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当事者活動を考える(32)カズさんの場合<2>」からのつづき・・・
by ぼそっと池井多

イメージ 1
Photo by PhotoAC

ぼそっと池井多 (ひきこもりの息子さんと)
ラーメンを食べに行きながら、
どんな話をされたんですか。

カズ 何も話しません。
無言ですよ、行きも帰りも。

無言ですけれども、行ってました。

ぼそっと池井多 今も、息子さんは
口数が少ないですか?

カズ いいえ、口数は少なくないですね。
どっちかというと、友達も多かったですし、
非常に明るい社交的な性格でした。

ただ、すごく真面目で、高校受験の時も、
「この高校に受からなくちゃいけない」
というプレッシャーで、
一生懸命、勉強すればするほど結果が出なかったのです。

真面目な所はありますが、
口数が少ないとか、
人と上手く接することが出来ないことはないですね。

ぼそっと池井多 ご次男もいらっしゃる訳ですよね。
ご兄弟同士の関係はいかがですか。

カズ 男の子同士ですので、
あまり一緒に仲良くしている感じはありませんけれども、
長男がひきこもっていた時は、
次男もそうとう我慢していたみたいで、

ときどき、次男も調子が悪くなって、
学校へ行かなかったことはあったようですが、
それ以上はありませんでした。

ぼそっと池井多 この公開対論は、
親の立場の言い分や怒りなどを、
当事者、子供の立場である私に、
壇上でぶつけていただく趣旨から始まっています。

カズさんの場合、すでに息子さんが社会人なので、
そういうことは少ないかも知れませんが、
どうですか?
親の立場から、当事者にぶつけたい本音はありませんか?

カズ 私はいろいろな家族会でお話を聴くんですが、
ひきこもりを経験した方がよく言うのは、
「親は自分の人生を楽しんでほしい、
その方が子どもが楽になる」
という言葉です。

でも、それってほぼ不可能なんですよ。
ひきこもって苦しんでいる子どもを真の当たりにして、
親が自分の人生を楽しんで、
子供から少し距離を置いた方がいいと言うのは。

逆にどうですか?
子どもから、親御さんにそうして欲しいというのはありますか?

ぼそっと池井多 私はカズさんから別の理由から、
「親は自分の人生を楽しんでください」
という、ひきこもり支援の界隈で教科書的に言われる言葉には
反対なんですね。

私の母親は、すごく自分の人生を楽しんでいるんですよ。
享楽的に遊び暮らして楽しんでいるのではなく、
一種のワーカホリックですけどね。

今日は、
私の個人的な履歴をお話しする時間がありませんでしたが、
とにかく教育圧力の高い母親で、
学習塾を経営してました。

サラリーマンの父親の、
だいたい3倍ぐらいの収入があって、
自分の自己実現ばかり。

私という長男や、父親という夫、
そして弟とかも、
どうも母親の自己実現の肥やしにされてる感じがありまして。

私が母親に言いたいのは、
「自分の人生ばっかり楽しんでんじゃないよ。
犠牲になっているぼくをもっと見てよ」
ということですね、

なので、ひきこもり問題の周辺で言われる、
「親は親の人生を楽しんでください」
という言葉は、カズさんと違う意味で違和感を感じています。






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当事者活動を考える(31)」からのつづき・・・
by ぼそっと池井多


ぼそっと 今日この(公開対論の)会場にいらしている親御さんの
最大の関心事は、
どうやって息子さんがひきこもりから抜けたか、
ということだと思います。

その点に関しては、いかがですか?

カズ 正直、息子がひきこもりを脱するのに、
これが決め手になったというのは、
私も家内も分からないと思うんですね。

状況的に言いますと、
高卒認定試験を受けて、受かった。

本人はどうしても大学に行って、
高校受験が思い通りに行かなかったのをリベンジしたい
という強い気持ちがあったので、
それを本人なりに受けて、受かったこと。

もう一つは、高校中退者向けの予備校があって、
1年間だけ、大学受験前に通うようになりました。
同年代と違う道を歩んだ引け目をあまり感じなくて済む、
同じように中退した人たちが通ってる空間なので、
そこが自分なりの居場所だったと思うんですね。

ぼそっと とすると、何かをしたから、
息子さんがひきこもりを卒業したわけではないということですね?

カズ 私はずっと単身赴任で家にいなくて、
つぶさに息子の状況を見ていないのですが、
家内は相当に苦しんで、病んでしまい、
精神科のカウンセリングに行きました。

そこである先生に、

「この子は安心感が足りないので、
3歳の子どもと同じように接してあげてください」

と言われたんです。
それが本人の安心感に繋がったのかな
という気はしています。

ぼそっと よく親御さんのお話を聴いていますと、
ひきこもりは親と子の問題であるように見えて、
そこに埋もれているのは、
親御さん夫婦の関係性の問題であったりする
と思うんですね。

例えば、お父さまが単身赴任で、
奥さまが全部それを抱え込んで、

「あなたは関西で仕事してるから良いかも知れないけれど、
わたしは大変なのよ!」

な〜んていう話はありましたか?

カズ:ええ。
電話するたびにかなり愚痴を言われました。
いろいろ相談したところ、奥さんばっかりじゃなくて、
父親も本気で心配してると、
息子本人にちゃんと態度で示した方が良い
と言われまして。

ただやっぱり、
どう声を掛けて良いか分からない。
かける言葉がないのです。

なので、私が出来たことは、
一緒にラーメンを食べにいくことぐらいですね。

ぼそっと ラーメン?

カズ ええ。
息子はほとんど家に引きこもっていますけれど、
「本人も、たまには外に出たいだろう」
と思って、ラーメンを食べに行ったんです。

「いつまでひきこもってるんだ、外に出ろ」

と言っても、首を振ることはないだろうな
と思って、何か口実を探していた時、
息子はラーメンが好きで、私も好きで、

「昔、ラーメン美味しかったね。
こういうラーメン屋あるけど知ってる?」

みたいな会話をしていたのを思い出しまして、

「ちょっとラーメン食いに行かない?」

と、一回連れ出したところ、
渋々と付いてきたんです。

これだったら、
一緒にラーメンを食べに行く目的があるので、
あまり本人に干渉せずに連れ出せるんじゃないかな、
と思い、それからは
単身赴任先から帰るたびに、
いっしょにラーメンを食べに行きました。

ぼそっと ラーメンを食べに行きながら、
どんな話をされたんですか。

カズ 何も話しません。
無言ですよ、行きも帰りも。

無言ですけれども、行ってました。



・・・「当事者活動を考える(33)」へつづく

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当事者活動を考える(30)」からのつづき・・・
by ぼそっと池井多


本ブログの読者の皆さまはよくご存じであるように、
私はときどき「ひきこもり親子 公開対論」という
イベントを開催させていただいている。

そこでどんなことが話されたか、
ぜひ文字化して記事として発表してほしい、
という声をよくいただくのだが、
登壇して発言してくださったご本人の諒解をとるのが難しく、
いままで実施できていなかった。

しかし前回、ひきこもりのお父さんとして登壇してくださった
カズさん(仮名)が、
一部、本人が特定される情報を削除することで
公開することに同意してくださった。

ありがたいことである。

そこで、それを連載していこうと思う。



ぼそっと池井多 それでは、
今日の「お父さま」に登壇していただきましょう。
カズさんです。

(会場拍手)

ようこそいらっしゃいました。
私も、当事者としてのカズさんは
詳しく知らないんですけども、
その概略を教えていただけますか?

カズ (……個人情報により中略……)
私は50代に入ったばかりで、息子は2人おり、
上の長男が20代で、今は社会人になっておりますが、
彼がひきこもりになったのは、
高校受験を間近に控えた中学3年生の秋ごろでした。

突然、学校に行けなくなりまして、
高校受験には何とか行ったんですけれども、
ほとんど失敗しました。

唯一、滑り止めの高校に受かり、
そこに通い始めたんですけれども、
一学期でまた学校に行けなくなり、
そのまま中退してひきこもりの状態になりました。

なので、高校の一時期を除いて、
中学3年生から高校3年間の4年弱ぐらい、
自宅でガチなひきこもりでした。

何とかその後、高卒認定試験を受けて大学に入り、
社会人になりました。
その経緯は、また後ほどお話しますが、概略はそんな所です。

ぼそっと ありがとうございます。
今は長男との軋轢とか、対話の不在とかはないのですか?

カズ 表面上はないですけども、
ひきこもっていた当時のことを
腹を割って話せているかと言うと、
やはりまだ腫れ物に触るような所があり、
話せておりません。

ぼそっと ひきこもっていた当時は、
やはり親子の対話は不在だったんですか?

カズ そうですね。
中学3年生の秋口に学校へ行けなくなった時、
私は単身赴任で関西にいたんですけれども、
家内から状況を聞いて、

「そのうち学校に行くだろう。
色んなプレッシャーで、疲れて休んでるんじゃないか」

と軽く考えていたんです。

でも、年末になっても、
一向に学校に行く気配がなくて。

さすがに、高校受験がもうすぐに迫ってきてましたので、
焦りが出てきまして、
ある日、息子がかぶっている布団を無理やりひっぺがして、

「いつまでこんな所で休んでるんだ!
もう高校受験をする気が無いなら、
出て行ってしまえ!」

と言いました。

そうしたら息子はパジャマのまんま、
ほんとうに寒空の中を出て行ってしまって、
警察に捜索を頼んで、
ようやく近くの公園で見つかりました。

それが本人のトラウマになってしまい、
その後も対話どころか、
視線も合わせられない状態でした。

ぼそっと 警察に連れ戻された時、
お父さまとして息子さんにはどういう言葉をかけてあげました?

カズ 言葉はかけられないですね。
自分が「ひどい言葉を言ってしまった」という
罪の意識があって、
全くかける言葉がなかったです。

ぼそっと その息子さんは今は社会人で、
すでにひきこもりではなくなっているという事ですけれど、
多分、今日この会場にいらしている親御さんの最大の関心事は、
どうやってひきこもりから抜けたか、
ということだと思います。
その点に関しては、いかがですか?







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当事者活動を考える(29)」からのつづき・・・
by ぼそっと池井多


トウヤク君というひきこもり当事者のことを書いてみたところ、
思いがけず多くの方から反響をいただいた。

反響は、大きく二つのグループに分かれるといえる。

一つめのグループは、
いろいろ枝葉を削ぎ落せば、

「ああいう弱者をよそおう強者には、
誰かがビシッと言ってやらないといけません。

はっきり名前を出して、
ぼそっとさんからガツンと言ってやってください」

というものであり、
もう一つのグループは、

「まるで自分のことが書いてあるように思った。
 読むのがこわかった」

というものである。

それでは、書いている私はどうかというと、

「まるで自分のことが書いてあるように思った

というグループに入るのである。

さすがに自分で書いた文章なので、
「読むのがこわかった」
とまでは行かないけれど。

……。
……。


前回も書かせていただいたように、
トウヤク君と私にはさまざまな共通点があり、
違いはまさに「紙一重」であるように思う。

ところが、何がどう「紙一重」であるのか、
そこがどうもかんたんな言葉にならない。

そして、私と同じように
トウヤク君と自身に共通点を見いだすひきこもり当事者たちが、
これだけたくさんいるということは、
ある意味でトウヤク君は、
ひきこもり当事者というものがすべからく持っている
なにがしかの一面を拡大して、凝縮して、
強烈に持つようになった人なのかもしれない、
とも考えられるのである。

そこで、トウヤク君を論じることは、
ひきこもり当事者一般を論じることに
つながったりするのである。








そういうトウヤク君が、
東京のひきこもりネットワークで蛇蠍のように嫌っている
ひきこもり経験者のMさんという人がいる。

Mさんは、かつて20代にひきこもりであったが、
40代の今は黙々と清掃業で働いている。

Mさんのように才能のある人ならば、
もっと他の「きれいな」仕事もあるのではないか、
などと多くの人がいうのだが、
彼は「自分は掃除夫が天職です」といい、
その仕事に誇りを持っているようである。

そういう彼の姿を「アニキ!」と慕い、尊敬する
若い男性のひきこもりは後を絶たない。

また、「かっこいい!」と目からハートマークを飛ばす
女性ひきこもりも後を絶たない。

Mさんが、
だれか美女といっしょに食事している写真を
自慢げにSNSに載せるたびに、
ひきこもりのくせして女性には目がない私は
メラメラと嫉妬の炎を燃やし、思わず

「ひどいね!」

というリアクション・ボタンを押してしまうのである。

このように、
トウヤク君とMさんが敵対関係ならば、
女性問題がからむと、
私とMさんも敵対関係となるのである。








さて、このMさんが
どうやら過去においてトウヤク君に
「ビシッと」「ガツンと」
何かを言ったらしい。

何を言ったのか、内容はよく知らないが、おそらく

「人間、やっぱり汗水たらして働かなくちゃダメだ」

といったことではないか。

Mさんは、じれったい「洗練された」物言いを好まない人であり、
なんでもズバズバ言ってしまう人なので、
さもありなん、である。

すると、それ以来、トウヤク君は何かにつけて
Mさんに猛烈な批判を放つようになったらしい。

その批判というのを、
ぜんぶ私が拾い集めているわけではないが、
トウヤク君の放つ批判というのは、たいがい
「いじめ」「ヘイト発言」「ナチス」
などなどといった
弩級の語彙をちりばめるのである。

トウヤク君の中では、
何でも概念はすぐにエスカレートしていくし、
自分を批判しそうな勢力は
片っ端から悪の象徴に祭り上げる。

その点は、ちょっと塞翁先生に似ているかもしれない。
あるいは、私の母親とか。

……いや、なんといっても、
そんな母親に育てられた、若い頃の私に似ているのだ。

思い出すだけでもおぞましい、20代前半の私である。

だから私は、トウヤク君の心の中が見えてしまうし、
それによって、かつての自分を思い出して
ゾッとした気分にもなるし、
彼が陥っている不安の泥沼が
まざまざと理解できたりもするのである。








当事者活動を考える(29)」で書かせていただいたように、
もともとトウヤク君が出身した地方のひきこもり経験者Aさんも
トウヤク君によって
やはり東京のMさんと同じ論調で叩かれている。

すなわち、「社会寄り」だ、という批判である。

「社会寄り」などという言葉が
トウヤク君の口から出てくる以上、
彼の頭のなかでは、
どうやら「社会」と「社会でないところ」があるらしい。

後者を「非社会」と言っておこうか。

ひきこもることなく働いている「ふつうの人」たちは、
おそらくトウヤク君によれば「社会」に棲んでいて、
しっかりと「社会性」を身につけている。

それに対して、
働いていないひきこもりは「非社会」にたむろっていて、
「社会性」を身につけていない。

「社会性」を身につけていない、
というのは、ひと言でいえば
「幼児性」ということになるだろうが、
トウヤク君によれば、
それがひきこもり当事者界隈で暮らしていくための
資格のようになってしまっているきらいがあるのだ。

まるで、

なんだお前。
 ひきこもりのくせに、社会性があるのか。

 ここはお前のような奴のいるところじゃない。
 とっとと出ていけ

と言わんばかりである。

MさんやAさんのように、
すでに働き、社会性も身につけているひきこもり経験者は、
「社会寄り」であるとして、
トウヤク君から「ナチス」に仕立て上げられるのである。








さて、自分たちのいるところを「非社会」と見ることから、
トウヤク君は、
自分たちは社会の一部ではない、
と考えていることがわかる。

私が20代前半に言っていた
「反市民」の概念に通底する何かである。

だが、それはおかしな話で、
ひきこもり界隈も一つの社会集団である。
そこにはそこなりの社会性があるのではないか。

もっといえば、
人間が二人以上集まれば、
必ずそこに何がしかの社会性が要請されるのではないか。

なぜならば、
「あなた」は「私」ではないし、
他者は自己ではないからである。

ところが、トウヤク君の認識によれば、
おそらくひきこもりは社会の「外」とか、「下」とか
社会でないところにいて、
社会の一部を成していない。

だから、外側から、あるいは下から社会を敵視する。

社会を批判するのはいい。
社会に既存するルールの意味のなさを指摘するのもいい。

しかし、自分を抑圧する要素を
たいした吟味もせずに、
すべて十把一絡げに「社会のルール」として批判の対象とし、
批判する自分を「いじめ被害者」として正当化するのでは、
これはいかがなものか。

その先にあるのは、

「そこのけ、そこのけ、オレさまが通る」

といわんばかりの独我論となる。



トウヤク君の言葉を聞いていると、

そんなに あんたは 偉いのか

と問いたくなるのである。


「働いている人」よりも、
ひきこもりの自分のほうが偉いのだ、
と捉えかねないトウヤク君の響きは
いったいどこから来るのだろうか。

それは、「働いていない」というやましさ
反動形成なのではないか、
と私は思うのである。

「働いている人よりも、働いていない自分の方が劣っている」

と無意識に考えているからこそ、

「じつは自分たちのほうがえらい」

という価値を逆転させた論理をこねあげたりしてしまう。

けっきょく、いろいろな屁理屈をこねることで、
まわりまわって

「働いている人はえらい」

という社会の通説を
トウヤク君は裏面から補強してしまっているのである。

しかし、そのことにトウヤク君は
どうやら気づいていない。








私自身は、ひきこもりが社会と敵対関係になるのを好まない。

ひきこもりは、社会の一部であり、
ひきこもりは、そうでないふつうの人々の
良き隣人であるべきだと思う。

ひきこもりの人も、ひきこもりでない人も、
社会的には対等な世の中になるのが望ましい。

「あそこにひきこもりが住んでいる」

という事実を、町の人々が

「あそこにパン屋さんがある」

という事実と同じように語るようになれば、
ひきこもりも近所の目をはばかって外出を控え、
いよいよひきこもってしまうという悪循環に
陥らなくて済むのではないか。

それが、よくお題目のように繰り返される、

「ひきこもりが問題とならない社会を目指す」

ということだろうと思う。

だから、その意味ではトウヤク君の社会観と正反対なのだが、
ふりかえってみれば、
現実の私は、自分が住んでいる町という小社会で
有効な一部となっていない。

近所づきあいをまったくしない、できないし、
町内会費も納めていない、ユウレイ町民である。
だいたい、町内会なんてどこでやっているのかもわからない。

このように私は、
自分の町という「社会」の外に存在してしまっているのだ。

だからこそ、私は
地域住民としての自覚を培おうとして、
隣町の商店街でやっている
「西畑酒店の酒を楽しむ会」へ
わざわざひきこもりでない一般市民をよそおって、
偽名で通い出した。

そんな私には、
就労を選んだひきこもりを批判する気は
もうとう起こらない。

だが、就労したひきこもりを、
私はとくに「えらい」とも思わないのである。

「就労してない私とは、あなたはちがう人生を選んだのね。
よかったじゃない。
お幸せに。

私は、私のひきこもり人生を生きてますのでよろしく」

ってなところである。




・・・「当事者活動を考える(31)」へつづく

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by ぼそっと池井多


cus*ion**ark
あえて言おう!

当事者活動には、一般社会に出たら味わえない、
立場の高いポジションがとれる旨味と
社会正義的空気感がある。

免罪符を前面に出し、
批判を受けにくい世界で
欲求実現が可能なことへの中毒性があるのではないだろうか? 


[ cus*ion**ark ] 2019/3/17(日) 午後 10:25 

 
ぼそっと池井多
cus*ion**arkさま コメントをどうもありがとうございます。

それは当たり前のことであって、あまり
「あえて言おう!」
などと力(りき)まれておっしゃることでも
ないように思われます。

ひきこもりのみならず、
障害者運動にせよ、被差別部落の解放にせよ、
社会から差別されがちな側に立って
何かをしようとするときには、
必ずあなたのおっしゃる、
反作用として生じる「中毒性」との折り合いを
つけていかなくてはならないものでしょう。

「当事者ヤクザ」「当事者チンピラ」
といわれる人たちは、
そのバランスが取れていないのだとも考えられますね。

日本に限ったことでもありません。
ある種、人間社会の普遍に属する何かだと思います。  

 2019/3/17(日) 午後 11:03

cus*ion**arkさんがおっしゃっているのは、
ひと言でいえば「弱者権力」ということなのだと思う。

ほんらい当事者発信とは、
社会的に虐げられたり、侮蔑された立場にある者が、
圧倒的な強者である社会に対して、
自らのかぼそい声を伝え、主張するところから始まる。

ところが、それが高じて、
あたかも、被差別の立場であることが
「正義」であるかのように思いこみ、
そのような声を発することができる立場の
「うま味」に溺れてしまうと、
前後左右が見えなくなる。

われわれでいえば、
ひきこもりであること、
精神障害を持つこと、
社会的マイノリティであることが
正義だと思って自ら酔ってしまう場合である。

そのことを、cus*ion**arkさん
「中毒性」と呼んでいるのだろう。

彼の書きっぷりが、あまりにも高踏的なので、
私は少し鼻白んでしまい、
あえてはぐらかすような応答をしたが、
彼が言っていることはまちがっていないし、
大いに理解できるものである。






その象徴となるような事件が
つい最近、ひきこもり界隈で起こった。

当事者ヤクザ(*1)君といわれている者が、
こういう要旨と受け取れる批判を
SNS上にぶちあげたのである。

「Aという者は、当事者発信として、
ひきこもりのゴールとして就労をめざす、
『社会寄り』な発言をおこなっている。
けしからんことである。

ああいうことを言うようでは、
当事者発信の意味がない。


*1.彼を「当事者ヤクザ」と呼ぶことに関して、
「じっさいのヤクザはもっと人間的に偉い人たちである。
人間的に尊敬できないのはチンピラである。
したがって彼は当事者チンピラと呼ぶべきである」
というご批判をいただいたことがあるが、
それはもっともだとしても、
私が呼び方を決めているわけではなく、
すでに彼は一部の人たちに「当事者ヤクザ」
と呼ばれて通っているので、
ここではそれを略称して
トウヤク君と通称させていただくものとする。
また、彼自身は精神はまだ十代の少年のようにナイーヴであり、
けっして「ヤクザ然」として
意図的に周囲に脅しをかけているつもりはないのだろう
と私は確信している。
そういう意味からも、あまり彼を当事者ヤクザ君と呼ぶのは、
かわいそうであるように思う。


そこで言われているAという人を私は存じ上げないのだが、
もともとトウヤク君の出身地方のひきこもり当事者であり、
トウヤク君をその地方の当事者界からはじき出した、
ということになっている。

そのこと自体も、真偽のほどはわからない。
トウヤク君が東京へ来て話す物語のなかでは、
少なくとも、そういう人物として語られる。

そのA君がひきこもりを脱して就労し、
その体験をある媒体の当事者手記に書いたことが、
トウヤク君の逆鱗に触れたらしい。

「こんな当事者手記は、あってはならぬ」

と言わんばかりの剣幕で批判し始めたのである。

私が見るに、
トウヤク君はなにか心理的におびやかされたのだろう。

少なくとも、トウヤク君自身は、

「働いていない自分は、
 働いているAによって心理的におびやかされた」

とは書かないが、
どうも傍から見ていて、そうと見えてくるのである。

働いていない者が、働いている者の存在に
「おびやかされる」ということはたぶんに理解できる。

なぜならば、「働いている」という状態が、
社会的に「正しい」としてお墨付きをもらっているからである。

「働いていない」という状態は、
それだけで「まちがっている」「怠けている」とされる。

だから、「働いていない」という自分の状態に、
無意識に「やましさ」を抱えている場合は、
たちどころに「働いている」者の存在によって
責められているかのように錯覚するであろう。

だから、おびやかされたこと自体は、
なんら難じられるものではないと思う。

だが、それを相手に投射し、

「そんなことを当事者手記として書くべきではない」

と言い始めるとなると、これはいかがなものか。

そこで私が、

「いったいお前に、
どれが当事者手記で、どれがそうでない、
などと決めつける権利があるのか」

とトウヤク君に噛みついた、
という次第である。

あとに詳しく述べるように、
トウヤク君と私にはいろいろな共通点があり、
ある意味「紙一重」であるために、
私はこの一件におけるトウヤク君を捨てておけなかった、
ともいえる。








トウヤク君が批判する、A君の当事者手記が掲載されたのは、
私が関わっているひきポスではなかった。

したがって、私は
知らんぷりをして通り過ぎようと思えば、
いくらでもそうできた。

しかし、事が「当事者発信とは何か」という
重要なことの中核であったので、
私も口を開くことにしたのである。

また、私も

「ひきこもりのゴールが就労である」

とは思っていない。

したがって、もし
トウヤク君がいう通りA君がそう思っているのだとしたら、
私はA君の主張には与しないのである。

読者の皆さまがよくご存じのように、
私自身も「働いていない人」であり、
その意味では私はA君よりはトウヤク君に近い。

しかし、だからといって、
A君は当事者発信を行なってはいけない」
などとは思わない。

意見は、それぞれの当事者においてちがうものであり、
一人ひとりがちがう意見を発信してよいだろう。
それらの発信がすべて当事者発信である。

また、生きている以上、
一人ひとりがすべてちがう体験をするはずであって、
それを言葉にするのが当事者手記ならば、
当事者手記も千差万別、百花斉放であるのが当然である。








言論の自由の父、ヴォルテールは、

「私は君の意見には反対だ。
 しかし君が意見をいう権利は命を賭けてでも守る」

といった。(*3)

*3.異論もある。
が、それはここでは関係ない。
じっさいにヴォルテールがそう言ったかどうかは、
いまはさして問題ではない。


私はヴォルテールほど気前よくはなれない。
自分とは異なる意見の持ち主のために、
命を賭けるまでは行かないだろう。

しかし、少なくとも
少しばかり波風が立っても、
自分とはちがう意見を持つ当事者が当事者発信ができる環境を
保全してあげたいと思う。

ひきこもり界隈において
トウヤク君の発言力はかなり大きい。
私も他人のことはあまり言えないようだが 笑)

彼の物理的な声も大きいのだが、
SNS上での声も、それに劣らず大きいのである。

また、いったい何を財源としているのか、
彼は莫大な交通費を使って、
つねに全国を飛び回っているため、
地方のひきこもり関係の有力者たちとのあいだに
強固な人脈を持っているらしい。
(少なくとも、本人はそう言っている。)

だから、彼はひきこもり界隈の「強者」である。
そのため、誰も彼に抗して表立って声を挙げられない。
それで当事者ヤクザなどと陰で称されてしまうのだ。

しかし、彼は自分を「弱者」だというのである。
何かあると、必ず被害者に回りこむことに余念がない。

彼はあきらかに、
「弱者」であることによって、発言権を獲得している。
まさにcus*ion**arkさんがいう
弱者権力の「中毒性」に酔っているように
見受けられるのである。

彼の言っていることは、
あちこちの専門家の言説を表面だけかすめ取ってきて、
適当につぎはぎしている言葉なので、
いっけん響きはもっともらしいのだが、
よく聞いていると、論理として一貫性がない。

多くのひきこもり当事者が、悩みに悩んで、
心の底から朴訥に絞り出す言葉とは、
まず質感がちがう。
うわべだけを滑っている印象がある。

もっとトウヤク君が自分自身に正直に向き合うようになったら、
さぞかし良い言葉が絞り出されてくるだろうと思うのだが、
彼はつねに内省を避け、
自分の責任を社会や他者へ投射してしまうので、
実のある言葉の鉱脈が地下に埋もれたまま
歳月だけが経過している感がある。

また彼は、つねに自分が
「より弱い立場にいる当事者たち」
の代表であるかのように発言するのだが、
そのじつ、彼がいうところの
「より弱い立場にいる当事者たち」
というのが実在するのかどうかわからない。

もしかしたら、彼の
「より弱い立場にいる当事者」への憑依
にすぎないかもしれないし、
「より弱い立場にいる当事者」
なんて、そもそも彼の背後にいないかもしれないのである。

ところが振り返れば、
これは私にも言えることなのである。

私は、いろいろな当事者の声を紹介させていただいている。

けっして私が彼らの代表にならないように、
気をつけて発信しているつもりだが、
しかし、そのように受け取る人もいるかもしれない。

私がトウヤク君にいうような批判を
誰かが私に浴びせようと思えば、
いくらでも可能だろう。

私が紹介しているひきこもりのインタビュイーに関して、

「彼らは、実在するのか。
 じつはお前が作り上げた人物なのではないか。
 もし実在するなら、彼らの顔や姿を見せろ」

と言われたら、私はひとたまりもない。

私のインタビュイーたちは、
表に出てこないひきこもりたちであり、
たいていが顔をネット上に出さない。

阿坐部村の塞翁療法による被害を語る証言者たちにいたっては、
顔や名前はおろか、
コメント欄に書きこむ言葉でさえ
「非公開」「内緒」を希望し、
ネットの表に出さないのである。

こういう情報源について、
私が読者の皆さまの誰もがわかるかたちで
その実在を示すことは不可能である。

ひきこもりや精神障害など、
とかく人が隠したがる属性でつながる界隈には、
そういう宿命的な特徴がある。

そういう宿命的な特徴をうまく活用して、
自分の立場を強固なものにしていく者も出てくる。

こう考えてくると、
私がやっていることと、
トウヤク君がやっていることは、
じつは構造的にあまり違わない、
ということになる。

それだけに
私にとってトウヤク君という人物について考えることは、
不愉快であり、面白くもある。




・・・「当事者発信を考える(30)」へつづく

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