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VOSOT ぼそっとプロジェクト
ぼそっとつぶやくトラウマ・サバイバーたちの生の声...Voice Of Survivors Of Trauma

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貧困と人づきあい(87)」からのつづき・・・
by ぼそっと池井多

私のような形でひきこもりとして生きていると、
どうしてもメディアの方々とのおつきあいが生じてくる。
そのなかには、国外のメディアも含まれる。

マリコさんは、
日本のひきこもりを取材しにオランダからやってきた
映画監督アレクサンダー・ウイさんの通訳として
私の前にあらわれた。

マリコさん(左)とウイ監督(右)

名前からして日本人だと思っていたが、
会ってみると、
考え方や仕草はヨーロッパ人女性のそれである。

本ブログの読者の皆さまはご存じの通り、
私はなんでもかんでも日本社会が悪いという論になっていくのを好まないので、
彼女の話には首をかしげる箇所もあるが、
マリコさんのお話を聞いていると、
とても面白いのである。

ウイ監督と二人して、
ひきこもりである私の話を聞き出しているよりも、
通訳であるマリコさん自身の話を映像化したほうが
面白いんじゃないかと思われるほど、面白い。

そこで、当初インタビューされる側だった私は、
さっそく立場を逆転させ、
ウイ監督をそっちのけにして、
マリコさんを逆取材しはじめたのであった。




マリコ うちの父親はけっこう変わっていて、
祖母の話によると、
父は大学生のころから
「本物の英語が聴きたいから」
と言って、
お弁当をもって成田空港へ出かけて行って、
ずっと一日そこで生の英語を聴いてたんだそうです。

それで、二十何歳かのときに
独りでアメリカへ旅行に行ったらしい。
向こうで何をしたのか知らないけど、
そのままアメリカの新聞に載るくらいアクティブな人でした。

父は次男なので、
何かと家の束縛がなく自由だったのでしょう。
そして、あまり表に出さないけれど、
何か日本に違和感を持っていたのだと思います。

ぼそっと お母さまはどういう方でしたか。

マリコ 母は、オランダでも村落部である南部の出身です。

スペイン語を勉強しようと思い立って、
ある夏休み、スペインへ短期の語学留学をしました。
そうしたら、同じ教室に日本からやってきた父がいて、
二人は恋に落ち、
結婚することになったというわけです。

結婚式を、日本とオランダで2回やって、
はじめは二人でオランダに住もうとしたらしい。
でも、時は1970年代後半、
日本の方が経済環境は良く、
仕事も見つけられやすい状態でした。

そこで二人して日本にやってきた、
あるいは帰ってきた、というわけです。

ぼそっと お母さまにしてみると、それが初めての日本ですか。

マリコ いいえ、2度目だったそうです。
でも、そのまま移住ですから、
思い切りもありました。

当時はまだ航空券が高く、
そんなに何度もヨーロッパと日本を
行ったり来たりできなかったので、そうなったのでしょう。

幸い、母は日本へ来て
すぐに東京のオランダ大使館で仕事が得られました。
だから、日本に暮らしながら、
半分オランダ人社会で暮らすような日々を
送ることができたようです。

その点、母にとっては
異国での暮らしに独りストレスを抱えこむことにならず、
よかったんじゃないですかね。

多言語が行き交う家庭環境

ぼそっと マリコさんが生まれたのはいつですか。

マリコ 1983年です。

私、妹がいるんですけれども、
両親が働いていたので、
私も妹も、日本のふつうの保育圏に入れられました。
だから、二人ともふつうに日本語が話せるようになりました。

ぼそっと ふつうの日本人の家庭に育った者は
みな関心を抱くと思うのですが、
マリコさんのような国際的な家庭では、
おうちの中ではみなさん何語でしゃべっているのでしょう。

マリコ 両親の会話は英語です。

夫婦のあいだで、日本語だと父親が、オランダ語だと母親が
それぞれ有利になってしまうので、
二人が対等であるために
会話は英語でおこなうようにしてきたようです。

母と私たち姉妹はオランダ語、
父と私たちは日本語で会話しています。
そして妹と私は日本語。

だから何語で話しているかによって、
誰に向けて話しているかがわかる家族なのです。

でも母親も、
「子どもたちが学校で習ってくることを理解したいから」
と言って、かなり日本語を勉強しました。
私といっしょに漢字検定も受けました。

ぼそっと どういう家庭環境でしたか。

マリコ 父親は大学の職員だったので、
外国の研究者をディナーに招いたり、
家にはよく外国からのお客さんが来ていました。

さらに、さっき言ったように、
母親の仕事の影響で、
オランダ大使館つながりの方たちと多く交流していました。

ぼそっと それで、マリコさんは
インターナショナルスクールへ行かれたんですか。

マリコ いいえ。
両親ははじめ、
私をインターナショナルスクールに入れようとしましたが、
面接試験を受けに行ったら、

「この子は日本語が上手なので、
ふつうの日本の学校のほうがいいんじゃないですか」

とインターナショナルスクールの先生に言われて、
公立小学校へ入れることにしたようです。

それで私は小平市第十小学校に入学しました。

ぼそっと なんと! 

私は1980年代前半、小平市第十小学校から
目と鼻の先にある大学のキャンパスに通っていたのですよ。
下宿のアパートもそのへんにありました。

私は、幼児だったマリコさんを見ているかもしれませんね。

そういえば、何回か
ヨーロッパ人のお母さんと道ですれちがった記憶もあるな。・・・


子どもが掃除をさせられる日本の小学校

ぼそっと 日本の小学校生活はいかがでしたか。

マリコ 小学校では、
母親が外国人だから、
やはり多少のイジメみたいなことがありました。

あのころ、小平市のあたりは
外国人人口がほとんどいなかったので、
子どもの私が道を歩いていると

「あ、ガイジンだ」

と言われましたね。

でも、保育園から小学校までは、
概してとても愛のある成育環境で、
すばらしい先生にも恵まれました。

小学校のころ私は、
ガイジンと言われるのがいやで、

「異質な存在になりたくない。みんなに同化したい」

と思って、
いっしょけんめいに日本人っぽくふるまおうとしていました。

ぼそっと へえ。それはそれで大変だったでしょう。

マリコ ええ。
でも母も、私の学校生活のことで苦労していたようです。

小学校では、学校に命じられて、
お母さんがアップリケとか雑巾を
縫ったりさせられるじゃないですか。

私も不器用なんですけど、
母親も手の込んだことができない。

みんな他の子が持ってくる雑巾は、
器用な日本のお母さんが縫ったものらしく、
小さくまとまっていて、
なかには刺繍がされているものもありました。

でも、私が学校へ持ってくるのは、
不器用なうちの母親が作ったものなので、
でっかくて、無地で。
……それを馬鹿にされたりしていました。

オランダの学校では、
親が雑巾を縫わされるなんてことはありません。
児童は、学校の掃除なんかしないので。

学校の掃除には、清掃人が雇用されています。

ぼそっと なるほど。児童生徒に掃除をさせないことが、
オランダでは国の雇用政策にもなっているというわけですね。

マリコ 児童生徒がやらされる日本の学校の掃除って、
掃除としてもあんまり意味ないですよね。
汚い雑巾で何度も同じ所をなぞったところで、
きれいにはならないし。

あれはただ単に、
「皆でそういう労働をやっています」
というポーズを取るための日常行事でしょう。

それに、
「上から言われたことは、おとなしく黙って従う癖をつける」
ということを、
児童生徒にすりこむための因習なのだと思います。





・・・「貧困と人づきあい(89)」へつづく

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やっぱり今日もひきこもる私(127)」からのつづき・・・
by ぼそっと池井多


「日本の社会が悪い」

という論に落としこむことは「万能アプリ」であり、
あんまり使いすぎるとかえってよくない、
ということを書かせていただいた。

もちろん、私がこのことに言及したのは、
川崎・練馬の事件が投げかけたものは、
はたして「日本の」社会の問題であるのか、
という意識があるからである。

以下、6月30日の緊急シンポジウムで
講演させていただいた内容を少し深堀りしてみる。

「日本の社会」という概念は、
日本を単位とすれば、最大の「社会」であるが、
世界レベルですべての人類を対象とすれば、
地球の表面で日本という小さな一画を主な舞台とした
「小さな社会集団」
であるといえる。

そう考えると、川崎・練馬の事件からつらなる
いま私たちが議論している現象は、
日本という小社会集団の特徴を語るものというよりも、
むしろ人間世界の普遍ともいうべき何かを
示しているのではないだろうか。

疑問に思った私は、
GHO(世界ひきこもり機構)を通じて
世界のひきこもりの皆さんに質問を投げかけてみた。

「あなたの国では、
ひきこもりは犯罪者予備軍と考えられることはありますか」

すると、回答を寄せてくれたひきこもりたちの中は、
どこの国の人も、
「そういうことはある」
というのである。

もちろん、回答してくれないメンバーが大半であり、
「そういうことはない」
という人は回答しないかもしれないから、
それを以って、
「どこの国にもある」
と結論づけることなどできないだろうが、
それでも少なくとも、
日本の社会だけではないということが明らかになったのである。

やはり、どこの国でも、
ひきこもりでない人たちが社会を動かしている。

ひきこもりは、社会を動かす一線から引いているから
ひきこもりである、という一面がある。

それは、ひきこもりが
部屋から出なくても、出ても、同じである。

たしかに、最近のように
ひきこもり当事者の発信がさかんになり、
林恭子さんたちのように
一国の大臣とも会って話をするようになる(*1)と、

「ひきこもりが社会を動かしている」

という言い方もできるかもしれないが、
それは大方のひきこもりの属性ではない。



むしろ、「窮鼠、猫を噛む」といった流れで、
いまは例外的にそうなっている、ということではないか。


そのように、たいがいは
ひきこもりでない人たちがどこの国の社会も動かしている。

となると、
ひきこもりはどこの社会でも異質な存在とされることになる。

ひきこもりは異端者であり、
ひきこもりはアウトサイダーであり、
ひきこもりは反市民になるのである。

そのように、社会の表に見えている人たちではないから、
気味悪がられる。
ひきこもりは「見えない人口層」と呼ばれる。
見えないものは気味悪いのである。

社会の表に出ている「一般市民」たちは、
たしかに「見えている」人たちかもしれないけれども、
彼らが見せているのは、
たいてい嘘の姿である。

一般市民たちは、嘘の姿を見せることで、
自分が異端ではないことを訴え、
社会に恭順の意を示し、
他者の嘘の姿を信じるふりをすることで、
自らの嘘が暴露されないように立ち回るのである。

その共謀に加担しないのがひきこもりである。

嘘の姿を見せるくらいなら、
姿そのものを見せないほうがよい、
とひきこもりの私などは考えるわけだが、
一般の市民たちは、
たとえ嘘でも見えているほうを信じるらしい。

それで、ひきこもりは犯罪者予備軍のように見なされていく。

そして追い詰められるから、
じっさいに凶悪な事件を起こす。






ニュージーランドのひきこもりから回答があった。

彼の地では、
「あいつはずっとひきこもっていて、おかしい」
と色眼鏡で見られ、
その村からいじめを受けた中高年のひきこもりが、
ある日暴発して、拳銃を乱射したという。

向こうは包丁のかわりに拳銃が出てくるわけだ。

現地の新聞は、
その容疑者のことをhermit(隠者)と表現したらしいが、
これはようするに、

「容疑者はひきこもりでした」

という日本の報道と同じではないか。

hikikomori(ひきこもり)というローマ字つづりの日本語は、
たしかにこんにちまでに国際語になっているけれども、
海外においては一般人に通用しているとはいいがたい。

そこでhermit となったのであろう。

いっぽうイタリアでは、
大家族のなかで、周囲から圧力をかけられたひきこもりが、
家族みんなで呑む紅茶に毒を入れて、
皆殺しを図ったという事件があったそうである。

鹿児島県日置市の事件を連想させる。






凶悪な事件が起こるたびに、
人はその凶悪の元となった何かを、
自分の「外」に見いだそうとする。

自分の「内」に、
そのような恐ろしい凶悪の元があるとは、
人はあまり考えたくないのである。

だから、「外」に見いだす。
自分が持っていない属性に、
それらの原因を帰してしまおうとする。

こういう無意識の選択は、
日本社会の問題ではなく、
人間世界の普遍だということである。

中世ヨーロッパでは、何か事件が起こるたびに、
「あれはユダヤ人がやった」
「あれは魔女がやった」
という話になっていた。

日本の近現代史を見ても、
それと同じ構造で、
在日朝鮮人、被差別部落、おたく、ハケンといった
マジョリティから外れた小さな集団に、
さまざまな罪がなすりつけられた。

それでは、そのように罪がなすりつけられる、
マイノリティの集団の中の人々は、
まったくそのような罪をおかすことのない、
まちがったことを一つもしない、
絶対的に清く正しく美しい人たちなのであろうか。

そんなことはないだろう。

人間である以上、
マジョリティの一般市民と同じように、
迷いや濁りを持っているだろうし、
いろいろな過ちもおかすだろう。

たまには悪いこともするだろう。
私なんぞは、しょっちゅう悪いことをしている。


ひきこもりが「清く正しく美しい存在」であると
アピールすることによって
ひきこもりへの偏見を止めようとすると、
ひきこもりたちが自分の本来の在り様を
偽らなくてはならなくなる。

せっかく
「嘘の姿を社会に見せるくらいなら、姿そのものを見せない」
という選択をしてひきこもっているのに、
ひきこもっている部屋のなかで
嘘を強いられることになってしまう。

それは苦しい。

だから、ありていに言えば、

「ひきこもりは、清く正しく美しいわけではないけれども、
 差別されることがあってはならない」

という論を唱えなければならないのである。






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支援者だった私(7)片隅の彼<2>」からのつづき・・・
by 鈴木良太


高校を卒業後、
彼は都内の有名な私大に進学したが、
三年になっても四年になっても、
就職活動をすることができなかった。

卒業後も仕事に就くことができず、
翌年とその翌々年、公務員試験に挑戦したが、
筆記は通っても、面接で躓き、
結局採用に至ることはなかった。

バイトや派遣で働こうとしても、
彼の場合、どこへ行っても
面接で断られてしまうのだという。

就職活動もできず、公務員試験にも失敗し、
バイトや派遣の仕事にすら採用されず、
彼は徐々にひきこもりがちな生活を送るようになっていった。

彼との出会いを語るためには、
些か紙幅を割かなければならない。

多分今からもう十年近く前のことだ
(正確な年数は、本来であれば
ちょっと調べればすぐに分かる筈だが、
ある事情があって今の私にはそれができない。
また同じ事情から私は今この文章を書くに当たって、
私の記憶以外の一切を頼りにすることができない。

以下当時のことを
できるだけ正確に書くことを旨として行きたいが、
私の思い違いから、あるいは、記憶の混乱から
以下の文章には細かいところに些か
正確さを欠くことがあるかも知れないことを、
ここでお断りさせて頂く)。






その年の春、
青少年の健全育成を目的としたある財団法人が、
不登校やひきこもりの若者たちのための
自助グループを立ち上げることになった。

その財団は以前から、
そういった若者たちのための電話相談をやったり、
親を対象とした勉強会や
シンポジウムなどを催していたりしていたらしいが、
それが今度新しく自助グループを立ち上げることになった。

それらを通じて、
再び社会と関わろうとする若者たちの受け皿を作るためだった。

私の伯父が学習塾を経営する傍ら、
七、八年前から不登校やニートやひきこもりなどの
若年者の支援を行う「南国若者支援センター」という
NPO法人を運営していた。

伯父は一応「教育者」として、
まだ彼らが「登校拒否」と呼ばれているような時代から、
不登校の子供たちの世話をしていたらしいが、
そうした人の中には、
学齢期の間に学校に戻ることができずに、
そのまま成人に達してしまった人も少なくなかった。

「南国若者支援センター」は
そういう若者たちの支援を行うNPO法人で、
JR大塚の駅の傍にある古いマンションの一室を拠点に
「居場所」というのを中心に活動を続けていた。

「居場所」というのは
社会的にどこにも行き場所のない青年たちのための
文字通りの居場所で、
午後一時から六時まで、
会員登録した人であれば誰でも
好きな時間に出入りすることができるらしかった。

普段は会員登録をしたメンバーたちが集まって話をしたり、
ゲームをしたりしていたが、
時には食事会のようなものをやったり、
フリーマーケットに出店したり、
様々な福祉施設でボランティアをしたり、
フットサルの大会に参加したりすることもあるそうだ。

ほかにも、
会員の書いた詩や手記のようなものが掲載された
「みなみかぜ」という会報を月に一度発行したり、
会員の親御さんたちが講師になって
ビジネスマナー教室などを開講したりしていた。






その南国若者支援センターに
例の財団から今度立ち上がる自助グループのための
スタッフを派遣して欲しいとの依頼があったのは
その年の五月のことだった。

財団が南国若者支援センターに目を付けたのは、
その自助グループのスタッフとして、
ひきこもりの経験者がどうしても必要だったからだ。

妙な条件だが、
あくまで建前が「自助グループ」だから、
どうしてもひきこもりの経験者を揃える必要があったらしい。

南国若者支援センターは
小規模なNPO法人ながら、
財団から規模の割には少なくない額の補助金を貰っていたため、
その話を無下にはできなかった。

その年の春に、
私は大学を卒業してから
SEとしてずっと勤め続けていたある会社を辞め、
それから、読書をしたり、DVDを観たり、
毎日のんびりと好きなことをして過ごしていた。

離職後は、一応は求職中ということにしておいたが、
失業保険もそれなりの蓄えもあったので、
慌てて仕事を探す必要はなかった。

私が勤め出したのは
九十年代終わりのちょうど就職超氷河期と言われていた頃で、
同年代の中には
今でも厳しい雇用環境の中で働かされている者も少なくない。

正直に言えば、
仕事を辞めた当初は職場への未練や、
将来の不安といったものが、
まるでない訳ではなかった。

何より特に思い当たる理由もないのに、
仕事を辞めてしまうことに、
多少なりとも後ろめたさのようなものを感じていた。

が、仕事を辞めてから、
すぐにも私は昼近くに目を覚まし、
それから一日読書やDVD鑑賞をして過ごす
という生活を楽しむようにもなっていた。

一方で、私はどうせそんな生活は長くは続かず、
一ヶ月もすれば、
また嫌でも何か仕事を始めるだろう
と割と冷めた目で自分のことを眺めてもいた。

が、それから、
二ヶ月が過ぎ、三ヶ月が経っても、
私は一向に動こうとはしなかった。

その間、これから起業をするという友人からの誘いもあったが、
私はそれをも断っている。

どうもそうした生活は
思っていた以上に私の肌に合っていたようだ。
そして、そうした生活を続けている内に、
仕事を辞めた当初感じていた
後ろめたさのようなものは徐々に消えていった。

SEの仕事は過酷だった。
忙しい時には何日も、
場合によっては何週間も
会社に泊まり込むことなど当たり前だった。
その頃の方が余程不自然なことのように思えた。

春を終え、夏を迎えても、
私は相変わらず読書やDVD三昧の日々を送っていた。
梅雨が明けた頃からは、
特に意味もなく、
通信教育で行政書士や土地家屋調査士の勉強など、
およそ私の将来と関係のなさそうな資格の取得を
目指したりしては喜んでいた。








もう十五年以上顔を見ることもなかった伯父から
電話が掛かってきたのは、
そんなある日のことだった。

私がそうした優雅な
(その頃には私はもう
自分の生活をそう考えるようになっていた)
生活を送っているのが、
ある時伯父の耳に入ったらしい。

伯父夫婦と、私の両親は仲がよいとは言えないから、
私がそんな生活をしているのが、
どこでどうやって、伯父の耳に入ったのか、
分からなかったが、
伯父は電話でそんな生活を送っているのなら、
自分の仕事を手伝うようにと私に言った。

伯父がずっと以前から非行少年の更生に尽力したり、
学習塾の経営をしたりしていたことは知っていた。

だが、ひきこもりを支援するNPO法人を運営しているとは、
その時まで知らなかった。

伯父に彼と付き合いのある財団と、
それに絡んで今度始まる
ひきこもりの自助グループの話を聞かされたのも
その時のことだった。

それも伯父は適当な人材が見当たらないから、
私にその自助グループのスタッフをやれと言う。







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やっぱり今日もひきこもる私(126)」からのつづき・・・
by ぼそっと池井多


6月30日におこなわれた
緊急シンポジウム「ひきこもりとメディア」において、私は

「社会が悪い」

というところへ
シンポジウム全体の結論が落としこまれるのは避けたいと思い、
講演ではまず、そういうことを申し上げた。

なぜならば、

「社会が悪い」

というのは、どんなつまらない論や言葉も
一見りっぱなコメントに仕立て上げられてしまう
「万能アプリ」
なのである。

むろん、日本で
日本のひきこもりについて語っているシンポジウムであるから、
「社会が悪い」
といえば、それは
「日本の社会が悪い」
ということを意味する。

しかし、どうなのか。

私はべつにネトウヨでも保守的愛国主義者でもないが、
なんでもかんでも
「日本の社会が悪い」
というところへ持っていき、
それで泰然自若としている論者たちに違和感をおぼえるのである。


最近は、フォトショップを初めとした
画像加工アプリが進化して、
どんなつまらない写真も、
指先一本、あるいはクリック一発で
それなりに美しい写真に仕立て上げられてしまう。

なにやら、そこには
「美のインフレ」
が起こっているようにも感じる。

そのように美しくなった写真は、
たとえ視覚的に美しくても、
なんとなく美を感じないことがある。

「どうせフォトショでいじったんでしょ」

と、なにやら白けた気分で見るだけである。








同じようなことが言論の世界でも起こる。

「社会が悪い」

というのは、万能の言論加工アプリなのである。


「ラーメン屋で頼んだラーメンが出てくるのがおそい。
 これは日本の社会が悪い」

「恋愛をしたいのに、いい人との出会いがない。
 これは日本の社会が悪い」

と持っていけば、
それだけで何でもいっぱしの論が組み立てられてしまう。

もちろん、本人が
本心からそう考えて、考えたことを苦労して言葉にして、
その結果、そう発言している場合はそれでよいが、

「『社会が悪い』に落としこめばなんとかなる」

ということを経験的に知っていて、
それを小ずるくアプリとして使用している論者は、
やはりちょっといただけないといえよう。

川崎・練馬の事件も

「(日本の)社会が悪い」

というところへ持っていこうとすれば、
いくらでもそのように語れるのだが、
安易にそこへ持っていく前に
もっと切実に語っておくべきことがあるのではないか。

そう考えたものだから、
シンポジウムの前のほうにあった私の講演では、
まずはそういう話をさせていただいたという次第である。

そのせいかどうかわからないが、
幸いにも、そのような薄っぺらな議論は
シンポジウムでは最後まで出なかったように思う。

やはり、発言者の皆さんの問題意識が深かったのだろう。




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やっぱり今日もひきこもる私(125)」からのつづき・・・
by ぼそっと池井多


でお伝えした

緊急シンポジウム
「ひきこもりとメディア」
〜「容疑者はひきこもりでした」報道をめぐって〜

イメージ 1


が、おととい6月30日に
筑波大学 東京キャンパスにおいて行われた。

当初は、情報の発表後、わずか1日半で
申し込みが定員いっぱいになってしまい、
多くの方々から

「早すぎる」

という声をいただいた。

それもそうである。

だいたい、ひきこもりである私の感覚からすると、
何かの情報告知があって、

「行こうかな、どうしようかな」

などとグズグズ考える時間が一週間は欲しいものだ。

それが1日半で売り切れになってしまうとは、
世間の流れの早さを思い知らされるとともに、
やはりこのテーマに関する
社会の関心の高さがうかがわれた。

そのうち、当日が近づくにつれ、
梅雨時で体調が悪い人たちのキャンセルが出て、
あらたに「メディア枠」が設定されるなどして、
結果的には、当日に会場にいらした方は
ほぼ全員入れたようである。

メディア側から出席した元NHKアナウンサーで
現フリージャーナリストの堀潤さんは、
当日の昼食まで韓国にいたらしく、
飛行機で飛んで帰ってきて、
羽田から直行で、開始時間ぎりぎりに駆けつけてくれた。

精神科医の斎藤環さんは、
講演がダブルブッキングしてしまったとかで、
他の会場での講演を終わらせるやいなや、
首都高速をタクシー飛ばして駆けつけ、
なんとか後半3分の1ぐらい登壇してくれたのであった。

かくいう私は、まず前半で講演をさせていただき、
後半は、ほかの登壇者の方々とともに
パネラーを務めさせていただいた。

翌日の夕方には、
すでに一部のメディアで様子が報道された。

以下、神奈川新聞から。

イメージ 2

*1. 神奈川新聞 カナロコ
2019.07.01  17:00


以下、上記の記事からの抜粋。

チームぼそっとのぼそっと池井多代表は、以前、当事者が主体的に取り組む活動がテレビで紹介された際に「引きこもりがみじめで愚かなように演出されている」と感じ、抗議したエピソードを紹介。「家の奥で体育座りをしながらゲームばかりしている若い男」という一般的なイメージをひっくり返すような番組は「流せない」と言われ、報道が「間違ったイメージを温存して再生産している」と指摘した。

さらに「凶悪な事件が起こるたび、原因を自分の外に求めたくなる。そして古今東西、マイノリティーが罪をなすりつけられており、現在はそれが引きこもりになっている」と述べた。

私が講演で申し上げたことも、
よくまとめていただいている。

ただし、
「ひきこもりへの偏見の助長を抑制する」
ために、
「清く正しく美しいひきこもり」
が語られていくことによって、
「自分も犯罪者予備軍だ」
と自覚するような当事者層がかかえている問題に、
社会の光が当たらなくなってしまうような事態は好ましくない、
という私の後半のポイントが
どうも伝わっている感じがしない。

それは、もしかしたら私の伝え方が悪かったのだろうか。

じつは、観客席の前のほうに潜むタイムキーパーから

「あと5分」

という表示を出され、
予定より遅れていると感じた私が
後半を少しばかり早送りしてしまったのである。

複雑な内容だけに、
そこはもっと丁寧に語るべきであった。
今後の課題として持ち越すことになるだろう。




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