一句を得るために、何よりもまず題材が必要ですが、それには新鮮な選択の視点が必要です。 技術的にはよほど優れていても、あまりありふれた材料では、そこそこの作品しか期待できません。 たとえば、サラリーマンが常に身近にしている上司とか管理職とか呼ばれている人物を、「川柳の目」で描こうとするにはどのようなスタンスをとるべきか−。 まず、対象をよく観察する。 といって、それが上司として当然の振舞いや、誰もが気がつくような表面的な姿だけでは、改めて句にするほどのこともありません。 それは「日常の目」によるものの見方で、「川柳の目」では、そうしたすべての先入観を排除することが大切です。 一般的な印象として畏怖の対象である人物の中に、それとは反対の弱点を見つけ出す− 川柳の目とはそういうことで、高い位置にあるものを時分と同じ水準まで引きおろしてしまう、これを「価値の引き下げ」といいます。 その意表をついた指摘が、同じ立場にある多数の共感を誘い、笑いを引き出します。 概念と実態の不調和はいろいろありますが、一例として、会社では、威張っている管理職が自宅では奥さんに頭が上がらないなどというものも、目新しいとはいえないまでも、これに該当するでしょう。 江戸時代の川柳でも、武士や僧侶や医師といった日頃いかめしい印象を与える対象を、別の角度から見ることで、その表面的な仮面をはがすという「うがち」の目が笑いの一要素になっています。 若殿は馬の骨から御誕生(柳多留10篇) 管理職を描く場合も、日常見慣れている側面(会社)は初めから切り捨て、別の側面(家庭)へ視点を転じる−と、ふだん表面から見えなかった意外な事実や、無防備な実態が顔をのぞかせます。 「管理職の恐妻」は、題材として必ずしも珍しくはないかもしれませんが、視点の転換という考え方の分かりやすい例として採り上げたと理解してください。 では、このテーマを出発点として、実作にかかってみましょう。 一句の内容となるのは「会社という表側の世界では、なにがしの地位にあり、それなりに権力をもった管理職が、家庭という裏側の世界では、ひたすら夫人の言いなりになるただの中年男にすぎないという思いがけない事実」−つまり概念と実態の不調和、二つの側面のコントラストを描くのが狙いで、そこから川柳独自の屈折した笑いが生まれてきます。 さて、一句の構成に際しては、テーマとなる事実をただ説明したり、報告するだけでは妙味は得られません 例えば、 家庭では妻をこわがる管理職 管理職、家に帰れば恐妻家 これでも一応、句らしい体裁はととのえていますが、もうひとつ訴えるものが乏しいのは、一句が事実の報告だけに終わっていて、風景としてのひろがりが見られないからです。 同じことでも、描写体にして、 管理職、家にはこわい妻が待ち とすれば、「待ち」が連想を刺激して、多少面白味が出ます。 また、普段は人を使って、いわば「頭が高い」位置にあることを逆手に利用、立場の逆転にポイントを絞って、 管理職、家では妻に使われる 家庭では頭が低い管理職 などとしてみるのも、工夫の一つでしょう。 特に会社用語などを取り入れると、アイロニカル(皮肉)な効果も得られます。 管理職 家では妻が管理職 会社では管理 家では管理され のように意味を裏返した同語を重ねてみたり、 管理職 家に帰ればイエスマン といった語法も、皮肉で面白いでしょう。 要は、さまざまな用語を動員するわけですが、それを日常的な意味ではなく、裏返したアイロニーとして用いるということです。 もうすこし辛辣な言い方をすれば、 五時以降は妻に飼われる管理職 「飼われる」などというのは、いささか酷なようですが、川柳に限らず誇張法(張喩)は重要な表現の手法です。 一筆書きと同じで、表現上の用語選択には思い切りと大胆さが期待されます。 この場合のウィットは罵倒や悪口とは別のもので、第三者に不快感を与えることはありません。 作者自身がなまじ逡巡ったり中途半端だと、逆に陰湿なものになりがちです。 こんな風に、さまざまな角度から一つのテーマに立体化していくことが大切です。 「管理職」という言葉だけを使ってきましたが、これはもちろん他の言い方も可能で、前後の語句や句調によって、「上司」でも「部長」でもよいわけです。 デパートへ婦唱夫随で来る部長 秘書でない秘書とおえらいさんの旅 同伴で出会う上司の薄い影 あるいは、役職を特定しないでも、機能の暗示や動作によってそれとわからせる方法もあるでしょう。 会社では使い家では使われる 電話口部下に内緒で妻に詫び 学閥を抜き閨閥にしばられる さて、これまではもっぱら諧謔の面からとらえてきました。 ただ、よく間違えられることですが、川柳はジョークのようにはじめから笑わせようと意図して造るものではありません。 的確に捉えられた盲点や機微が、結果として笑いを引き出すということで、結局は作者の<目>がものをいうことになります。 もちろん、捉える角度によっては、笑いのない川柳もあります。 喜劇と悲劇は背中合わせともいえるからです。 この辺で管理職の人間的な側面−孤独や哀愁へと、イメージを増幅してみるのもいいでしょう。 家族にも味方が居ない管理職 父の座はとうに冷えてる管理職 証明の角度を変えることで、より人間的な姿が浮かびます。 昇進のたびに孤独が深くなる ここまでくると、単に管理職を描くというより、人間そのものの哀しさやさびしさ、人生の奥深に触れてきます。 要するに、会社での上下と、家庭での上下の逆転という図式を、あらゆる時は、あらゆる場所にイマジネーションを広げて風景化するプロセスは、このテーマ(管理職を)描くだけに限らず、すべての作句の基本となります。 一つの対象を選んで、可能な限りの角度からアプローチする−これが物をよく見る修練になり、ひいては上達の近道ともなります。 句は、説明や報告であったり、理屈であったりしては、つまらないものになりますが、その他にも、自分ひとりがおもしろがっているだけで、第三者の共感を得られない独善、楽屋落ち(現在のお笑いタレントにはこれが目立つ)、ユーモアとくすぐりの取り違え、つまり内容ではなくコトバだけ(たとえばハゲとかデブとか)で、おかしがらせようとする類、これはコトバ遊びや、ただ卑近なだけに終わることが多いということです。 また、限りある器(十七音)の中に何も彼も盛り込もうとする貪欲型は、結局一つのことも言えない結果になりがちですし、それほどとは思えないことに「かな」とか「や」を濫用する詠嘆型、お説教でもするような「一言居士」型、これと似た教訓、類語型、頭の中だけで組み立てた空想型(現実を踏まえたフィクションと、単なる空想とは違います)などが初心者が陥りやすいパターンです。 完全と思われる人にもどこかに欠点があるように、どんな句にも多かれ少なかれ欠点があります。それが目立つか目立たないかの違いだけですが、この違いが大きいのです。 (尾藤三柳) |

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必死に勉強しておりますが〜〜〜。
ダメか〜〜〜。
2009/5/29(金) 午前 5:30