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野田市の地名発祥の謎 野田商工会議所の説明に興風図書館所蔵(非公開)/野田市指定文化財の天正文書が有り『旧野田町は平安・鎌倉時代以降、下総国葛飾郡下河辺荘庄内領に属し「野田郷」と呼ばれていました。野田郷不入御朱印状(天正文書)は、天正3年(1575)のもので、「野田」という地名入り文書として最古のものです』 この文章を読んで、困ってしまいました。 だって『平安・鎌倉時代以降』では、794〜1333までの500年以上もあるからです。
これでは、余りにも漠然としています。いつから野田と呼ばれていたのか、さっぱり判りません。可能性をもう少し絞り込んでみましょう。
全国で『野田』の地名を調べると、数が多すぎました。県内だけに留めましょう。香取郡小見川町に野田がありました。この野田から、名字を付けた一族がいました。下総に土着した桓武平氏の庶流の東(とう)氏です。 『東氏は歴代いづれもが文武両道に秀でていたが、中でも十代常縁の存在は特筆される。東常縁(とうのつねより)は野田氏を称し、足利八代将軍義政(1449〜1473年)に仕えていた』 又、その由来に付いて『東元胤の子・常慶が香取郡野田村(香取郡小見川町野田)を領して野田を称した。東元胤は、古今伝授の宗家で名将の東常縁の従弟。東常縁も東家の家督を継ぐまでは野田氏の当主だった。野田氏は遠藤氏とならんで、美濃東氏の一門とされてきた家柄。常慶はのちに美濃東氏の家督を継いだ』とあります。 でも年代的には、足利八代将軍義政(1449〜1473年)以前としか判りません。 ちなみに『香取郡誌』によれば「野田村」は、慶長16年(1611年)に本郷村の枝郷より分村したとあります。 枝郷の時の「野田」を名字に選んだ? 何か不自然な感じですね。訳ありだと思いませんか? 名字は、地名から付けられた確率が高いので、氏名辞典を取引いてみました。 『野田の地名は平地の野にある田の意。地形的には山田・岡田・野田・原田・沼田・川田などの順で低くなってくるが、野田と原田はそう変わりがない。全国いたるところにあり、姓氏はこの地名を負う』と書かれているように自然発生的に付いた可能性もあります。 そこで今度は『下総国葛飾郡下河辺荘庄内領に属し「野田郷」と呼ばれていました』とある下河辺荘に注目して見ましょう。下河辺荘は藤原氏の一族が名字にした地名で、鳥羽院の皇室荘園になっていました。鳥羽院と美福門院の子が八条院でその子が以仁王です。その管理をしていたのが、藤原氏の一族です。 関宿城の解説に『天仁2年(1109年)、源為義(頼朝の祖父)が部下の「藤原行光」に所領を与え、この地に城を築いたのが始まりと言われている』と有ります。この藤原行光の子、行義が下河辺を名乗りました。行義は、頼政の郎等。又その子が行平で、源頼政を弓の師とし、源頼朝に仕え二代目将軍頼家の弓道の師範になった人です。 龍ヶ崎市に『頼政神社』が有ります。 『頼政の首を背負って東国に走ったといわれる清恒(龍ヶ崎を含めた常陸南郡を頼朝より与えられた下河辺政義の兄)の創設。龍ヶ崎が間もなくして下河辺領となり、開発の第一歩が踏み出されると、この平家打倒の先駆者である頼政墓は、下河辺氏およびその領民にとっては、精神的な糧となったに違いありません。おそらく頼政神社は、新地開発における産土神の地位にあったものと思われます』
龍ヶ崎のホームページ
江戸時代の末に書かれた「利根川図志」には『源頼政塚は結縁寺村にある。そもそも晴天山結縁寺は聖武天皇神亀年間(724〜729)行基(ぎょうき)僧正が創建したという。境内に花井戸、扇の芝がある。一説には治承の兵乱(1180年5月、8月に頼朝が挙兵)で源三位頼政が平家のために自害し、従臣である下総の国の住人、下河辺村藤三郎清恒という者が、その首を負って来てここに葬り、剃髪して御堂を建てて仕えたという。ここには頼政塚、名馬塚、入定塚、頼政石塔などがある。天正の頃にこの寺は焼失して、寺宝、縁起残らず灰じんに帰したという』晴天山結縁寺は、現在の印西市にあります。 頼政神社(茨城県古河市) 『永享記』に頼政に関する伝承があります。 下総国の在地領主で、頼政の郎等である下河辺行吉(行義?)。彼は平等院で自害した主人の首を「衰老の頚を獄門にさらさん事を無念なり」という遺言に従い、下総国まで持ち帰り、現在の古河市に埋葬したという。室町時代になって、古河公方の本拠地となり古河城が築造され、頼政の首塚があった場所は頼政廓となった。 江戸時代に入り、古河城主の松平信輝が頼政神社を建立した。 しかし、明治から昭和にかけての渡良瀬川工事で、首塚・廓は破壊され、河川敷となり、頼政神社は現在の地に遷された。 それぞれ場所が違いますが、清恒が自分の領地である下総に、頼政の首を持ち帰った伝承は本当だと思われます。 源頼政 『源頼政1104〜1180(治承 4) 平安後期の武将・歌人。通称は源三位(ゲンザンミ)入道。仲政の子。保元の乱では後白河天皇方、平治の乱では平清盛方。1178(治承 2)従三位。1180(治承 4)以仁王(モチヒトオウ)を奉じて平氏追討を図り、宇治川で敗れ、平等院で自刃。宮中で鵺(ヌエ)を退治した逸話がある。高倉天皇の時、紫宸殿の屋上の鵺を一矢で射落とした。1180年諸国源氏蜂起の先鞭を付けた』
鎌倉幕府のきっかけを造った人。
系図からは、頼政が清和源氏の本家筋で摂津源氏と呼ばれ公家化していました。鎌倉幕府の創設者、頼朝は分家筋ですが武士化していましたので関東では武家の棟梁の本家となっていました。 頼政の摂津源氏と下総国は意外な所で接点が有りました。 兵庫県川西市と佐原市が平成2年8月1日、姉妹都市提携を結んでいたのです。 『縁は、多田院(現:多田神社)を建立した清和源氏の祖、源満仲公にさかのぼります。10世紀中頃、下総国で平将門らが起こした天慶の乱を平定するため、満仲公は帝の命を受け出兵しました。そして、満仲は香取神宮の傍ら(現:光明院)に約100日布陣しましたが、その地が摂津国多田庄(現在の川西市)によく似ているところから、ここを「多田」と名付けました。満仲公の他界後、その訃報が伝えられて、下総国に残った源一門の手で、光明院に満仲供養(塚)塔が建立され、祀られてきました。佐原市には今もなお「笹りんどう」を家紋に持つ家や「多田」の姓も多くあります』川西市ホームページより ここに登場した源満仲は、渡邊綱が仕えた頼光のお父さんです。又、渡邊綱は源満仲の婿、敦(仁明天皇の子、光の孫で仁明源氏)の養子になっていたので義理の祖父になります。 つまり源満仲は、首の主である頼政の御先祖であり、頼朝の御先祖です。佐原市には、既に900年代から摂津源氏が住み着いていたのです。 又、頼政の父、兵庫頭仲政は頼政が15歳の頃、下総の国司(県知事)をして一緒に住んでいました。 治承4年(1180)4月、頼政は、以仁王とともに挙兵し平家打倒を目指しました。南都に向かう途中、宇治平等院で平氏の軍勢と衝突。敗北が間近であることを知った頼政は、郎等を呼び寄せ、みずからの首を討つよう命じました。 老いた首をさらしたくはない、との思いからですが、下総の下河辺藤三郎清恒は辞退したので、渡邊唱が介錯を引き受けました。 唱が落とした頼政の首の行方については諸説有り、 『源平盛衰記』は、下河辺清恒が平等院の床下に隠し入れた。 『平家物語』は、唱が宇治川に沈めた。 藤原忠親の日記『山塊記』は、藤原景家が「頼政入道の頚を得」たとしています。しかし、主君の首を敵にわたる可能性の有る場所に隠したり、川に沈めるはずが有りません。
下河辺氏が、敵の手の届かない下総へ持ち帰った可能性が一番高いのです。
龍ヶ崎のホームページ頼政神社の項に『主君頼政の首を背負って東国に走ったといわれる』通り、下河辺清恒と一緒に渡邊党)は下総に来たと思います。
一人で陸路を逃げたと考えると不自然になります。何故なら、京都から下総に陸路で来たら、辿り着く前に伊豆に立ち寄れるからです。頼政は伊豆、丹波、若狭を領地にしており、伊豆には、頼政の側室『あやめ御前』が住んでいたのです。
長岡温泉観光協会の説明に『あやめ御前は、伊豆長岡の里に勅勘を蒙り流されていた貴人(一説に藤原為明)と、その方の世話をしていた土地の娘との間に生まれました。16歳の春、近衛天皇のお側に使えていた時、源頼政が夜な夜な出没しては帝(みかど)を患す鵺(ぬえ)という怪物を退治する事件がありました。帝は大変お喜びになり、掌中の珠のして愛でているあやめの前を、頼政も密かに思いを寄せているということをお聞きになり一計を立て試してみることにしました。
即ち、御簾(みす)の向こうに同じ髪型、同じ衣、同じからだつきをした女官5人を後ろ向きに座らせ、懐い女性を当てさせました。すると頼政はその中の一人を指さし即座に「五月雨に、沼の岩垣水越えて、いずれあやめか、引きやわずろふ」と歌い、あやめ御前を授けられました。時に頼政49歳、あやめ16歳でした』
これが事実だとするなら、頼政の遺品、遺髪等を「あやめ御前」に届けた人が居たのです。その人は下河辺清恒だと思います。 下河辺清恒が陸路を来たら頼政の首は、伊豆に葬られたでしょう。当時は頼朝(鎌倉幕府の創始者)が伊豆に流されていましたので、伊豆も平家の勢力下に有ったので避けて通ったと考えられますが、そんな面倒な事をする筈が有りません。もっと簡単で安全な方法があります。 続く・・・。 参考資料 「源頼朝と源氏二十一流」歴史読本 「武家の棟梁の条件」 中央公論社 「利根川図志」赤松宗旦著 「香取郡誌」 「皇子・逃亡伝説」柿花仄著 東京経済 |
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2007年11月28日
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大相撲の横綱審議委員会が26日、両国国技館で行われ、横綱・朝青龍(27)=高砂=が再来日する30日に臨時の会合を開くことを決定。 会合では朝青龍本人を呼んで仮病疑惑に端を発した一連の騒動への事情説明と謝罪を求める。 ただ、臨時会合が決まった経緯は師匠の高砂親方(元大関・朝潮)のフライング発言が発端。 果たして朝青龍が横審に謝罪するのか。 会見をするしないで二転三転したこの夏の迷走劇の第2幕にならなければいいが…。 委員会後の会見だった。 横審の海老沢勝二委員長が「高砂親方から、朝青龍本人が横審にも謝罪したいという気持ちを持っているということを聞きました」と発表。 これを受けて石橋義夫委員は「一日も早く謝罪してほしい。本人が来るなら臨時の会合を開きます」と断言した。 そして朝青龍が再来日する30日に謝罪会見を終えた直後、横審が臨時の会合を開き、朝青龍を呼んで謝罪と説明を求めることがトントン拍子に決まった。 すべては朝青龍自身の申し出から始まったと思われた。 ところが高砂親方は、「私が、横審に謝った方がいいと思って言った」と告白。 謝罪申し入れは朝青龍の考えではなく、親方のとっさの思いつきだったことを暴露した。 肝心の朝青龍には「これから本人に言う」としたが、本人があずかり知らぬ所で話が勝手に決まってしまった。 角界では、師匠の命令は弟子にとって絶対。 高砂親方が朝青龍に「横審に出て謝れ」と命じれば、従うのが当たり前だ。 しかし、この師弟は今年の夏に会見を開く開かないで二転三転した前科がある。 しかも結果的に、朝青龍は高砂親方が命じた会見を行わずにモンゴルに帰国した。 今回は師匠のフライング発言によって、横審が臨時の会合を決定するまでに事態が発展。 内館牧子委員が「朝青龍には自ら辞めてほしい」と改めて引退を勧告するなど、あの夏のような迷走は許されない状況に入っている。 「委員のみなさんは直接、朝青龍から話を聞きたがっています」と海老沢委員長。 朝青龍が「聞いてない」と突っぱねたらどうなるのか。 嵐の30日になりそうだ。 ◆海老沢委員長ノルマ「13勝」 海老沢委員長は、朝青龍に初場所でのノルマを掲げた。 「やはり横綱ですから、優勝争いをしてもらわなければ困ります。優勝と言えば最低でも13勝です」と具体的数字を突き付けた。 2場所の出場停止明けですぐに13勝はかなり高いハードル。 一方で石橋委員は「2場所も休んでいた朝青龍が優勝したら相撲の人気はもっと落ちてしまう」と他の力士の奮起も促していた。 ◆高砂親方の迷走劇場 ▽説得失敗(8月10日) 心の病で帰国を求める朝青龍に会見するよう説得に出向くが失敗。一度協会に戻り、再び出向くドタバタぶり。 ▽同行帰国(8月29日) 朝青龍の帰国に同行も、モンゴル滞在はわずか35時間。 9月1日の帰国会見では「ダブルアーチの虹を見た」。 「お湯がツルツル」などお気楽発言を連発。 ▽TBS問題(10月22日) 朝青龍の撮影を求めたTBSの番組に関し、謹慎中にもかかわらず広報部長として一度は許可。 すぐに取り消したが「すべてはオレの責任」と謝罪。最終更新:11月27日8時0分配信 スポーツ報知 ・・・なんかヤバそう? 「力が有って品格が無い」 ボクシングやプロレスの世界だったら問題ないけど・・・。 相撲界の「横綱」には不適格? 「親方で有りながら権威が無い」 最悪? 弟子の反抗を恐れた親方? 現代社会の上下関係を象徴している? 亀田兄弟はアホな親の言う事を聞いて失敗した。 「朝青龍」はアホな親方の言う事を聞かずに失敗か? 「力が無くて品格が無い」 金の為に「増すゴミ」と親がデッチ上げた亀田兄弟の「虚像」と似ている気がする? ただ・・・親がダメでも子供がしっかりしていれば望みは有る。 「ダメな親でも、親は親」 日本人が忘れてしまった言葉かもしれない・・・。 昔の日本人は「徒弟制度」の中で、本当の親より「親方」を超える事を夢見ていた? 「朝青龍」にはアホな親方でも「親方は親方」と思って欲しいのだが・・・? 「親方の権威」 「横綱の品格」 親も子供もどちらもダメでは余りにもミジメすぎる? 現代の世相を反映しているのかも知れないが・・・? 「朝青龍」が帰国してから・・・・。 最悪の状況になった場合に相撲協会はどんな態度に出るのか? ・・・日本の国技、相撲の伝統を守るか? 伝統を捨ててプロレスやボクシングの様に変身して・・・? 「アンチヒーロー」として客寄せパンダに使うか? 来年の相撲界が、急に楽しみになって来た・・・? |
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張替家の歴史 お婆ちゃんの実家、張替(はりがえ)家は、下総国猿島郡の名族でした。 針谷(はりや、はりがや、はりたに)氏や針ヶ谷氏等と同族で、おそらく分家筋が本家と区別する為に漢字を替えたのです。 針谷氏が(はりや、はりがや、はりたに)等と読み方が変化した様に「張替」も当初は(はりがい>はりがや>はりがえ)と長い時代で発音が変わったと思います。 「張」は「墾」 「はり」とは「開墾した所」の意味でハラ、ホリ(原、堀)等と同じ意味です。 古代では、新たに開かれた田を「墾田(はりた)」と呼んでいました。 法律用語では中国読みの「こんでん」と呼ばれていたのです。 「はり」には「墾」ではなく「治」「張」の字が当てられました。 (例、尾張、夕張、三重県名張市等) 「谷」も「かい」と読めば開拓の意味です。 例えば「熊谷」の発音はクマガヤとJR駅に表示してありますが「クマガイ」が正しく、隅地(クマチ、すみっこの土地)を開拓したの意で、熊が住んでいた谷の事では有りません。
昔は湿地帯の事を「や」と言ったので「谷」の字を当てたかも知れません。
そうすると「張替」「針谷」は湿地帯を開拓したの意味になります。昔の漢字は表音文字 床屋のおじさん(お婆ちゃんのお兄さんで競輪が大好きだった。オラのゴッドファーザー)がお爺ちゃんに「先祖は大陸の血が入っているかも知れんなぁ」と言っていたそうですが、張替の「張」の文字に捕らわれた言葉だったのでしょう。 戦後の日本人は漢字の意味に捕らわれがちですが、基本的には間違いです。 昔の日本は話し言葉が先に有り、漢字が渡来するとその発音に適当な字を当てた表音文字(現在のひらがなと同じ)で文字の意味は無かったのです。 これを「仮借(かしゃく)」と言います。 針谷氏は榛谷(はんがやと発音)氏の後裔とされています。 この榛谷氏の出自は、秩父氏です。 秩父氏は坂東八平氏(千葉・上総・三浦・土肥・秩父・大庭・梶原・長尾)の一族で、平安時代の末期に、桓武天皇を祖とした賜姓皇族の平氏で関東の南部に本拠地を持ち、武士団を起した先駆者達で「桓武平氏」と呼ばれました。 桓武平氏系図 桓武天皇─葛原親王┬高棟 └高見王─高望王┬国香(常陸大掾) ├良兼(下総介) ├良持(鎮守府将軍) │ ┠────────将門 │ 女 ├良正 ├良文(張替家の遠祖) │ ┠────────┬忠頼 │ 女 │ │ └忠光 └女 ┠──────────藤原為憲 藤原清経 高望王(839―911) 高見王の皇子。母は、藤原是緒(右京大夫)の娘。正和6(839)年9月7日、京都に生まれました。 寛平元年(889)年5月13日、宇多天皇は桓武天皇の皇孫に対して「平」姓を授けて臣下としました。これによって高望王は平高望と改名。従五位下に叙せられ、「上総介」に任じられて東国へ下向していきました。 当時、無位無官の王には時服料のみが与えられ、その時服料は五位の大夫の年収の16分の1と規定されていました。つまり、王という身分がかえって生活に支障をきたすようになっていたのでした。 そのうえ、中央政府では藤原氏が権力を握っており、藤原氏ではない高望に出世の見込みはありません。そのため、彼は東国へ行って中央権力から逃れるという道を選んだといわれます。 秩父氏 平良文の子、村岡次郎忠頼。 忠頼の子、将常が武蔵権守となり秩父郡中村郷(秩父市)に本拠地を置いて「秩父」を名乗りました。 将常の子、武基は秩父の牧の別当。 武基の子、武綱は前九年の役で源頼義に「武功第一也」と賞賛されました。 武綱の子、重綱は出羽権守、武蔵国留守所総検校職等の在庁官人になりました。 総検校職は、武蔵支配に重要な意味を持っており、秩父一族は秩父・大里郡を中心に武蔵、下総、相模等に分布しました。 一族は畠山、小山田、稲毛、河越、江戸、高山、榛谷の武士団に別れたのです。 これは分家を立てる時に、与えられた領地の地名を苗字としたので、兄弟でも名字が違ったのです。 重綱以後、秩父氏は惣領筋の畠山氏が継承しましたが、鎌倉時代に重忠が二俣川で討死後は、次男筋の河越氏に移りました。 榛谷氏は何処に本拠地を置いたのでしょう? 榛谷氏の祖は、榛谷重朝(????-1205) です。 小山田有重の次男。母は八田宗綱の娘か。通称は榛谷四郎。 はじめ「小山田四郎」を称していましたが、伊勢内宮の荘園・武蔵国榛谷御厨(現在の横浜市保土ヶ谷区の辺り。「はんがや」は「ほどがや」の語源と言われています)の荘官として赴任し、榛谷を称しました。 その後は畠山重忠と行動をともにし、重忠とともに頼朝に降伏。その武勇と篤実な性格が頼朝の信頼を買い、養和元(1181)年4月、寝所の番士11人の1人に選ばれています。また、兄・重成とともに弓の名手として知られ、弓の催しには必ずと言っていいほど射手として参加し、鎌倉を代表する武将のひとりであったことがわかります。 江馬四郎義時、下河辺庄司行平、結城七郎朝光、和田次郎義茂、梶原源太景季、宇佐美平次実政、榛谷四郎重朝、葛西三郎清重、三浦十郎義連、千葉太郎胤正、八田太郎知重 寿永元(1182)年6月7日、由比ヶ浜で弓の技を競う催しがなされ、はじめに行われた牛追物に下河辺行平・和田義盛・和田義茂・三浦義連・愛甲季隆とともに射手として参加しました。 その後も20年以上にわたって幕府に出仕し、兄・重成が入道して引退したのちも弓の上手として知られていました。また、頼朝亡きあとの正治2(1200)年2月26日、頼家が鶴ヶ岡八幡宮に参詣した際の後陣の随兵として加わっています。 しかし、元久2(1205)年6月23日、畠山重忠が謀叛の疑いで討たれた直後に無実とされ、その讒言の張本が兄・重成であると断じられ、榛谷重朝も北条時政の命を受けた三浦義村によっておびき出され、鎌倉経師谷において三浦義村の軍勢に攻められて嫡男・重季(太郎)、秀重(次郎)とともに討ち取られました。 「…三浦平六兵衛尉義村、重ねて思慮を廻らし、経師谷口において、謀りて榛谷四郎重朝、同嫡男太郎重季、次郎秀重等を討つなり。稲毛入道、大川戸三郎が為に誅せらる。子息小沢次郎重政は宇佐美与一これを誅す。今度合戦の起りはひとへにかも重成法師が謀曲にあり。いはゆる右衛門権佐朝雅、畠山次郎において遺恨あるの間、かの一族反逆を巧むの由、しきりに牧の御方に讒し申すによって、遠州ひそかにこの事を稲毛に示し合はせらるるの間、稲毛親族のよしみを変じ、当時鎌倉中に兵起あるの由、消息に就きて、重忠途中に於いて不意の横死に逢ふ。人以て悲歎せずと云ふことなしと云々」 重朝の子孫はその後、三浦氏の被官となっていたようで、宝治合戦の際に三浦泰村一族とともに討死した衆の中に、子孫と思われる「榛谷四郎」とその子息「榛谷弥四郎」「榛谷五郎」「榛谷六郎」の名を見ることができます。さらに、畠山重忠の讒言の張本人とされた兄・稲毛重成の子孫と思われる「稲毛左衛門尉」「稲毛十郎」の名も見ることができます。 榛谷氏は三浦介義澄の子・胤義(九郎判官)が建暦3(1213)年5月の鎌倉騒動(和田義盛の乱)のあと、義盛の旧領・上総国伊北庄(現在の夷隅郡)を恩賞地として与えられ、この際に榛谷氏は胤義の代官としてこの地に赴いたと思われ、胤義が承久3(1221)年の「承久の乱」で滅んだのちも当地の在地豪族として留まったと思われます。 そして、時代的に「榛谷四郎重朝」の孫と思われる「榛谷四郎」、そしてその子「榛谷弥四郎」「榛谷五郎」「榛谷六郎」が三浦泰村の家人として宝治合戦(1247年)で討死しました。 こののち鎌倉時代で榛谷氏の活躍は見られませんが、室町時代が訪れると、「上総国守護職」は佐々木秀綱(佐々木道誉の嫡子)・千葉介氏胤の支配を経て、永和2(1376)年から犬懸上杉氏の上杉朝宗(中務少輔入道禅助)が就任しました。このとき、榛谷重氏(小太郎)は犬懸上杉氏の重臣として伊北庄の代官職を務めていたと思われ、応永23(1416)年10月2日、朝宗の子・氏憲(上杉禅秀)が関東公方・足利持氏と対立して反乱を起こす(上杉禅秀の乱)と、これに荷担。禅秀が敗れて自害したのち、上総国の諸豪族は「守護の命に従って兵を出しただけである」として持氏に降伏しようとしましたが、持氏はこれを許さなかったため、豪族たちは榛谷重氏を総帥とした「一揆」を結成して持氏に反乱を起こしました。 この集団を「上総本一揆」といいます。 (古地図には、現在の竜ヶ崎市の辺りに「榛谷駅」が記されており、後に榛谷一族はここに本拠地を置いていたのかも知れません) その後の榛谷からの出自、針ヶ谷、針谷(はりや、はりがや、はりたに)氏の場合は、現在の「埼玉県浦和市針ヶ谷、千葉県長生郡長柄町針ヶ谷」等の地名が残っており、どちらかが本拠地だったと思います。 (針ヶ谷は昔、榛谷の文字だったかも知れませんね) 針ヶ谷、針谷氏の分家筋が猿島郡を受け継ぎ「張替」を名乗って支配したと考えられます。 つまり、張替家は桓武平氏ー秩父氏ー榛谷氏ー針ヶ谷、針谷氏ー張替氏となった一族なのです。 参考 武士と農民がはっきりと別れたのは、江戸時代からです。それ以前は半農半武が一般でした。 織田信長が専業武士を育て、豊臣秀吉が刀刈りをして、徳川家康が制度化したのです。この時(江戸時代)から武士(職業軍人)と農民(一般市民)にはっきりと別れたのです。 張替家の遠祖「平良文」は渡邊綱の父「源宛」と弓術による一騎打ちをしたのですが互いに決着がつかず、それぞれの力量を認め戦いを中止して、無二の親友となったという話に出て来る人です。 「今昔物語・巻第25の3」 参考文献
「名字でここまでわかるおもしろ祖先史」丹羽基二著 青春出版社 「名字と日本人」武光誠著 文春新書 「地名から歴史を読む方法」武光誠著 河出書房新社 「埼玉県の歴史」角川書店 「千葉県の歴史」角川書店 |
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