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大正11年(1922年)1月10日に胆石症のため早稲田で死去、1月17日に自邸での告別式ののち、日比谷公園で未曾有の「国民葬」が催された。 式には約30万人の一般市民が参列、会場だけでなく沿道にも多数の市民が並んで大隈との別れを惜しんだ。 この3週間後に同じ日比谷公園で行われた山縣有朋の「国葬」では、山縣の不人気を反映して政府関係者以外は人影もまばらで「まるで官葬か軍葬」と言われ、翌日の東京日日新聞は「民抜きの国葬で、幄舎の中はガランドウの寂しさ」と報じたほどだった。
現在残されている大隈の関連文書は全て口述筆記によるものであり、大隈自身の直筆のものは存在しない。 政治家嫌いの福沢諭吉とは、度々雑誌での論戦に暮れていた。 福沢は大隈のことを「生意気な政治家」と、大隈は福沢を「お高くとまっている学者」と言ってお互いに会うことを避けていた。 そんな二人を周囲は犬猿の仲だと言っていた。 ある日、雑誌の編集部が大隈と福沢を会わせてみようと本人達に内緒で酒宴の席を設けた。 直接相対した両者は、酒が通ると意気投合し、大隈が「福沢先生はうらやましいですね。未来ある若者に囲まれておいでだ」と言うと、福沢が「あなたも学校をおやりになったらどうです?」と持ちかけられて、早稲田大学を作ったという。 浦上信徒弾圧事件の際、イギリス公使ハリー・パークスは「日本の行っている事は野蛮国のすることであり、今すぐ信者を開放し、信教の自由を認めよ」と抗議してきた。 当時大隈はまだ31歳だったため、パークスは「大隈ごとき身分の低い小役人とは話はできぬ!」と激怒したという。 大隈は「一国の代表者である私と話したくないと言うのなら、抗議は全面撤回とみなす。また、あなたの言うことは、国際法で禁止されている内政干渉である」と言い返し互角に渡った。 日本の若者の口から“国際法”や“内政干渉”という単語が出てきた事に驚いたという。 大隈は「或る歴史家は言う、欧州の歴史は戦乱の歴史なりと。又或る宗教家は言う、欧州の歴史は即ちキリスト教の歴史なりと。この二者の言うを要するに、キリスト教の歴史は即ち戦乱の歴史なり。キリスト教は地に平和を送りし者あらずして剣を送りしものなり。キリスト教が生まれて以来、ローマ法王の時代となり、世に風波を惹起して、欧州の人民を絶えず塗炭の苦に陥らしめたのは是何者の所為なり」と続け、今の日本でいきなりキリスト教を開放すれば混乱が起きるとしてパークスを説得した。 参考・ウィキペディア 15代将軍「慶喜」が幽閉されていた「静岡藩」で「商法会所」(日本最初の株式会社)を起こし、骨を埋め様としていた矢先、政府から「大蔵省租税正」の辞令を渡された。 必要に辞令を拒んだ渋沢に 「君は八百万の神達、神計り(陰暦10月の神様会議)に計りたまえと言う文句を知っているか」 こう、説得を始めたのは「大隈重信」だった。 「新政府がやろうとしている事は、誰も判らん。我々が八百万の神なのだ。君もその神々の一柱に迎えるのだ」 渋沢30歳、大隈32歳の時である。 日本最初の鉄道が新橋〜横浜間に建設された際、そのゲージ(軌間)を1067mm(狭軌。現在のJR在来線の軌間)に決めたのは大隈である。イギリス人技師の説明を聞いて大隈が決めたのだが両者ともに「日本の鉄道なら狭軌で十分」という感覚だったといい、「我輩の一世一代の失策」と大隈は後日語っていたという。 ・
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2011年02月17日
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