日本で最も有名なストリップ劇場の1つ東京・渋谷区の「渋谷道頓堀劇場」でわいせつ行為を客に見せたとして、警視庁保安課が17日までに、神奈川県茅ケ崎市の経営者松井勇容疑者(65)、東京都豊島区のストリップ嬢「ゆの」こと野中友容疑者(36)らを公然わいせつ容疑で逮捕した。 容疑を認めている。 同劇場は1970年開業で、幕あいを担当したお笑いトリオ「コント赤信号」などのお笑いタレントも輩出した老舗店だった。 調べでは、野中容疑者は15日午後0時56分から同1時05分の間、ステージ上で全裸となり、陰部をことさら露出するなどのわいせつ行為を、客51人に見せた疑い。 劇場外にいた松井容疑者は出頭後、逮捕され、容疑を認めている。 警視庁保安課はステージを回転させたり、入場券を販売してわいせつ行為を手助けした疑いで、新宿区と渋谷区の38〜61歳の従業員の男女4人を公然わいせつ行為ほう助の疑いで逮捕した。逮捕されたのは計6人。 野中容疑者はストリップ嬢のほか、演出も担当していた。 この日の公演は正午開演。 7人のストリップ嬢が出演する予定だったが、野中容疑者が一番人気だったという。 同容疑者を知る男性によると「アダルトグッズを使用した激しい自慰行為など、ショーの内容が強烈で有名だった」という。 普段の公演では露出した陰部を、インスタントカメラで客に撮影させることもあったという。 陰部に強いスポットライトを当て、見えやすいように演出していたとの情報もある。 渋谷の風俗に詳しい男性は「全国でもストリップは客が減っているが、道頓堀劇場は別格。開演前には行列ができる人気で、繁盛しているようだった」と話した。 松井容疑者を知る女性は「まじめな人で、踊り子さんに違法な公演をさせるような人には見えなかった」と話した。 同劇場は70年開館で「ポルノの女王」こと女優愛染恭子らが公演した老舗店。 95年に立ち退き要求などで一時閉館も01年に復活していた。 関係者が99年に札幌市内で開館した「札幌道頓堀劇場」では昨年4月、ストリップ嬢の専門学校生ら5人が全裸となり、客にカメラで陰部を撮影させたとして、劇場管理者を含む6人が公然わいせつ容疑で北海道警に逮捕されている。 2008年11月18日9時31分 日刊スポーツ とっくに閉館したとばかり思っていたけど・・・。 オラが始めて「ストリップ」を見に行った所。 当時話題になっていた「一条さゆり」のローソクショーをやると言うので、悪友達と出かけて行った。 「一条さゆり」 1967年〜1973年(引退翌年)まで11PM(よみうりテレビ制作・通称大阪イレブン)のレギュラー。 1973年には本人出演で、その半生を描いた映画『一条さゆり 濡れた欲情』も作られた。 1972年(昭和47年)に引退するまで9回公然猥褻罪で検挙されている。 「ストリップは大衆娯楽、猥褻にはあたらない」として最高裁まで争った。 その結果懲役1ヶ月が確定。 和歌山刑務所へ収監される。 出所後はスナックを経営していたが、交通事故にあって倒産。 1988年(昭和63年)7月には放火により全身やけどを負った。 晩年は労働者の街、大阪・西成の釜ヶ崎(あいりん地区)で暮らした。 その生活ぶりは近所の飲食店での数時間の労働で僅かな日銭で生計をたて、釜ヶ崎解放会館の三畳間で寝泊りをするという非常に寂しいものだったという。 1997年(平成9年)8月3日肝硬変の悪化で60歳で死亡。 劇場の中に入ると何処かで見たような人が客席に居た。 作家の「田中小実昌」だ。 「田中小実昌」 1947年、東京大学文学部哲学科に無試験入学するもほとんど出席せず除籍。 在学中からストリップ劇場での演出助手(のちに、コメディアンとして出演) その経験を元に踊り子や客達との交流を描いたエッセーで注目された。 推理小説の翻訳家として、主にハードボイルド作品を多数を翻訳。 1968年(昭和43年)に作家として活動を始める。 1971年、『自動巻時計の一日』で直木賞候補。 1979年、『ミミのこと』『浪曲師朝日丸の話』の2作品で直木賞を受賞。 同年、戦争体験や父の姿に題材を取った短編集『ポロポロ』で谷崎潤一郎賞も受賞した。 毛糸の帽子をかぶり、サンダル履きというラフな格好を好み「コミさん」の愛称で親しまれる。 ウィットに富んだユーモアで場を和まし、往年の深夜番組『11PM』をはじめとして、テレビドラマ、映画、CMといった様々な場面で活躍。 新宿ゴールデン街(東京都)の常連。 「健康のためなら死んでもいい」という名言を残し、小説を書き、そして飲む、という日常を送っていた。飲みに繰り出すと10軒は飲み歩いたという。 2000年2月、滞在先のアメリカ・ロサンゼルスにて肝不全のため客死した。 大きな文学賞を何度も受賞しているにも拘らず「ボチボチ書いているだけ。いいかげんな男なんです」と、自虐的とも、飄々さともとれるような独特の醒めた味わいの言葉を残す。 次女は小説家の「田中りえ」 「野見山暁治」は妻の兄。 「一条さゆり」のローソクショーは「トリ」に成るので、 それまでは若い「踊り子さん」のショーを見る。 ショーの合間には「コント」がある。 客席からは「ブーイング」が漏れる・・・。 「ストリップ」を見に来たのに、何故「コント」を見せるのだ〜。 ごもっともな「野次」が飛ぶ。 こんな客を相手に「コント」をやって、笑わせるのはた〜いへん。 箸が転がっても笑ってくれる、女子高生等はいないのだ〜。 ふてくされた「オッサン」達を一瞬にして笑いの世界に引きずり込まないと「暴動」が起っちゃうから〜。 当時、この劇場には「コメディアンの杉兵助」が所属していた。 「杉兵助」 24歳の時にたまたま訪れた浅草オペラ館で役者が不在で欠員が出来たので穴埋めで出演、戦後は地方などをめぐっていたが関敬六劇団などを経て、1969年から渋谷道頓堀劇場専属コメディアン。 1995年末の道頓堀劇場閉館の最終興行では弟子であるコント赤信号と共演。 翌年脳梗塞により死去。 ここに出てくる「関敬六」と言うのは〜。 「関敬六」 浅草フランス座に所属。 「渥美清」「谷幹一」の三人で下積み時代を支えあった。 1959年にはこのトリオで「スリーポケッツ」を結成し、一躍お茶の間の人気トリオとなる。 その後、スリーポケッツは解散し、1975年に自ら劇団を立ち上げる。 主に浅草を中心に活躍し、浅草の舞台史を彩る人物。 舞台や映画などでの精力的な活動が評価され、芸術祭優秀賞など、他の受賞歴も多い。 渥美の葬儀の際には「どうして友達なのに(病気の事を)言ってくれなかったんだよ。」と涙を流していた。 2006年8月23日午前2時8分、肺炎のため東京都千代田区の病院で死去した。 享年78。 「フーテンの寅」さんの原点。 「フーテンの寅」さん達が所属した「浅草フランス座」とは〜。 「浅草フランス座」 作家の「井上ひさし」をして「ストリップ界の東京大学」と言わしめた伝説の劇場。 無名時代の「井上ひさし」が劇場座付き作者をつとめ、同劇場のコント台本などを担当した。 舞踊中心の上品なストリップと幕間の爆笑コントを売り物にしていた。 主な出身者は〜。 八波むと志 渥美清 関敬六 谷幹一 東八郎 萩本欽一 坂上二郎 深見千三郎 ビートたけし ビートキヨシ 浅草キッド 海野かつを なお、姉妹劇場の「新宿フランス座」からは「三波伸介」を生み出している。 北野武はエレベータボーイをしながらコントやタップダンスを学んだ。 ちなみに 「フランス座」は軟式野球チームを持っていた。 エース「土橋正幸」はのちにプロ野球・東映フライヤーズに入団しエースとして活躍しヤクルトスワローズの監督に就任。 文芸部員だった「井上ひさし」も捕手として、土橋とバッテリーを組んでいた。 草野球からプロのエース、監督へと駆け上がった人は他に居ない。 「道頓堀劇場」と言うので「関西系」だとばかり思っていたのだが〜。 名称を「道玄坂劇場」にする予定であったが劇場看板を製作する際に看板業者のミスで「道頓堀劇場」という看板が完成してしまったのだとか・・・。 ものすご〜く、安易な気がするけど・・・。 関東の「笑いの本流」を継いでいる劇場だと思っていただけに残念・・・。 参考文献 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 |
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2008年11月23日
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