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明治維新によって導入された「新日本経済」 その時に「合本主義」を提唱した「渋沢栄一」の言葉です。 「渋沢栄一」は幕末にパリ万博に徳川慶喜の弟徳川昭武に随行し、ヨーロッパの経済を学んでいました。その為に、帰国した時には時代が変わり明治時代になっていたのです。 徳川家に仕えていた為、帰国後暫くは慶喜の下で働いていました。しかし、ヨーロッパで学んだ経済を日本の為に役立てて欲しいと新政府に迎えられたのです。 明治維新により、近代の官僚制度の基礎を築いたのは「大久保利通」でした。
その下で働く事になったのが「渋沢榮一」です。
渋沢榮一は何を考えていたのか?日本経済のセンター街渋沢栄一は明治6年に大蔵省を退官し、第一国立銀行を設立しました。兜町を日本経済のセンター街にしたかったのです。 自宅ぐるみ兜町に乗り込み、兜町の街づくりに力を傾け、日本を代表する会社の大半を設立しました。(その数は500以上。他に大学、慈善団体の設立に係わった) 本邦最初の銀行、初の株式会社の運営育成に当たりましたが、現在の兜町からビジネス街は消えてしまい痕跡すら残っていません。 海運業海運業は明治10年の「西南戦争」以来、岩崎弥太郎が率いる「三菱商会」が独占していました。その為に、運賃は実質7割も値上がりをしたのです。「このような私利私欲が幅を利かせていては、健全な経済は発展しない」 三井や大倉などの豪商に呼びかけ明治13年8月「風帆船会社」を設立。 不当な搾取に対して、渋沢は実業家として果敢に戦いを挑んだのです。 岩崎の「独占主義」と渋沢の「合本主義」は国論を二分する政争に発展しました。 競争原理で運賃は急落、スピードアップが図られたが採算を度外視した競争に、両社とも経営に行き詰まり、政府が仲裁に入って「合併」し明治18年9月「日本郵船」が誕生したのです。 日本郵船は日本を代表する世界有数の国際的海運会社として成長し、戦前において世界第3位の海運国に発展させる原動力となりました。 連合生糸荷預所日本の輸出の大半を占めていた生糸の取引は外国商人の思いのままでした。そこで渋沢榮一は日本の問屋を結束させて「連合生糸荷預所」を設立しました。 契約した荷については日本側で検査も計量の代金引換で手渡す仕組みを考えたのです。 日本各地の農家や商人から激励や応援が届き全国的な世論に高まりました。 さらに、荷預所に代わって共同倉庫を作り、取引条件も 「預かり荷に対して預かり証を公布」 「代価や検査期限を契約書に明記する」 「不当な不良品扱いは立会人が仲裁し、応じなければ一同で取引を拒絶する」 ほぼ日本側の要求を全面的に取り入れた内容に変更したのです。 新聞は「正義が貫かれた」「日本の農商あげての奮発が実った」と讃えたのです。 田園都市運動渋沢榮一は一般生活に自然との調和を考えていました。それが田園都市運動です。 日用品はそこで間に合う商店街。 子供の通う学校くらいは備えた住宅地を郊外の畑の中につくりたい。 その町は多摩川べりのまだ電車も水道も電気もない畑の中にこつ然と生まれたのです。 今日の田園調布が、渋沢栄一最後の仕事でした。 しかし、現在の田園調布も電車が通る高級住宅街となり 渋沢が望んでもいなかった姿に変貌してしまったのです。 渋沢栄一は自分の理想を次々と実現していったのですが、死後は本人の意思とは関係なく、いつの間にか違った方向に向かってしまったのです。 「道徳的規範をもたないまま近代資本主義社会になだれこんだ場合、弱肉強食の世界が出現する」 それから100年以上の年月が過ぎた現在。 日本経済の実態はどのようになっているのでしょうか。 渋沢栄一 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%8B%E6%B2%A2%E6%A0%84%E4%B8%80 |
渋沢栄一
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世界の株式市場に激震をもたらした米証券大手リーマン・ブラザーズの経営破綻(はたん)問題。 混乱は原油、穀物高による物価高で苦しむ日本の国民生活にどう影響するのか。 経済の専門家に話を聞くと、「短期的に物価高は収まる」というものの、中長期的に世界的大不況となる危険性をはらんでおり、給料やボーナスにも響き、「最悪のシナリオを見込んで生活設計したほうがいい」との助言も。 日本社会の先行きはどうも暗そうだ。 「短期的にインフレは収まる」と物価高は沈静化するとみるのは、元大蔵官僚で慶応大学ビジネススクールの小幡績准教授。 「金融市場が悪化する可能性が高まり、穀物や原油など投機の部分は売られるので、価格高騰は収まる」。 経済ジャーナリストの荻原博子さんも同じ見方で「リーマンの破綻で円高になっている。穀物は米国産が多く、物価は一時的に落ち着くのではないか」。 経済アナリストの森永卓郎さんは、同じように物価は落ち着きを取り戻すとみるものの、一部で物価上昇は続くと予測。 「これまでメーカーは原材料費の高騰分をすべて小売価格に転嫁せず、値上げを極力抑えてきた。上昇分をゆっくり調整するものもあるだろう」と指摘する。 半面、企業経営は厳しさを増す。 荻原さんは「投資が手控えられると資金が回らなくなり、今すぐ運転資金が必要な中小企業などへ資金が行き届かなくなる」として、倒産が増えるのではと危ぶむ。 また、円高傾向と米国経済の低迷は輸出産業を直撃。 業績が悪化すればサラリーマンの給料にも響く。 荻原さんは「ボーナスを抑えようとか人員削減しようという話に進む。給料も下がる」と予測。 「公的年金の運用にも打撃で、支給開始年齢がさらに上がってしまうのでは」とも。 小幡准教授は、将来的に世界的大不況になる恐れがあるといい、「金融のプロ中のプロも予測できないほど先行きが不透明な時代となる。悪いシナリオを見込んで生活設計を」とアドバイスするが、一体どうすればよいのか…。 最終更新:9月17日8時12分配信 産経新聞 三笠フーズの事故米の不正転売問題で、政府が16日、新たに外食産業を含む375の流通先を明らかにした。 「こっちは被害者なのに」。 社名の公表に戸惑いや憤り、涙する業者も。 農林水産省の調査を拒否しながらも社名が公表された9社のなかには、訴訟を表明する業者まであらわれ、事故米をめぐる騒動に沈静化の兆しは見えない。 城崎温泉(兵庫県豊岡市)の中心地にある食堂「力餅」。 3日前、長年の付き合いがある市内の食材卸業「小谷商店」から仕入れたもち粉計40キロが、事故米と知らされた。 「味に問題がなかった。まったく気付かなかった」と同店の松本和也さん(29)。 もち粉はあんこ入りのもちに加工。 1日約50個を作り、1個150円で店頭販売。観光客を中心に約4カ月ですべてを売り切り、粉はすでにないという。 松本さんは「体調不良の人がいなければいいが」と言葉を詰まらせた。 神戸市の中華街「南京町」でも、2店が事故米を仕入れていた。 その一つ「栄和飯店」の店員は、「私たちは被害者。中華街のイメージが傷ついた」。 農水省の調査に販売先10社の実名を明かさなかった三重県四日市市の食材卸業「ミルズカトウ」の加藤芳男社長(49)は、三重農政事務所などを相手に訴訟を起こす考えを表明。 社長は「公表された店は売り上げが落ちる。農政事務所の職員に『会社や販売先がつぶれても公表する』と言われた」と憤った。 熊本、宮崎、鹿児島三県の流通先の大半は和菓子製造業者。 宮崎市の女性店主(72)は「『一番いい粉をちょうだいね』と言って買ったのに。店の名前まで公表するのは、お客さんの不安をあおるだけでは」と心配そうに話した。 茨城県桜川市の「藤永製菓」では事故米を1袋250グラムのおかき約2万袋に使用した。 鈴木茂社長(36)は「事故米と知らなかったとはいえ、消費者には本当に申し訳ない」と涙声で語った。 最終更新:9月17日8時37分配信 産経新聞 正に現代社会を予言していた様な人物がいた・・・。 |

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渋沢 栄一 (しぶさわ えいいち、天保11年2月13日(1840年3月16日) - 昭和6年(1931年)11月11日)は、日本の実業家。日本資本主義の父と呼ばれる。 渋沢成一郎の従弟。正二位勲一等子爵。 渋沢敬三、英文学者の宮澤邦子は孫。 競馬評論家の大川慶次郎は曾孫に当たる。 旧字体で「澁澤榮一」と表記されることもある。
第一国立銀行のほか、東京ガス、東京海上火災保険、王子製紙、秩父セメント(現太平洋セメント)、帝国ホテル、秩父鉄道、京阪電気鉄道、東京証券取引所、キリンビール、サッポロビールなど、多種多様の企業の設立に関わり、その数は500以上とされている。
『論語と算盤』を著し、「道徳経済合一説」という理念を打ち出した。幼少期に学んだ『論語』を拠り所に倫理と利益の両立を掲げ、経済を発展させ、利益を独占するのではなく、国全体を豊かにするために、富は全体で共有するものとして社会に還元することを説くと同時に自身にも心がけた。また「渋沢財閥」を作り巨富を得ることも当時の栄一には簡単に出来たのであろうが、「私利を追わず公益を図る」考えを自身も生涯に渡って貫き通したのである(GHQが財閥解体を命じた時、岩崎家(三菱)の総資産は33億円、一方渋沢家は625万円だった)。 しかし、三井、三菱、住友、古河、大倉などの財閥系ですら男爵どまりであったが、栄一ただ一人が経済人では最高位の子爵を授かった。 実業界の中でも最も社会活動に熱心で、東京市からの要請で養育院の院長を務めたほか、東京慈恵会、日本赤十字社、癩予防協会の設立などに携わり、キリスト教徒でもないのに救世軍を支援したほか、関東大震災の復興のために、大震災善後会副会長となり、寄付金集めなどに奔走した。 当時は商人に高等教育はいらないという考え方が支配的だったが、商業教育にも力を入れ商法講習所(現一橋大学)、大倉喜八郎との関係で大倉商業学校(現東京経済大学)の設立に協力したほか、創立者大隈重信との関係で早稲田大学、創立者三島中洲との親交で二松学舎(現二松学舎大学)、野田(大塊)卯太郎との誼で国士舘大学(創立者・柴田徳次郎)、井上馨に乞われ同志社大学(創立者・新島襄)の寄付金の取り纏めに関わった。 商人同様に教育は不要であるとされていた女子の教育の必要性を考え、伊藤博文、勝海舟らと女子教育奨励会を設立、成瀬仁蔵らとともに日本女子大学校、伊藤博文との関係で東京女学館の設立に携わった。 若い頃は固陋なナショナリストであったが、「外人土地所有禁止法」(1912年)に見られる日本移民排斥運動などで日米関係が悪化した際には、対日理解促進のためにアメリカの報道機関へ日本のニュースを送る通信社を立案、成功はしなかったがこれが現在の時事通信社と共同通信社の濫觴となる。 また日本国際児童親善会を設立し、日本人形とアメリカの人形(青い目の人形)を交換するなどして、交流を深めることに尽力している。 1931年には中国で起こった水害のために、中華民国水災同情会会長を務め義援金を募るなどし、民間外交の先駆者としての評価も高い。 1926年と1927年にはノーベル平和賞の候補にもなった。
幕末に栄一と同じ観点から備中松山藩の藩政改革にあたった陽明学者山田方谷の門人で「義利合一論」(義=倫理・利=利益)を論じた三島中洲と知り合うと、両者は意気投合して栄一は三島と深く交わるようになる。
栄一は三島の死後に彼が創立した二松学舎の経営に深く関わることになる。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋
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「渋沢家三代」(佐野眞一著 文藝春秋)を読んでいたら、明治の近代化に貢献し、日本の将来を考え続けた「渋沢栄一」の話に感心させられました。現代の世相を予見していた様に思えるのです。 |

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