ハーブの名歌

華の昭和名歌300・華の平成名歌200

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 慕情をもって、人を待ち続ける、というのは苦く、そしてそれ以上に甘いもの、なのかも知れない。この曲は、その世界を歌い上げている。ゆったりとした、曲調。季節は、物悲しい秋。
(詞・曲 吉田 信 2016)
枯れ葉ちる 秋の日は 吹く風も冷たく 空を駆ける 雁の群れは なぜーー夢が散る 私が散っても いつまでもいつまでも あの人を忘れない
(収集プロフィール)
朝倉 由美子(あさくら ゆみこ、19XX〜 )
兵庫県神戸市出身の歌手。
略歴
作曲家の鈴木淳氏に師事。
平成18年 東京都荒川区で歌謡教室を開始。即効レッスンが好評
徳間ジャパン所属、朝倉音楽教室長、カラオケ優美 ンオーナー。
好きなこと:歌を聴く・歌うこと・人を喜ばすこと
性格:勝ち気、でも涙もろい
*約3年ぶりの新曲。前作の流れを汲んだ「ラブバラード」。
朝倉由美子の艶やかで伸びのある歌声が冴える歌謡曲。
1. 枯れ葉の街 (作詞:吉田信/作曲:吉田信・井上真之介/編曲:伊戸のりお)
2. 行っちまいな! (作詞:下地亜記子/作曲:近江孝彦/編曲:伊戸のりお)
シングル
武蔵野恋歌(ビクター)
愛の時間
愛は誰のために

 この曲は、従来の演歌より、かなりJポップより。それが、みやさとの声質に合っている。静かな情念の流れ、淡い時の流れ、といったものが、低く美しいフラメンコ風のメロディーに包まれている。このため、ド演歌好きの方には、フィットが難しいかも知れない。私は、とてもいい曲だと思うが。
(2015)
 飲めないお酒 かたむけて 夜が更けていく ひとりの夜の むなしさは 捨ててーーーみんな夢 夢なのね あの人 ながれ星
(収集プロフィール)
みやさと 奏(みやさと かな、1992年(平成4年)10月〜  )は、岩手県宮古市出身の歌手である。レコード会社は徳間ジャパン。
略歴
3人兄妹の末っ子(兄が2人いる)として出生。小学6年の時、地元のカラオケ番組に出演したのを機に歌手を目指すようになり、中学から高校までレッスンを受ける。
2009年、「みちのく歌謡祭」でグランプリを獲得。その時に作曲家の叶弦大と出会う。2010年、「日本カラオケスタジオ大賞」に岩手県代表として出場し、全国大会でグランプリを獲得[3]。2012年5月2日に『風港』でメジャーデビューした。
芸名の「みやさと」は、“宮古がふるさと”を略して付けられたという。
*新曲「ながれ星」は、去っていった恋人を“ながれ星”に例え、 恋の終わりを切なく、そして儚く唄った作品。みやさと奏本来のスケール感ある 伸びやかな歌声が胸に沁みます。
シングル
1st『風港』(2012年5月)
# タイトル 作詞 作曲 編曲
1. 「風港」 水木れいじ 叶弦大 若草恵
2. 「約束します」 紙中礼子 叶弦大 若草恵
3. 「風港」(オリジナル・カラオケ) 叶弦大 若草恵
4. 「約束します」(オリジナル・カラオケ) 叶弦大 若草恵
5. 「風港」(エコサイズ・カラオケ) 叶弦大 若草恵
6. 「約束します」(エコサイズ・カラオケ) 叶弦大 若草恵
2nd『かもめ町一丁目』(2013年6月)
# タイトル 作詞 作曲 編曲
1. 「かもめ町一丁目」 岡田冨美子 叶弦大 丸山雅仁
2. 「運命の海峡」 田久保真見 叶弦大 丸山雅仁
3. 「かもめ町一丁目」(オリジナル・カラオケ) 叶弦大 丸山雅仁
4. 「運命の海峡」(オリジナル・カラオケ)叶弦大 丸山雅仁
3rd『逢いたくて金沢』(2014年7月)
# タイトル 作詞 作曲 編曲
1. 「逢いたくて金沢」 田久保真見 叶弦大 丸山雅仁
2. 「海猫のら」 田久保真見 叶弦大 丸山雅仁
3. 「逢いたくて金沢」(オリジナル・カラオケ) 叶弦大 丸山雅仁
4. 「海猫のら」(オリジナル・カラオケ) 叶弦大 丸山雅仁
4th『ながれ星』(2015年9月)
# タイトル 作詞 作曲 編曲
1. 「ながれ星」 宮川つとむ 叶弦大 若草恵
2. 「情なし」 こはまかずえ 叶弦大 若草恵
3. 「ながれ星」(オリジナル・カラオケ) 叶弦大 若草恵
4. 「情なし」(オリジナル・カラオケ) 叶弦大 若草恵
5. 「ながれ星」(2コーラスカラオケ) 叶弦大 若草恵
6. 「情なし」(2コーラスカラオケ) 叶弦大 若草恵
受賞歴
2012年:歌唱曲『風港』
第45回日本有線大賞・有線放送協会賞
日本作曲家協会音楽祭・奨励賞(2年連続)
第45回日本作詞大賞・入選

 私が10代の頃から、ときどきテレビでお見かけした方である。元気のよい、べらんめえ口調の、根っからの芸人という感じの方。特に知識はなくとも、あらゆる大衆芸能に通じていらっしゃるのは、すぐに分かった。今回、その略歴を読んで、改めてすごい苦労(まさに艱難辛苦。ときにそれ以上。)を乗り越えて来た方なんだな、と驚嘆した。昭和中盤以降の生まれの人には、とても乗り越えられないであろう来歴。スミ氏の芸は、幸いなことに、音源や映像が、多く残されている。跡を継ぐ者たちに、大きな財産となるだろう。

(収集プロフィール)
玉川 スミ(たまがわ すみ、1920年7月17日 - 2012年9月25日)
女流俗曲師(音曲師、三味線漫談家)。落語芸術協会所属、同団体参与。本名:中川スミ。
人物
落語芸術協会 より
大正9年7月 福島県郡山で生まれる。父虎太郎は明治大正にかけて一世を風靡した浪曲師、桃中軒雲右工門の高弟の一人で、桃中軒雲工と名乗る。母ハルは郡山の呉服屋の娘。
大正11年 女流歌舞伎「市川牡丹一座」の支配人国友政芳が二人目の親、太夫元の地紙賢三郎が三人目の親となる。「ハツノ」から「澄子」へ改名。大阪興行に同行、芸名「中村文丸」と名乗る。オーストラリア、アラスカに海外公演
大正12年 神田「三崎座」に出演中、曽我廼家五九郎劇団からの依頼で浅草「万世座」に特別出演し、喜劇界で初めての子役を演じる。北海道「旭川劇場」で1ヶ月の公演。
昭和2年 芸名を「地紙家澄子」と改名 「お初地蔵劇団」として「お初地蔵」を演じる
昭和5年 民謡の成田雲竹一座に買われる(当時雲竹の相方三味線が現在の高橋竹山)
昭和7年 青森の民謡一座「津軽家すわ子一座」に買われる 桂喜代楽から漫才のイロハを教わる 三代目春風亭柳好から「桂小豆」の芸名を許される
昭和11年 「花奴レビュー団」で「丘乃すみれ」という芸名で歌手として舞台に立つ 大朝家シゲオとコンビを組み漫才に転向
昭和12年 「シゲオ・小豆」の「時局剣劇漫才」が大阪の「天王寺館」で大受けする 中川虎松の娘「中川スミ大正十年三月三日生まれ」として入籍
浅草「大東京」で一ヶ月の公演、ソ連国境へ慰問巡業。帰国後、名人会との合同巡業。
昭和13年 叔父にあたる浪曲師、東家楽蒸の勧めで吉田奈良千代に入門 女楽蒸として浪曲師となる
昭和16年 新興芸能部へ移籍 北支慰問に出発
昭和23年 浪曲の京山華千代に引き取られる
昭和27年 大江しげるとコンビを組み四年ぶりに有楽町ビデオホールの舞台に立つ玉川一郎先生の勧めで芸名を「玉川一恵」とする
昭和32年 大阪コトブキ芸能社の依頼で三吉と女同士のコンビを組みハワイ巡業
昭和33年 三味線漫談を一人で始める
昭和35年 芸名を現在の「玉川スミ」と改名
昭和48年 三船敏郎の「鬼平犯科帳」「忠臣蔵」(テレビドラマ)渡哲也の「日の当たる坂道」(映画)などに出演。
昭和52年 高橋英樹の「桃太郎侍」(テレビドラマ)にレギュラー出演
昭和53年 東芝レコードから「玉川スミ音盤独艶会」「都々逸教室」を発売
昭和54年 テイチクレコードから「ご同輩数え歌」「どんどん節」を発売
昭和55年 「浅草国際劇場」で歌手として舞台に立つ
昭和57年10月 「浅草公会堂」で「玉川スミ・リサイタル・チャリティショー」開催
平成3年3月 宮崎県延岡市の今山大師で得度する 法名「澄光尼」
平成3年10月 「浅草演芸ホール」で「玉川スミ芸能生活七十周年記念公演」開催
平成13年11月 「国立演芸場」で「玉川スミ芸能生活八十周年記念公演」開催
受賞
昭和46年 自らの創作「松づくし」で芸術祭優秀賞受賞
平成3年 勲五等宝冠章授賞
平成14年3月 春松屋芸能、特別賞受賞
コメント
幼くして浪曲一座の舞台に立ち、以来寄席色物芸人として多くのジャンルの芸を習得、その集成が2001年国立演芸劇場上席ににおいて「芸能生活八十周年」を謳い、獅子舞、浪曲、即席漫才、松づくしを披露。本芸の三味線漫談とともに長年培ってきた幅広い芸を演じた。大正・昭和・平成の三代にわたる活躍は貴重な軌跡ということができる。
*荒川ゆうネット より
玉川スミさんは大正9(1920)年7月17日生まれで、東日暮里にお住まいの現役三味線漫談家です。
生後たったの一週間で両親の離婚により母親と生き別れ、男手ひとつで育てられた玉川さんは、父の浪曲を子守歌に育つ中で歌を覚えた天才少女と呼ばれ、その噂を聞きつけた女流歌舞伎の一座に3才で売られて以来、波乱万丈ともいえる芸人人生がスタートしました。
その芸は浪曲、民謡、舞踊、漫才…など多岐に渡り、 昭和35(1960)年、長谷川伸の弟子にもなるユーモア作家玉川一郎から「玉川スミ」と名をもらい、「都々逸」や「さのさ」などを折り込んだ一人舞台の三味線漫談という独自のスタイルを確立しました。活動場所は寄席はもとより、舞台・テレビ・ラジオ・映画など幅広く、歯に物きせぬ小気味の良い活説には多くのファンがいます。
昭和46(1972)年に「松づくし」(一本歯の高下駄を履きピラミッド型に積み上げた桝の上で片足でバランスを取りながら、120本の扇子で松を形づくる創作演技)で「芸術祭優秀賞」を受賞、平成3(1991)年には芸能界で第一号の勲五等宝冠章授賞、平成14(2002)年には春松尾芸能、特別賞受賞と受賞歴多数。現在も芸術協会に属し寄席の出番を欠かしません。
背筋をピンと伸ばし、着物姿も艶やかに舞台に立つその姿は、とても87歳とは思えません。来年は、88歳米寿を迎えるとともに、芸能生活85周年という記念すべき年を迎えられます。 大正・昭和・平成の長い芸能生活は、寄席の歴史を知る貴重な存在です。
*本文は取材を中心に著作「泣いて笑ってつっぱって」をもとにまとめています。
3歳から芸の道を歩み始められたそうですね。
  子どもが売り買いされるなんて、今の人たちには考えられないことでしょうね。私は戸籍ごと売られたり買われたりして14歳までに13回親が変わりました。
  最初は3歳の時に、実の親から女流歌舞伎一座の支配人へ27円で買われました。当時の27円といえば、二階建ての総檜造りの家を建てられる価値がありました。
その日のうちに今度は30円で一座の太夫元である地紙家賢三郎氏に買われ、今日に至る私の流転人生が始まりました。当時の東北は今では考えられないほど生活が貧しく子売りも苦渋の選択だったと思います。まさにテレビドラマ「おしん」の世界があったのです。
  地紙の父母は人間のできた人で、血の繋がっていない子どもたちを我が子のように大きく深い愛情で育ててくれました。芸事はもちろん、礼儀作法、家事全般にいたるまで、将来一人になっても困らぬようにと躾けたのです。
  地紙の父母に限らず、13人もの「親」がいました。様々な親との出会いと別れが、私の芸域を広げてくれました。身寄りのない私が、自力で看板を築くことが出来たのも13人の親のおかげと思い、地紙の父にゆかりがある身延山近くの妙久寺に供養塔を建て、自然石の観音様の姿石を百体祀り感謝の手を合わせています。
波瀾万丈の半生、思い出を聞かせてください。
  最初の女流歌舞伎では、旅から旅への一座ですから、北は北海道から南は九州まで、お客さんがいると聞けば樺太や、オーストラリアやアラスカまで巡業に行きました。
  地紙の父が亡くなってからは、一座も解散。残された義母と私で不況時代を生きて行かなくてはいけません。私は小樽の劇場の支配人の世話で、芸名を「地紙家澄子」と改め、わずか7歳で「お初地蔵劇団」の座長となりました。わずかな団員の小さな劇団ですが、日本初のバラバラ殺人事件を題材にしたこの興業は成功をし日夜大入りでした。
  ところが、劇団員が博打に手を出し、衣裳から道具まで全部質屋に預ける品物になってしまい芝居ができなくなってしまったのです。
  私は、自分の羽織を持って質屋へ行き50銭貸してもらいました。そのお金は、米、炭、ネギ、味噌、団員の風呂代に消えました。翌日はまた一文無しです。
  「私を買って」と、下駄屋、せんべい屋、チンドン屋、挙げ句の果てにはサーカスのブランコの跳び乗りまでやって稼ぎました。散髪屋では朝から晩まで何十枚ものタオルを洗って日銭を稼いだんです。
あの頃は、そうやって子どもでも仕事をしたし、仕事をさせてくれる世の中でした。今のこの豊かな日本じゃにわかには信じられないでしょうけれど、これはぜんぶ本当の話なんですよ。
  見かねて助け舟を出してくれる人、人の稼ぎを持っていってしまう人、子どもの頃から人生の悲喜交々をさんざん味わってきましたね。
出逢いと別れを重ねながら芸の道を歩んでこられたのですね。
初恋の頃の玉川さん
  芸能生活では良いご縁をいただいたのですが、私生活は残念ながらあんまり恵まれていたとはいえません。思い返せば13歳の時に大湊で海軍士官さんとの間に芽生えた恋は、純真純愛でしたが、彼の家の事情で突然別れを告げられた時は、巡業先の樺太で自殺しようと海に飛び込んだりもしました。せつない思い出のひとこまです。
  今でもお化粧をしようと鏡の前にたつと、実父とこの士官さんの面影が胸によぎるんです。不思議なものですね。
浅草演芸ホールでの舞台
  青森県の民謡一座「津軽家すわ子一座」にいたときは、民謡ばかりでは飽きたらず桂喜代楽さんから漫才のイロハを教わりました。それが縁で三代目春風亭柳好師匠から「桂小豆」の名を許されました。
  「花奴レビュー団」では「丘乃すみれ」の名でレビュー歌手をしたり、「シゲオ・小豆」のコンビ漫才を組んだり、その後「東家女楽燕」の名で浪曲師になったりなど様々な経験をしましたが、昭和33年に一人で演じる三味線漫談を始め、昭和35年から今の「玉川スミ」を名乗り始めました。
  見様見真似で身に付けてきた芸の道ですが、そこにいつも素晴らしい先達がいてくださって、本当に恵まれました。決して楽な道ではありませんでしたが「芸は身を助ける」というのは本当だと思います。
勲五等宝冠章授賞の頃
  実は私、子どもの頃から霊感が強くて、不思議な体験をいろいろとしてきました。どうも見えない方々に頼られるらしくて(笑)。そのような経験が信心深くもさせたのでしょうが、弘法大師様の、人のために尽くされた人生を知った時に「そこまでさせるものって何なんだろう」と関心を抱いたのです。弘法大師様は6歳で得度されましたが、少しでもこの方に近づきたいという思いで平成3年3月3日に宮崎県延岡市の今山大師で得度しました。法名は「澄光尼」といいます。同年に「勲五等宝冠賞」というたいへんな名誉もいただきました。神仏のご縁にありがたい気持ちでいっぱいです。
荒川区には長くお住まいですか?
  様々な所に暮らしましたが、荒川区に越してからはもう15年になります。ここが終の住処になるでしょうね。荒川区で死に水とるからよろしくね(笑)。
 寄席がある上野や浅草にも近いし便利ですね。昔から日暮里のこの辺りは地の利が良いこともあって芸人が多く住んでいたんですよ。大正年間・昭和戦前までの上野・浅草は今の比じゃないくらい芝居小屋や寄席が並んで大変賑やかで活気がありましたからね。お呼びがかかったときにパッと行ける距離が重宝したのね。
 荒川区とのご縁といえば、荒川警察署の隣りの地蔵堀の石地蔵様は今では立派にお祀りされているけど、私が目にしたときは哀れなご様子で、10年くらい御世話させていただきました。今でも、毎月一度は、欠かさずにお参りに行っていますよ。荒川警察署は、私といろいろご縁も深く今でも「全国交通安全週間」などいろいろな催しでお付き合いさせていただいています。荒川警察署は、私の身元引受人ですから悪いことはできませんよ(笑)。また、荒川区から表彰されたりしましたね。これからも荒川区のためにできることはさせていただきます。
浅草演芸ホールにて
  芸事は実に奥の深いものです。今でも舞台に立つ前は、緊張で足が震えます。そこにいらっしゃるお客様お一人おひとりが大事なんです。その場にあった工夫と味付け。それが勉強であり、その積み重ねが芸を磨いてくれるんだと思います。
  来年は数え年88歳になるのと同時に芸能生活85周年を迎えます。その記念舞台を元気にやり遂げたい。その目標に向けて毎日舞台に立っています。
  すべての芸の勝負は舞台だ、という気構えしか芸人を支えるものはないようです。だから芸人は、この世界から足を洗うまで勉強しなければいけないということでしょう。お客さんに老醜を感じさせないよう若さも保たなければならないし、考えてみれば因果な商売です。
生きている間は勉強、勉強、死ぬまで勉強と思っています。これはなにも芸の世界だけのことではないでしょう。とにかく、人間、死ぬまで何かしら勉強し続けなければならないようです。私の舞台でのセリフではありませんが「休むのは、死んでからゆっくり」ということで……。
そうそうそれから「言うこと聞かなきゃブツよー!」。
「功徳のおスミ」とお呼びしたい、ほんとに苦労された師匠です。お姉(ねえ)さんというより「姉(あね)さん」。気が短くて威勢がいい。話せばずばっと真理をついてくる。昔の江戸のオカミさんっていうのは、きっとこんな女性だったんじゃないでしょうかね。
 まったく年をとられません。いや逆に若くなってる(笑)。いくつになっても色気があるんですよね。芸能界の重鎮でありながら表に出ない謙虚さ。芸能界の宝、人間国宝になってもいい方だと思います。どなたかに師匠のドキュメンタリーを撮っていただきたいですね。
*初舞台は3歳のときで、14歳までに13回親が変わっている。その後、女歌舞伎、新派、喜劇、民謡、女道楽、漫才、都々逸、松づくし等あらゆる寄席芸を習得してきた。漫才では「桂小豆」の名で「大朝家シゲオ」(後の「宮アオバ・シゲオ」の「宮シゲオ」)や、大江茂(妻は大江笙子)とコンビを組む。
1971年文化庁芸術祭賞優秀賞受賞。1991年勲五等宝冠章受章、2002年松尾芸能賞・特別賞受賞。その後は定席の寄席を中心に高座を勤め、晩年は人のオーラが見えると発言していた(痛快!明石家電視台でのナイツにて)。
桂米助は「寄席の世界のシーラカンス」(2007年5月15日放送のNHKラジオ第一「真打ち競演」の「最後の審判」のマクラ冒頭(桂米助の前に彼女が出ていた流れで))、瀧川鯉昇は「我々の業界の最長老」(「瀧川鯉昇1」収録の「ちりとてちん」のマクラ)と言っている。
笑点では、内海桂子、あした順子とともに、高齢女性のネタをする際に名前を出されることがある(小遊三は、チーム対抗戦の際に自分たち(好楽・木久扇)の合コン相手として、3人の名前を挙げ、歌丸から「合コンじゃなくて拷問」とネタにされていた。六代目圓楽からは、「玉川スミ→内海桂子→順子・ひろし→歌丸」のカウントダウンとネタにされたこともあった)。ちなみに、笑点の正月特番の中で行われた大喜利で、内海桂子やあした順子と共演したこともある。
2012年9月25日、心不全のため92歳で死去。
出演番組
桃太郎侍
ライオンのいただきます
おはよう笑点
大忠臣蔵
浅草お茶の間寄席
真打ち競演
ちんどんどん
金曜バラエティー など多数
著書
ちょっと泣かせて下さい 三味線漫談家玉川スミ 東映企画プロモーション 1983年
泣いて笑って突っぱって 北泉社 1985年
こけつまろびつ人生 ひとりの女として舞台一笑の熱い時。 善文社 1995年
世紀末にドドイツを くまざき社 1999年

 長い間、活動されているのに、私がその存在を知ったのは、ごく最近である。5、6曲聴いてみた。哀愁のある歌声が、演歌の歌唱にぴったり。そして、「男同士の日本海」のような、太く力強い歌唱もなかなか。これといった決め味が、やや乏しいだろうか。幅広く歌いこなす力量は、キャリア十分。
(詞 木下 龍太郎 曲 蔦 将包  )
あなたの心が 移ったことは 女の勘で 気付いてた つくり笑いで 別れて来たが 胸はずぶ濡れ なみだ雨ーーー
(収集プロフィール)
越前 二郎(えちぜん じろう、19XX〜 )
*作曲家、船村徹氏に師事し、「越前恋唄」、「母恋グラス」(星野哲郎・船村徹)作品をいただき、昭和63年2月にデビュー。芸名を船村徹が命名し北島三郎、鳥羽一郎の間の二郎をいただき全国の舞台に活躍中。
略歴
1985年
12月 全国ノンプロ歌謡大賞 入賞
西日本カラオケ王座決定戦 北島三郎賞
第3回 さつき祭カラオケ大会(FBC) 優勝
'85 ビクター全国縦断カラオケ選抜 優秀歌唱賞
タイカン・VHDカラオケ大賞「グランプリ大会」 グランプリ
敦賀まつりカラオケ大会(FBC) 優勝
日ベルコン カップルカラオケ大会 準優勝
第3回 クラリオン日本アマチュア歌謡祭 優秀歌唱賞
第1回 全多摩歌謡祭 最優秀歌唱賞 グランプリ
テイチクレコード「北国恋歌」全国カラオケ大会」 3位
1987年
9月 第1回 福井県カラオケ歌謡グランプリ選手権大会 グランプリ大賞
第1回 ビックカラオケ・ザ・チャンピオン 準優勝
名水まつりカラオケ大会(FBC・福井放送) 優勝
'87 福井県カラオケ選手権大会 優勝
敦賀まつりカラオケ大会(FBC・福井放送) 優勝
1988年 [昭和63年]
2月21日 テイチクレコードより芸名越前二郎でデビュー
作詞家・星野哲郎/作曲家・船村徹両先生の曲で「越前恋唄」「母恋グラス」を発売。
作曲家・船村徹先生の門下生となる。

 最近、存在を知った方である。ぱっと見、ヤワな2枚目、といった感じだが、迫力のある骨太(演歌とは、異なるが)の歌唱だ。本来、ポップス系の方のようだが、本格演歌で全国版デビューしたのだという。このため、歌唱はもとより、ドロドロの情念や、悶え、未練恋々は少ない。安心して聴ける、定番の大阪系演歌。なかなかの、佳曲。そして、この方もおじさん歌手の、再生プロジェクトの流れに、当てはまるようだ。曲によっては、大化けするかも知れない。歌唱力は、総合的に上の中。
(作詞:仁井谷俊也 作曲;四方章人 2016)
 こんなに 好きにさせといて 夜の新地に 消えたひと 傘のしずくをーーーどうかあの人連れてきて 大阪泣かせ雨
(収集プロフィール)
男石 宣隆(おいし のぶたか、1974〜 )神戸市有馬出身の歌手。
*M.n.jpより
中高年の女性から人気の高い男石宣隆が2016年9月21日にテイチクから出したメジャー第1弾の「大阪泣かせ雨」(作詞・仁井谷俊也、作曲・四方章人、編曲・伊戸のりお)の発売を記念したパーティーが9月27日、大阪市都島区の太閤園で開かれ、その新曲が披露された。全国から集まった250人を超えるファンが熱い声援をかけるなか、作曲家の四方章人氏や元大関出島の大鳴門親方も応援に駆け付けて「演歌を元気にしてくれる逸在」などとエールを送っていた。
 「大阪泣かせ雨」は、男石宣隆の声の魅力でもある澄み切った高音を生かして、恋しい男性を想う歌。カップリングの「おんな宿」も切ない別れを歌った同じ女歌。
 彼は関西のCDショップの組合が主催するカラオケコンテスト、関西歌謡大賞(現・にっぽんうたまつり)のグランプリを受賞し、2012年に自ら作詞作曲した「貴船川恋歌」(販売・テイチク)でCDデビューしている。今回の「大阪泣かせ雨」はメジャー第1作としてテイチクから出した。
 「大阪泣かせ雨」に先駆けて、かつて台湾へ出かけて歌った際にファンと「次ぎは台湾の楽曲を作ります」と約束して、今年4月に自らが台湾語で作詞・作曲して作ったのが「台湾暮色」。
 この作品やデビュー曲の「貴船川恋歌」でも分かるように、今まで彼は演歌のシンガーソングライターとして活動してきた。ところがテイチクの近藤芳樹ディレクターからは「紅白に出場出来たらカップリングの1曲程度は書いてもいい。それまでは曲作りは封印する」と、歌うことへの専念を言い渡されている。
「大阪泣かせ雨」を一生歌い続ける歌にするという男石宣隆
 かつてポップスを歌っていたという彼は「演歌に転向するのに悩み苦しんだ」という。今回の新曲を出すのに際しても「練習してもうまく歌えずに、どうしていいのか悩み、ディレクターや四方先生に相談しました」と明かしたほど。
 この日は、そうした演歌を歌う以前の「さよなら神戸」や「四月の雪」「島人(しまんちゅう)の宝」といった自作楽曲も披露した。
 シンガーソングライター時代には全国のカラオケ喫茶店などへのキャンペーンツアーも行っている。そこでは女性を中心にしたたくさんのファンを作っており、今回のメジャーデビューを支える原動力となっている。パーティーに参加していた最近ファンになったという女性は「福山雅治と速水もこみちを足して2で割ったようなイケメンぶりはもちろんのことですが、高音で誰よりも情感たっぷりに歌うところが大好きです」と話していた。
■誰からも好かれる性格
 パーティーにはファンに交じって男石のメジャーデビューに尽力した人たちが数多く顔を揃えていた。そのひとりが元テイチクエンタテインメントのプロデューサー、中西雄一氏。今回の新曲までには実力が伴っていないと、メジャー入りにノーを言い続けてきたが「歌が素晴らしく良くなったことと、男女を問わず彼の人に好かれる性格の良さがいい」と、発売を後押しした。
 作曲家の四方章人氏はまた「甘い声と輝いている目がいい。演歌を元気にしてくれるものと信じています」と激励。ディレクターの近藤芳樹氏は「彼とこの歌を育てていくのはファンの皆さんです。一緒に大きなステーシに押し上げてやって下さい」と呼びかけた。
*ルミネの日記より
ファッションも若々しくパツパツのスーツ姿!お顔も小顔!透明感のあるぬけるような高音が素晴らしい!

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