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ぼそっとつぶやくトラウマ・サバイバーたちの生の声...Voice Of Survivors Of Trauma

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やっぱり今日もひきこもる私(128)」からのつづき・・・
by ぼそっと池井多


6月30日におこなった緊急シンポジウムのことを
先週、弁護士ドットコムニュースでも取り上げていただいた。

イメージ 1



弁護士ドットコムニュースというウェブ・メディアは、
裁判関係のニュースを法曹人の観点から流している
一種の専門誌かと思っていたら、
けっこう一般誌のような記事も
たくさん配信しているようである。

ただ、法曹人の方で、
私たち「ひきこもり」の問題に詳しい人は、
そんなにいない、ということもあるためか、
取り上げ方としては非常に初歩的という印象であった。

たとえば、

立ち上がった「ひきこもり」当事者……

というタイトルである。

これは記事を書いたフリージャーナリスト
有馬知子さんの言葉ではなく、
当該誌の編集部が決めたものだという。

うん、なるほど、「立ち上がった」。

たしかに間違いではないし、
そのように取り上げてくれたのは嬉しいけれど、
私たちひきこもり界隈からしてみると、
なにやら「いまさら感」がぬぐえない。

私たちはもっと前から「立ち上がっ」ているのである。


ひきポスが立ち上がったのが2017年。

ひきこもり新聞が立ち上がったのが2016年

ぼそっとプロジェクトが立ち上がったのが2013年。


もっとも、私たちぼそっとプロジェクト立ち上がった当初は、
齊藤學(さいとう・さとる)という精神科医が、
私たち患者の声を
自分の業績に都合のよいように勝手に改変して
社会に発信しているのを見て、

「これは、とんでもないことだ」

と、それに抗して、

「精神科の患者」「精神医療の消費者」

という当事者性を軸に「立ち上がった」のであった。

そのため、こんにちのように
「ひきこもり」という当事者性を
発信の基盤としていたわけではない。

しかし、いまも多くのひきこもり当事者が
精神医療で被害を受けている実態をかんがみると、
二つの当事者性はじっさいにはそれほど離れておらず、
当事者発信ということで
そこはたしかにつながっているのである。








さて、緊急シンポジウム「ひきこもりとメディア」で
私が申し上げたことは、
このようにまとめることができるだろう。


ひきこもりへの偏見の助長を
抑制することを呼びかけるのと同時に、
ひきこもり当事者のなかに加害者に共振してしまう層がおり、
そこにこそ日本のひきこもり問題の深部が
埋まっていると言えるだろう。

そこに日本のひきこもり問題で
いちばん困っている人たちが
暗闇で呻吟しているものと思われる。

いちばん困っている人たちの問題に
光を当てない問題提起として、
今回の私たちの発信が終わってしまっては
あまり意味がないわけで、
そこをどうするかが
今後の中長期的な課題である。


しかし、私が申し上げている主旨の
とくに後半の部分は
なかなかメディアで取り上げていただけない。

それだけ複雑なことを言っているから、
メディアとして取り上げにくい
ということがあるのだろう。

メディアの役割として、
視聴者・読者に「わかりやすさ」を提供する
という仕事があるという。

この社会はわかりにくい。

社会で起こっていることは、わかりにくい。

それらを、わかりやすく伝えることが
メディアの仕事の一つである、とされている。

「あ、そうか。そういうことか。わかった」

と視聴者・読者が
何やら腑に落ちた気分になれる報道が
望まれている、というのである。

しかし、そのために多くのメディアは、
「わかりやすさ」を重視するあまり、
重要な深部を省略してしまう。

ひきこもりは、もともと矛盾と葛藤の行為であり、
始まりからして、「わかりやすくない」。

これを「わかりやすい」として報道しようとするから、
どこかをそぎ落とさなければならなくなる。

私が申し上げている後半が
メディアに取り上げられないのは
そうした理由によるものだろう。

また、私が訴えている精神医療の被害も、
「治療転移」という、
その中に入らないとわからない現象に基盤を置くものであって、
精神医療と深く関わりをもたない一般人にとっては
大変わかりにくい構造をしているので、
同じ理由によって
なかなかメディアには取り上げていただけない。

「ざまあみろ。
 私はそこまで計算に入れて動いているんだ」

と、理事長椅子にふんぞり返って豪快に笑っている
わが精神科医の顔が目に浮かぶようである。



#齊藤學被害 #精神医療被害 #精神療法被害




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からのつづき・・・
traduit par ぼそっと池井多


ぼそっと池井多 あなたのひきこもりは十代で始まったのですね。
どのように始まったのか、
もっと詳しく教えてくれませんか。

そのときあなたは、いくつでしたか。
そして、いまはおいくつですか。
レディに齢を訊くのは失礼だとは知っていますが、
私はさほど文明化された紳士ではないので、
そこはお許しいただいて、どうぞ訊かせてください。

あ、それから、
一日のうちどのような時間帯で睡眠をとっているか、
ということについても。

ジョセフィーヌ 私が今のような生き方を選んだのは、
十七歳の時のことでした。
他者に命令されて動くことを
いっさい拒否してやろうと決心したのです。
いま思えば、それは私の人生の中でおこなった最良の選択でした。

私の生活サイクルは非常に不安定です。
モルペウス(*1)の腕の中で一日を過ごすことがあるかと思うと、
三時間から四時間という短い周期で
寝たり起きたりすることもあります。


*1.モルペウス(Morpheus) ギリシャ神話に登場する夢の神。
ジョセフィーヌは、ここだけフランス語でなくラテン語で書いている。
いうまでもなく、ヨーロッパ人にとってラテン語は
やや衒学的な古典の言葉である。


ぼそっと池井多 人生で最良の選択をした背景には、
どんな考えがあったのですか。

奴隷の胸像 Photo:Pixabay


ジョセフィーヌ 繰り返しになりますが、
私から見ると、賃金労働とは奴隷制の一つの形式にすぎません。
なぜならば、それはつねに誰か他人に奉仕するために、
自分の人生の時間とエネルギーを
犠牲にしなくてはならないからです。

そんなことは、まったくバカげています。
人はだれしも自分の時間とエネルギーを
自分のために使うべきです。

たとえあなたが、
あなたにしかない感覚と独自性を持った
有能で貴重な人間であったとしても、
資本主義社会の中では、
あなたからそういう部分がすべて捨象され、
ただのロボット化された奴隷として、
抗うことのできない専制的な階層に隷従させられます。
それは上下に非対称な階層であり、明らかに不平等です。

私たちが住んでいる冷酷な社会では、
私たちは皆、使い捨て製品のような空っぽな殻であり、
悲しいことに
個々に性格がまるで異なるクローンたちであるにすぎません。

自殺とうつ病が、
これほど高い率で起こるということは、
それはとりもなおさず、
私たちが本質的に病んだ社会に住んでいるからでしょう。

私は、そのように私から
人間性を剥奪する社会で生活することは拒否します。

彼らの術中にはまってしまったら、
知的にも人間的にも、もはや成長はありません。

だから、私は誰からも命令は受けません。
誰かから命じられて仕事をすることはいっさいありません。

そういうふうに生きていこう、
と決めたのが十七歳の時でした。


ぼそっと池井多 きっとあなたはそういう面で
早熟な女性だったのでしょう。

私が、自分の人生を真剣に考え始めたのは、
就職先が決まった二十三歳の時でした。
しかし、どうやらあなたはそれを十七歳で通過している。
そのとき、あなたは高校生だったのですね。
高校は卒業したのですか。






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貧困と人づきあい(87)」からのつづき・・・
by ぼそっと池井多

私のような形でひきこもりとして生きていると、
どうしてもメディアの方々とのおつきあいが生じてくる。
そのなかには、国外のメディアも含まれる。

マリコさんは、
日本のひきこもりを取材しにオランダからやってきた
映画監督アレクサンダー・ウイさんの通訳として
私の前にあらわれた。

マリコさん(左)とウイ監督(右)

名前からして日本人だと思っていたが、
会ってみると、
考え方や仕草はヨーロッパ人女性のそれである。

本ブログの読者の皆さまはご存じの通り、
私はなんでもかんでも日本社会が悪いという論になっていくのを好まないので、
彼女の話には首をかしげる箇所もあるが、
マリコさんのお話を聞いていると、
とても面白いのである。

ウイ監督と二人して、
ひきこもりである私の話を聞き出しているよりも、
通訳であるマリコさん自身の話を映像化したほうが
面白いんじゃないかと思われるほど、面白い。

そこで、当初インタビューされる側だった私は、
さっそく立場を逆転させ、
ウイ監督をそっちのけにして、
マリコさんを逆取材しはじめたのであった。




マリコ うちの父親はけっこう変わっていて、
祖母の話によると、
父は大学生のころから
「本物の英語が聴きたいから」
と言って、
お弁当をもって成田空港へ出かけて行って、
ずっと一日そこで生の英語を聴いてたんだそうです。

それで、二十何歳かのときに
独りでアメリカへ旅行に行ったらしい。
向こうで何をしたのか知らないけど、
そのままアメリカの新聞に載るくらいアクティブな人でした。

父は次男なので、
何かと家の束縛がなく自由だったのでしょう。
そして、あまり表に出さないけれど、
何か日本に違和感を持っていたのだと思います。

ぼそっと お母さまはどういう方でしたか。

マリコ 母は、オランダでも村落部である南部の出身です。

スペイン語を勉強しようと思い立って、
ある夏休み、スペインへ短期の語学留学をしました。
そうしたら、同じ教室に日本からやってきた父がいて、
二人は恋に落ち、
結婚することになったというわけです。

結婚式を、日本とオランダで2回やって、
はじめは二人でオランダに住もうとしたらしい。
でも、時は1970年代後半、
日本の方が経済環境は良く、
仕事も見つけられやすい状態でした。

そこで二人して日本にやってきた、
あるいは帰ってきた、というわけです。

ぼそっと お母さまにしてみると、それが初めての日本ですか。

マリコ いいえ、2度目だったそうです。
でも、そのまま移住ですから、
思い切りもありました。

当時はまだ航空券が高く、
そんなに何度もヨーロッパと日本を
行ったり来たりできなかったので、そうなったのでしょう。

幸い、母は日本へ来て
すぐに東京のオランダ大使館で仕事が得られました。
だから、日本に暮らしながら、
半分オランダ人社会で暮らすような日々を
送ることができたようです。

その点、母にとっては
異国での暮らしに独りストレスを抱えこむことにならず、
よかったんじゃないですかね。

多言語が行き交う家庭環境

ぼそっと マリコさんが生まれたのはいつですか。

マリコ 1983年です。

私、妹がいるんですけれども、
両親が働いていたので、
私も妹も、日本のふつうの保育圏に入れられました。
だから、二人ともふつうに日本語が話せるようになりました。

ぼそっと ふつうの日本人の家庭に育った者は
みな関心を抱くと思うのですが、
マリコさんのような国際的な家庭では、
おうちの中ではみなさん何語でしゃべっているのでしょう。

マリコ 両親の会話は英語です。

夫婦のあいだで、日本語だと父親が、オランダ語だと母親が
それぞれ有利になってしまうので、
二人が対等であるために
会話は英語でおこなうようにしてきたようです。

母と私たち姉妹はオランダ語、
父と私たちは日本語で会話しています。
そして妹と私は日本語。

だから何語で話しているかによって、
誰に向けて話しているかがわかる家族なのです。

でも母親も、
「子どもたちが学校で習ってくることを理解したいから」
と言って、かなり日本語を勉強しました。
私といっしょに漢字検定も受けました。

ぼそっと どういう家庭環境でしたか。

マリコ 父親は大学の職員だったので、
外国の研究者をディナーに招いたり、
家にはよく外国からのお客さんが来ていました。

さらに、さっき言ったように、
母親の仕事の影響で、
オランダ大使館つながりの方たちと多く交流していました。

ぼそっと それで、マリコさんは
インターナショナルスクールへ行かれたんですか。

マリコ いいえ。
両親ははじめ、
私をインターナショナルスクールに入れようとしましたが、
面接試験を受けに行ったら、

「この子は日本語が上手なので、
ふつうの日本の学校のほうがいいんじゃないですか」

とインターナショナルスクールの先生に言われて、
公立小学校へ入れることにしたようです。

それで私は小平市第十小学校に入学しました。

ぼそっと なんと! 

私は1980年代前半、小平市第十小学校から
目と鼻の先にある大学のキャンパスに通っていたのですよ。
下宿のアパートもそのへんにありました。

私は、幼児だったマリコさんを見ているかもしれませんね。

そういえば、何回か
ヨーロッパ人のお母さんと道ですれちがった記憶もあるな。・・・


子どもが掃除をさせられる日本の小学校

ぼそっと 日本の小学校生活はいかがでしたか。

マリコ 小学校では、
母親が外国人だから、
やはり多少のイジメみたいなことがありました。

あのころ、小平市のあたりは
外国人人口がほとんどいなかったので、
子どもの私が道を歩いていると

「あ、ガイジンだ」

と言われましたね。

でも、保育園から小学校までは、
概してとても愛のある成育環境で、
すばらしい先生にも恵まれました。

小学校のころ私は、
ガイジンと言われるのがいやで、

「異質な存在になりたくない。みんなに同化したい」

と思って、
いっしょけんめいに日本人っぽくふるまおうとしていました。

ぼそっと へえ。それはそれで大変だったでしょう。

マリコ ええ。
でも母も、私の学校生活のことで苦労していたようです。

小学校では、学校に命じられて、
お母さんがアップリケとか雑巾を
縫ったりさせられるじゃないですか。

私も不器用なんですけど、
母親も手の込んだことができない。

みんな他の子が持ってくる雑巾は、
器用な日本のお母さんが縫ったものらしく、
小さくまとまっていて、
なかには刺繍がされているものもありました。

でも、私が学校へ持ってくるのは、
不器用なうちの母親が作ったものなので、
でっかくて、無地で。
……それを馬鹿にされたりしていました。

オランダの学校では、
親が雑巾を縫わされるなんてことはありません。
児童は、学校の掃除なんかしないので。

学校の掃除には、清掃人が雇用されています。

ぼそっと なるほど。児童生徒に掃除をさせないことが、
オランダでは国の雇用政策にもなっているというわけですね。

マリコ 児童生徒がやらされる日本の学校の掃除って、
掃除としてもあんまり意味ないですよね。
汚い雑巾で何度も同じ所をなぞったところで、
きれいにはならないし。

あれはただ単に、
「皆でそういう労働をやっています」
というポーズを取るための日常行事でしょう。

それに、
「上から言われたことは、おとなしく黙って従う癖をつける」
ということを、
児童生徒にすりこむための因習なのだと思います。





・・・「貧困と人づきあい(89)」へつづく

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やっぱり今日もひきこもる私(127)」からのつづき・・・
by ぼそっと池井多


「日本の社会が悪い」

という論に落としこむことは「万能アプリ」であり、
あんまり使いすぎるとかえってよくない、
ということを書かせていただいた。

もちろん、私がこのことに言及したのは、
川崎・練馬の事件が投げかけたものは、
はたして「日本の」社会の問題であるのか、
という意識があるからである。

以下、6月30日の緊急シンポジウムで
講演させていただいた内容を少し深堀りしてみる。

「日本の社会」という概念は、
日本を単位とすれば、最大の「社会」であるが、
世界レベルですべての人類を対象とすれば、
地球の表面で日本という小さな一画を主な舞台とした
「小さな社会集団」
であるといえる。

そう考えると、川崎・練馬の事件からつらなる
いま私たちが議論している現象は、
日本という小社会集団の特徴を語るものというよりも、
むしろ人間世界の普遍ともいうべき何かを
示しているのではないだろうか。

疑問に思った私は、
GHO(世界ひきこもり機構)を通じて
世界のひきこもりの皆さんに質問を投げかけてみた。

「あなたの国では、
ひきこもりは犯罪者予備軍と考えられることはありますか」

すると、回答を寄せてくれたひきこもりたちの中は、
どこの国の人も、
「そういうことはある」
というのである。

もちろん、回答してくれないメンバーが大半であり、
「そういうことはない」
という人は回答しないかもしれないから、
それを以って、
「どこの国にもある」
と結論づけることなどできないだろうが、
それでも少なくとも、
日本の社会だけではないということが明らかになったのである。

やはり、どこの国でも、
ひきこもりでない人たちが社会を動かしている。

ひきこもりは、社会を動かす一線から引いているから
ひきこもりである、という一面がある。

それは、ひきこもりが
部屋から出なくても、出ても、同じである。

たしかに、最近のように
ひきこもり当事者の発信がさかんになり、
林恭子さんたちのように
一国の大臣とも会って話をするようになる(*1)と、

「ひきこもりが社会を動かしている」

という言い方もできるかもしれないが、
それは大方のひきこもりの属性ではない。



むしろ、「窮鼠、猫を噛む」といった流れで、
いまは例外的にそうなっている、ということではないか。


そのように、たいがいは
ひきこもりでない人たちがどこの国の社会も動かしている。

となると、
ひきこもりはどこの社会でも異質な存在とされることになる。

ひきこもりは異端者であり、
ひきこもりはアウトサイダーであり、
ひきこもりは反市民になるのである。

そのように、社会の表に見えている人たちではないから、
気味悪がられる。
ひきこもりは「見えない人口層」と呼ばれる。
見えないものは気味悪いのである。

社会の表に出ている「一般市民」たちは、
たしかに「見えている」人たちかもしれないけれども、
彼らが見せているのは、
たいてい嘘の姿である。

一般市民たちは、嘘の姿を見せることで、
自分が異端ではないことを訴え、
社会に恭順の意を示し、
他者の嘘の姿を信じるふりをすることで、
自らの嘘が暴露されないように立ち回るのである。

その共謀に加担しないのがひきこもりである。

嘘の姿を見せるくらいなら、
姿そのものを見せないほうがよい、
とひきこもりの私などは考えるわけだが、
一般の市民たちは、
たとえ嘘でも見えているほうを信じるらしい。

それで、ひきこもりは犯罪者予備軍のように見なされていく。

そして追い詰められるから、
じっさいに凶悪な事件を起こす。






ニュージーランドのひきこもりから回答があった。

彼の地では、
「あいつはずっとひきこもっていて、おかしい」
と色眼鏡で見られ、
その村からいじめを受けた中高年のひきこもりが、
ある日暴発して、拳銃を乱射したという。

向こうは包丁のかわりに拳銃が出てくるわけだ。

現地の新聞は、
その容疑者のことをhermit(隠者)と表現したらしいが、
これはようするに、

「容疑者はひきこもりでした」

という日本の報道と同じではないか。

hikikomori(ひきこもり)というローマ字つづりの日本語は、
たしかにこんにちまでに国際語になっているけれども、
海外においては一般人に通用しているとはいいがたい。

そこでhermit となったのであろう。

いっぽうイタリアでは、
大家族のなかで、周囲から圧力をかけられたひきこもりが、
家族みんなで呑む紅茶に毒を入れて、
皆殺しを図ったという事件があったそうである。

鹿児島県日置市の事件を連想させる。






凶悪な事件が起こるたびに、
人はその凶悪の元となった何かを、
自分の「外」に見いだそうとする。

自分の「内」に、
そのような恐ろしい凶悪の元があるとは、
人はあまり考えたくないのである。

だから、「外」に見いだす。
自分が持っていない属性に、
それらの原因を帰してしまおうとする。

こういう無意識の選択は、
日本社会の問題ではなく、
人間世界の普遍だということである。

中世ヨーロッパでは、何か事件が起こるたびに、
「あれはユダヤ人がやった」
「あれは魔女がやった」
という話になっていた。

日本の近現代史を見ても、
それと同じ構造で、
在日朝鮮人、被差別部落、おたく、ハケンといった
マジョリティから外れた小さな集団に、
さまざまな罪がなすりつけられた。

それでは、そのように罪がなすりつけられる、
マイノリティの集団の中の人々は、
まったくそのような罪をおかすことのない、
まちがったことを一つもしない、
絶対的に清く正しく美しい人たちなのであろうか。

そんなことはないだろう。

人間である以上、
マジョリティの一般市民と同じように、
迷いや濁りを持っているだろうし、
いろいろな過ちもおかすだろう。

たまには悪いこともするだろう。
私なんぞは、しょっちゅう悪いことをしている。


ひきこもりが「清く正しく美しい存在」であると
アピールすることによって
ひきこもりへの偏見を止めようとすると、
ひきこもりたちが自分の本来の在り様を
偽らなくてはならなくなる。

せっかく
「嘘の姿を社会に見せるくらいなら、姿そのものを見せない」
という選択をしてひきこもっているのに、
ひきこもっている部屋のなかで
嘘を強いられることになってしまう。

それは苦しい。

だから、ありていに言えば、

「ひきこもりは、清く正しく美しいわけではないけれども、
 差別されることがあってはならない」

という論を唱えなければならないのである。






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支援者だった私(7)片隅の彼<2>」からのつづき・・・
by 鈴木良太


高校を卒業後、
彼は都内の有名な私大に進学したが、
三年になっても四年になっても、
就職活動をすることができなかった。

卒業後も仕事に就くことができず、
翌年とその翌々年、公務員試験に挑戦したが、
筆記は通っても、面接で躓き、
結局採用に至ることはなかった。

バイトや派遣で働こうとしても、
彼の場合、どこへ行っても
面接で断られてしまうのだという。

就職活動もできず、公務員試験にも失敗し、
バイトや派遣の仕事にすら採用されず、
彼は徐々にひきこもりがちな生活を送るようになっていった。

彼との出会いを語るためには、
些か紙幅を割かなければならない。

多分今からもう十年近く前のことだ
(正確な年数は、本来であれば
ちょっと調べればすぐに分かる筈だが、
ある事情があって今の私にはそれができない。
また同じ事情から私は今この文章を書くに当たって、
私の記憶以外の一切を頼りにすることができない。

以下当時のことを
できるだけ正確に書くことを旨として行きたいが、
私の思い違いから、あるいは、記憶の混乱から
以下の文章には細かいところに些か
正確さを欠くことがあるかも知れないことを、
ここでお断りさせて頂く)。






その年の春、
青少年の健全育成を目的としたある財団法人が、
不登校やひきこもりの若者たちのための
自助グループを立ち上げることになった。

その財団は以前から、
そういった若者たちのための電話相談をやったり、
親を対象とした勉強会や
シンポジウムなどを催していたりしていたらしいが、
それが今度新しく自助グループを立ち上げることになった。

それらを通じて、
再び社会と関わろうとする若者たちの受け皿を作るためだった。

私の伯父が学習塾を経営する傍ら、
七、八年前から不登校やニートやひきこもりなどの
若年者の支援を行う「南国若者支援センター」という
NPO法人を運営していた。

伯父は一応「教育者」として、
まだ彼らが「登校拒否」と呼ばれているような時代から、
不登校の子供たちの世話をしていたらしいが、
そうした人の中には、
学齢期の間に学校に戻ることができずに、
そのまま成人に達してしまった人も少なくなかった。

「南国若者支援センター」は
そういう若者たちの支援を行うNPO法人で、
JR大塚の駅の傍にある古いマンションの一室を拠点に
「居場所」というのを中心に活動を続けていた。

「居場所」というのは
社会的にどこにも行き場所のない青年たちのための
文字通りの居場所で、
午後一時から六時まで、
会員登録した人であれば誰でも
好きな時間に出入りすることができるらしかった。

普段は会員登録をしたメンバーたちが集まって話をしたり、
ゲームをしたりしていたが、
時には食事会のようなものをやったり、
フリーマーケットに出店したり、
様々な福祉施設でボランティアをしたり、
フットサルの大会に参加したりすることもあるそうだ。

ほかにも、
会員の書いた詩や手記のようなものが掲載された
「みなみかぜ」という会報を月に一度発行したり、
会員の親御さんたちが講師になって
ビジネスマナー教室などを開講したりしていた。






その南国若者支援センターに
例の財団から今度立ち上がる自助グループのための
スタッフを派遣して欲しいとの依頼があったのは
その年の五月のことだった。

財団が南国若者支援センターに目を付けたのは、
その自助グループのスタッフとして、
ひきこもりの経験者がどうしても必要だったからだ。

妙な条件だが、
あくまで建前が「自助グループ」だから、
どうしてもひきこもりの経験者を揃える必要があったらしい。

南国若者支援センターは
小規模なNPO法人ながら、
財団から規模の割には少なくない額の補助金を貰っていたため、
その話を無下にはできなかった。

その年の春に、
私は大学を卒業してから
SEとしてずっと勤め続けていたある会社を辞め、
それから、読書をしたり、DVDを観たり、
毎日のんびりと好きなことをして過ごしていた。

離職後は、一応は求職中ということにしておいたが、
失業保険もそれなりの蓄えもあったので、
慌てて仕事を探す必要はなかった。

私が勤め出したのは
九十年代終わりのちょうど就職超氷河期と言われていた頃で、
同年代の中には
今でも厳しい雇用環境の中で働かされている者も少なくない。

正直に言えば、
仕事を辞めた当初は職場への未練や、
将来の不安といったものが、
まるでない訳ではなかった。

何より特に思い当たる理由もないのに、
仕事を辞めてしまうことに、
多少なりとも後ろめたさのようなものを感じていた。

が、仕事を辞めてから、
すぐにも私は昼近くに目を覚まし、
それから一日読書やDVD鑑賞をして過ごす
という生活を楽しむようにもなっていた。

一方で、私はどうせそんな生活は長くは続かず、
一ヶ月もすれば、
また嫌でも何か仕事を始めるだろう
と割と冷めた目で自分のことを眺めてもいた。

が、それから、
二ヶ月が過ぎ、三ヶ月が経っても、
私は一向に動こうとはしなかった。

その間、これから起業をするという友人からの誘いもあったが、
私はそれをも断っている。

どうもそうした生活は
思っていた以上に私の肌に合っていたようだ。
そして、そうした生活を続けている内に、
仕事を辞めた当初感じていた
後ろめたさのようなものは徐々に消えていった。

SEの仕事は過酷だった。
忙しい時には何日も、
場合によっては何週間も
会社に泊まり込むことなど当たり前だった。
その頃の方が余程不自然なことのように思えた。

春を終え、夏を迎えても、
私は相変わらず読書やDVD三昧の日々を送っていた。
梅雨が明けた頃からは、
特に意味もなく、
通信教育で行政書士や土地家屋調査士の勉強など、
およそ私の将来と関係のなさそうな資格の取得を
目指したりしては喜んでいた。








もう十五年以上顔を見ることもなかった伯父から
電話が掛かってきたのは、
そんなある日のことだった。

私がそうした優雅な
(その頃には私はもう
自分の生活をそう考えるようになっていた)
生活を送っているのが、
ある時伯父の耳に入ったらしい。

伯父夫婦と、私の両親は仲がよいとは言えないから、
私がそんな生活をしているのが、
どこでどうやって、伯父の耳に入ったのか、
分からなかったが、
伯父は電話でそんな生活を送っているのなら、
自分の仕事を手伝うようにと私に言った。

伯父がずっと以前から非行少年の更生に尽力したり、
学習塾の経営をしたりしていたことは知っていた。

だが、ひきこもりを支援するNPO法人を運営しているとは、
その時まで知らなかった。

伯父に彼と付き合いのある財団と、
それに絡んで今度始まる
ひきこもりの自助グループの話を聞かされたのも
その時のことだった。

それも伯父は適当な人材が見当たらないから、
私にその自助グループのスタッフをやれと言う。







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