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当事者活動を考える(29)」からのつづき・・・
by ぼそっと池井多


トウヤク君というひきこもり当事者のことを書いてみたところ、
思いがけず多くの方から反響をいただいた。

反響は、大きく二つのグループに分かれるといえる。

一つめのグループは、
いろいろ枝葉を削ぎ落せば、

「ああいう弱者をよそおう強者には、
誰かがビシッと言ってやらないといけません。

はっきり名前を出して、
ぼそっとさんからガツンと言ってやってください」

というものであり、
もう一つのグループは、

「まるで自分のことが書いてあるように思った。
 読むのがこわかった」

というものである。

それでは、書いている私はどうかというと、

「まるで自分のことが書いてあるように思った

というグループに入るのである。

さすがに自分で書いた文章なので、
「読むのがこわかった」
とまでは行かないけれど。

……。
……。


前回も書かせていただいたように、
トウヤク君と私にはさまざまな共通点があり、
違いはまさに「紙一重」であるように思う。

ところが、何がどう「紙一重」であるのか、
そこがどうもかんたんな言葉にならない。

そして、私と同じように
トウヤク君と自身に共通点を見いだすひきこもり当事者たちが、
これだけたくさんいるということは、
ある意味でトウヤク君は、
ひきこもり当事者というものがすべからく持っている
なにがしかの一面を拡大して、凝縮して、
強烈に持つようになった人なのかもしれない、
とも考えられるのである。

そこで、トウヤク君を論じることは、
ひきこもり当事者一般を論じることに
つながったりするのである。








そういうトウヤク君が、
東京のひきこもりネットワークで蛇蠍のように嫌っている
ひきこもり経験者のMさんという人がいる。

Mさんは、かつて20代にひきこもりであったが、
40代の今は黙々と清掃業で働いている。

Mさんのように才能のある人ならば、
もっと他の「きれいな」仕事もあるのではないか、
などと多くの人がいうのだが、
彼は「自分は掃除夫が天職です」といい、
その仕事に誇りを持っているようである。

そういう彼の姿を「アニキ!」と慕い、尊敬する
若い男性のひきこもりは後を絶たない。

また、「かっこいい!」と目からハートマークを飛ばす
女性ひきこもりも後を絶たない。

Mさんが、
だれか美女といっしょに食事している写真を
自慢げにSNSに載せるたびに、
ひきこもりのくせして女性には目がない私は
メラメラと嫉妬の炎を燃やし、思わず

「ひどいね!」

というリアクション・ボタンを押してしまうのである。

このように、
トウヤク君とMさんが敵対関係ならば、
女性問題がからむと、
私とMさんも敵対関係となるのである。








さて、このMさんが
どうやら過去においてトウヤク君に
「ビシッと」「ガツンと」
何かを言ったらしい。

何を言ったのか、内容はよく知らないが、おそらく

「人間、やっぱり汗水たらして働かなくちゃダメだ」

といったことではないか。

Mさんは、じれったい「洗練された」物言いを好まない人であり、
なんでもズバズバ言ってしまう人なので、
さもありなん、である。

すると、それ以来、トウヤク君は何かにつけて
Mさんに猛烈な批判を放つようになったらしい。

その批判というのを、
ぜんぶ私が拾い集めているわけではないが、
トウヤク君の放つ批判というのは、たいがい
「いじめ」「ヘイト発言」「ナチス」
などなどといった
弩級の語彙をちりばめるのである。

トウヤク君の中では、
何でも概念はすぐにエスカレートしていくし、
自分を批判しそうな勢力は
片っ端から悪の象徴に祭り上げる。

その点は、ちょっと塞翁先生に似ているかもしれない。
あるいは、私の母親とか。

……いや、なんといっても、
そんな母親に育てられた、若い頃の私に似ているのだ。

思い出すだけでもおぞましい、20代前半の私である。

だから私は、トウヤク君の心の中が見えてしまうし、
それによって、かつての自分を思い出して
ゾッとした気分にもなるし、
彼が陥っている不安の泥沼が
まざまざと理解できたりもするのである。








当事者活動を考える(29)」で書かせていただいたように、
もともとトウヤク君が出身した地方のひきこもり経験者Aさんも
トウヤク君によって
やはり東京のMさんと同じ論調で叩かれている。

すなわち、「社会寄り」だ、という批判である。

「社会寄り」などという言葉が
トウヤク君の口から出てくる以上、
彼の頭のなかでは、
どうやら「社会」と「社会でないところ」があるらしい。

後者を「非社会」と言っておこうか。

ひきこもることなく働いている「ふつうの人」たちは、
おそらくトウヤク君によれば「社会」に棲んでいて、
しっかりと「社会性」を身につけている。

それに対して、
働いていないひきこもりは「非社会」にたむろっていて、
「社会性」を身につけていない。

「社会性」を身につけていない、
というのは、ひと言でいえば
「幼児性」ということになるだろうが、
トウヤク君によれば、
それがひきこもり当事者界隈で暮らしていくための
資格のようになってしまっているきらいがあるのだ。

まるで、

なんだお前。
 ひきこもりのくせに、社会性があるのか。

 ここはお前のような奴のいるところじゃない。
 とっとと出ていけ

と言わんばかりである。

MさんやAさんのように、
すでに働き、社会性も身につけているひきこもり経験者は、
「社会寄り」であるとして、
トウヤク君から「ナチス」に仕立て上げられるのである。








さて、自分たちのいるところを「非社会」と見ることから、
トウヤク君は、
自分たちは社会の一部ではない、
と考えていることがわかる。

私が20代前半に言っていた
「反市民」の概念に通底する何かである。

だが、それはおかしな話で、
ひきこもり界隈も一つの社会集団である。
そこにはそこなりの社会性があるのではないか。

もっといえば、
人間が二人以上集まれば、
必ずそこに何がしかの社会性が要請されるのではないか。

なぜならば、
「あなた」は「私」ではないし、
他者は自己ではないからである。

ところが、トウヤク君の認識によれば、
おそらくひきこもりは社会の「外」とか、「下」とか
社会でないところにいて、
社会の一部を成していない。

だから、外側から、あるいは下から社会を敵視する。

社会を批判するのはいい。
社会に既存するルールの意味のなさを指摘するのもいい。

しかし、自分を抑圧する要素を
たいした吟味もせずに、
すべて十把一絡げに「社会のルール」として批判の対象とし、
批判する自分を「いじめ被害者」として正当化するのでは、
これはいかがなものか。

その先にあるのは、

「そこのけ、そこのけ、オレさまが通る」

といわんばかりの独我論となる。



トウヤク君の言葉を聞いていると、

そんなに あんたは 偉いのか

と問いたくなるのである。


「働いている人」よりも、
ひきこもりの自分のほうが偉いのだ、
と捉えかねないトウヤク君の響きは
いったいどこから来るのだろうか。

それは、「働いていない」というやましさ
反動形成なのではないか、
と私は思うのである。

「働いている人よりも、働いていない自分の方が劣っている」

と無意識に考えているからこそ、

「じつは自分たちのほうがえらい」

という価値を逆転させた論理をこねあげたりしてしまう。

けっきょく、いろいろな屁理屈をこねることで、
まわりまわって

「働いている人はえらい」

という社会の通説を
トウヤク君は裏面から補強してしまっているのである。

しかし、そのことにトウヤク君は
どうやら気づいていない。








私自身は、ひきこもりが社会と敵対関係になるのを好まない。

ひきこもりは、社会の一部であり、
ひきこもりは、そうでないふつうの人々の
良き隣人であるべきだと思う。

ひきこもりの人も、ひきこもりでない人も、
社会的には対等な世の中になるのが望ましい。

「あそこにひきこもりが住んでいる」

という事実を、町の人々が

「あそこにパン屋さんがある」

という事実と同じように語るようになれば、
ひきこもりも近所の目をはばかって外出を控え、
いよいよひきこもってしまうという悪循環に
陥らなくて済むのではないか。

それが、よくお題目のように繰り返される、

「ひきこもりが問題とならない社会を目指す」

ということだろうと思う。

だから、その意味ではトウヤク君の社会観と正反対なのだが、
ふりかえってみれば、
現実の私は、自分が住んでいる町という小社会で
有効な一部となっていない。

近所づきあいをまったくしない、できないし、
町内会費も納めていない、ユウレイ町民である。
だいたい、町内会なんてどこでやっているのかもわからない。

このように私は、
自分の町という「社会」の外に存在してしまっているのだ。

だからこそ、私は
地域住民としての自覚を培おうとして、
隣町の商店街でやっている
「西畑酒店の酒を楽しむ会」へ
わざわざひきこもりでない一般市民をよそおって、
偽名で通い出した。

そんな私には、
就労を選んだひきこもりを批判する気は
もうとう起こらない。

だが、就労したひきこもりを、
私はとくに「えらい」とも思わないのである。

「就労してない私とは、あなたはちがう人生を選んだのね。
よかったじゃない。
お幸せに。

私は、私のひきこもり人生を生きてますのでよろしく」

ってなところである。




・・・「当事者活動を考える(31)」へつづく

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