幕末の幕臣、明治〜大正初期の大蔵官僚、実業家、二松學舍第3代舎長。第一国立銀行や東京証券取引所などといった多種多様な企業の設立・経営に関わり、日本資本主義の父といわれる。
道徳的規範をもたないまま近代資本主義社会になだれこんだ場合、弱肉強食の世界が出現する。
事業家の人格的完成を最大の徳目とした。
近年の大形倒産や、ダイエーや西武王国の崩壊を見ると、正に現代社会を予言した様にも思える考え方でした。
晩年、風邪で臥せっていた時、社会事業団体の代表者達が、面会を求めてきた。
「政府は救護法を制定したが、寒さと飢えに苦しむ窮民が全国に20万人もいる」
すぐに車を仕度させ、大蔵大臣と内務大臣に面会申し込みの電話をいれた。
主治医も妻も驚いて止めたが、渋沢はよろける足で立ち上がり、
「先生のお世話でこんな老いぼれが平素養生していけるのは、せめてこういう時の役に立ちたいからです。もしこれがもとで私が死んでも、20万人もの不幸な人たちが救われれば本望じゃないですか」
大蔵大臣に
「一体、私たちは何の為に日本の経済を今日まで大きくしたのですか!こういう時にこそ、今、困っている多くの人々を救うためにしてきたのです。私は財界の使命が、ここにあると思います」
強い口調に大臣は彼の手を握り「どうにかしますから、ご安心ください」と回答。
しかし、救護法の実施は、彼が逝去した翌年の事でした。
昭和6年11月11日、91年の生涯を閉じました
弔問客でごった返していた晩、庭の植え込みの陰に紋付袴の中年男がひそんでいた。
家人が怪しんでたずねると
「私は少年の頃、孤児として養育院で育てられました。そのとき院長の渋沢栄一先生から受けた恩情が忘れられず、弔問にまいりました。けれど名乗って出るほどの者でもないので、ここで通夜をさせていただきました」
今は小さな町工場の経営者になった中年男は、家人の好意で邸内に案内されると、栄一の柩の前にぬかずき、心ゆくまで手をあわせたのです。
葬儀は青山斎場
斎場前には千五百台近い車列が並び、青山から谷中の覚永寺までの沿道には、学校の児童をふくめ4万人をこす人々が参列し、告別式を1時聞くり上げてはじめたが、焼香の列をさばききれず、式を打切るまでに延々3時間半もかかった。
晩年、日本銀行からの総裁の要請や大蔵大臣の就任要請も、渋沢は断った
若くして大蔵次官を目前にする地位に進みながら、官尊民卑に反撥して野に下り、二度と政界官界へ戻らぬと誓っていた。
「金は働きのカスだ。機械を運転しているとカスがたまるように、人間もよく働いていれば、金がたまる」
「わたしが、もし一身一家の富むことばかり考えたら、三井や岩崎にも負けなかったろう」
日本資本主義の育ての親といわれる渋沢家からは実業家をほとんど出していません。
数多く輩出したのは、学者や芸術家達でした。
戦後、GHQの財閥指定を受けたのですが、調べで財閥指定の解除をGHQの方から申し出てきたのです。
「財なき財閥」だったからです。
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