ハーブの名歌

華の昭和名歌300・華の平成名歌200

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 くせのない歌詞と、切なさのあるメロディー。素人にも歌いやすい、王道の演歌。そのままだと、定番の安心して聴ける、しかし深みのない曲になってしまうが。ここで、浜の歌唱力が生きる。男と別れて旅する女の、心と情景を、さりげなくそして深く、歌い上げている。特に、一番の終わりのフレーズ(ひとりきり)の深みに導く歌唱がいい。
(詞 喜多條 忠 曲 伊藤 雪彦 2015)
フェリーと同じ 速さに合わせ 白いカモメが ついて来るーーーそれが良かった 人なのに 船の舳先も 二人を裂いて 越佐海峡 別れ旅 
(収集プロフィール)
浜 博也(はま ひろや、1962〜 )山形県、出身の歌手。
略歴
1982年(昭和57)、大学在学中に出場したTBSテレビ「11時に歌いましょう」にてグランドチャンピオンを獲得。
同年4月 "鶴岡雅義と東京ロマンチカ" 3代目のリードボーカルとして歌謡界にデビュー。十数年にわたり、その透き通る高音と都会的なムードで全国の歌謡ファンを魅了。
1994年(平成6)、東京ロマンチカを離れソロ活動を開始。
2000年(平成12)『おまえがすべてさ』、2001年(平成13)『おまえに逢いたい』が連続ヒットし、ソロ歌手として全国的に知名度を上げる。
2003年(平成17)『別れても…神戸』でテイチクレコードに移籍。以降、『恋の河』『おまえがいたから』("おまえシリーズ" 完結編)等をリリース。
2009年(平成21)には、覆面歌手「ザ・マイクハナサンズ」として『今夜の主役は私です!』を発表。
また、2012年(平成24)発売『情け雨』は、歌謡界デビュー30周年記念曲として話題を集めた。
テイチク移籍10弾シングルの『越佐海峡』では、未練を残して旅をする女心を切々と歌い上げた。

 「琵琶湖哀歌」「九段のさくら」は、東海林太郎との共唱なので、小笠原単独の代表曲といえばこの曲になるだろう。私が、この曲を知ったのは、榎本美佐江のカバーだった。それから長い間、十三夜は、榎本のオリジナルだとばかり思っていた。すでに多くの有名歌手が、テレビ、CD等で歌い継いでいる名曲。オリジナルとカバーが、ひどく異なる場合も多々あるが、この曲は、小笠原の歌唱が、すべての原型になっている。澄んだ高音と、小細工をしない歌唱が、曲の世界をストレートに表現している。
(詞 石松 秋二 曲 長津 義司 昭和16)
河岸の柳の 行きずりに ふと見合わせる 顔と顔ーーー左様ならと こよない言葉 かけました 青い月夜の 十三夜 
(収集プロフィール)
小笠原 美都子(おがさわら みつこ、1920年(大正9年)3月25日〜  )高知県長岡郡大豊町出身の歌手。
経歴
昭和10年(1935年)、15歳の時に上京し歌を学んだ後、昭和15年9月、20歳の時に「花嫁蝋人形」という歌でテイチクレコードよりデビューした。その後「十三夜」「琵琶湖哀歌」など、200曲以上を吹き込んだ。テイチク時代に、東海林太郎と吹き込んだ「琵琶湖哀歌」は、昭和16年(1941年)4月6日に琵琶湖で起こった第四高等学校漕艇部(現金沢大学)の部員11人の悲惨な遭難事故を悼んで作られた歌である。その年6月にレコードは発売され大ヒットし現在でも歌い継がれている。あの「琵琶湖周航の歌」と共に名作である。また、同年10月に発表した「十三夜」の大ヒットは、戦後に歌った榎本美佐江のカヴァーでも知られ、他にも東海林太郎とのデュエット「九段のさくら」などヒット曲多数。
80年代には日朝音楽芸術交流会会長に就任し朝鮮の国際音楽祭などで活躍するなど、朝鮮と中国の友好活動でも知られている。朝鮮国内ではその功績を讃えられ度々表彰されるなど日本人歌手としては稀有な存在と言える。
近年でも、テレビ東京の「昭和歌謡大全集」に出演するなど健康的な姿を見せている。 2013年2月 92歳ながら、堺市のサンスクエア堺の大ホールで、朝鮮学校支援のチャリティーコンサート歌はわが華を周囲の支援で開催し、ハングルでの歌も2曲まじえて6曲をみごとに歌い人々に深い感動を与えた。2014年 現在94才でご健勝で、昔と変わらぬ美声で歌っておられます。現在日朝音楽芸術交流会名誉会長。
現在日朝音楽芸術交流会会長は平和のピアニストの池辺幸惠がひきついでいる。池辺は2012年4月に訪朝し<4月の春国際親善芸術祭典>に参加し、自作の"アリラン変奏曲"の演奏により受賞。以来朝鮮の理解と交流・支援に深く携わり、朝鮮共和国への偏見と誤解、在日・朝鮮学校への差別をなくすさまざまな活動や、それらの主旨と反原発と9条を守る歌とピアノとスライドショーの"平和コンサート"を催している。
*ユーチューブ・池辺幸恵氏より
今日3月25日は、小笠原先生の95才の誕生日です。昨日は府庁前の火曜日動の後、西宮市の小笠原美都子先生を誕生日の花束とイチゴののった苺大福とを持って尋ねました。(24日と勘違いしてて先生に指摘されました^^)先生は相変わらずお元気で、いつもにこやかな笑顔でむかえてくださいます。ちょっとのつもりが、いつのまにか2時間いてしまいました。おしゃべりしたり、歌ったり、と。一昨年の堺市でのリサイタルの曲も 7曲全部歌われました。そんなつもりもなく持ってたデジカメで撮ったビデオなので、まもなく電池切れでした。「リサイタルしましょうか、みんな驚くよ!!」と、相変わらずの迫力で元気いっぱいの先生でした。
代表曲
みのる秋(昭和15年11月)
伊那のふるさと(昭和16年4月)
琵琶湖哀歌(昭和16年6月)共唱:東海林太郎
十三夜(昭和16年10月)
夢の砂漠(昭和16年11月)
若草哀歌(昭和17年7月)
九段のさくら(昭和18年3月)共唱:東海林太郎
アユチャの町(昭和18年5月)
すみだ川(昭和18年11月※東海林太郎「銀座尾張町」片面)
輝く翼(昭和21年)共唱:榎本美佐江
名残の月影(昭和22年)
たけくらべ(昭和23年)
恋し鳥(昭和26年)
みおつくしの鐘(昭和30年)
平壌慕情
平壌讃歌

先日、昭和の3大歌手を選んだので、今回は平成版を選んでみました。
*平成5大歌手
五木ひろし・沢田研二・中島みゆき・サザンオールスターズ・松任谷由実
(次点)森進一・千昌夫・山本譲二・坂本冬美・氷川きよし・井上陽水・オフコース・GLAY・安室奈美恵・ゆず・いきものがかり・宇多田ヒカルなど。

 上原敏の歌唱を、30曲あまり改めて聴いてみた。あまり知られていない曲にも、なかなかいい曲がある。「峠しぐれ」「徳利の分かれ」「いろは仁義」「落葉しぐれ』など。取り上げた「霧の波止場」は、人生を達観したような詞と、ほのかな哀切のメロディーがいい。
*今回、昭和の4大歌手を選んでみた。戦前と戦後は、社会状況がまったく違うので、当然、別の選考とした。
昭和の4大歌手(前半)東海林太郎・上原敏・藤山一郎・岡晴夫
      (次点:二村定一・佐藤千夜子・楠繁夫・ディックミネ         二葉あき子・霧島昇・松平晃など)    
       (後半)美空ひばり・三橋美智也・北島三郎・都はる           み
      (次点:江利チエミ・春日八郎・村田英雄・島倉千代子        ・三波春夫・フランク永井・橋幸夫・藤圭子など)
(坂口淳 作詞 菊地博 作曲 昭和12)
旅の港の 夜は更けて 霧に波止場の 灯がゆれる 結ぶ夢さえ ままならぬ 知らぬ他国のーーー若いみそらを あてもなく 風に吹かれて 西東 
(収集プロフィール)
上原 敏(うえはら びん、1908年8月26日〜1944年7月29日)秋田県出身の歌手。「妻恋道中」「裏町人生」のヒットを持つ戦前に活躍した流行歌手。最終学歴は専修大学卒業。
経歴
昭和10年代(1930年代後半から1940年代前半)に一世を風靡した歌手。
秋田県北秋田郡大館町(現・大館市)の商家「ネリヤ」に生まれる。大館中学(現・秋田県立大館鳳鳴高等学校)在学中からバイオリンに熱中。音楽の素養を身に付けた。スポーツは中学時代から野球を得意とし、専修大学商学部に入学後も得意の野球を楽しみ、大学リーグに選手として出場している。ポジションは投手で、1933年春と1934年春の東京五大学リーグ戦優勝に貢献した。なお、4年時には主将を務めた。
1936年、わかもと製薬宣伝部に入社。普通のサラリーマンとして社会人となったが、社会人野球チームに所属し、レコード会社のポリドールの野球部と対戦した際に、上原の遠縁の親戚でポリドールの幹部であった浪曲作家・秩父重剛から作詞家藤田まさとを紹介され、レコード吹込みを勧められる。当時ポリドールは、東海林太郎・新橋喜代三というスターを抱えていたが、新たなスターを発掘することにかなり注力していた時期でもあったからである。
歌手デビュー
1936年、テスト盤として「須坂小唄」など4曲をレコーディング。同年に浅草〆香、山中みゆきらと共演した「しゃんつく踊り」でポリドールからデビューした。芸名は訳詩集「海潮音」の作者上田敏に、映画俳優上原謙をもじったものである。当時、第二の東海林太郎の育成に躍起だったポリドールは、上原より先にタイヘイレコードから引き抜いてきた河崎一郎(橋本一郎)の宣伝に注力。河崎の人気が上昇しかけた矢先に、河崎を巡り訴訟問題が起こり、自然とポスト・東海林太郎の目は上原敏に注がれていった。上原は義太夫好きであった父の影響を受け邦楽の素養もあり、広沢虎造を意識した小節を利かせた歌い方は、正当派の東海林と違ってより大衆的なカラーが強かった。  すでに上原は「遠い湯の町」「恋の絵日傘」などの中ヒットも出していたが、東海林の模倣と評されるなど伸び悩んでいた。そんな上原に幸運が訪れる。1937年、東海林太郎が当時の名子役高峰秀子を養女にむかえることでトラブルが起き、東海林と意見が対立した藤田まさとは、東海林のために用意した「妻恋道中」の吹き込みに、上原を抜擢したのである。発売されるや25万枚を超える大ヒットとなり、上原敏は流行歌手としての地位を確立した。
スター歌手に
その後は立て続けに、松竹映画主題歌の「流転」、結城道子がソロでレコーディングする予定だった「裏町人生」と連続して大ヒットを続け、その素人くささの中に、やわらかさを持った歌声が、全国に流れた。この頃、秩父重剛の義妹・澄子と結婚。それを祝うかのように発売された翌年の「鴛鴦道中」は、新人・青葉笙子とのデュエットによりこれも大ヒットとなった。上原の快進撃は、この後も続き「上海だより」「南京だより」「波止場気質」「徳利の別れ」「俺は船乗り」と、1937年から1939年にかけては、同じ会社のスター・東海林太郎を追い越す勢いで、ヒットを出し続けたのである。
「妻恋道中」をはじめとした{ヤクザもの(股旅もの)}に、「波止場気質」などの{マドロスもの}、そして、「上海だより」に始まる{たよりもの}「流沙の護り」「聲なき凱旋」などの(戦時歌謡)という異なるジャンルの流行歌を上手く歌い分け、幅広いファン層を獲得していった。人気とともに、銀幕への出演も多くなり、東宝映画「ロッパ歌の都へ行く」「金語楼の大番頭」、松竹映画「弥次喜多六十四州唄栗毛」「弥次喜多怪談道中」などに特別出演している。中でも「ロッパ歌の都へ行く」には、本職の流行歌手として出演し、「親恋道中」を歌い、戦前の上原のステージを偲ぶことができる。また、同じポリドールに所属していた榎本健一の舞台にも出演し、秋田なまりの朴訥とした台詞まわしで人気を博していた。
1938年3月から1942年まで、上原敏は、中国大陸を戦地慰問のため通算7回訪れ、数多くの将兵の前で歌った。青葉笙子、山中みゆき、浅草染千代らと何度も戦地を慰問しては、帰国後レコーディングを行うという、ハードなスケジュールをこなしていった上原は、徐々に健康を害し、多くの薬を常用するようになっていった。1941年にヒットした「仏印だより」の頃には、だいぶ声が荒れ、デビュー当時のやわらかさは失われてしまっている。日米開戦後、勇壮な軍歌や叙情的な歌曲が中心となると上原が得意とした股旅歌謡は衰退、彼の歌い方も時局に合わなくなり人気も凋落していった。
性格は生真面目で、歌手というよりもサラリーマンのような質素な生活を続け、借家暮らしを通した上原であったが、いずれ歌手を廃業するつもりであったのか、千葉県で牧場を経営することを検討していたと夫人が述懐している。酒好きで、後輩の面倒見も良かった上原敏は、誰からも「敏さん」と呼ばれて慕われていた。律儀な人柄でも知られ、1939年に、コロムビアとテイチクが多額の支度金を用意して上原敏を引き抜こうとした際にも、「こうして歌手として成功したのも、すべてポリドールのお陰です」と全く応じることがなかった。
召集、戦地へ
1942年、東京渋谷の劇場に出演後、大久保の自宅に帰ったところ、召集令状が来ていることを夫人から告げられた上原は顔色も変えずに支度を始めたという(夫人の証言)。
ポリドールの鈴木社長、山中みゆきらに上野駅で見送られ、地元秋田で入営するため夫人とともに帰郷(積極的な慰問活動の実績や30も過ぎての召集には不可解な面があるが、のちに上原敏と松本力治を別人物と判断した秋田県のミスであったことが判明した。)。
入隊後は、上原が流行歌手であることを知っていた上官から何度も「貴殿は報道班員として内地に残るように」と勧められたが、戦地行きを自ら希望し、輜重兵としてニューギニア戦線に赴いている。現地では様々な先で気軽に慰問に応じ、最前線の将兵を励まし続けた。
1944年1月には夫人に宛てた軍事郵便が届き、食糧事情の苦しさを知らせてきている。戦地では、マラリアに感染し死線を彷徨った。日本軍の敗色が濃厚となってきた1944年7月、上原はウエワク方面で連合国軍の上陸による激しい戦闘に巻き込まれ消息を絶った。 また「丸」編集部編「九九式襲撃機」P296(昭和61年「丸」三月号収載)によると、ウエワクに夜間攻撃に来たB24が海上に不時着し乗り組み員が数人生きていた。これを船舶兵たちが大発にて捕虜にしようと出かけたが、途中で救助にきたPB4Y飛行艇と撃ち合い、任務が失敗した上に2人戦死者をだした。この時1人の村上1等兵が上原敏だったとのちに聞いたという話もある。
戦死とその後
終戦後の1947年、澄子夫人宛に「昭和19年7月29日、補充兵長・松本力治はニューギニア方面にて戦病死」との公報が届いた。ただ、後に帰還した戦友が夫人に語ったところによれば、戦病死ではなく空襲を受けての戦死だったともいい、没した日が4月30日であったとの証言もあり、詳細な最期は不明。好敵手であった東海林太郎が歌手としてデビューした36歳という年齢での無念の死である。東海林太郎は、同じ会社の同僚として、その死を悼み「上原君はどうも帰って来られなくなったらしい。大衆の心を捉える歌い方をするいい歌手だった。」と知人に語ったという。
「鴛鴦道中」で上原とともにスターとなった青葉笙子は、結婚のため1941年引退し、上原が出征したことも知らなかったが、終戦直後、偶然にも上原敏戦死の新聞記事を見つけた。わずか7年間の歌手生活を彗星のように駆け抜けた上原敏を偲び、青葉笙子は上原敏の顕彰活動を続け、平成に入ってからも澄子未亡人とともに上原の終焉の地を訪れ、英霊に届けとばかりに「流転」を歌って、その死を悼んだ。その人生は、サラリーマンから芸能界という華やかな世界に転進しながらも、一人の小市民として、戦争の時代という抵抗できない波の中に消されてしまった。
1976年、上原の故郷である秋田県大館市の桂城公園に、上原敏の顕彰碑が建立された。 現在は上原の戦死した日とされる7月29日に、慰霊祭である流転忌が毎年行われている。 上原の没後70年を迎えた2014年には、母校の専修大学で企画展が開催され、多くの来場者を集めた。
代表曲
遠い湯の町 (1936.9)
作詞:松坂直美/作曲:大村能章/編曲:
恋の絵日傘 (1936.12)
作詞:矢島寵児/作曲:島口駒夫/編曲:
妻恋道中 (1937.4)
作詞:藤田まさと/作曲:阿部武雄/編曲:阿部武雄
声なき凱旋 (1937.6)
作詞:島田磐也/作曲:佐藤富房/編曲:細田定雄
流転 (1937.7)
作詞:藤田まさと/作曲:阿部武雄/編曲:
裏町人生 共演:結城道子 (1937.8)
作詞:島田磐也/作曲:阿部武雄/編曲:阿部武雄
流沙の護り (1937.10)
作詞:紫室代介/作曲:佐藤富房/編曲:細田定雄
上海だより (1938.1)
作詞:佐藤惣之助/作曲:三界稔/編曲:三界稔
鴛鴦道中 共演:青葉笙子 (1938.1)
作詞:藤田まさと/作曲:阿部武雄/編曲:阿部武雄
いろは仁義 (1938.2)
作詞:佐藤惣之助/作曲:谷のぼる/編曲:細田定雄
泣き笑いの人生 共演:東海林太郎 (1938.4)
作詞:島田磐也/作曲:飯田景応/編曲:細田定雄
南京だより (1938.4)
作詞:佐藤惣之助/作曲:山田栄一/編曲:山田栄一
徳利の別れ(赤垣源蔵の唄) (1938.5)
作詞:野村俊夫/作曲:阿部武雄/編曲:細田定雄
波止場気質 (1938.7)
作詞:島田磐也/作曲:飯田景応/編曲:飯田景応
愛馬の唄 共演:佐野周二 (1938.8)
作詞:清水みのる/作曲:山田栄一/編曲:山田栄一
北満だより (1938.12)
作詞:佐藤惣之助/作曲:三界稔/編曲:三界稔
部隊長と兵隊 (1938)
作詞:佐藤惣之助/作曲:飯田景応/編曲:飯田景応
俺は船乗り (1939.2)
作詞:大木惇夫/作曲:倉若晴生/編曲:倉若晴生
親恋道中 (1939.3)
作詞:藤田まさと/作曲:服部逸郎/編曲:服部逸郎
追分道中 (1939.7)
作詞:藤田まさと/作曲:服部逸郎/編曲:服部逸郎
男船乗り (1939.12)
作詞:樋口晴雄/作曲:飯田景応/編曲:飯田景応
鴛鴦春姿 共演:青葉笙子 (1940)
作詞:藤田まさと/作曲:長津義司/編曲:
仏印だより (1941.1)
作詞:小島政二郎/作曲:飯田景応/編曲:飯田景応
南海の護り (1942.5)
作詞:逵原実/作曲:東條武士/編曲:
潜水艦日記 (1943.3)
作詞:矢島寵兒/作曲:若倉晴生/編曲:若倉晴生

 私のほとんど知らない方だが、ムード歌謡の歌手として、かなり有望な方だと思う。特に、リズムに乗った、こういう曲(原曲はアローナイツ)が声質に合っていい。ド演歌は、合わないと思う。容姿も、まずまず。この曲は、そのまま社交ダンスに使えそうだ。
(詞 千家 和也 曲 幸 耕平 1993)
口から 口へと じかにお酒を 飲ませて下さい 身体が芯からとろけるように 少しづつーーーひとめ惚れひとめ惚れ もう止まらない 私 あなたを 口説きたいの
(収集プロフィール)
若原 りょう(わかはら りょう、19XX〜 )北海道出身の歌手。
趣味は、ドライブ、体を動かすこと。好きな言葉は、初心忘るべからず。目標は、歌謡史に残る歌手になること。
略歴
父親が歌好きなことから、9歳でカラオケ大会に出場。それが契機となり、歌の基礎を学びながらレッスンを重ね、様々な大会・選手権で、天性を発揮し、数々の賞を受賞。大人顔負けの演歌力を身につける。レッスン仲間が歌手として華やかにデビューするのを遠目に見ながら、自分のデビューの夢をより一層強固に燃やしていた。
カラオケ大会でメキメキと頭角を現わし始めた頃、地元・旭川市など各地から「若原 弘」を歌手にと、『若原弘を歌手にする会』が発足。
ホリデージャパンに在籍、ムード歌謡の歌手としての道を選択。コロムビアより第一弾となる、宮路オサムによる「電話」が発売に。名前も「りょう」に改めた。
2006年7月には、NHK歌謡コンサート「歌コン金メダル」に出演、「心の歌」コーナーに出演していた宮路オサムを応援団長に、金メダルを受賞。
シングル
2004.2.25  電話/だって好きだから
2005.10.19  Good−Bye 東京/破局
2006.11.22  浮気ならいいわ/東京ロンリーナイト
2008.4.23  東京挽歌/ついておいでよ
2009.7.22  ゆうこ/あなたを口説きたい
2010.10『泣きぼくろ』詞:山口洋子 曲:竜崎孝路
C/W 「サヨナラ夜霧」詞:高畠じゅん子 曲:原田ヒロシ  
2011.10.19『男のひとり酒』詞:八女はじめ 曲:堀江童子  
C/W 「女こころ雨」詞:雨宮英子 曲:望月吾朗  
2013.5『北國へ』詞:石原信一 曲:弦哲也  
C/W 「衣替え」詞:石原信一 曲:弦哲也  
2014.3『一度は愛したひとだもの』詞:千家和也 曲:幸 耕平  
C/W 「今夜は最高」詞・曲:原田ヒロシ  


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