二年前の盧溝橋事件に端を発した争いが、日本と中国の本格的戦闘状態になり、泥沼の争いに突入し、皇居には、大本営が設定され日本は本格的な戦時体制に入り、日ソ不可侵条約を結び北の脅威を除いて、南京占領、海南島上陸等を果たしていました。
五月十一日満州と蒙古の国境ノモンハンで数十人の外蒙古兵が国境を越えて、のんびりと馬に草を食べさせていたのです。それを発見した満州軍が撃退しようとして逆に追い払われてしまいました。 そこで、後見役の日本軍が出て行って追い払ったのです。 ところが翌日、外蒙古兵もソ連軍を連れてきて、六十人余りが大々的に越境し交戦になってしまいました。子供の喧嘩が、親の喧嘩に発展したのです。 放牧民が牧草を求めて行きかう、正に牧歌的な所でしたが、目印になる所が無い為、国境線が不明確で、しばしば、この様な紛争が繰り返されていました。 日本軍は国境紛争が起きた場合、関東軍作戦参謀、辻政信少佐が立案した「ソ満国境紛争処理要綱」を国境守備隊に通達して「断乎として、追い返す」支持を出していたのです。
関東軍は「ソ満国境紛争処理要綱」をたてに、ノモンハンから六十キロも離れた、ハイラルにある第二十三師団に対し五月二十八日未明に総攻撃の命令を下したのです。 総攻撃した日本軍は小隊が全滅する等の被害をこうむり、死傷者二九〇人にもなりました。 第二十三師団は昭和十三年七月に編成され、年末にハイラルに結集した新制の戦略兵団で、新規の三連隊制(通常は四連隊)の師団でした。 装備も劣悪で、独立師団としては歩兵力が不足し実戦師団としての戦力が無いとみられていたので、問題が起りそうに無い満州の西に配備されていたのです。 ノモンハンの地上戦は完全な敗北となり第一次の戦闘は終わりました。
六月二十四日、ノモンハンでは東京の参謀本部から中島参謀次長名で関東軍の磯谷参謀長宛に攻撃の自発的中止を促す電報が発信されていました。「明二十五日、有吉中佐を派遣す」とも付け加えていました。 しかし、関東軍では六月二十七日の朝、天皇の「戦闘不拡大」の意向を無視して有吉中佐の到着前に、内蒙古のタムスクに空爆を開始したのです。 予定を前倒しした攻撃で既成事実を作ってしまったのです。 関東軍幹部は何の処分を受けぬまま、日本政府が追認する形になったのです。
七月六日、関東軍作戦課は歩兵部隊主力で敵の重砲に立ち向かっていましたが、やっと間違いに気が付き砲兵戦による敵砲兵の粉砕を決意し、砲兵団の編成を発令したのです。 その結果、独立野戦重砲第七連隊(連隊長、鷹司信熙大佐)と野戦重砲兵第一連隊が、ノモンハンに出動して行きました。 ノモンハンの歩兵部隊は壮絶な戦いと夜襲を繰り返し、捜索隊井置栄一中佐の部隊はフイ高原を占領し、長野支隊はノロ高原を占領しようとしていました。 ところが、砲兵戦を行うために攻撃前の位置まで後退しろとの命令が降りたのです。 占領に費やした数百名の命は無駄になったのです。 七月十四日、歩兵部隊はせっかく占領した地域を捨てて、命令通り所定の陣地に戻りました。 十六日から増強した重砲部隊とソ連の砲兵戦が始まりました。 二十日に歩兵と砲兵の協同総攻撃を予定していましたが、十八日に参謀本部から関東軍参謀長の上京命令が届き、歩砲総攻撃は二十三日に延期されました。
日本軍の重砲の最大射程距離は「九二式十インチカノン砲」で、一万八千メートル。 ソ連は十五インチカノン砲が三万メートルもあったのです。 更に弾薬は各砲に五基数(一基数は「九二式十インチカノン砲」の場合六十発)と通常の五倍の弾薬を支給しましが、ソ連軍は最初の一日で一万五千発を撃ってきたのです。
第三旅団(旅団長畑勇三郎少将)所属の野戦重砲兵第一連隊に東久邇宮盛厚王(もりひろおう)中尉(皇族)が中隊長として任務していましたが、余りの激戦に八月に予定されていた移動を待たずに逃げ帰ってしまいました。この時、一時的に行方が判らなかったので、お付の武官が責任を取って自決したのです。
ノモンハンの指揮権を関東軍から第六軍に移し、参謀本部の指導に切り替えたのです。 しかし、赴任した上層部は満州の地形や気候、ソ連軍勢力等の予備知識はほとんど持たない人達でした。 八月二十日午前五時四十五分、ソ連軍が本格的な反撃に転じてきました。 数百機の編隊爆撃、続いて砲撃が二時間四十五分も続いたのです。 この日は日曜日で、日本の高級士官は部隊から遠く離れた所に遊びに行っているとソ連軍司令官ジューコフは読んだのです。 事実もその通りでした。 ソ連軍は、横に七十五キロに達する攻撃進行を展開。迎え撃つ日本軍は三十キロ余りしか守備していませんでしたから、結果的にソ連軍に包囲されてしまいました。 日本軍に対してソ連軍の兵力は、歩兵が1,5倍、砲兵が2倍、飛行機が5倍、戦車、装甲車は日本軍ゼロなので比較ができませんが、平均3倍の兵力が押し寄せてきたのです。 最前線に有った第二十三師団は、ソ連軍の新型戦車に包囲され全滅に近い打撃を受けました。
野戦重砲第一連隊の連隊長になった梅田恭三少佐(連隊長三島義一郎は負傷後送)は八月二十七日観測所で自決し、部下は銃が無いので銃剣を持って突撃し全滅しました。
ドイツと防共協定(日独枢軸を形成)を結んでいた日本のショックは大きかったのです。 八月二十八日、平沼内閣は「欧州情勢は複雑怪奇」の声明を発して総辞職しました。
ソ連軍がヨーロッパに兵力を向ける必要が有るから関東軍は「満州の全面戦争の可能性は無くなった」と喜びました。
この日、参謀本部は、関東軍司令部宛にノモンハン方面における全ての作戦中止を命令していました。 関東軍の参謀服部卓四郎と辻政信は、遺体と兵器の収容を理由に夜襲をかけようとして、参謀本部の了解を求めていました。 四日に参謀本部の参謀次長がノモンハンの関東軍司令部に到着し改めて作戦の中止を伝えると、直ぐに東京へ帰ってしまいました。 五日には、関東軍参謀から意見具申が参謀本部に飛んでいました。 しかし、六日の参謀本部からの返事は「意見具申は採用せず」でした。 この頃、陸軍中央部では、ノモンハン事件の責任を明らかにする人事異動が発令され始めていました。
「十六日午前七時を持って一切の敵対行動をやめよ」と司令部からの指示が有りました。 しかし、現場のノモンハン国境では、激しい小競り合いが随所で続いていたのです・・・。。 「第二次ノモンハン事件」の拙ブ「野戦重砲兵第七聯隊」は↓ http://blogs.yahoo.co.jp/w1919taka/23301176.html 参考文献は↓ http://blogs.yahoo.co.jp/w1919taka/folder/1066883.html |
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2006年11月15日
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何のだし? かつおだし? こんぶだし? にぼしだし?
駅を降りて、あちこち散策すると
左側の土手はあまり高く有りませんが、昔は写真の中央に170cm位の堀が有ったようです。 合計の高さは270〜300cm位になっていたらしい・・・。 なんの史跡だか判った? 江戸時代に「庄内牧」が有った所だって・・・? 徳川幕府御用達の牧場だった所なので〜す。 左側の土手は馬が逃げないようにした柵の替わり。 障害馬なら簡単に飛び越えられる? この場所が何処だか判った? そうです。「だし」の一部?「醤油の名産地」千葉県野田市で〜す。 でも「駅名」に市町村の「市」まで入れる所は多いのかな? 日本の駅名で「〜市」を知っている所が有ったら教えて〜。 |
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群馬県太田市の世良田郵便局で現金約13万円が強奪された事件で、強盗容疑で逮捕された埼玉県警加須署地域課の巡査長長利(おさり)高雄容疑者(44)が、今年6月と8月に起きた2件の郵便局強盗事件についても犯行を認める供述をしていることが14日、わかった。 群馬県警捜査1課などの調べによると、長利容疑者は住宅ローン以外に、複数の消費者金融に約800万円の借金があったことが判明。2001年に4500万円のローンで群馬県伊勢崎市内に住宅を新築し、車も頻繁に買い替えるなどしており、県警は借金の返済に困った長利容疑者が、郵便局強盗を重ねた疑いが強いとみて調べている。 犯行を認めたのは、6月5日の伊勢崎市・東小保方郵便局と、8月7日のみどり市・笠懸鹿郵便局の強盗事件で、計535万円が奪われた。
犯行時間帯やカウンターを乗り越えて局員に刃物を突きつけるなどの手口が酷似。
[読売新聞社:2006年11月14日 14時56分]防犯カメラに映っていた犯人の特徴も長利容疑者に似ていた。 事件のあった日、長利容疑者はいずれも非番だった。 ◇事件翌日は欠勤 埼玉県警監察官室によると、長利高雄容疑者は81年4月、巡査になった。
82年3月の県警武南署勤務を振り出しに機動隊、行田署などを経て01年9月、加須署に配属された。
長利容疑者が最後に勤務をしたのは6日午前〜7日午前。署ではすべて地域課勤務で、02年3月からは加須署地域課の無線自動車警ら係としてパトカーに乗務していた。
その後は勤務明けで非番となり、事件当日の8日は休み。
妻と子供3人の5人暮らし。9日は無断欠勤した。 処分歴はなく、無断欠勤もなかった。 勤務態度に変わった様子はなく、同僚や上司が仕事や家庭の問題で相談を受けたことはないという。
1月に加須署長に提出した自己申告書では、家のローンはあるが、他に多額の借金はないとし、酒はたしなむ程度でギャンブルはやらないと記していた。
伊藤茂・埼玉県警監察官室長は「極めて遺憾。速やかに事実関係を明らかにし、厳正に対処する」とコメントした。【酒井祥宏】(毎日新聞) - 11月10日3時6分更新 郵便局強盗の訓練に警察側として参加していたらしい・・・。 警察の手の内を知った現役警察官の犯行。 携帯も無線も届かない所に潜伏していたとか? 発見されても逃げたらしい・・・。 ・・・警察には警察官だけを監督する別機関が必要だと思うけど? |
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東京都教育庁は14日、いじめ自殺に関する石原慎太郎知事の発言が「さらに自分を追いつめることになりました」などと書かれた自殺予告はがきが知事あてに届いたと発表した。
差出人は「都立高校2年」とだけ記されており、同庁は各都立学校長に該当するケースがあれば連絡するよう指示した。
はがきは98年の年賀はがきで、12日付の新宿郵便局消印。
内容は知事の発言に触れたうえで、「一生どこへ行ってもいじめられるのはつらいので『死にます』」などと書かれていた。
石原知事は10日の定例会見で「ファイティングスピリットがなければ、一生どこへ行ってもいじめられるのではないか」などと発言していた。【木村健二】(毎日新聞) - 11月14日22時8分更新 やっぱり出てきた・・・。 「愉快犯」の連鎖ではないのか? 「ウソの爆破予告」と一緒。 言われれば「万一を考えて」捜査をしなければならない・・・。 役人の狼狽振りは見ていて面白いかも知れないけれど・・・。 役人は頭が良いから「やっているフリ」をするだけだと思う。 残業が少なくなった御時勢に残業手当が出て喜んでいるかも・・・。 そして予告者の一部と妥協点を見付け、優遇策を提示して金の解決で終り。 これに使われる金は全て「税金」だよ。 一番怖いのは「いじめ」の本質解明がされずに終ってしまう事。 過去の失敗事例が「大人のいじめ」といわれる「部落問題」 「奈良市元職員」が逮捕された様に逆差別が「犯罪」につながる可能性がある。 関西では「氷山の一角」と言われているらしいけど・・・。 市が談合防止策の一環として決めていた郵便入札制度の拡大導入を延期するよう、市の担当者に圧力をかけた。 「何で郵便入札すんねん」「聞いてないど」などと怒鳴ったりテーブルをひっくり返したりして威圧し、導入を延期させた疑い。 容疑者は当時、部落解放同盟の支部長や奈良市支部協議会(市協)副議長などを務めていた。 担当者との面談では、市と市協との「セクション別交渉」の場でこの問題を取り上げることも示唆したという。 一連のやりとりについて、市の担当者は「威圧感を感じた」などとしていた。 容疑者を10月27日付で除名処分にした部落解放同盟奈良県連合会は、今月7日に明らかにした「中間見解」で「同盟の地位を利用し、各方面に圧力を加えていた可能性はきわめて強いといわざるを得ない」としていた。 (産経新聞) - 11月14日16時18分更新より抜粋 いじめの「被害者」が「加害者」になった良い例。 役人から同和問題優遇策が出てから、同和団体が山ほど出来てしまった。 同和問題の本質とは関係が無いのに公務員は、自分の金では無いから平気でやっていたのだ。 一所懸命「問題解決」に努力している人達が居るのに・・・。 いじめを苦にした自殺が相次ぐ中、子供の相談を受ける「チャイルドライン」のフリーダイヤルに、6日からの1週間で2万7622件の電話があったことが分かった。 回線が不足してつながらず、実際に相談に乗ることができたのは2890件だった。 NPO法人「チャイルドライン支援センター」(東京・港区)が、各地の民間団体と協力して実施。 子供の悩み全般について相談を受け付け、「ネットで勝手に自分の名前を使われ、ほかの子の悪口を書き込みされた」(中学生)、「いじめられていることを家族に言えず、誰かに分かってほしかった」(同)などの相談があった。 同センターの加藤志保事務局長は「友達や家族に話せない、いじめの切実な悩みを打ち明けるケースが多い」と話す。 [読売新聞社:2006年11月14日 21時16分] 言葉で傷つけたり、無視したりする「精神的いじめ」について、京都大大学院医学研究科木原雅子助教授と全国高等学校PTA連合会は、全国の高校2年生約6400人を対象にアンケートを行い、14日、実態調査の結果を公表した。 被害経験は最も高かった小学生時代で男子55・6%、女子62・7%に上る一方、「加害者、被害者の両方を経験した」が4割を超えており、木原助教授は「携帯電話やインターネットの利用でいじめが陰湿化し、子どもたちは大きなストレスを抱えている」と話している。 北海道から九州まで9地区で公立高校各5校を抽出、9月に無記名式アンケートを行った。調査では「精神的いじめ」を「しつこいからかいや無視など不愉快になること」と定義した。 (読売新聞) - 11月14日22時28分更新 「愉快犯」「模倣犯」は今後は増加して行くと思うけど・・・。 「綺麗事」で同じ間違いをして「いじめ問題」の本質を見失わない事を祈っています。 |
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