あらすじ ノモンハン事変で生き残った親父は、内地に帰還し川崎市東門前町で新しい生活を始めていました。 空襲が激しくなった昭和20年3月10日に東京大空襲が有り、工業地帯の川崎にも必ず空襲が有ると考えて言いました。 養母は「リュウマチ」で一人では動けない。乳飲み子が2人居たので家財道具と家族全員では疎開が出来ませんでした。 そこで親父は、まず家財道具を小さなリヤカーに積み込み、4月15日に1人で妻の実家のある千葉県の松戸市を目指してリヤカーを引いて行きました・・・。 川崎市と松戸市はどちらも丁度、東京都を挟んだ先に有り、空襲を受ける可能性が高かかったのですが、通り抜けるしか有りませんでした・・・。 無事に松戸に到着した親父は再び川崎市東門前町へ戻ってきました。 親父が疲れた身体を休めていた時・・・・。 突如「ブウ〜、ブウ〜」と、けたたましくサイレンが鳴り響き空襲警報が発令されたのです。 親父達は、防空壕に非難をしたのですが焼夷弾が投下された為に、そこからも避難しなければなりませんでした・・・。 川崎の大空襲から奇跡的に生き延びる事が出来、松戸に疎開しました。 松戸に疎開して、幸せな日々が3ヶ月も続いたある日、妻の久が急病になりました。
暫く行くと、道は常磐線を越える為に、登り坂になっています。 家財道具を運んだ時に比べれば、久の体は余りにも軽く感じました。 登り坂だったので、リヤカーの向きを変えて、久に負担が掛からない様に引っ張りながら登ると、予想より簡単に登る事が出来ました。 常磐線を渡る陸橋を歩くと、ちょうど橋下を旅客列車が通過したので、機関車の煙で辺りが見えなくなりました。親父は何故か涙が流れてきました。久がむせる様に咳き込む声が聞こえました。 左手下にこんもりとした森が見えます。
正保四年(一六四七)に創立され、主神は「木花開耶姫(このはなさっくやひめ)」。 明治五年に小山の鎮守社になりました。大正五年に付近に有った白旗神社(御神体源義家)を合祀しました。 病院に行くには、ここから右手の坂を登らなければなりません。 前方の右手の奥が、二十世紀梨の発祥の地です。 又、親父はリヤカーの向きを変えて、引いて坂を登りました。 「この左側の奥が、お前の故郷だぞ」 「え?」と、久の微かな声が聞こえました。 「俺が長十郎で久が二十世紀。その故郷が、この左手の方だ」 親父からは久の顔が見えませんでしたが、久が微かに笑ったように思えました。 「元気になったら、二人で梨の原木を見に行こう」 久の返事は聞こえてきませんでした。 親父は、二十世紀梨の原木がB29の焼夷弾で枯死したのを知っていましたが、久を元気付ける為に言ったのです。 坂を登りきると、田中家に嫁いだ、久の姉「まさ」の家が見えてきました。 先程電話をしたので、自宅の前を通ると予想して道に出て待っていました。 親父ががリヤカーを押しながら「まさ」に、会釈をしました。 「まさ」も軽く会釈をすると、リヤカーに乗せられた妹に駆け寄ってきました。 「久ちゃん。大丈夫?」 久は、軽く頷きました。親父はリヤカーを押しながら、 「病院に行ってから、ゆっくりと・・・」と、言ってリヤカーを押していきました。 「まさ」は「夜も遅いので明日、病院に行きます」と言い、親父の後ろ姿を何時までも見送っていました。 暫く進んだ右手には、伊藤左千夫の「野菊の墓」の舞台となった場所が有ります。
栗山の給水塔が見えてきました。 矢切を過ぎると、ゆるい下り坂になり、又ゆるい上り坂に成ります。 この坂を「腹切坂」と、地元の人達は呼んでいました。 昔、一人の武士がこの坂で腹を切り、腸を引き出し、前に捨てて死んだのです。 親父は、そんな事を想像しながら、久のリヤカーを引いていきました。 坂を上り詰めた所に、昭和十二年に完成した栗山給水塔が、直ぐ右手にどっしりと建っていました。ここを過ぎれば、高橋病院がある市川市です。
間もなく、親父が入隊していた「第一師団 野戦重砲兵第三旅団 野戦重砲第七連隊」の連隊本部の門が見えてきました。 衛兵が立っています。 親父は、リヤカーを押しながら衛兵に目礼をして通りすぎました。 兵隊として、一人ぼっちでノモンハンに向かった時の事を思い出していました。 右手の桜並木を行けば、里見公園に続いています。
公園として整備されたのは昭和三十三年九月の開設ですが、この当時から憩いの場になっていました。現在も眼下に江戸川を望み、東京は勿論、富士山や丹沢山塊を眺める事が出来、桜の名所として有名になっています。 かつてこの地には、国府台城(市川城)があり、数々の争乱の舞台となってきたのです。 康正元年(一四五五)に、馬加康胤(まくわりやすたね)が、千葉氏の重臣、原胤房と結託し、千葉一族を攻め下総を支配しました。生き残った千葉実胤、自胤が上杉氏の支援を受けて、国府台城(市川城)に入り、馬加氏に対抗していたのですが、翌年正月十九日に馬加康胤を援護する足利成氏の兵に攻められ、武蔵の国に追われたのが市河合戦です。 これ以後千葉氏は、下総と武蔵の二派に別れて争うことになるのです。 天文七年(一五三八)に小田原の北条氏と足利義明に従う里見氏等、上総、安房の諸将を巻き込んだ戦い、第一次国府台合戦が起き、永禄七年(一五六四)には第二次国府台合戦が起きています。 国府台を過ぎれば、下り坂です。 親父はリヤカーの向きを変えて走るように押して行きました。 高橋病院に着くと、待ちかねていた様に、直ぐに久を診察してくれました。 久の病名は「腸チフス」と診断され、即日入院が決まりました。 親父は、一人で空のリヤカーを引きながら涙が流れているのが判りました。 夜だったので誰にも見られないので拭く気にもなりませんでした。 |
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2007年11月20日
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最終更新:11月19日21時36分配信 時事通信 ・・・いいなぁ〜。 のんびりした〜〜〜〜い。 昔、冬に露天風呂に入った事が有った。 暖房が効いた母屋から100m近い場所だったか? 小雪がパラツク中、浴衣に丹前姿で寒かったが・・・。 風呂に入れば温まる・・・。 「そう思って」寒さこらえてたどり着いた。 ん??誰もいない? 一瞬、不安に思ったが、急いで服を脱ぎ湯船へ・・・。 湯船に手を入れて驚いた。 ぬるい・・・。 しかし、入らなければ凍死するかも? 迷わずに、入った。 入ってみれば段々と体が温まってくる。 周りの景色を見る余裕も出てきた。 川のせせらぎも聞こえてくる。 露天風呂の醍醐味を満喫し湯船を出ようとしたら〜〜〜。 出られない・・・。 外気温に耐えられるまでに体が温まっていないのだ。 「助けを呼ぶ」訳にも行かず、意を決して戻ってきたが・・・。 入浴前より体が冷えてしまったのは確かだ。 きっと「露天風呂遭難者」が毎年出ているはず・・・。 「増すゴミ」には報道されないけど・・・。 |
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