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大蔵卿「大久保利道」がまったく根拠の無い予算要求を認めるやり方に憤慨、在任三年余で新政府を辞職した34歳の青年官僚がいた。 最初に弥太郎が巨利を得るのは、維新政府が樹立されて紙幣貨幣全国統一化に乗り出した時の事。 各藩が発行していた藩札を新政府が買い上げることを事前にキャッチした弥太郎は、10万両の資金を都合して藩札を大量に買占め、それを新政府に買い取らせて莫大な利益を得る。 この情報を流したのは新政府の高官となっていた「後藤象二郎」で、今でいうインサイダー取引である。弥太郎は政商として暗躍した。
初めて見た時、クワマンかと思ったが・・・。 三菱商会は、明治7年(1874年)の台湾出兵に際して軍事輸送を引き受け政府の信任を得る。 明治10年(1877年)の西南戦争でも、輸送業務を独占して大きな利益を上げた。 政府の仕事を受注することで大きく発展を遂げた弥太郎は「国あっての三菱」という表現をよく使った。 農商務卿西郷従道が「三菱の暴富は国賊なり」と非難すると、弥太郎は「三菱が国賊だと言うならば三菱の船を全て焼き払ってもよいが、それでも政府は大丈夫なのか」と反論し、国への貢献の大きさをアピールした。 明治11年(1878年)、紀尾井坂の変で大久保利通が暗殺され、明治14年(1881年)には政変で大隈重信が失脚し弥太郎が強力な後援者を失うと、大隈と対立していた井上馨や品川弥二郎らは三菱批判を強める。 明治15年(1882年)7月には、渋沢栄一や三井財閥の益田孝、大倉財閥の大倉喜八郎などの反三菱財閥勢力が投資し合い共同運輸会社を設立して海運業を独占していた三菱に対抗した。 三菱と共同運輸との海運業をめぐる戦いは2年間も続き、運賃が競争開始以前の10分の1にまで引き下げられるというすさまじさだった。 こうしたライバルとの競争の最中、明治18年(1885年)2月7日18時30分、弥太郎は51歳で病死した。 弥太郎の死後、三菱商会は政府の後援で熾烈なダンピングを繰り広げた共同運輸会社と合併して日本郵船となり、三菱財閥の源流。 参考・ウィキペディア 現在の社会体制は、この時に決まったと言って過言ではない。 官僚体制を確立したのは「大久保利通」 渋沢と岩崎の戦いは、岩崎の勝利と言えるだろう。 現在の三菱グループが、その証。 おまけ
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2011年02月12日
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