でもなく、フレーズでもない。ぼくは最後のスタートを踏み出したマイルスの『音』そのものにシビレル。それは恣意や意図といった雑なるものを超越した光だ。


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:)吉本の社長の会見をテレビで観ていて、ほんとにうんざりしてしまった。このヒトは、典型的な『Aの質問にZで答える』ヒトだと思う。質問している内容をいかに端的にYesかNoかで答えてくれと言っても、全然無関係なZの話を長々とするタイプのヒトだ。ホントにうんざりである。

正直、よくこんな社長のもとで才能溢れた芸人たちが働いていると思う。しかも今どき口約束で。

この社長にファミリーの『親』としての意識は皆無に感じられた。あるのは単に会社の保身だけだ。『子』のことは何とも思っていない。これはあまりに『子』が可愛そうである。

こんな社長の元は集団で飛び出してしまうと思う。うんざりである。


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:)本日はコミュニティデイ。ただ天気も悪く、ミズゴロウとのことであまり時間をかけずに楽しんだ。

驚いたのはスタートして最初のミズゴロウが色違いだったことだ。こんなこともあるのか、という感じ。早速、ラグラージまで進化させてみた。

やっぱり好きなポケモンの時とは、意気込みが違ってしまう。先月のナマケロの時とはやる気が違っていた。


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:)昨日の続き。ぼくと同じ年齢の頃、ぼくの好きな音楽家たちはどんな人生を送っていたか。5月にロシアへ行ってチャイコフスキーのバレエ『白鳥の湖』を観てきたのだが、そのチャイコフスキーについて触れてみたい。

ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー(1840年5月7日 - 1893年11月6日)は53歳で亡くなっている。つまりぼくの年齢までは生きられなかった。なので、40歳頃を追ってみると、

・1875年、ピアノ協奏曲第1番(作品23)を作曲→初演を依頼したニコライ・ルビンシテインの酷評を受けたが、ハンス・フォン・ビューローに楽譜を送り、ビューローによる初演は大成功する
・1877年、アントニナ・イワノヴナと結婚→この結婚は失敗し、チャイコフスキーはモスクワ川で自殺を図るほど精神的に追い詰められる。実はこの年、バレエ『白鳥の湖』が完成している。
・1878年10月、作曲に専念するために12年間勤めたモスクワ音楽院講師を辞職→約10年間、フィレンツェやパリ、ナポリやカーメンカなどヨーロッパ周辺を転々ととする

つまり、アントニナ・イワノヴナと結婚に失敗し、創作意欲を失ったチャイコフスキーはかなりの精神衰弱に陥っていたため、気分転換のために弟のモデストと共にイタリアからスイスにかけて旅行したのだ。そして、1879年末から1880年の4月にかけてイタリアに滞在したチャイコフスキーは、イタリアの風土・文化・芸術に魅了され、彼に多大な感銘を与え、彼の創造力を復活させたのだ。この時の作品で有名なのが『イタリア奇想曲』だ。

バルトークもそうだったが、やはりこういう時がヒトにはあるのだと思う。多かれ少なかれ、ヒトはそういう時間を過ごし、立ち直るのだ。

今日は、歩いて期日前投票に行き、その後夏祭りを少しだけ楽しんだ。ゆっくりと過ぎる時間を感じているのである。


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:)最近、自分の好きな音楽家たちがぼくの今の年齢、つまり60歳の頃何をしていたかを知ろうとしている。たとえば、バルトーク・ベーラは、1881年3月25日生まれで1945年9月26日に没しているが、60歳の頃というのは、ちょうどアメリカへ移住し、白血病を患い、騒音に苦しめられ、作曲もままならず、年収は1/5になってしまった頃だ。

そんな彼を救ったのが、当時ボストン交響楽団を率いていた指揮者セルゲイ・クーセヴィツキーだったのは有名な話だ。クーセヴィツキーは曲の委嘱のためにバルトークの病室を訪れる際に当時としては破格の1,000ドルの小切手を持参したことで知られている。

そして出来上がった曲が、『管弦楽のための協奏曲』だ。この曲には、自分を故郷から引き離したヒトラーへの痛烈な皮肉と、故郷への愛情と帰還の思いが、入り交じるように組み込まれている。そして、バルトークの民謡研究のエッセンスが随所に光っている。

ほんとに最後のチカラを振り絞ってこの傑作を書き上げている。この時、バルトークの体重は40キロ台しか無かったようだ。

それでも、異郷の地で励ましてくれる人たちの気持ちが身に沁みたのが良く分かる。バルトークほどの苦境でなくても、ぼくも37年いた環境から離れ、一人の生活をしてみると、こういう人たちこそ本当の友人だと思う。だから、今この曲を聴くと、前とは違った気持ちで聴こえるのである。

バルトークはこの曲を書き上げて2年後に亡くなる。遺体は「ナチスドイツや共産主義ソ連の名前が残っている内は祖国に埋葬しない」との遺言に基づき、ニューヨーク州ハーツデイルのファーンクリフ墓地に埋葬されたが、ハンガリー社会主義労働者党が一党独裁放棄を決めるなど民主化が進んだことから、バルトークの二人の子息と指揮者ゲオルク・ショルティらの尽力で亡骸が1988年7月7日ハンガリーに移送され、国葬によりブダペシュトのファルカシュレーティ墓地に埋葬された。

人付き合いがあまり得意でなかったであろうバルトークは、その音楽の力で、熱望していた平和なハンガリーにショルティらによって戻された。音楽に書きこまれたメッセージはきちんと音楽家たちに通じたのだな、と思う。

写真はロシアで撮ったガガーリンのいた宇宙施設。ちょっと分かりづらかった。


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