「大相撲初場所・14日目」(21日、両国国技館) 横綱白鵬が大関琴奨菊を突き落として3連敗を免れた。 優勝を決めている把瑠都はもろ手突きから左まわしを取って寄り切り、全勝を守った。 日馬富士は左の張り手1発で稀勢の里をノックアウトして11勝目。 関脇鶴竜は高安の気迫の相撲に敗れた。 安美錦は関脇豊ノ島を破って勝ち越し、三役返り咲きを確実にした。 栃乃若も隆の山を退けて勝ち越し、来場所の新三役昇進が有力。 臥牙丸は豊響を破って自己新の11勝目。 栃煌山も朝赤龍を下して一昨年秋場所以来の11勝とした。 デイリースポーツ 最終更新:1月21日(土)19時49分 その「稀勢の里ー馬富士戦」 大相撲初場所十三日目「把瑠都ー琴奨菊戦」 優勝が決まった取り組み「白鵬ー琴欧洲戦」 「千代の富士」と同じ様に、ケガに泣いた過去だった。 エレベーター番付(番付の上下が大きい)からの優勝。 日本人力士の不甲斐なさが、先に立ってしまう。 当面、日本人力士の優勝争いは見られないと思うし・・・。 付録 把瑠都は現在、身長198cm、体重188kgだが平成18年(2006年)5月場所における把瑠都の身長、体重がまったく同じ数字だった名力士がいる。 「雷電爲右エ門」だ 現役時代の体格は、身長6尺5寸(197センチ)、体重46貫(172キロ)の筋肉質な巨漢。 現存する雷電の手形は、長さ23.3センチ、幅13センチ。 あまりの強さに「鉄砲(突っ張り)」「張り手」「閂(かんぬき)」「鯖折り」を禁じ手とされたという逸話が有名。 閂で八角政右エ門の腕をへし折ったと伝えられている。 その師匠が「谷風」 江戸本場所で土つかずの63連勝。 さらにその敗北の後に43連勝を記録。 のち昭和の時代に双葉山が69連勝を達成するまで、約150年にわたって記録保持者であり続けた。 この63連勝は江戸本場所のみの連勝記録であり、京都本場所、大坂本場所での成績も含めると1782年(天明2年)2月場所8日目から、1786年(天明6年)3日目まで98連勝を達成している 優勝20回以上、50連勝以上、通算勝率9割以上を達成したのは大相撲の長い歴史の中で谷風だけ。 谷風の出身地である宮城県仙台市では、 昔から俚謡で「わしが国さで見せたいものは、むかしゃ谷風 いま伊達模様」と謡われ今の世に伝わっている。 おまけ 貴闘力 対 大翔山 〜36発の張り手合戦〜 板井VS大乃国 4番 続・ 板井×大乃国 2番 追記 麒麟児 vs 富士櫻 昭和天皇も思わず身を乗り出す名勝負 昭和50年夏場所8日目 天覧相撲。 昭和天皇も富士櫻の土俵を好んだという。 同じ押し相撲の麒麟児との対決は特に人気があり、東京場所では天覧相撲用のとっておきの割として重宝された。 2003年に日本経済新聞が掲載した「大相撲の名勝負ベスト10」で第5位に選ばれたこの一番で富士櫻は敗れたが、思い出に残る相撲としてこれを挙げている。 富士櫻のひたむきな土俵姿は相撲ファンから突貫小僧(後には突貫おじさん)の名で愛された。 気っ風の良い相撲ぶりから、「甲斐の江戸っ子」とも呼ばれた。 また力士としては大成しなかったものの、後にお笑い芸人になった安田大サーカスのHIROも育てている(元序二段「和歌桜」)。 ,
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スポーツ(野球以外)
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練習中の事故で15日に亡くなった女性オートレーサー、坂井宏朱さん(享年27)=船橋・31期=の通夜が18日、東京・芝公園の増上寺光摂殿でしめやかに営まれた。 親友でありライバルだった同期の佐藤摩弥(19)=川口・31期=ら約600人が参列した。 44年ぶりの女子レーサーとして、坂井さんと佐藤は養成所時代からともに励まし合ってきた。 ライバルの死に「まだ信じられないし、実感がわかない。(事故があった当日は)すぐに駆けつけて顔を見て、手を握ったけど信じられなかった。今でも状況が理解できてない」とハンカチであふれてくる涙をぬぐった。 2人が世間に注目されるきっかけとなったのは、一昨年11月にフジテレビ系で放送された「潜入!リアルスコープ」。厳しい訓練を受けている様子がドキュメントタッチで紹介され、髪を短く刈り上げた坂井さんと佐藤の女子レーサー2人の奮闘は多くの人に知られるところとなった。 2人がそれぞれ初勝利を飾った際には、スポーツ紙でも大きな話題となった。 坂井さんは自分の出場するレースがないときは、佐藤が所属する川口オートまで来て、熱心に研究していたという。 昨年暮れには「(一緒に)旅行をしようね」と2人で話していた。 「宏朱ちゃんは本当にオートが大好きだったし、レーサーになったことを後悔してないと思う。大好きなオートを見守ってくれると思う」と唇をかみしめた。 祭壇はバラやカーネーションなどの花で彩られ、遺影はオートレースのユニホーム姿。 会場入り口前には、ありし日の坂井さんのレース写真やヘルメットなどが飾られた。 供花の中には「潜入!リアルスコープ」に出演するビビる大木、上地雄輔の名前もあった。 戒名は一道院宏髄浄安大姉(いちどういんこうずいじょうあんだいし)。 19日に行われる葬儀・告別式では、師匠の永井大介が弔辞を読み、最後のお別れをする。 デイリースポーツ 最終更新:1月19日(木)8時48分 親友でありライバルだった同期の佐藤摩弥? 親友だった事は認めるとして「ライバルだった」かは疑問 練習中の事故で15日に亡くなった女性オートレーサー、坂井宏朱(ひろみ)さん(享年27)=船橋・31期=の葬儀・告別式が19日、東京・芝公園の増上寺光摂殿でしめやかに営まれ、約400人が参列した。 師匠の永井大介の弔辞、佐藤摩弥ら同期生16人によるお別れの言葉で始まった。 最後の喪主あいさつでは「宏朱は生前から臓器提供の意思表示をしていた。内臓は損傷していたが、角膜は無傷だったので提供して、昨日(18日)2人に移植した。どこかで宏朱が生き続けているのがせめてものなぐさめ」と父・克行さんが明らかにした。 デイリースポーツ 最終更新:1月19日(木)16時3分 以前、子供達に「野球」を教えていた事がある。 少年野球に入ってくる子供達は「プロ野球」等を見ていて夢を膨らませていた。 皆全てが「ホームランを打ちたい」「ファインプレイをしたい」「プロ野球の選手になりたい」等、大きな夢を持っていた。 自分の子供時代を思い出し、話を聞いているだけでうれしくなった。 野球の基礎をシッカリ教えてあげないといけないと実感する日々が続いた。 指導者講習会等を見つけると進んで参加した。 自分が教えられた過去の経験とは、まるで違った方法に驚きもした。 「医学」「メンタル(心理学)」「筋肉構造」等、野球とは無縁だと思っていた内容が多かった。 小学生が中心だったから「夢」を壊さないように、野球を続けられる体力を付けてやる事を心がけていた。 しかし、監督は試合になると「勝ち」にこだわった。 1点差を争う試合だった。 ワンアウト3塁。 次のバッターにバント(スクイズ)のサイン。 思わず監督に言った 「あの子は、練習でもバントを決めた事が有りませんよ」 案の定バント失敗で得点が入らず試合に負けた。 暫くして、中学生のスコアラーをやった。 使えそうな選手は2・3人。 人数も少なく、毎回打順には悩んでいた。 公式戦で監督から、スターティングメンバーを聞いて驚いた。 4番バッターに滅多に良い当たりをした事が無い子の名前。 「え?」と思わず聞き返すと、 「いいんだ。始めて見た相手はガタイが大きいからビビル」 結果はその言葉通りになった。 ワンアウト2・3塁。 バッター4番。 相手の監督は深めの守備を指示した。 ボテボテの内野ゴロだったが先取点を取って勝利した。 その後、見違えるような選手になったが、高校では野球をやらなかったらしい。 この監督は、ツーアウト3塁の場面で、 サインはバント? えっ?ツーアウトなのに? 相手チームもオラと同じ考えだった様で意表を突かれて、セーフにしてしまった〜〜〜。 この試合も見事に勝利〜。 勝利は子供達の動機付けになる。 監督の采配も選手の能力を知り尽くした、見事な物だったと今でも考えている。 プロの世界で「奇策」は何度も通じない。 「根性」だけでは、生き抜けない。 周りの人達は、妹の様に可愛がって指導していたと思うが・・・。 大きな夢を持った子供を、そのままプロにしてしまったのと同じ。 いきなりでは無理があったと思う。 「オートレース選手」にした責任は重い 指導者は「夢」に見切りを付けさせるのも大切な事だと思う。 他の人生もあるのだから・・・。 ただただ、ご冥福を、お祈りするのみです。 ,
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君は木村政彦を知っているか 2 3 4 エリオ・グレーシーとの戦い 「昭和の巌流島」決戦 「昭和の巌流島」決戦 8 牛島 辰熊 その圧倒的な強さと気の荒さから「鬼の牛島」と称された。 史上最強を謳われる木村政彦の師匠として有名だが、牛島自身も木村に負けぬ実績を持つ強豪中の強豪である。 元々は剣道を修行していたが、15歳の時に長兄の影響で肥後柔術三道場の一つ、扱心流江口道場に入門した。 熊本では講道館柔道よりも、まだまだ古流柔術の方が盛んであった。 この肥後柔術三道場の対抗戦はまさに命懸けで、判定勝利はなく「参った」のみで勝負を決した。 時には腰に短い木刀を差して試合をやり、投げて組み伏せ、最後は木刀で相手の首を掻き斬る動作をして一本勝ちとなるルールでも戦った。 これら古流柔術は柔(やわら)をあくまで武士の戦場での殺人武術だとしていたのである。 まだ全日本選士権がない頃、実質的な日本一決定戦だった明治神宮大会を1925年から3連覇。 1934年に、皇太子生誕記念の第2天覧試合が開催されたが敗れ「負けは死と同義」と公言していた牛島らしく、即引退した。 この時の牛島の敗戦は肝吸虫により体が衰弱しきっていたことが原因であった。 その後、私塾「牛島塾」を開き、木村政彦、船山辰幸、甲斐利之らを育てる名伯楽となった。 晩年も牛島は木村の事を気に掛けていたようで、“昭和の巌流島”と呼ばれた木村と力道山との戦いでは、木村が敗れると真っ先にリングに駆け上がり、また、会場を去る木村に寄り添う牛島の映像が残されている。 妻や娘に「なぜあの時リングに上がったのですか」と聞かれ、「木村の骨を拾えるのは俺しかいない」と目を潤ませながら語った。 大山倍達 木村政彦の強さに憧れ、戦前戦中は木村の試合を観戦するファンであり、戦後は兄と慕っていつも木村に付き従っていた。 朝鮮半島(現在の韓国統治地域)にいた若い頃はもともとはボクサーで、それを軸として習った空手を独自に発展させていく。 木村と力道山との試合で、約束(プロレスでいうブック)を破って騙し討ちで木村政彦をKOした力道山に怒り心頭に発し、リング下から「力道! 俺がこの場で挑戦する!」と暴れまわるが、まわりの者たちに必死に止められた。 試合後も路上のストリートマッチに持ち込んで木村の復讐をしようと力道山を付け狙う。 のちに極真空手を創始し、梶原一騎の『空手バカ一代』で時代の寵児となっていく。 「木村政彦の全盛期ならヘーシンクもルスカも3分ももたない」と木村が柔道史上最強だと断言する。 おまけ 『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』 増田俊也の長編ノンフィクション。 史上最強と謳われながら歴史から抹殺されてしまった悲劇の柔道王、木村政彦の生涯を辿る評伝。 2011年9月30日に新潮社から単行本として発売された。 『ゴング格闘技』誌上で2008年1月号から2011年7月号にかけて長期連載された作品。 力道山との「昭和の巌流島」決戦では引き分けの約束ができていたが、力道山が突然ブック(プロレスの試合進行の台本)を破り、力道山の張り手連打で木村は血まみれになってKOされてしまった。 当時はまだプロレスがショーであり台本があることは一般に知られておらず、テレビ視聴率は100%で、翌日の新聞各紙も一面トップでこれを報じたため「鬼の木村」の名誉は地に墜ちてしまう。 東條英機暗殺計画 1944年9月には陸軍の津野田少佐と柔道家の牛島辰熊が東條首相暗殺陰謀容疑で東京憲兵隊に逮捕された。 この時、牛島の弟子で柔道史上最強といわれる木村政彦が鉄砲玉、実行犯として使われることになっていた。 軍で極秘裡に開発中の青酸ガス爆弾を持っての自爆テロ的な計画だった(50m内の生物は壊滅するためガス爆弾を投げた人間も死ぬ)。 この計画のバックには東條と犬猿の仲の石原莞爾がいて、津野田と牛島は計画実行の前に石原の自宅を訪ね「賛成」の意を得てのものだった。 計画実行直前に東條内閣が総辞職して決行されなかった。 また、海軍の高木惣吉らのグループらも早期終戦を目指して東條暗殺を立案したが、やはり実行前に東條内閣が総辞職したため計画が実行に移されることはなかった。 ,
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現役引退を表明し、引退届けを受理された横綱朝青龍(29)は4日、師匠の高砂親方(元大関朝潮)と会見を開き、時折涙を見せながら「皆さんに迷惑をかけた。責任を感じている」「相撲に対する悔いはない」と述べた。 また、今後については「何も考えていません。ちょっと休みたい」と述べるに止めた。 朝青龍はこの日、知人男性に暴行したとされる問題で召喚された理事会の事情聴取後、報道陣に「いろいろお世話になりました。引退します」と引退を表明。 引退届を提出し、受理された。 朝青龍は平成11年初場所初土俵。 15年初場所後に横綱昇進。 優勝25回、殊勲賞3回、敢闘賞3回。 モンゴル出身力士で初めて横綱に昇進した。 横綱朝青龍の話 「横綱の責任を感じ、皆さんに迷惑を掛けた。最後にけじめをつけるのは僕しかない。今は晴れたような気持ちだ。自分にとっては運命だと思う。何もないモンゴルの大草原の少年が横綱になって、支えてくれた人に感謝したい」 最終更新:2月4日18時19分配信 サンケイスポーツ 最後だけは「横綱」らしかったね。 もっと以前に理解していたら・・・。 相撲の人気が落ちるかも知れないけれど、信頼は回復したと思う。 相撲道をやっと理解してもらった時が、最後だったとは・・・。 「人生なんてそんなもんだ」 「親子ですか?よう似ちょるね」 「似てません」 高砂親方との会見で、 ふと、CMの一説を思い浮かべてしまった・・・。 |
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山際淳司氏の「スローカーブをもう一球」は面白かった。 スポーツファンにはお勧め〜。 |






