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最初の方で書きましたが、ベースボールは老若男女の「暇つぶし」からプロに発展しました。 野球は当時のエリート学生に始まり、精神修養の場として子供達へと発展して行きました。 つまりベースボールは大衆から「ボトムアップ」方式でプロに発展し、野球はエリートから「トップダウン」方式で一般に普及しプロ野球が出来たのです。 現在でも野球選手は、球場に一礼して入退場をしますが、ベースボール選手はグランドに唾を吐き、ガムを食べています。ベンチ内はゴミだらけです。 この考え方の違いから『インブリー事件』が起こります。 明治23年、第一番中学が「第一高等学校」と成ってから、一高グランドで明治学院白金倶楽部と試合をしました。 6回まで明治学院白金倶楽部が6対0とリードしていた時、明治学院のインブリー先生が応援に来ました。インブリー先生は正門が閉められていたので、垣根をまたいでグラウンドに入りました。それを見た、一高の応援に来ていた柔道部の人達が「無礼者!」と叫んでインブリー先生を袋叩きにしてしまったのです。野球は中止になり、一高の「もうけ」になりました。 現在なら、5回を終了しているので試合成立だと思うのですがね・・・。 インブリー先生は日本語がよく理解できなかったので、自分に何が起こったのか判ら無かった様です。不平等条約の時代でしたから、この話は世界に広まり、国際問題になりかけたのをインブリー先生の寛大な心のお陰で避けられたのです。 一説にはインブリー先生が神学博士だったので、垣根をまたいだ事を謝ったそうです。 偉いですね〜。(写真は、インブリー先生が教鞭を取った現在の明治学院) 事件後、一高は続けて白金倶楽部と対戦し大差で連勝しました。 「一高は国内に敵無し」 波に乗る一高野球は、翌年の明治24年にベースボールに挑戦状を叩きつけます。 相手は横浜の遊び人「横浜外人倶楽部」 しかしベースボールは、野球を全然相手にしませんでした〜。 字が読めなかったのか? 横浜外人倶楽部はテニスやクリケット等なんでもやっていてベースボールの専門ではなかった様です。 野球はベースボールを罵りました。「逃げるのか〜!卑怯者〜!」 「尋常にしょうぶしろ〜!」 初めての国際試合になるので、一高のみならず世論も盛り上がって行きます。 一高は毎年のように「一高友会誌」等で罵り続けたお陰で、 横浜外人倶楽部も「土曜日なら休みだからやってもいいよ」と返事が来ました。 明治29年に、やっと横浜公園(現・横浜スタジアム)で試合が行なわれる事になったので〜す。 試合日が決定して、横浜外人倶楽部が一高に電報を打ちました。 「ナンジニクルカ」(何時頃に来るの?)と聞いたのですが、 一高側は「汝、逃ぐるか」と読んで激怒したそうです。 電報はカタカナ書きだったので、よくこんな読み違いが有りました。 道楽息子が金が無くなり「カネオクレタノム」(金送れ頼む)と打電したら、 受けと取った両親が(金をくれた飲む)と読んで、息子の出世を喜んだとか・・・ 文字は読み手の思い込みで、違った意味に取られちゃう事が有るから気を付けましょう〜。 いけない、話しが横道にそれた。 試合結果は一高が29対4で快勝。 この時の一高の監督がベースボールを「野球」と訳した中馬庚だったので〜す。 一高はこうして、明治37年まで続く黄金時代の基礎を作りました〜。 この一高が後の東大。 だから六大学野球で、東大が100連敗しようが200連敗しようが外せないのです。 余談ですが、 百年後の1996年に、横浜スタジアムで「東大OBとYMCA」の記念試合が有りました。 プロ野球の試合終了後に行なわれたのに、観客はほとんど居なくなってしまいました。 「さびし〜い!」 この試合を見る限り当時はピッチャープレイトではなく、長方形の枠の中から投球したようです。 この時も、野球が22対1でベースボールに快勝しました〜。 日本球団初の現役大リーガーとしてヤクルトに入団した「ホーナー」は、来日するといきなり大ホームランを打ち続け日本人の度肝を抜きましたが「地球の裏側にベースボールと似て非なるゲームがあった」と言ってアメリカに帰ってしまいました。 ベースボールは、国民の暇つぶしの見世物。 野球は精神修養の手段として、別々の発展をして行くのです・・・。 第1部 おわり
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野球の歴史(無駄知識)
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ベースボール部員の中馬庚(読み方は”たかびごん”さんから指摘を受け下記に調べました〜)が「ベースボール」を部史に書き残す時「Ball in the field」という言葉を元に「野球」と命名した様です。 当時、一般的にベースボールと呼ばれ、訳語は「底球」。これでは「庭球」と間違う人が居るので「野球」にしたとされています。 1897年、(明治30年)ベースボールが日本に来てから25年。中馬は一般向けの専門書「野球」を5月に出版し「ベースボール」の訳語として「野球」を発表しました。 ここに日本で初めて「野球」が登場したので〜す。 尚、正岡子規が名付けたとの説が有りますが、正岡子規の本名が「升(のぼる)」で「能球(のう・ぼーる)」「野球(の・ぼーる)」という『雅号』を用いていただけで、中馬庚の「野球」訳に喜んだと伝えられています。 正岡子規は野球用語の「直球」「四球」「飛球」「打者」「走者」等を訳し、捕手として野球をやっていました〜。 余談になりますが、幕末以来、英語の翻訳には大変な苦労があった様です。 それまでの日本には無かった考え方が多かったからです。 良くご存知の「プレジデント」は、日本に「選挙」の考えが無かったので、大工の棟梁の一番偉い人との意味で「大統領」としたようです。 「バージン」も日本に無かった考え方で「未通娘」「おぼこ」等の案が出たようですが「処女」に成りました。 「処女」は大辞林 第二版では【〔家に処(い)る女の意〕未婚の女性。男性と交わったことのない女性。きむすめ。おとめ。バージン】となっていますが、当時は出戻り(×がいくつ有っても)実家に居る女性を「処女」と考えていた様で、大きな違いが有った様です。 最大の誤訳は「ゴッド」を「神」と訳してしまった事です。 日本には八百万の神が居ましたから、西洋の一神教国からはバカにされたのです。 西洋に追いつけ追い越せだった明治政府は、バカにされない様に天皇を唯一の神に仕立て上げ、一神教の国家神道として世界に進出して行ったのです。 その結果、現在に至るまで変な論争が起きています。 話しが横道にそれましたが、野球のルールも現在の様な細かい規定が無く簡単でした。 ですから、野球をやる人達によって細部のルールが違ったようです。 野球ではデッドボールの球をよけるのは、武士道に反するとして1塁が与えられませんでした。 ヘルメットも無い時代に頭に速球が向かって来たら、絶対に避けますよね〜。 避けて身体に当たると、1塁が貰えないどころか「卑怯者!」と審判に罵られた様です。 泣き面にハチとはこの事か〜? 昔の野球は怖かった〜! つづく 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 中馬庚(ちゅうまん かなえ、1870年3月10日(明治3年2月9日) - 1932年(昭和7年)3月21日)は鹿児島県出身で、アメリカ伝来のスポーツであるBaseballを野球と訳した人物である。名前は「ちゅうま」や「かのえ」とも読まれるが「ちゅうまん・かなえ」と読むのが正しいようである。 昔は中馬庚(ちゅうま・こう)と読んでいました。地名、人名は読めなくても恥ずかしくないですよね〜。・・・ん?言い訳でしかないな・・・
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写真を撮ってきました〜。日本野球発祥の碑です。 |
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近代ベースボール以前は、1チーム12人で試合をしていました。 |


