ハーブの名歌

華の昭和名歌300・華の平成名歌200

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 学校で習う前から、自然と耳に入って覚えている歌。いまでも多くの日本人が、そのパターンを踏襲しているだろう。伝統行事を、童謡にしてみた、といっていいのだろうか。生まれる14年も前のことだから、判らない。河村氏の童謡を、はじめ私は、自然発生的なものに依拠している、と思っていた。けれど、精査してみると、まったく違って、精緻な音楽理論に基づいていることに気づいた。このため、ほかの多くの有名な童謡と異なって、適度な明るさと楽しさがあるのだろう。
(作詞:サトウハチロー、作曲:河村光陽 1936)
1 あかりをつけましょ ぼんぼりに
  お花をあげましょ 桃の花
  五人ばやしの 笛太鼓
  今日はたのしい ひなまつり
2 お内裏様(だいりさま)と おひな様
  二人ならんで すまし顔
  お嫁にいらした 姉様に
  よく似た官女の 白い顔
3 金のびょうぶに うつる灯(ひ)を
  かすかにゆする 春の風ーーー
(収集プロフィール)
河村 光陽(かわむら こうよう、1897年8月23日〜1946年12月24日)昭和期の戦前から戦中にかけて活躍した作曲家。長女は歌手の河村順子。
略歴
1897年(明治30年)福岡県田川郡上野村(現・福智町)の裕福な地主の家に生まれる。小倉師範学校を卒業後、地元の小学校で音楽教師をしていたが、ロシア音楽、特に国民楽派に傾倒していた彼は、1920年モスクワでの音楽研究を夢見て朝鮮に渡った。しかし、当時のロシアは革命後の混乱期で、ゆっくり音楽の研究ができる状態ではなかったため、朝鮮にとどまり、師範学校や公立学校の音楽教師をして時を待った。
1924年帰国。東京音楽学校選科(現・東京芸術大学大学院)で、音楽理論などを学ぶ。1926年頃から自作曲の発表やピアノ伴奏者としての活動を始める。1929年から竹早小学校で音楽教師を務める傍らで、数多くの楽曲を発表。1931年に佐藤義美の難解な童謡詩「ほろほろ鳥」に曲をつけ、また1934年に佐藤作詞の「グッドバイ」を発表して世に認められた。
1936年にキングレコードの専属作曲家となったのを機に河村光陽と改名。この年に発表した山野三郎作詞の「うれしいひなまつり」が大ヒット、翌1937年に武内俊子作詞の「かもめの水兵さん」と続く。武内俊子との「赤い帽子白い帽子」「りんごのひとりごと」「雨傘唐傘」「船頭さん」など後世に残るものを含め、千曲を越える童謡を発表。大半の楽曲は長女の順子歌唱によるレコードで発表された。
1940年の夏には、富山放送局の依頼で、指揮が光陽、長女の順子が歌唱、次女の陽子がピアノ、三女の博子がヴァイオリンという編成のファミリーコンサートを開催し、ラジオ放送もされている。(1938年以前から光陽は3人娘との演奏旅行を行なっていた)1946年12月24日、胃潰瘍による出血のために急死。
主な作曲曲
ほろほろ鳥(1931年)(作詞:佐藤義美)
グッドバイ(1934年)(作詞:佐藤義美)
うれしいひなまつり(1936年)(作詞:山野三郎(サトウハチローの変名))
かもめの水兵さん(1937年)(作詞:武内俊子)
赤い帽子白い帽子(1937年)(作詞:武内俊子)
早起き時計(1937年)(作詞:富原薫)
仲良し小道(1939年)(作詞:三苫やすし(河村光陽と同郷))
りんごのひとりごと(1940年)(作詞:武内俊子)
船頭さん(1941年)(作詞:武内俊子)
雨傘唐傘(作詞:武内俊子)
*河村 順子(かわむら じゅんこ、1925年(大正14年)8月29日 - 2007年(平成19年)1月20日)日本の童謡歌手。父は童謡作曲家の河村光陽。妹もそれぞれ童謡歌手の陽子(1927年11月8日 - )、博子(1929年8月9日 - )。
略歴
東京都小石川区久堅町出身。1932年(昭和7年)、「かごめかごめ」「お薬とり」でポリドールレコードからデビュー。1935年(昭和10年)1月、ポリドール専属となる。1936年(昭和11年)、キングレコードに移籍し、同年2月、父河村光陽が作曲した「うれしいひなまつり」が大ヒット。以降父の作曲した「かもめの水兵さん」、「りんごのひとりごと」、「赤い帽子白い帽子」などがヒットした。特に、「かもめの水兵さん」については、戦前・戦中の童謡SP盤で一番販売した作品であった。その後は声楽家の木下保に師事するが、1941年(昭和16年)、音楽学校入学のためキングとの専属を解消し、1944年(昭和19年)、武蔵野音楽学校声楽科に入学。1946年12月24日、父の光陽が急死し、父の率いていた子鳩会児童合唱団を引き継ぐ。
音楽学校卒業後、歌劇「カルメン」のミカエラ役として再デビュー。NHK「子供の時間」、ニッポン放送で歌のお姉さんとしてレギュラー出演する傍ら、各社で童謡をレコーディング。
1963年(昭和38年)、オーストリア・ザルツブルクのオルフ研究所へ留学。帰国後の1966年(昭和41年)からは、千葉敬愛短期大学教授となり、音楽指導を行った。
1987年(昭和62年)にはCDで『河村順子・童謡の歩みI』を発売し、「流れ星」、「夕方のお母さん」などを新しく吹き込んだ。1991年(平成3年)には、続巻となる『河村順子・童謡の歩みII』を発売。
1985年(昭和60年)、第15回日本童謡賞特別賞を受賞。
57年間にも渡る長い活動歴で吹き込んだ童謡が約380曲になり、累計レコード売上が1000万枚以上に達した業績を称えられ、1989年(平成元年)には『ギネスブック』に登録された。
*二木紘三のうた物語より
雛の間というのは、薄暗いというイメージがありませんか。薄暗い部屋の奥に雛人形の白い顔がぼぉーと浮かんでいる、というイメージです。黒沢明監督『夢』の「雛祭り」は、そんな感じをよく表していました。
*老若男女を問わず、この童謡を知らない日本人はまずいない、といっても過言ではないでしょうね。他にも同種の歌がないわけではないと思いますが、やはりこの「うれしいひなまつり」が他を圧倒しています。日本の童謡には、たしかに明るさという点では欠けるところがありますが、一方他の民族にはない独特の美しい特性が感じられ、とくに他者へのやさしい思いやりの心や、自然への豊かな感受性に満ちているように思います。
*日本の情緒の真髄ですよね。この日本の伝統文化と情緒をいつまでも後世に残していかなければ、日本はどこの国かわからなくなってしまいます。
*川端康成ご推奨でもあった近くの上野焼(あがのやき)窯元もそのそばの渓流・白糸の滝もご存知かと。近くに天郷(てんごう)青年の家という簡易宿泊所がありました。宿泊所の庭に歌碑が建っており、『かもめの水兵さん』音符とともに作曲者の河村光陽は当地の出身ですと説明板が掛かっていました。

 裕次郎の声は、男の声として、深くとても魅力的な、稀な例だろう。その声で、哀愁に迫り、悲恋を歌い上げ、またムーディーを醸し、やさぐれたアウトロー的な情景も歌い上げた。正統的な意味でいったら、とても美声とは言えないのだが。戦前の価値観が終戦によって、広大な社会学的な化学変化を起こして、多様で幅広い魅力を、正当化したのだろうか。この曲の主人公は、マドロスなのだろうか、それともこの港町で何かの仕事をしている人なのだろうか?その辺はよく判らないが、ともかく思う人が、何処かに去ってしまい、痛切に再会を望んでいる。その光景が、裕次郎のハスキーで魅力的な声によって、洒落た深い物語になっている。
(作詞:石崎正美、作曲:上原賢六 昭和32)
1 霧が流れて むせぶよな波止場
  思い出させてヨー また泣ける
  海を渡って それきり逢えぬ
  昔馴染の こころと心
  帰りくる日を たたそれだけを
  俺は待ってるぜ
2 どらの響きも やるせなく消えて
  泣いて未練をヨー 告げるのに
  かわいお前にゃ いつまた逢える
  無事でいるならーーー
(収集プロフィール)
石原 裕次郎(いしはら ゆうじろう、1934年(昭和9年)12月28日〜1987年(昭和62年)7月17日)日本の俳優、声優、歌手であり、司会者やモデルといったマルチタレント。実業家・ヨットマンとしても活動。
SP
1956年8月:狂った果実/想い出☆
1957年2月:俺は待ってるぜ/(赤い灯の街角:原田美恵子)☆
1957年4月:泣きはしないさ/(雨の港の並木道:原田美恵子)
1957年5月:青い月だよ/ひとりぽっちの青春
1957年6月:(地の果てまで:白根一男/鈴木三重子)/(白樺の別れ:満田よし子) ※B面に台詞で参加
1957年7月:俺は渡り鳥/逢えてよかった
1957年8月:何とか言えよ(台詞 北原三枝)/錆びたナイフ
1957年10月:男の横丁/(誰かとめて!:鶴美幸)☆
1957年12月:お前にゃ俺がついている/(おぼえているかしら:原田美恵子)☆
1958年1月:嵐を呼ぶ男/鷲と鷹
1958年2月:口笛が聞こえる港町/白い手袋
1958年4月:明日は明日の風が吹く/決闘の河
1958年5月:陽のあたる坂道/遥かなる面影
1958年5月:足にさわった青春/俺は東京のタフガイさ
1958年6月:風速40米/哀愁の十二番街
1958年7月:泣虫酒場/青春の谷間
1958年7月:素晴しき男性/青い駒鳥の唄
1958年9月:海峡を越えて来た男/(愛すればこそ:伊東のり子)
1958年9月:赤い波止場/南国の夜
1958年10月:波止場野郎/月影の男
1958年10月:嵐の中を突っ走れ/男なら夢を見ろ
1958年12月:紅の翼/俺はパイロット
1959年3月:二人だけの夜/ふるさとへ帰ろうよ
1959年4月:男の心に星が降る/(帰って来たひと:原田美恵子)
1959年5月:清水の暴れん坊/(別れ汐風:一戸竜也)
1959年7月:千切れ飛ぶ愛情/夜霧のサンパウロ
1959年7月:世界を賭ける恋/俺の巴里
1959年8月:星の見えない街/地獄の横丁
1959年8月:俺らにゃ俺らの夢がある/男なら夢を見ろ
1959年9月:男の友情背番号・3/若い魂
1959年10月:天と地を駈ける男/青空散歩
1959年12月:男が命を賭ける時/最果てから来た男
1960年3月:夜の足音/(純愛のブルース:川地民夫)
1960年4月:香港の薔薇/(雨と風のブルース:小黒幸子)    *二木紘三のうた物語より
大ヒットしたので、兄の石原慎太郎がこの歌のイメージで脚本を書き下ろし、蔵原惟繕の監督昇進第一作として映画化。この『俺は待ってるぜ』と半年後の『錆びたナイフ』の大ヒットで、歌手としての座を不動のものに。映画は波止場、酒場、殴り合い、拳銃などが出てくる昭和30年代日活の定番作品の1つ。このあと、少しずつ筋書きの違う似たような映画が量産されました。この超マンネリズムがいいんですね。見る前から筋書きがわかるから、安心して見ていられました。戦前から昭和20年代までは、松竹映画の主題歌から多くのヒット曲が生まれましたが、その後は日活の独擅場。
日活スターのヒット曲といっても、石原裕次郎と小林旭の歌った曲が大半。赤木圭一郎や渡哲也も歌っていますが、ヒットしたのは1、2曲。石原裕次郎が弟分の渡哲也が歌った『くちなしの花』を聴いて、「こんな体育会系の歌い方ではヒットするわけないよ」といったそうですが、案に相違して大ヒット。予言は外れたわけですが、「体育会系の歌い方」とは実にうまい表現。赤木圭一郎も渡哲也も、よくいえば男っぽい歌い方ですが、精一杯楽譜通りに歌っているという感じで、深みや余韻があまりなく、ヒットは曲の良さに助けられたといった面があります。
*裕次郎のヒット曲はたくさんありますが、中でもこの「俺は待ってるぜ」は、エコー効果が素晴しく、裕ちゃんの胸の中で響くような歌声に男らしさと切なさを感じさせてくれました。

 ザ・キングトーンズといえば何と言っても、1968年の「グッド・ナイト・ベイビー」だけれど。3年後に出た、この曲のファンも多い。特に、 不幸色した ランプゆれて、のフレーズが印象的。私も、はじめこの曲は、外国曲の翻案(リメーク)だとばかり思っていた。すべて日本人のオリジナル、というので驚いた。それほど高水準なレベルの曲、ということだろう。描かれている物語よりも、曲自体の、救いの無い暗さが、歌の世界を深めている。
(作詞:なかにし礼、作曲:早川博二 昭和46)
いとしいひと あなたはいま
名前さえ告げずに 海にかえるの
白い霧に 目かくしされ
遠い船の汽笛 ぼくは聴いてる

かりそめの恋を さけんだけれど
あふれくるーーー
      (間奏)
さよならは 死ねというも同じ
枯れはてた 涙 涙 涙
不幸色した ランプゆれて
あなたを今日も待つ 暗い港
(収集プロフィール)
早川 博二(はやかわ ひろつぐ、1925年 - 2004年4月15日)日本の作曲家およびトランペット奏者。主に歌謡曲および吹奏楽の分野を手がけた。また早川博二&モダン・ポップス・オーケストラを指揮した。
主な曲
歌謡曲
夢の散歩道(作詞:信楽順三、歌:園まり)
ヴィーナスのたて琴(作詞:信楽順三、歌:園まり)
暗い港のブルース(作詞:なかにし礼)
老人と子供のポルカ(歌:左卜全とひまわりキティーズ)
バケツのおひさんつかまえた(惣領泰則と共作、作詞:はるき悦巳、歌:中山千夏)
吹奏楽
アイヌの輪舞(1982年度全日本吹奏楽コンクール課題曲)
その他
都こんぶの唄
横浜市立若葉台西小学校校歌(2007年3月閉校。横浜若葉台団地を参照)
*二木紘三のうた物語より
昭和46年(1971)4月にグラモフォンからレコードが発売されました。ただし、曲が発表されたのは、この8年前の昭和38年(1963) です。作曲者でトランペット奏者の早川博二が率いるモダン・プレイボーイズの演奏でレコードが発売されました。このときはインストゥルメンタルで歌詞はありませんでしたが、しばらくあとで作詞家・訳詞家として名高い薩摩忠が歌詞をつけ、フランク赤木の歌唱でレコードが作られました。
風冷たく 波ざわめく
暗い港の夜 俺はいつでも
あの面影 追い求めて
沖を見つめながら 岸辺に立つ

船影も 見えぬ夜は何時も
噛みしめる 遠くすぎた恋を
この空しさ この寂しさ
暗い港のような 俺の心よ
    (繰り返す)
私は知りませんでしたが、フランク赤木は非常に歌唱力のある歌手だったようで、ザ・キングトーンズも彼から歌唱指導を受けたといわれます。しかし、そのレコードはあまり評判にならず、ザ・キングトーンズがなかにし礼の歌詞で歌ってからは、その持ち歌として定着。曲はムードミュージックとしては国際水準を行く傑作だと思います。早川は、トランペット奏者としてスタートし、戦後は作曲家・アレンジャーとしても活躍。
*この歌が発表されたという昭和46年頃は、作詞家・なかにし礼の最も脂の乗り切っていた時期だったのでは。先生も解説で述べておられますが、私もかつて誰かが「この歌は日本が生んだ世界的なブルースだ」と、評していたように記憶しております。

デンバーの歌唱には、野太さと土着的な味わいがあり、オリビアの歌唱には、素直でスマートな明るさがある。聴き比べると、この曲への思いが深まるようだ。日本語の歌詞は、素朴な移行する感覚が、郷愁と鬩ぎあうような。また、青空と、広大な大地が見えてくるようなポジティブな志向がいい。
(作詞・作曲:B. Danoff, T. Nivert & J. Denver 日本語詞:鈴木麻実子、補作:宮崎駿 昭和46/カバー:オリビア・ニュートン・ジョン)
 カントリーロード この道 ずっとゆけば
 あの街に続いてる気がする カントリーロード
 一人ぼっち恐れずに 生きようと夢見てた
 さみしさ押し込めて 強い自分を守っていこう
 カントリーロード この道 ずっとゆけば
 あの街に続いてる気がする カントリーロード
 疲れたたずむと 浮かんでくる故郷の町
 丘をまく坂の道 そんな僕をしかってるーーー
 Country Road
1. Almost heaven, West Virginia,
Blue Ridge Mountains, Shenandoah River.
Life is old there, older than the trees,
Younger than the mountains, blowing like a breeze.
  (Refrain:)
  Country road, take me home
  To the place I belong,
  West Virginiaーーー
(収集プロフィール)
ジョン・デンバー(John Denver、1943年12月31日 – 1997年10月12日)アメリカ合衆国のシンガーソングライター。
略歴
ニューメキシコ州ロズウェル出身。ドイツ系の家庭に生まれる。数多くのヒット曲を生み出し、1970年代のフォークソングにおいて中心的な役割を果たした。
*親しみやすい曲調と、繊細で情感あふれる歌詞が特徴。コロラド州アスペンのリオグランデ州立公園には、デンバーの作品で、コロラド州の公式な州歌となっている「ロッキー・マウンテン・ハイ」の歌碑が立っている。
最大のヒット作Take me home, country roadsはオリビア・ニュートン=ジョンにカバーされたほか、日本ではスタジオジブリの映画『耳をすませば』の主題歌(映画ではオリビア・ニュートン=ジョンのカバー曲を使用)として使われた。
オー!ゴッドなどの映画に主演したほか、テレビドラマなどの出演もある。
1997年10月12日、米国内ツアーを終えて、カリフォルニアで休日を過ごしていたが、自ら操縦していた飛行機の墜落により事故死した。
2014年にハリウッド殿堂(Hollywood Walk of Fame)のレコーディング部門の2531番目の殿堂入りしたことが明らかとなった[3]。
主な作品
以下の作品は、デンバー自身のオリジナルまたは共作として発表されたもの。
フォロー・ミー (Follow Me) 1969年
悲しみのジェット・プレーン (Leaving on a Jet Plane) 1971年
故郷に帰りたい (Take Me Home, Country Roads) 1971年
さすらいのカウボーイ (I'd Rather Be A Cowboy) 1973年
ロッキー・マウンテン・ハイ (Rocky Mountain High) 1973年
太陽を背にうけて (Sunshine on My Shoulders) 1974年
緑の風のアニー (Annie's Song) 1974年
バック・ホーム・アゲイン (Back Home Again) 1974年
すばらしきカントリー・ボーイ (Thank God I'm a Country Boy) 1975年
マイ・スウィート・レディ (My Sweet Lady) 1977年
*二木紘三のうた物語より
1971年に発表されたジョン・デンバーの出世作。どさ回りを続けていた3人の若者が、この歌で一挙に全米に知られました。3人とも、1度もウェストヴァージニアに行ったことがないまま、この歌を作ったというエピソードは有名です。田舎出身の私としては、日本語詞より原詞のほうが心に沁みます。アパラチア山地の谷間にひっそりたたずむ、住人がみな顔見知りといった感じの小さな町が浮かんできます。アメリカ版ふるさと演歌といったところでしょうか。
ジョン・デンバーは、70年代に、『ロッキー・マウンテン・ハイ』などのヒット曲で人気カントリー歌手の地位を確立。1997年10月12日、カリフォルニア州モントレー空港を、自分の操縦する単発の自家用軽飛行機で離陸後、墜落して死亡しました。

 この曲の前後7、8年が、フォークのピークだったろうか。たくさんの名曲が生まれた。また演歌・歌謡曲も盛んで、こちらも多くの名曲が生まれていた。まあ、音楽全般にとってよき時代だったのかも知れない。その中で、面白い登場の仕方で、このグループは出て来た。この時代の歌手(グループ等を含む。ジャンルを問わず。)のほぼすべては、芸能プロとマスメディアの意向によって、イメージや路線を作られ、手厚いサポートを受けたり、意に背けば反対にズタズタにされた。成功したフォークの歌手たちは、これらからすこし逃れているように私たちには見えて(振る舞って)いたが、デビュー後2、3年の内に、ほとんどが業界のルールに捕縛されていった。ザ・フォーク・クルセダーズは、そのなかで稀な、業界の手の出し憎い存在だった。これは初め、各人がこの業界に、あまり執着をもっていなかったことが、大きな理由ではないだろうか。
 この曲は、素直な曲調と素直な情感が、嫌みなく、技巧に走らず、歌いやすく、万人の胸にずんと来る。全体に明るく、何処と無くほのかな希望が、垣間見えるのも、人気の秘訣だろう。
(作詞:北山 修、作曲:加藤和彦 昭和46)
1 命かけてと 誓った日から
  すてきな想い出 残してきたのに
  あの時 同じ花を見て
  美しいと言った二人の
  心と心が 今はもう通わない
  あの素晴しい愛をもう一度
  あの素晴しい愛をもう一度
2 赤トンボの唄を うたった空は
  なんにも変って いないけれど
  あの時 ずっと夕焼けを
  追いかけていった二人の
  ーーー
3 広い荒野に ぽつんといるよで
  涙が知らずに あふれてくるのさ
  あの時 風が流れても
  ーーー
(収集プロフィール)
北山 修(きたやま おさむ、1946年6月〜 )日本の精神科医、精神分析家、臨床心理学者、作詞家、ミュージシャン。
略歴
1965年、京都洛星高等学校卒業後、京都府立医科大学入学。
1972年、京都府立医科大学卒業。札幌医科大学内科研修生として2年間勤務した後、ロンドンのモーズレイ病院およびロンドン大学精神医学研究所にて2年間研修。
1980年、北山医院(北山研究所を経て、現・南青山心理相談室)を開設。精神分析家・心理療法家として活動する。
1991年、九州大学教育学部助教授に就任。1994年、同教授。1998年、九州大学大学院人間環境学研究院教授。2001年より同大学院医学研究院教授を兼任。2010年3月、九州大学を定年退職。
2010年4月より南青山心理相談室顧問。白鴎大学教育学部特任教授に就任。
2011年4月、国際基督教大学教養学部客員教授に就任。
2013年4月、白鴎大学副学長に就任。
*元々はカントリーミュージックをやっており、中高の後輩でもある豊田勇造らと学校のある衣笠山に地なんだ「衣笠マウンテンボーイズ」というバンドでギタリストを務めていた。 大学時代に加藤和彦と出会い、関西フォークブームの出発点となる「ザ・フォーク・クルセダーズ」を結成する。1970年前後のフォークブームでは関西、京都フォークの中心的人物の一人として活躍した。『戦争を知らない子供たち』『あの素晴しい愛をもう一度』『風』『花嫁』『白い色は恋人の色』『レッツゴー!サザエさん』などの作詞でも有名。『戦争を知らない子供たち』で日本レコード大賞作詞賞を受賞。『さらば恋人』は堺正章の歌で大ヒットを記録した。なお、彼の書く詞の内容は「9割が実話」だという(2011年7月25日放送のきたやまおさむのレクチャー&ミュージック内にて本人談)。
1968年、大島渚監督の映画『帰ってきたヨッパライ』にフォークルとして出演。
その頃の著書に、『くたばれ!芸能野郎』(自切俳人名義・自由国民社)、『戦争を知らない子供たち』『ピエロのサム』(ブロンズ社)、『さすらい人の子守唄』(角川書店)、『ピエロの唄 北山修青春詞歌集』(角川文庫)、『止まらない回転木馬』『サングラスの少女』(中央公論社)などがある。
精神科医を目指して音楽界から退いたのち、ロンドンに留学。ロンドン留学中に書きためた曲をアルバム『12枚の絵』として発表。同アルバムには、作曲・演奏・コーラスとして加藤和彦・杉田二郎・石川鷹彦が参加している。
1977年から1978年には「自切俳人(ジキルハイド)」の名前でニッポン放送「オールナイトニッポン」木曜1部のパーソナリティを務めた。1978年にオールナイトニッポンの名物コーナーを本にした『真夜中の辞典』(自切俳人監修・ペップ出版)、1979年に『秘密の京都』(自切俳人著・経済界リュウブックス)を出版。1979年、自切俳人とヒューマン・ズーのアルバムとして『自切俳人のゴールデン・アルバム』を発表。ちなみに同アルバムには、オールナイトニッポンで好評だった『孤独のマラソン・ランナー』『世界は君のもの』も収録されている。
1980年、大森一樹監督の映画『ヒポクラテスたち』に自切俳人として出演。
1982年から1985年まで、コンサート 夏の時代を企画・構成。京都市の円山公園音楽堂などで開催(2000年にも「コンサート 夏の時代2000」を開催)
1986年、とんねるずの歌『寝た子も起きる子守唄』を作詞。
1988年、野村恵一監督の映画『森の向う側』(原作は村上春樹の「土の中の彼女の小さな犬」)に「きたやまおさむ」として主演。
1990年代にもヒューマン ズー(現メンバー:きたやまおさむ・平井宏・兼松豊・赤木一孝・松崎博彦・坂庭省悟・進藤了彦・城田じゅんじ)のメンバーとして音楽活動を継続。ヒューマン ズーのアルバムとして『ヒューマン ズー コレクション』などが出ているが、メンバーの坂庭、城田を欠いた現状では継続の見通しは不透明である。
1996年、フジテレビ「ポンキッキーズ」挿入歌『メロディ』を作詞(作曲は加藤和彦)。
2002年7月、加藤和彦、坂崎幸之助と「ザ・フォーク・クルセダーズ」(第3次)を新結成。同年11月17日、NHKホールにて行われた「ザ・フォーク・クルセダーズ新結成記念解散音楽會」に出演。同名ライブCD『ザ・フォーク・クルセダーズ新結成記念解散音楽會』のほか、CD『戦争と平和』『フォークル「DAIKU」を歌う』を発表した。
2003年、市川猿之助のスーパーカブキ「新三国志3」のテーマソング『愛と未来のために』を作詞(作曲は加藤和彦)。同年、「第19回国民文化祭ふくおか2004『とびうめ国文祭』」のイメージソング『人生号 Jinsei−GO!』を作詞(作曲は甲斐よしひろ、歌は氷川きよし)。
2004年、野村恵一監督の映画『天使は自転車に乗って』に出演。
2005年、『こころを癒す音楽』(講談社こころライブラリー)出版。
2006年2月12日、大阪フェスティバルホールで『きたやまおさむ ザ・還暦コンサート』を開催。主な出演者は、きたやまおさむ、ヒューマン ズー、杉田二郎、加藤和彦、坂崎幸之助、兵庫芸術文化センター管弦楽団。加藤和彦作曲による『帰ってきたヨッパライの主題による交響楽的深層心理学試論<私は2度死ぬ>ハ長調 作品13』が演奏された。同名ライブCD『The Kanreki:きたやまおさむ還暦コンサート』も発表。同年2月、みすず書房から対談集『ふりかえったら風 対談 1968−2005』(全3巻)を北山修の巻・キタヤマオサムの巻・きたやまおさむの巻で出版。同年9月10日、埼玉県狭山市の稲荷山公園で開催された『HYDEPARK MUSIC FESTIVAL 2006』では、「ポーク・クルセダーズ」を名乗り加藤和彦・坂崎幸之助ともに「足柄金太」の変名で出演した。また、この年にはNHK教育「おかあさんといっしょ」に加藤の作曲で「ありがとう おかあさん」を提供。
2007年、CDブック『今語る あの時 あの歌 きたやまおさむ ―ザ・フォーク・クルセダーズから還暦まで―』インタビュー&テキスト前田祥丈(アートデイズ )出版。
2008年12月、自らの100作品を納めた『北山修/きたやまおさむ 百歌撰』を出版、それに関連して、2009年2月、ニッポン放送開局55周年記念番組『あの素晴しい愛をもう一度』に出演し、現在大多数が廃盤になっている本人の作品等を披露した。
2009年4月、NHK-FM放送にて冠番組『きたやまおさむのレクチャー&ミュージック』の放送が開始される。
2009年10月の加藤和彦の死去に際しては朝日新聞と産経新聞に「きたやまおさむ」名義で追悼コメントを寄せた。それらの中で「すべてが一流のプレーヤー」と評し、一人の人物の中に音楽家と演出家という、2つのあり得ない役割が両立できるがゆえに、なかなか自身は満足が得られない天才の不幸を指摘。老後をともに過ごす楽しみを失った友人として、また病を食い止めるべき精神科医としての無念を記している。10月19日に関係者だけで行われた加藤の密葬では出棺前に挨拶し、「加藤君には2人の人間がいた。1人は楽しく明るく前向き。もう1人は厳しく完全主義で怒ると怖い人。今回はそのもう1人が自分を殺してしまったんだと思う。曲を制作する時は人の意見も聞いてくれたんだけど、最後の幕引きでみんなの意見を聞いてくれなかった」と述べた。
2010年3月、九州大学を定年退職。以降は一医師としての臨床活動及び後進の指導を始めるが、それまでの僅かな間、再びテレビ出演。顔出しでのテレビ出演は北山にとって実に40年ぶりのこととなった。九州大学では、定年退職を記念して3月21日に『さよならコンサート』が行われ、その模様はNHK BS2で同年5月2日に放送された。このコンサートでは「愛し伊都の国」(九州大学伊都キャンパスゾーンにオープンした嚶鳴天空広場のテーマソングで、教え子の稲永要が作曲)、「七色の光の中で」(加藤の死から受けた感情をしたためた歌で、坂崎幸之助が作曲)の2曲の新作を発表している。2010年5月3日・10日には、NHK-FMで『きたやまおさむの九大ファイナルレクチャー』(後11:00 - 前0:00)と題し、最後の授業などが放送された。
また『北山修 最後の授業 テレビのための精神分析入門』(全4回)がNHK教育テレビで放送された(2010年7月26日 - 29日、後10:25 - 10:50、(再)8月2日 - 5日、前5:35 - 6:00)。北山は「精神科医は楽屋を見せてはいけない」とプライバシーを外に出すことを禁忌としている[5]が、今回初めて授業にテレビカメラを入れ、それを意識した講義内容となっている。なお、著作『最後の授業』にはノーカット全文収録。
同年4月8日に東京メルパルクTOKYO(旧郵貯ホール)、4月10日に大阪サンケイホールブリーゼにおいて『きたやまおさむ レクチャー&ミュージック「ライブ・コンサート・生きてます!」』を開催。加藤和彦の死にうちのめされ音楽活動をやめようと考えていたとき、博多で北山作品を歌ってきたバンドのライブに招待され、再び立ち上がることを決意した、と述べる。そのバンド「D50ShadowZ(デゴマルシャドウズ)」は、この2日に限り「行徳伸彦とOK退職記念バンド」と名乗り、数々の北山作品を披露。間にトークを挟み、後半は北山も参加して歌った。ここでは「七色の光の中で」と同じく加藤和彦の死に際しての気持ちを北山が作詞、行徳が作曲した「早く逝こうとする君」を初演した。
2011年6月、D50ShadowZと共同で新作アルバム「あの素晴しい愛をもう一度」を発売、「早く逝こうとする君」も収録されることとなった。
2012年6月、大阪サンケイホールブリーゼを会場に「よいよいよい祭」を自ら企画・演出。前年に終わった京都「宵々山コンサート」(これまで自切俳人での出演はあったが、ラストはきたやまおさむとして飛び入り出演)の文化を継承し、みんなが「よいよいよい」になることを目指したコンサートである。共演者に高石ともや、杉田二郎、城田じゅんじ、そしてゲストには永六輔が参加。
2013年3月、坂崎とコンビを組み、フォークル時代の曲や加藤のソロ時代曲、未発表音源などを利用して第4次フォーク・クルセダーズとして「若い加藤和彦のように」を発表。
*二木紘三のうた物語より
北山修が作詞し、加藤和彦が作曲して、2人で歌ったフォークの名曲。昭和46年4月に東芝のレーベルで発売されました。『なごり雪』『贈る言葉』『学生街の喫茶店』などとともに、今なお繰り返し歌われるフォークのスタンダードナンバー。はたち前後の男の子にとって、同年輩の女性の心は謎に満ちています。神秘的という言い方もできますが、心の動き方がわからず、振り舞わされる男の子が少なくありません。ほかに好きな人ができた、不愉快ことをいわれた、頭が悪い、ケチだなどなど、これといって思い当たる節がないのに、ある日突然連絡を絶つ、あるいは連絡を拒否される。こんな経験をした男性はけっこういるようです。この歌はそんな状況をテーマに。何か理由があって仲違いしたような場合には、修復は可能ですが、理由もわからずに突然「心が通わなくなった」のなら、修復は無理だと思ったほうがいいかも。
*フォークブームに乗って『ザ・フォーク・クルセダーズ』が一時代を築いたこと、加藤と作詞家・エッセイストの安井かずみとのこと、そして医学博士・精神科関連の著作家としての北山氏のもうひとつの顔で「帰ってきたヨッパライ」というとてつもない発想で作られたことなどを思い出しました。この歌を聴くとトワエ・モアの「空よ」がすぐに思い出されます。今思うとある日突然ではなく、それぞれの未来へ向かってそれぞれが去って行ったあの頃の自分や友達、そして小さな思慕をいだいていたようなあの娘たちはーーー。
*きれいなメロディーと一途な若さがあふれる歌詞だと思い、長年楽しく口ずさんで来ました。


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