逆宣伝効果活動?
「右翼」と言えば「軍国主義」「暴力団」を想像するように「外人」と言えば「白人」を想像してしまう。
何故だろう・・・。
野村秋介
右翼とは「民族の触覚」?
1963年7月15日、憂国道志会会員・松野卓夫とともに、神奈川県平塚市にあった自民党の政治家・河野一郎(当時は建設大臣)の私邸に侵入し、家人を家の外に出した家の河野邸を放火した。
(河野一郎邸焼き討ち事件)
出所後の1977年3月3日、元楯の会の実動部隊班長・伊藤好雄、元大東塾森田忠明、元楯の会西尾俊一とともに、散弾銃や拳銃あるいは日本刀を持って、東京都千代田区大手町の経団連会館を襲撃し、職員12人を人質にとって籠城した。
(経団連会館襲撃事件)
「ヤルタ・ポツダム体制打倒」と「日米安保条約破棄」を軸に、反権力の右翼としての思想を強く主張した。
その批判対象は政界・財界からマスコミにも向けられた。
1983年、第37回衆議院議員総選挙東京都第2区から新井将敬が出馬したが、同選挙区石原慎太郎候補の秘書により、『北朝鮮から帰化』という中傷シールが選挙ポスターに貼られた(黒シール事件)。
その際、石原慎太郎候補事務所に猛抗議を行った。
中傷では無く、事実だけど当人の「選挙ポスター」に貼ったのは不味いと思う。
石原慎太郎事務所に怒鳴り込んだ一件により「石原慎太郎を平伏させた男」として知れ渡ることとなったが、これにより石原支持者の憎悪の対象となった。
1986年、フィリピンでモロ民族解放戦線に拉致されたカメラマンの石川氏を、遠藤誠弁護士、黒沢明らと協力して救出。この件で野村は、マニラの日本大使館の対応に「無名のカメラマンという理由で見捨てた」と激しく批判した。
1992年、第16回参議院議員通常選挙に際して、日本青年社等が組織した「たたかう国民連合・風の会」から横山やすしらと共に比例区で立候補した。
その際、『週刊朝日』誌に「ブラック・アングル」という風刺イラストを連載していたイラストレーターの山藤章二が、これを「虱の党」と揶揄した作品を発表した。マスコミの中で特に朝日新聞にこだわっていた野村秋介は抗議の姿勢をより強めた。
選挙後、藤本敏夫らとともに、少数派・諸派の立候補者を排除するマスコミの選挙報道を公職選挙法違反として刑事告訴した。民事裁判も起こしたがいずれも認められなかった。
立候補推薦人は、ビートたけし、デーブ・スペクター、具志堅用高、安岡力也、ポール牧、安部譲二、内田裕也、菅原文太、栗本信一郎等。
翌年の1993年10月20日、東京・築地の朝日新聞東京本社に中江利忠社長(当時)の謝罪を受けるために訪れ、社長ら首脳と話し合いの後「天皇弥栄(すめらみこと いやさか)」と三度言い残し、拳銃で自決した。58歳没。
朝日新聞社で自決した際、同行した当時18歳だった息子に「いままではお母さんがお前を守った。これからはお前がお母さんを守れ」と言い残し、家族思いの父親としての一面を見せた。
自決当時2チャンネル等では、膨大な借金が有ったと言う話が出てくるが・・・。
韓国統監府初代統監伊藤博文の暗殺者安重根を「憂国の志士」と称えていた。
河野一郎邸焼き討ち事件で千葉刑務所に入獄していた際に、寡黙で朴訥、勤勉な「獄中左翼」の朴判岩(在日韓国人)が無事故、無欠勤で勤勉に働いていたが、それにも関わらず看守に虐待されているのを見かねて、野村秋介が横田秀雄管理部長に朴判岩の勤勉さ、良識ある行動を報告した。すると1ヶ月もしないうちに、朴判岩に仮釈放面接が下った。朴判岩は野村秋介にお礼を言ったが、野村秋介は「僕の力ではない。君自身の生きざまというか姿勢が、僕を感動させて、管理部長も感動させたんだ」と、答えた。
マスコミは、野村のことを「新右翼」と呼んだが、平成に入って以降当人はこれを好まず「新浪漫派」(文学運動の新浪漫派とは異なる)と自ら名乗り、独自の運動を展開しようとした。
筑紫哲也と生前交流があった。
筑紫が亡くなった後、週刊文春の特集で阿川佐和子が述べている。
思想的立場は両極に位置していたが、尊敬しあっていた。
俳優菅原文太と晩年交流。
参考『ウィキペディア(Wikipedia)』
「伊藤博文」暗殺事件は、龍馬暗殺やケネディ暗殺等と同様に謎が多い。
取りあえずの「犯人」は出ているが・・・。
フジテレビの放映だったんだよ・・・
街宣右翼と左翼はプロレスの「ヒーロー」と「ヒール」の関係?
八百長では無く、ショーとして見れば楽しいのだ。
これからは右翼左翼ではなく「民族主義」?
確かに判りやすいかも〜〜〜。
ちなみに昭和天皇の御真影を床の間に置いて居る「右翼本部」が映っていた。
「似非」だと思う・・・
本当の右翼は天皇陛下を見下ろす位置には置かない。
戦前に、この事を象徴する有名な事件が起こった。
煙突男
1930年(昭和5年)に神奈川県川崎市の紡績工場の労働争議の際に、争議の支援活動として工場の煙突に登り、そのまま6日間にわたって居座る事件を起こした人物につけられたあだ名。
1930年の事件以降も同様の事件が複数発生。
数日後には、昭和天皇の乗ったお召し列車が近くの東海道本線を通過する予定となっていた。
当時の川崎警察は、そうとう慌てたらしい。
このままでは「天皇陛下を見下ろす形」になってしまう・・・。
川崎警察は、早期解決を会社側に命じた。
御蔭で「労働争議」は間もなく解決。
妥結が伝えられると男性は午後3時22分に地上に下り立ち、ただちに工場付属の病院に入院した。
読売新聞の記事によると、男が地上に下りてから「6分半後」に「お召し列車」は工場の近くを通過。
読売新聞の時刻に従えば、午後3時27分頃になる。
争議の舞台となった富士瓦斯紡績川崎工場は「川崎競馬場」になっている。
参考『ウィキペディア(Wikipedia)』
【街宣右翼】保守派を装った朝鮮人
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