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君は木村政彦を知っているか 2 3 4 エリオ・グレーシーとの戦い 「昭和の巌流島」決戦 「昭和の巌流島」決戦 8 牛島 辰熊 その圧倒的な強さと気の荒さから「鬼の牛島」と称された。 史上最強を謳われる木村政彦の師匠として有名だが、牛島自身も木村に負けぬ実績を持つ強豪中の強豪である。 元々は剣道を修行していたが、15歳の時に長兄の影響で肥後柔術三道場の一つ、扱心流江口道場に入門した。 熊本では講道館柔道よりも、まだまだ古流柔術の方が盛んであった。 この肥後柔術三道場の対抗戦はまさに命懸けで、判定勝利はなく「参った」のみで勝負を決した。 時には腰に短い木刀を差して試合をやり、投げて組み伏せ、最後は木刀で相手の首を掻き斬る動作をして一本勝ちとなるルールでも戦った。 これら古流柔術は柔(やわら)をあくまで武士の戦場での殺人武術だとしていたのである。 まだ全日本選士権がない頃、実質的な日本一決定戦だった明治神宮大会を1925年から3連覇。 1934年に、皇太子生誕記念の第2天覧試合が開催されたが敗れ「負けは死と同義」と公言していた牛島らしく、即引退した。 この時の牛島の敗戦は肝吸虫により体が衰弱しきっていたことが原因であった。 その後、私塾「牛島塾」を開き、木村政彦、船山辰幸、甲斐利之らを育てる名伯楽となった。 晩年も牛島は木村の事を気に掛けていたようで、“昭和の巌流島”と呼ばれた木村と力道山との戦いでは、木村が敗れると真っ先にリングに駆け上がり、また、会場を去る木村に寄り添う牛島の映像が残されている。 妻や娘に「なぜあの時リングに上がったのですか」と聞かれ、「木村の骨を拾えるのは俺しかいない」と目を潤ませながら語った。 大山倍達 木村政彦の強さに憧れ、戦前戦中は木村の試合を観戦するファンであり、戦後は兄と慕っていつも木村に付き従っていた。 朝鮮半島(現在の韓国統治地域)にいた若い頃はもともとはボクサーで、それを軸として習った空手を独自に発展させていく。 木村と力道山との試合で、約束(プロレスでいうブック)を破って騙し討ちで木村政彦をKOした力道山に怒り心頭に発し、リング下から「力道! 俺がこの場で挑戦する!」と暴れまわるが、まわりの者たちに必死に止められた。 試合後も路上のストリートマッチに持ち込んで木村の復讐をしようと力道山を付け狙う。 のちに極真空手を創始し、梶原一騎の『空手バカ一代』で時代の寵児となっていく。 「木村政彦の全盛期ならヘーシンクもルスカも3分ももたない」と木村が柔道史上最強だと断言する。 おまけ 『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』 増田俊也の長編ノンフィクション。 史上最強と謳われながら歴史から抹殺されてしまった悲劇の柔道王、木村政彦の生涯を辿る評伝。 2011年9月30日に新潮社から単行本として発売された。 『ゴング格闘技』誌上で2008年1月号から2011年7月号にかけて長期連載された作品。 力道山との「昭和の巌流島」決戦では引き分けの約束ができていたが、力道山が突然ブック(プロレスの試合進行の台本)を破り、力道山の張り手連打で木村は血まみれになってKOされてしまった。 当時はまだプロレスがショーであり台本があることは一般に知られておらず、テレビ視聴率は100%で、翌日の新聞各紙も一面トップでこれを報じたため「鬼の木村」の名誉は地に墜ちてしまう。 東條英機暗殺計画 1944年9月には陸軍の津野田少佐と柔道家の牛島辰熊が東條首相暗殺陰謀容疑で東京憲兵隊に逮捕された。 この時、牛島の弟子で柔道史上最強といわれる木村政彦が鉄砲玉、実行犯として使われることになっていた。 軍で極秘裡に開発中の青酸ガス爆弾を持っての自爆テロ的な計画だった(50m内の生物は壊滅するためガス爆弾を投げた人間も死ぬ)。 この計画のバックには東條と犬猿の仲の石原莞爾がいて、津野田と牛島は計画実行の前に石原の自宅を訪ね「賛成」の意を得てのものだった。 計画実行直前に東條内閣が総辞職して決行されなかった。 また、海軍の高木惣吉らのグループらも早期終戦を目指して東條暗殺を立案したが、やはり実行前に東條内閣が総辞職したため計画が実行に移されることはなかった。 ,
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2011年11月25日
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