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電話
美ら海水族館のレストランに入ると、巨大な水槽を悠然と泳ぐ甚平鮫の姿に圧倒された昨日の自分が、一歩前を歩いている。いや、周りを見渡すと、昨日の自分のような人々で溢れかえっていた。亜莉香はピッツアを頼んで柱の傍のテーブルに着いた。混雑のなかでの相席だったが、テーブルを共にするカップルは亜莉香には目もくれずに水槽を見つめている。
着信のあった事に気づいたのは、携帯を開いた時だった。目的もなく開いた携帯に、ツアー・コンダクターからのメッセージが入っている。
「探し物のコインがあったそうです。ホテルのルーム係の方が、ベッドの下から見つけたとのことですので、ホテルの方へお電話下さいね。」
周りの雑音と相まって途切れ途切れに聞こえた声が、亜莉香の鼓動を早めた。まだ一口も齧っていない丸いままのピッツアを半月に向かい合わせて畳み、テーブル備え付の紙ナプキンで包む。ここにこうしてはいられない。はやる気持ちに押されて観光客の群れから抜け出すと、園の出口に向かった。
傾いた日は空に薄いピンクの雲をはべらせている。タクシーのラジオが、リスナーの葉書を読み始めた。行き先を告げて、ナプキンに包んだピッツアを齧る亜莉香の耳に、聞き慣れた音楽が遠のいたときだった。
「いつも優しい笑顔をありがとう。お母さん、僕が死んでも挫けないでね。いつまでも泣いて暮らしたりしないでね。分かっているよ、お母さんは頑張りやさんだから、きっと笑顔を忘れないと。僕は神様を信じている。キリストに信仰を働かせる者は、楽園で蘇るという聖書の教えも。それまでは、苦しみの無い処でぐっすり眠るだけ。だから、僕の死のとげに刺されて苦しまないで。僕を忘れることを恐れて、笑顔を失わないでね。お母さんの笑顔が大好きだから。前向きに頑張る姿に励まされたから。お母さんが幸せでいることが僕の望みだから。いつかきっと、楽園で再会できるから。大好きだよ、お母さん。」
ピッツアを頬張ったままの 亜莉香の頬に白く光るものが流れた。それは幾つかの筋になって滑らかに落ち、やがて纏まって頬全体が濡れた。声を押し殺そうと勤めたが、亜莉香の努力は喉を押し開く嗚咽に屈服させられ、口から飛び
出したピッツアは、数片の噛み砕かれた形で膝の上に毀れた。
(ごめんね、千可羅。お母さんはあんまりいいお母さんじゃなかった。いつも優しい笑顔なんかじゃなかった。千可羅、お母さんも千可羅の死のとげに刺されて苦しかったよ。千可羅が死んでから、笑うことが罪なことに思えた。千可羅を忘れるようで、心の底から楽しむことなんてできなかった。千可羅を奪ったのは神様だと思った。憎むことしかできなかった。苦しかった。千可羅、心配してくれてありがとう。ありがとう。)
読まれた葉書が、よう逝した息子の気持ちを代弁するもののように思え、ラジオから流れる中年男性の声の向こうに、もう一度、息子の声を聞こうとしたが、ラジオは音楽に切り替わり流れ続ける。タクシーの運転手がテッシュの箱が後ろにありますので、どうぞお使い下さいと言うのを空耳のように聞き流して、ピッツアを握って泣いた。
ホテルの影が見えたときには、何処かに刺さっていたとげも涙と共に流れていた。形見のコインが戻ってくる。たったそれだけのことなのに、千可羅との再会が神によって保障されたような気がする。鼻や瞼は赤らんでいるものの、亜莉香の顔は安らいで、全てのものを通して何者かに感謝したい気持ちに満たされていた。
終
イエスは彼女に言われた,「わたしは復活であり,命です。わたしに信仰を働かせる者は,たとえ死んでも,生き返るのです。」ヨハネ 5:28
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