ビラにして配った男は元ちょうにち新聞の記者だった。 しかし、1937年の日中戦争(支那事変)が泥沼化しようとしている昭和14年(1939年)10月26日に退職している。 この10月に石原は自分の理念に元付き「東亜連盟」を設立。 この時に「石原莞爾」と知り合ったのかも〜〜〜。 ちなみに、この年は満州で「ノモンハン事件」が起き、9月1日にはドイツ軍がポーランドに宣戦布告をして「第二次世界大戦」が勃発した時期です。 石原は男に「最初はヒトラーが勝つ。終わりはスターリンが勝つ」と語ったといいます。 石原は東条から関東軍参謀副長を解任され、留守第16師団に着任して師団長に補せられていました。 東条は板垣征四郎陸軍大臣の下で、陸軍次官・陸軍航空総監・陸軍航空本部長に就き、 1940年(昭和15年)7月22日から第2次近衛内閣、第3次近衛内閣の陸軍大臣に成りました。(対満州事務局総裁も兼任) 中国側は東条を日本の満州権益拡大を主導する人物として警戒していた様です。 石原が現役を退いて予備役へ編入されたのが太平洋戦争開戦前の1941年3月。 太平洋戦争が始まると戦争をやめさせねば成らないと主張していた「石原莞爾」 「東条らの施政を見るに、国民に対し卑劣にも戦局の真相を隠蔽し、言論を封殺し、ただ冷酷苛烈なる怒号叱咤以外に大局的にいかなる処置も講ぜず、単に戦線を拡大するというチャンバラ本意の遣り口を見て、これでは日本は敗れるほかなしと・・・」 「海軍が破れた以上端的にいうが、この戦争はこのままでは負けだ」 「国民が総蹶起して軍閥を打倒し、政治革命を成就することだ」 彼の主張をビラにして配った男。 すぐに憲兵隊に拘束拘禁され獄死した。 東条は石原を恐れていたと思われます。 当時の「石原莞爾」は満州を少人数で占領し英雄視されていた。 だから、主張をした石原には手を出さずに「ビラ撒き」をした男を獄死させて終ったようです・・・。 1919年に第一次世界大戦後の「パリ講和会議」で「国際連盟」の設立が提案されました。 設立にあたって日本は「人種差別撤廃案」主張しましたが・・・。 多数決では勝っていたのに、アメリカに潰されたのです。 パリ講和会議 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%AA%E8%AC%9B%E5%92%8C%E4%BC%9A%E8%AD%B0 「石原莞爾」は満州建国を立案実行した時、 「パリ講和会議」の実態から白人(アメリカ)との間に起る「世界最終戦争」を想定し、 「黄色人種」が力を合わせて、10年間は国力を貯えるべきだと考えていたのです。 ところが、東条は「石原莞爾」の「満州建国」を見てイケイケドンドンで日中戦争から太平洋戦争へと突き進んでしまったのです。 |
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