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「大忠臣蔵」(1971年、NET)南部坂の別れ 『忠臣蔵』(1985年、日本テレビ)南部坂の別れ 付録 実録赤穂事件 武林唯七は孟子の子孫だった 武林唯七 武林隆重(たけばやし たかしげ、寛文12年(1672年)-元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は唯七(ただしち)。父は渡辺式重。母は北川久兵衛の娘。赤穂藩では、中小姓15両3人扶持。 隆重の祖父は、文禄・慶長の役で日本軍の捕虜になった明軍所属の孟二寛。 孟二寛は、古代中国の思想家孟子の後裔(六二世)として浙江省杭州武林に生まれ、医学を学んで育ったという。 日本へ連行されたあとは長州毛利家に身柄を押さえられた (一説に戦争捕虜ではなく、長州へ漂流してきたところを毛利家に捕まったのだともいう) 毛利家、さらにその後には浅野家に医学を持って仕えるようになり、日本の士分に取り立てられて、故郷の「武林」を氏として「武林治庵士式」と改名した。 さらに日本人の渡辺氏から室を迎えると、このときに妻の姓をとって「渡辺治庵」と改名。 その間に生まれた子が隆重の父の渡辺式重。 式重には男子が二人あり、兄の渡辺尹隆が渡辺家を継ぎ、次男の隆重は分家することになったが、この際に祖父がかつて使った「武林」を家名として使うこととし「武林家」を再興した。 隆重は毛利綱元の上屋敷へ預けられた。 元禄16年(1703年)2月4日、幕府の命により毛利家家臣鵜飼惣右衛門の介錯により切腹。 享年32。戒名は、刃性春劔信士。 なお兄渡辺尹隆は、武林隆重の功績により、広島藩浅野本家に召抱えられた。 「武林勘助尹隆」と改名し、武林の家名を広島藩に残した。 武林唯七の辞世の詩。 病床にいる両親に先立たねばならる哀しみを「恨むらくは」とのべている。
唯七は他の九人の同志とともに毛利綱元の広庭で切腹した。 唯七は切腹の座につき、長府毛利家の家士榊正右衛門の介錯をうけた。 榊は唯七の背後にまわり、唯七が腹に短刀を突き入れるや、あわただしく太刀をふりおろした。 しかし太刀は唯七の頭蓋の下辺に激しくあたったのみで刃が跳ねかえり、落せなかった。 唯七は前へ倒れ、しかし起きあがり、血みどろのまま姿勢を正し、「お静かに」と、榊に注意した。 二度目の太刀で唯七の首が落ちた。 文春文庫 司馬遼太郎著 殉死 浅野内匠頭とは「乳兄弟」だったとか、講談「粗忽の使者」のモデルとも言われている。 落語版もあるようだが、残念ながら聞いた事が無い。 別のキャラクターのハナシになっているらしいけど・・・。 浅野家一の粗忽者だった事は事実のようだ。 講談本にはエピソードが沢山書かれてあるらしいから、暇があったら探して〜。 奇策・神文返し おまけ 神文は起請文とも言われ、人が契約を交わす際、それを破らないことを神仏に誓う文書。 落語に「三枚起請」がある。 古今亭志ん生 久しぶりに聞いたら、チト疲れた。 現代では、神文の価値はこちらに近いかも・・・。 『忠臣蔵』 赤埴源蔵 徳利の別れ ,
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人物伝
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東京でも台風15号は凄かった〜。 東北の皆様〜、ご無事ですか〜。 ご健闘をお祈りして〜〜〜。 先人達が苦難に立ち向かった「南部盛岡藩士の物語」をお届けします〜。 吉村貫一郎は脱藩して、京の「新撰組」を目指します。 このドラマは永いけど・・・。 次回は「新撰組」での活躍を予定しています。 「新撰組」は同じ被災地「会津中将容保公」のお抱え武士団。 おまけ 吉村貫一郎に関する資料は少なく、その実像は良く分かっていない。 撃剣師範に就いていたが、表立った斬り合いの記録は少ない。 屯所移転について西本願寺に交渉しに行ったり、三条制札事件の詫びを目的とした土佐藩の饗応に吉村が出席したりしているが、天満屋事件で三浦休太郎の護衛の任についていた時には、とくに吉村が斬り合った記録はない。 どちらかといえば、論客として活躍したようである。 慶応4年(1868年)正月、鳥羽・伏見の戦いに参戦したが、戦死したのか、脱走したのか、以後の消息は途絶える。 子孫の嘉村家の過去帳には、明治三年一月十五日没、とあるという。 参考・ウキ ,
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プロ棋士「花村 元司(はなむら もとじ)」さんを思い出す。 1917年11月18日-1985年5月25日 静岡県浜松市出身。木村義雄十四世名人門下。 元真剣師。つまり、賭け将棋を生業としていた異色の経歴の持ち主。 それゆえか、かなりの実戦派棋士。 真剣の収入で将棋道場を持ち、高級な和服を着こなしていた。 本人は「プロにならないほうが儲かったかもしれない」と述べており、博才が高く花札もかなりの腕前があったとされる。 升田幸三に対し、角香交じり(角落ちと香落ちで交互に対戦すること)で徹夜で勝負して勝ち越すほどの実力を買われ、後援者たちの推挙を得て1944年に異例のプロ五段試験に挑戦することが許された。 花村はこの試験で、プロ棋士を相手に勝ち越して合格し、自らプロ棋士になる。 奨励会を経ずしてプロ化した最初の例で、これは現行のプロ編入試験の元となっている。 「東海の鬼」「妖刀使い」の異名を持ち「花村流」はプロ棋士にも恐れられた。 特に駒落ち将棋では圧倒的な実力を誇った。 当時の棋士たちには、おとなしい定跡どおりの手を指す棋風の者が多かった。 それに対抗するために、花村はしばしば、あえて定跡から大きく外れた難解な力将棋の局面に持ち込むことにより、高い勝率を上げている。 頭で将棋を覚えたような若手棋士たちは花村の変則技に対処しきれず苦戦させられ、これが「妖刀」と呼ばれる所以である。 しかしながらその刃は大山康晴に対しては全く通用しなかった。 大山は花村の奇計・奇襲・ハメ手のことごとくを正攻法の重厚な将棋で蹴散らし、寄せつけることさえなかった(通算成績は大山の43勝9敗)。 大山は花村を破ったある対戦の後「花ちゃん、あんたは所詮素人だもんね」と痛烈な言葉を浴びせている。 一方、花村の棋風は正統派エリート棋士に対する庶民の代表といった観があり、生涯将棋ファンには根強い人気があった。 棋戦優勝3回、A級通算16期。 1977年度には60歳でA級への復帰を果たした。 これは現在でも、全クラスを含めた最高齢昇級記録となっている。 タイトル戦では4度挑戦しているが、名人戦と王位戦では、いずれも大山に0勝4敗のストレートで敗れる。九段戦では塚田正夫に2度挑戦しているが、0勝3敗、2勝3敗で敗退して獲得に失敗している。 弟子に吉田利勝、池田修一、野本虎次、武者野勝巳、森下卓、深浦康市、窪田義行がいる。 自分が大山に歯が立たなかった経験を踏まえ、花村は定跡を学ぶことの重要性を痛感し、弟子の中でも特に森下には正統派の将棋を手取り足取り教え込んだ。 将棋界で師匠が弟子を手取り足取り教えるのは異例のこと(師匠と弟子では、たいてい一〜二局程度しか指さないのが通例である)であり、弟子思いで有名だった花村が森下の才能を見込んだためであるという。 師匠の木村義雄とは晩年連れだって競輪場に行くほど親密な間柄であった。花村が死去したとき、木村は「とてもよい弟子だがたった一つ悪いことをした。師匠より早く死んだことだ」と悲しんだという。 昇段履歴 1944年 五段(異例のプロ編入試験に合格) 1948年4月1日 六段 1950年4月1日 七段(当時の順位戦B級昇級) 1952年4月1日 八段(順位戦A級昇級) 1976年4月20日 贈九段 1985年5月25日 現役のまま死去 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋 真剣師時代に対局相手が「桂があったら詰むのに・・・」等と言ったら〜、 手に持っている「桂馬」を売って上げたとか。 それでも詰まない対局相手はカッカして「金があれば」とか「銀があれば」とか言ったら、 瞬時に詰みを読んで、売っていたとか〜。 俺流を通した方だったが、弟子に「定跡」を徹底的に教えていたのは知らなかった・・・。 |
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オラが美しかった子供の頃に、いくつかの絵を見て夢を膨らませた記憶がある。 作者「小松崎茂」さんの名前は記憶に無かったが・・・。 日本マンガのそうそうたるメンバー達が影響を受けたのか・・・。 手塚治虫氏だけだと思っていたのだが〜〜〜。 2001年に亡くなられた事も知りませんでした。 遅ればせながら、夢を有難うございました。 謹んで、ご冥福をお祈りいたします。 |



