どうなっちゃうの?日本の将来

県から土地の寄附を強要されている。すでに占有されて竹島状態・・・。

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健康食品会社への出資金、詐欺被害500億円か

 「預かり金が倍になる」とうたい、全国の会員から違法な出資金を集めたとして、昨年6月に出資法違反容疑で捜索を受けた健康食品会社「リッチランド」(東京都北区、佐伯万寿夫代表)が、会員に説明した投資事業に、出資金をほとんど投資していなかった疑いが強いことが、警視庁生活経済課の調べで明らかになった。
 同課は8日に特捜本部を設置し、同社幹部らについて、詐欺容疑での立件に向け本格捜査に乗り出す。同社が、1万人以上の会員から集めた出資金は総額500億円を超えており、巨額詐欺事件に発展する可能性が出てきた。
 同課は昨年6月、会員2人に計数百万円を出資させた出資法違反容疑で、リッチランド本社など約30か所を一斉捜索。押収した経理資料などの分析や同社幹部の事情聴取を進めた。

[読売新聞社]

 このやり方、年金や雇用保険等の制度と似てない?

 金の先取り、支払いは数年から数十年後。
 金は貯まる一方だが、いざ、支払いになると使ってしまって無い。

 数年前に「未常識理論」のマルチの親玉、山本一郎氏が5年後に出資金が2倍になると言って、出資を募りましたが、支払い前に逮捕されてしまいました。

その時、山本一郎氏は「5年経っていないので、被害者が居ない」
 警察は「破綻は明らか」

 年金や雇用保険なども「破綻は明らか」・・・?

 この事件は参加自由だけど、年金は強制だぞ〜。

「嗣良」のどこが不自然なのか?


 正史に出てくる冬嗣の息子「長良・良房・良相・良門」は、父親の「冬」「嗣」の字を誰も使っていないのです。

 もし親子で『通字』を利用するなら「良」では無く「冬」か「嗣」の字を使ったはずです。正史に書かれている4人ですら使っていない「嗣」の字を、身分が低く地方に飛ばされたと思われる「三男の嗣良公」だけが使っているのは、不自然なのです。

 ちなみに藤原の祖「鎌足」から「良房」の孫までの直系だけの名前を比べてみると「鎌足」「不比等」「房前」「真柄」「内麿」「冬嗣」「良房」「基経」「忠平」となり、親子の『通字』は一度も無いのです。
(「房前」と「良房」に「房」がだぶっていますが、2人は100年以上離れている)

何故、親子で『通字』が無かったのでしょう。

 この時代は『諱(いみな)』の習慣があったのです。

 諱とは口にするのも憚られる、畏れ多い名前という意味があり、古代の歴史書では天皇の名前を直接口にしたり、書類に記さないとされ、又、子供に名前を付ける時にも使用してはいけない文字とされたのです。

 ところが後世になると、高貴な人の諱から一文字を貰い、自分の諱に使うということが流行しました。

これを『偏諱(へんき)』といいます。

 平安の終り頃から偏諱を受けることは、義理の親子であることを表し、時には忠誠の証や報償として与えられました。室町時代以降になると、将軍の諱の偏諱を受けることが、地方大名の箔付けに利用され、大きな政治的効果を持ちました。とりわけ戦国時代には、困窮した将軍家が偏諱を乱発したこともありました。また、大名が将軍の偏諱を受けるのと同様に、領主クラスが大名の偏諱を受けることも一般的になったのです。

 「三男の嗣良公」の名前は、後世の人が『諱(いみな)』の習慣があったのを知らずに『偏諱(へんき)』や親子の『通字』が、一般にも流行していたので、誰もが「これは、絶対間違いない」と思ってもらえる名前を「冬嗣」「良房」から、取って付けた様な気がします。
 コナン君と金田一君は、どのように考えられますか?

『江戸時代、武家の手になる武家を対象とした「寛永諸家系図伝」「寛政重修諸家譜」のための家譜書き上げを担当した当時の歴史家(学者・儒者を含む)の無知誤解にあったと考えられる。その誤解の淵源は、室町時代にかもされた大義名分論的源平の政権交代思想や、これに続く四大貴姓といわれる源・平・藤・橘重視の思想であろうか。この誤った思いこみにより、天下人を夢見る戦国大名が、次代の天下を希望的に占って、次つぎと氏を変えて行くこととなった。
織田信長は、もともとは忌部氏であったらしいが、藤原氏といい、のちには平氏を称した。
豊臣秀吉も自己の出自をいかにするか悩んで、藤原氏の猶子となりついには豊臣氏を新たに称した。
徳川家康もまた、藤原を称し、のちに源氏に鞍替えしている
                                   歴史百科日本姓氏事典より

地方豪族の中に貴種の出であると称するものが多いが、はたして系図通りに信用していいものかどうか疑問である。
 地方の武士たちは、貴種の出である藤原氏などの姻戚となることを願い、その姓をも工藤・斎藤など何々藤と改めた。
 津軽の安藤氏が、安部氏の出身でありながら、安藤を名乗ったのも、藤原氏の権勢と結びつくためであり、藤原氏の勢いの衰えとともに、安東姓に復帰したものと思われる。
 斎藤別当実盛も『尊卑分脈』によると、藤原氏の出身ではなく、在原姓であったという。
 藤の字を冠した名字が西国に多く、下に付けた名字が東国に多く、両者あわせて、藤原氏の末流と称するものが名字の中でもかなりな部分を占めるのは、こうした関係からであろう
                                       豊田武 歴史読本 
 余談ですが、苗字(名字)が家の名として世襲されるようになるのは、平安末期からです。
 氏という大きな集団のなかから家父長的な家族が独立して、独自の家名を称え始めたのです。
 その一に公家があります。これは主としてその公家の住む地名をとって呼称としたものです。

 当時は「通い婚」といって、男子が結婚すると妻の家(1人とは限らない)に通い住んでいたので、父から子へ世襲されることは、なかったのです。

 つまり父子代々名字(称号)が異なっていたのです。

ちなみに「三男の嗣良公」の本家の場合は、

 閑院冬嗣 -- 一条良房 -- 堀川基経 -- 小一条忠平 -- 九条師輔

と呼ばれていました。まるで赤の他人のようですね。

 その後、家長の住居である屋敷を中心にして、代々一家の本拠地が定まってくると、この称号も世襲され苗字(名字)とされていったのです。

桜木神社は誰が建立したのか?

「冬嗣公三男の嗣良公」が実在しないとするなら、いったい誰が建立したのでしょうか。

 野田商工会議所の説明には『仁寿元年(851)に稲荷の祠を建立したのが始まりと伝えられ・・・』と有り、ここにヒントがあります。

 答えは、ずばり渡来系の豪族「秦氏」だと思います。

 何故なら『稲荷』は、始皇帝の末裔と称する秦伊呂具が713年(和同四年)に伏見稲荷大社を建立したのが始まりだからです。

 『稲荷は渡来系の豪族「秦氏」が伏見稲荷を信仰したため、居住地に稲荷社を建てている。・・・しかも平安時代以降、武士として成長すると自家は源氏や平氏、藤原氏の出だと唱える様になった』
                              「地名から歴史を読む方法」武光誠著

 秦氏は応神朝に弓月君に率いられて朝鮮半島から渡来したと記紀に記されています。秦系氏族は祖先を秦の始皇帝とし、出自を新羅とするものが多く、天の日矛伝承と秦氏の分布が重複することが知られています。秦氏がもたらした技術としては銅の鋳造、鉄挺を輸入しての銑鉄があり、後に漢系氏族の砂鉄精錬による錬鉄=鍛冶技術への発展があったと思われます。
 秦氏の分布については「欽明紀」に「秦人戸数、總七千五百三戸」とあり全国的に見られるが、特に九州東北地域、京都の山城、銅の産出地としていちじるしい山陽道沿いに濃密な分布が見られます。
 秦氏の氏神は、大酒神社、松尾大社などがあげられ、八幡信仰、賀茂神社との関係も指摘されています。

 古代の渡来豪族秦氏が野田に移り住んで、いつ頃から藤原氏を名乗ったのかは判りませんが、おそらく、平将門の乱を平定した藤原秀郷が有名になった西暦1000年頃ではないかと思います。


参考文献
「名字でここまでわかるおもしろ祖先史」丹羽基二著 青春出版社
「名字と日本人」武光誠著 文春新書
「地名から歴史を読む方法」武光誠著 河出書房新社
『逆説の日本史』 井沢元彦著
歴史百科日本姓氏事典
豊田武 歴史読本 新人物往来社

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