どうなっちゃうの?日本の将来

県から土地の寄附を強要されている。すでに占有されて竹島状態・・・。

野球の歴史(無駄知識)

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?H1>野球は、ベースボールの発想と違って日本独自の進化を遂げていきます

最初から御読み下さい。
http://blogs.yahoo.co.jp/w1919taka/2002058.html

 最初の方で書きましたが、ベースボールは老若男女の「暇つぶし」からプロに発展しました。
野球は当時のエリート学生に始まり、精神修養の場として子供達へと発展して行きました。

 つまりベースボールは大衆から「ボトムアップ」方式でプロに発展し、野球はエリートから「トップダウン」方式で一般に普及しプロ野球が出来たのです。

 現在でも野球選手は、球場に一礼して入退場をしますが、ベースボール選手はグランドに唾を吐き、ガムを食べています。ベンチ内はゴミだらけです。

 この考え方の違いから『インブリー事件』が起こります。
 明治23年、第一番中学が「第一高等学校」と成ってから、一高グランドで明治学院白金倶楽部と試合をしました。
 6回まで明治学院白金倶楽部が6対0とリードしていた時、明治学院のインブリー先生が応援に来ました。インブリー先生は正門が閉められていたので、垣根をまたいでグラウンドに入りました。それを見た、一高の応援に来ていた柔道部の人達が「無礼者!」と叫んでインブリー先生を袋叩きにしてしまったのです。野球は中止になり、一高の「もうけ」になりました。
 
 現在なら、5回を終了しているので試合成立だと思うのですがね・・・。

 インブリー先生は日本語がよく理解できなかったので、自分に何が起こったのか判ら無かった様です。不平等条約の時代でしたから、この話は世界に広まり、国際問題になりかけたのをインブリー先生の寛大な心のお陰で避けられたのです。

 一説にはインブリー先生が神学博士だったので、垣根をまたいだ事を謝ったそうです。
 偉いですね〜。(写真は、インブリー先生が教鞭を取った現在の明治学院)

 事件後、一高は続けて白金倶楽部と対戦し大差で連勝しました。

 「一高は国内に敵無し」

 波に乗る一高野球は、翌年の明治24年にベースボールに挑戦状を叩きつけます。
 相手は横浜の遊び人「横浜外人倶楽部」
 
 しかしベースボールは、野球を全然相手にしませんでした〜。
 字が読めなかったのか?
 横浜外人倶楽部はテニスやクリケット等なんでもやっていてベースボールの専門ではなかった様です。

 野球はベースボールを罵りました。「逃げるのか〜!卑怯者〜!」
 「尋常にしょうぶしろ〜!」

 初めての国際試合になるので、一高のみならず世論も盛り上がって行きます。
 一高は毎年のように「一高友会誌」等で罵り続けたお陰で、
 横浜外人倶楽部も「土曜日なら休みだからやってもいいよ」と返事が来ました。

 明治29年に、やっと横浜公園(現・横浜スタジアム)で試合が行なわれる事になったので〜す。

 試合日が決定して、横浜外人倶楽部が一高に電報を打ちました。
 「ナンジニクルカ」(何時頃に来るの?)と聞いたのですが、

 一高側は「汝、逃ぐるか」と読んで激怒したそうです。

 電報はカタカナ書きだったので、よくこんな読み違いが有りました。
 道楽息子が金が無くなり「カネオクレタノム」(金送れ頼む)と打電したら、
 受けと取った両親が(金をくれた飲む)と読んで、息子の出世を喜んだとか・・・
 文字は読み手の思い込みで、違った意味に取られちゃう事が有るから気を付けましょう〜。

いけない、話しが横道にそれた。
 試合結果は一高が29対4で快勝。

 この時の一高の監督がベースボールを「野球」と訳した中馬庚だったので〜す。

 一高はこうして、明治37年まで続く黄金時代の基礎を作りました〜。

 この一高が後の東大。
 だから六大学野球で、東大が100連敗しようが200連敗しようが外せないのです。

余談ですが、
 百年後の1996年に、横浜スタジアムで「東大OBとYMCA」の記念試合が有りました。
 プロ野球の試合終了後に行なわれたのに、観客はほとんど居なくなってしまいました。
 「さびし〜い!」
 この試合を見る限り当時はピッチャープレイトではなく、長方形の枠の中から投球したようです。
 この時も、野球が22対1でベースボールに快勝しました〜。
 
 日本球団初の現役大リーガーとしてヤクルトに入団した「ホーナー」は、来日するといきなり大ホームランを打ち続け日本人の度肝を抜きましたが「地球の裏側にベースボールと似て非なるゲームがあった」と言ってアメリカに帰ってしまいました。

ベースボールは、国民の暇つぶしの見世物。
野球は精神修養の手段として、別々の発展をして行くのです・・・。

                                  第1部 おわり

野球の登場で〜す!

 第一番中学は「大学南校」「開成学校」「東京開成学校」「第一高等中学校」と短期間に名称を変えて、学制改革で「第一高等学校」となりなりました。

 ベースボール部員の中馬庚(読み方は”たかびごん”さんから指摘を受け下記に調べました〜)が「ベースボール」を部史に書き残す時「Ball in the field」という言葉を元に「野球」と命名した様です。
 当時、一般的にベースボールと呼ばれ、訳語は「底球」。これでは「庭球」と間違う人が居るので「野球」にしたとされています。

1897年、(明治30年)ベースボールが日本に来てから25年。中馬は一般向けの専門書「野球」を5月に出版し「ベースボール」の訳語として「野球」を発表しました。

 ここに日本で初めて「野球」が登場したので〜す。

 尚、正岡子規が名付けたとの説が有りますが、正岡子規の本名が「升(のぼる)」で「能球(のう・ぼーる)」「野球(の・ぼーる)」という『雅号』を用いていただけで、中馬庚の「野球」訳に喜んだと伝えられています。
 正岡子規は野球用語の「直球」「四球」「飛球」「打者」「走者」等を訳し、捕手として野球をやっていました〜。

 余談になりますが、幕末以来、英語の翻訳には大変な苦労があった様です。
 それまでの日本には無かった考え方が多かったからです。
 良くご存知の「プレジデント」は、日本に「選挙」の考えが無かったので、大工の棟梁の一番偉い人との意味で「大統領」としたようです。
「バージン」も日本に無かった考え方で「未通娘」「おぼこ」等の案が出たようですが「処女」に成りました。
「処女」は大辞林 第二版では【〔家に処(い)る女の意〕未婚の女性。男性と交わったことのない女性。きむすめ。おとめ。バージン】となっていますが、当時は出戻り(×がいくつ有っても)実家に居る女性を「処女」と考えていた様で、大きな違いが有った様です。

 最大の誤訳は「ゴッド」を「神」と訳してしまった事です。
 日本には八百万の神が居ましたから、西洋の一神教国からはバカにされたのです。
 西洋に追いつけ追い越せだった明治政府は、バカにされない様に天皇を唯一の神に仕立て上げ、一神教の国家神道として世界に進出して行ったのです。
 その結果、現在に至るまで変な論争が起きています。

 話しが横道にそれましたが、野球のルールも現在の様な細かい規定が無く簡単でした。
 ですから、野球をやる人達によって細部のルールが違ったようです。

 野球ではデッドボールの球をよけるのは、武士道に反するとして1塁が与えられませんでした。
 ヘルメットも無い時代に頭に速球が向かって来たら、絶対に避けますよね〜。

 避けて身体に当たると、1塁が貰えないどころか「卑怯者!」と審判に罵られた様です。

 泣き面にハチとはこの事か〜?

 昔の野球は怖かった〜!
                          つづく

 
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 中馬庚(ちゅうまん かなえ、1870年3月10日(明治3年2月9日) - 1932年(昭和7年)3月21日)は鹿児島県出身で、アメリカ伝来のスポーツであるBaseballを野球と訳した人物である。名前は「ちゅうま」や「かのえ」とも読まれるが「ちゅうまん・かなえ」と読むのが正しいようである。

 昔は中馬庚(ちゅうま・こう)と読んでいました。地名、人名は読めなくても恥ずかしくないですよね〜。・・・ん?言い訳でしかないな・・・

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碑文で〜す

ベースボールを日本に伝えたのは、アメリカ人宣教師ホレース・ウィルソンで1872年(明治5年)
 この地で、初めてベースボールを教えたとされています。
 ここは当時、第一番中学で1871年〜1877年まで英語と数学を教えていました。

 この頃、他のスポーツも次々と日本に入って来ました。
 中でも団体スポーツを知らなかった日本人には、ベースボールは画期的な事だった様です。
団体競技ではサッカー等も入っていましたが、ピッチャーとバッターの対決が武士道に似ていたからベースボールが先に普及したとも言われています。

 私見ですが、当時の日本人は現在の様に走れず、サッカー向きではなかったのだと思います。
 手と足が左右交互に出るのでは無く、右手と右足が同時に出たと思うからです。
 俗に言う「なんば歩き」です。

武士は刀を振り下ろす時、右手と右足を前に出して振り下ろします。
そうでないと、切り損なった時に自分の足を切ってしまします。

農民が鍬で畑を耕す時も同じです。

当時の日本人は、手を振って歩いたり、走ったりしなかったのです。常に手に何かを持っていないと走り難かったのです。手ぶらだと北朝鮮等の映像に、両手を上げて走る人達の光景を見た事があると思いますが、当時の日本人はあんな格好でないと走れなかったのです。

 ホームランならともかく、ピッチャーゴロで1塁まで、こんな走り方をしたら、張り倒されますね・・・
 逆に両手を挙げて、奇声を発しながら走った方が1塁手が驚いて、動揺してくれるかも・・・

 日本人が現在の様に手足を交互に振るようになったのは、幕末に西洋式の兵隊の訓練を受けた人達からだと言われています。
 ちなみに、日本に徴兵令が出たのが翌年の明治6年ですから、これ以前の日本人の多くが「なんば歩き」をしていたと思います。

 又、バットの握り方も、日本人には両手に隙間を作る持ち方が自然でしたから、教える方も大変だったと思います。

 しかし、大リーグで終身打率 3割6分7厘を残した「タイ・カップ」のバットの握りは、日本人握りでした。
 もしかしたら、当時、無名の日本人スラッガーが居て、アメリカ人宣教師が帰国した後、こっそり日本のバッティングスタイルを教えたのかも知れません。

 ・・・だったら良いですね〜。
                      つづく

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写真を撮ってきました〜。日本野球発祥の碑です。
ここは、東京千代田区の神保町と江戸城一ツ橋の間にある「学士会館」の前です。
日本にベースボールが来たのは、明治5年(1872年)とされています。

日本野球の発達を知る前に、もう一度「ベースボール」とはどんなゲームなのか、原点から考えて見ましょう。

 草野球では長打を放つと、ベンチから「ふたつ!」とか「みっつ!」「よっつ!」の声が飛びます。
 ベンチは、ひと事ですから平気で無理な塁を指定します。
 打った本人は「走る身になれ!」と心の中で叫びながら、必死で「ハアハア」走ります。

「みっつ」は3塁「よっつ」はホームか・・・ん?
「何故、ホームを4塁と言わないんだ?」等と考えながら走ったら、アウトになっちゃいますよ〜。

 
4塁は何故ホームなの?

 バットはパドル(船をこぐオール)から来たと言われています。
 ベースは、日本語で「塁」(とりで)と訳されている様に「基地」の意です。

 現在、沖縄で普天間飛行場基地の名護市への移設問題が起きていますが、当時は飛行機が有りませんからベースボールのベースは「港の基地」のはずです。

 つまり、攻撃側はバット(パドル)で大航海に出て、大海原の島々(ベース)を渡りながら、無事に戻ってくるゲームなのです。
 
 すると「塁間は海」? この航海を邪魔する守備側は、サメか・・・?

 守備側は航海の邪魔をする「サメ」と、考えて良いと思います。
 打球でサメの注意をそらせて、次のベースに向かうのだと思います。

 ベースは基地ですから、そこに居れば安全です。
 しかし離れ小島から一人で、戻ってくるのは大変難しい。
 そこで、次の打者がサメの気を逸らせて仲間を無事にホーム(家庭)に帰すのです。

 これをホームイン(生還)といいます。良かったですね、無事に帰れて・・・。
 チームメイトが大喜びしていますよ。

 ベースボールは、離れ小島に取り残された仲間を無事にホーム(家庭)に返してあげるゲームだったのですね。

 ですから打席に立つ時、チームメイトが離れ小島に取り残されていたら、なんとしてもホーム(家庭)に返してあげる事です。残塁は、仲間を見殺しにした事になりますよ〜。

 ついに、ベースボールが日本に来ましたよ〜。
                                つづく

ストライクって何?

 近代ベースボール以前は、1チーム12人で試合をしていました。
 又、先に21点を取ったチームの勝ちにしました。
 12人にしても中々得点が入らず、時間がかかって何回も続く事が多く有りました。

1845年(日本では、黒船が来航していました)
 タウンボールをやると時間がかかるので、アレキサンダー・カートライトはルールを練り直し、人数、ファウル、3アウト制等を導入し、新たなスポーツを誕生させたのです。

 これがベースボールの原型だと言われ、その後に起きた南北戦争でベースボールは全米で行なわれる様になったのです。

 12人が、現在の9人になった時代は不明ですが、9回終了になったのは1857年。
 日本では、2年前に安政の大地震が有り、ハリスと下田条約を調印している時代です。

 打者が投球コースを注文して、その通りに投げても打たない人が居ました。
 ベンチの仲間からも「いい球だよ〜。いい加減に打てよ〜!」等の声がかなり有ったと思います。
 ベースボールにはテンポが重要です。試合がダレルと選手は、やる気がなくなります。

 そこで翌年、見逃しに「ストライク」のコールがされるようになりました。
「ストライク」とは「打てる」の意味で、打者によってゾーンは当然違ったのです。

 「ストライク」とは「君なら打てる球だった」の意味だと思います。
 ですから、打席に立って「ボール」だと思って、見逃した球が「ストライク!」とコールされても、審判に抗議するのではなく「審判は、俺を打てる打者だと思っている」
 そう考えた方が良いと思います。

 昔、王さんが打席で見逃すと審判のコールは、ほとんど「ボール」でした。
 ファンの間では「王ボール」と言われました。

 ベースボールの審判は、選手経験せずに審判学校を卒業すると、
 ルーキーリーグからメジャーへと新人選手と共に上がって行きます。
 だから、選手が偉大になる頃は、審判にも権威が付くのです。

 日本の審判は選手崩れなので、偉大な選手には頭が上がらず遠慮したのです。
 ベースボールの審判制度は「相撲の行事」に似ている気がします。

「ボール」のコールがされるように成ったのは1863年。
 日本では攘夷論が体制をしめ、薩英戦争等が起っていました。

 しかし「ボール」がいくら続いても1塁には行けませんでした。

 打者が1塁に行ける様に成ったのは1879年。
 9ボールで、やっと一塁へ行けたのです。

 これでもゲーム進行が遅いので、毎年のようにボール数が、8,7、6・・と減り、現在の4ボールで一塁へ行ける様に成ったのは1889年です。
 10年の歳月が必要でした。

 だから、日本では「フォアボール」と言いますが、ベースボールでは「ウォーク」「テイク・ワンベース」等と言います。

 10数年前に、もっとゲーム進行を早めようと、3ボールで「ウォーク」にした事があった様ですが、さすがにピッチャー不利で、現在の4ボールに戻りました。

 ちなみに、ワンバウンド捕球が廃止され,ノーバウンドのみアウトとされたのは1864年。
 日本では、蛤御門の変や長州征伐で騒然としている時代でした。

 もう直ぐ、日本にベースボールが来ますよ〜。
                        つづく

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