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千葉県の野田市に行って来ました〜。 醤油の町として知られていますが、気になる事が有ったのでそちらを書きま〜す。 野田市最古の社として知られる桜木神社に関する野田商工会議所の説明には 『仁寿元年(851)に稲荷の祠を建立したのが始まりと伝えられ、永祚元年(989)、桜の下に神殿を造ったことから桜台村と名付けられたとも言われています。参道には、文化11年(1814)造立の猿田彦神の陽像をはじめ、天保5年(1834)の甲子講の角塔に乗った大黒天像などがみられます。隣接する高梨家の墓地(観音堂)には、一本の菩提樹があります。これは、親鸞が高梨家に逗留した時に、自ら植えたものだという伝承があります。今も残る「櫻薹村」の金石旧参道には猿田彦や庚申塔も西念坊の妹の墓碑や親鸞手植えと伝承のある菩提樹等がある』とあります。 社伝には『仁寿元年(西暦851年)に、大化の改新で活躍した大職冠藤原鎌足公五代の後胤で、冬嗣公(774年生〜826年没52歳)三男の嗣良公が、この地に居を移したとき、この処に櫻の美しい大木があり、 公がこれの木のもとに宮処を建立したことにより、 古くより櫻の宮と称へられております。以来広大な御神徳により、広くこの地の開発の守護神として御神慮を示され、また野田市最古のお社』とあります。 桜木神社が建てられた850年頃までは、宮廷の花は中国文化の影響から「梅」が中心でした。仁寿元年(851)頃は、中国文化から日本文化に変わろうとしていた時代で、宮廷の花も「桜」に変わろうとしていた時代です。地方に広まるのは、ずっと後の事ですから、桜を取り入れた嗣良公は時代の最先端を走っていた事になります。 疑問 「冬嗣公三男の嗣良公」は実在したのでしょうか? 有名な歴史事件『承和の変』『応天門の変』に藤原冬嗣の3人の息子が登場しています。 長良・良房・良相の3人です。 社伝の「三男の嗣良公」は、三男とあるから良房と良相の間になると思うのですが、そうなると右大臣にまで出世した良相が弟になります。 普通なら「三男の嗣良公」の方が中央官僚として残っていて当然なのです。 「三男の嗣良公」の母親の身分が低かったので、地方に飛ばされたとも考えられますが、どうも不自然です。 まず正史に出てくる冬嗣の子供として「長良・良房・良相」と、ここには出てこない「良門」がいます。この4人と「嗣良」の名前を良く見比べて下さい。 「良」の字が共通している? そうですね。5人の「良」の様に、親子や兄弟で字が共通しているのを『通し字(とおしじ)』又は『通字』といいます。 例えば、足利将軍家の「義」徳川将軍家の「家」等がそうです。 今でも、『通字』を利用して家族の絆を保っている家も多い事でしょう。 「それなら嗣良は藤原冬嗣の息子に間違い無い!」 「藤原冬嗣の(嗣)の字も『通字』として入っているじゃないか!」 「これは、絶対間違いない」等の大きな声が聞こえて来そうです。 この絶対間違いなさそうな所が、怪しく変なのです。
つづく |
野田市「桜木神社」の謎
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