65年1月に佐藤栄作首相がマクナマラ米国防長官(肩書は当時)との会談で、核を搭載した米艦船の寄港を容認したと受け取れる発言をしていたことが、22日付で外務省が公開する外交文書で判明した。 核の持ち込み問題で日米間に「密約」があったことをうかがわせる史料が、日本側にも残されていた。 同月、首相として初めて訪米した佐藤首相は、13日にマクナマラ氏と45分間会談した。 会談要旨によると、首相は中国が前年に行った核実験に触れ、「戦争になればアメリカが直ちに核による報復を行うことを期待している。 (略)洋上のもの(核)ならば直ちに発動できるのではないかと思う」と述べた。 マクナマラ氏は「洋上のものについてはなんら技術的な問題はない」と答えた。 ただ佐藤首相は、日本の核兵器所有や使用には「あくまで反対である」と述べ、核兵器の日本の陸上基地への持ち込みは「発言に気をつけていただきたい」と否定的に語った。 日米間の核問題に詳しい我部政明・琉球大教授(国際政治学)は、有事には日本近海での米軍の核搭載艦船の迅速な行動を佐藤首相が望んだと解釈できる、と指摘。 これらの艦船が補給などで日本に寄港することになり、「首相は、核搭載艦船が事前協議の対象外として寄港することを前提に話したとみられる」と分析する。 また会談でマクナマラ氏は、「日本がその防衛産業のなしうるような軍事的援助をアジアの諸国に与えることはできないであろうか」と、日本の武器輸出の可能性を質問。首相は、日本が生産していた宇宙開発用ロケットに言及して「必要があれば軍用にも使うことができる」と述べた。 首相は「中共の核爆発の性質については昨夜(CIAから)説明を聞いた」とも発言。 米中央情報局(CIA)が首相に中国の核実験の実態を説明していたことも判明した。 首相がCIAに「ソ連、中共の地上設備」の衛星写真を示されたことは首相自ら日記などで記していたが、その一端が具体的に分かった。 我部教授は「日本の情報収集力のなさを知る米国側は、国際情勢での首相の独断的な理解や不用意な発言をなくすため、CIAの情報を与えていた」と解説する。 99年に公開された米側史料では、日米両国は60年の安保条約改定の前に、核兵器を搭載した米軍艦船の日本寄港などは、条約の付属文書で定める事前協議の対象としないと、秘密裏に合意していたことが判明している。 佐藤首相は74年、非核三原則の提唱などが評価され、ノーベル平和賞を受賞した。 ▽鈴木量博・外務省日米安全保障条約課長の話 日米間に「核密約」はない。 佐藤首相の発言は、戦時において、洋上からの米の核抑止力の提供に一般的な期待を表明したものだと考えている。 【鈴木英生】 12月22日0時0分配信 毎日新聞 この内容をどう解釈するのか・・・。 在任期間 1964年11月9日- 1972年7月7日 歴代総理中第二位で、連続在任期間は歴代総理中最長の7年8ヶ月。 元首相岸信介は実兄。 元首相吉田茂は遠縁の姻戚。 ・・・と、言う事は〜。 麻生首相と安部元首相とも姻戚関係に有る? まずは佐藤栄作首相の退任記者会見から- 1972 首相在職中は ILO第八十七号条約批准、 日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約(日韓基本条約)の批准、 国民祝日法改正による敬老の日、体育の日、建国記念の日の制定、 公害対策基本法の制定、 小笠原諸島・沖縄の返還実現、 日米安全保障条約自動延長、日米繊維摩擦の解決等を行なった。 それなりの仕事をした様に見えるが〜。 1954年4月 - 幹事長の時、造船疑獄で逮捕請求。 犬養健法務大臣が指揮権発動で逮捕されず。 7月 - 幹事長を辞任して党総務に・・・。 造船疑獄とは? 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%A0%E8%88%B9%E7%96%91%E7%8D%84 政敵・河野一郎(息子・河野洋平、孫・河野太郎)の葬儀の帰途、車内で夫人や側近に「これで悪いやつは全部死んだ」と発言したといい、冷酷な一面を覗かせた。 1974年のノーベル平和賞受賞は、特に怪しかった・・・。 非核三原則の制定が評価さたのだが〜。 当時から米軍の「核」の持ち込みは、噂を超えて報道されていた。 ところが、政府は「無い」と調査を突っぱねていただけ・・・。 この受賞には国連大使だった加瀬俊一のロビー活動が寄与したといわれている。 (佐藤も日記の中で加瀬への謝意を表明している) しかし、ノーベル賞委員会は、 2001年に刊行した『ノーベル賞 平和への100年』の中で、 「佐藤氏はベトナム戦争で米政策を全面的に支持し、日本は米軍の補給基地として重要な役割を果たした。後に公開された米公文書によると、佐藤氏は日本の非核政策をナンセンスだと言っていた」 「佐藤氏を選んだことはノーベル賞委員会が犯した最大の誤り」と記している。 佐藤栄作 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%97%A4%E6%A0%84%E4%BD%9C 又、沖縄の返還実現にも疑惑が残った。 アメリカに金を払う密約で「返還を実現」したと毎日新聞の西山記者がすっぱ抜いたのだ。 通称「西山事件」 この事件が元で「毎日新聞」と「TBS」の体質が一変した。 当時の外務省アメリカ局長吉野文六が「河野洋平外相」から沖縄密約の存在を否定するよう要請されたと証言している。 在任当時は「綺麗事」を評価する声が多かったが、実態はかなり怪しくなって来た・・・。 選挙民が議員を選ぶ時、目先の「綺麗事」に騙されてはいけない。 よ〜く、身体検査をしてから選ばないと、アホな組閣と同じで後悔しても遅いぞ〜〜〜。 |
人物伝
[ リスト | 詳細 ]
|
不勉強にも「和田三造」と言う人を知らなかったが・・・。
この絵画を見せられて、すぐに判った。 1909年(明治42年)文部省美術留学生として渡欧し、フランスを中心にヨーロッパ各国を巡歴し、洋画とあわせて工芸図案の研究を行なった。 その帰途、インドやビルマ(現・ミャンマー)で東洋美術を研究し1915年(大正4年)に帰国。 「ウィキペディア」には簡単に書かれているが、帰国を待ちわびるご家族は大変だった様です。 1年ぐらいで帰国すると思っていたから、時代が「大正」に変わった頃には「死んだ」と諦めていた。 ところが、急にひょっこり帰国したので、親族一同驚いたそうです。 自宅には「杉山元」「岸信介」等、当時の政治関係者が尋ねて来たとか・・・。 ??? 何で「画家」の家に政治関係者が・・・。 と思ったのですが・・・。 もしかすると戦前の歴史の裏話が判るかも知れないと期待したけど〜。そこまでは話が進みませんでした・・・。 アジア諸国の著名な建物に「壁画」を書いていたそうです。 絵を描く前には、その国の「歴史」を深く学んでから創作に入った。 イスラム教の聖地の絵画を見る為に、イスラム教の作法を必死に学んだとか・・・。 韓国の「朝鮮総督府」にも描いていたらしく解体後も、それが大切に保存されているのを聞いて喜んでおられました。 1953年大映映画『地獄門』で色彩デザイン、衣装デザインを担当し、この作品で翌1954年の第26回アカデミー賞で衣装デザイン賞を受賞。 カンヌ国際映画祭でもグランプリを受賞。 後の「文覚」になった遠藤盛遠の物語。 歴史的にも、映画的にも好きで何回も見ていたのに・・・。 色彩デザイン衣装デザインを担当した方だとは、不覚にも知らなかった・・・。 和田三造 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋、参照 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E7%94%B0%E4%B8%89%E9%80%A0 |
日本で最も有名なストリップ劇場の1つ東京・渋谷区の「渋谷道頓堀劇場」でわいせつ行為を客に見せたとして、警視庁保安課が17日までに、神奈川県茅ケ崎市の経営者松井勇容疑者(65)、東京都豊島区のストリップ嬢「ゆの」こと野中友容疑者(36)らを公然わいせつ容疑で逮捕した。 容疑を認めている。 同劇場は1970年開業で、幕あいを担当したお笑いトリオ「コント赤信号」などのお笑いタレントも輩出した老舗店だった。 調べでは、野中容疑者は15日午後0時56分から同1時05分の間、ステージ上で全裸となり、陰部をことさら露出するなどのわいせつ行為を、客51人に見せた疑い。 劇場外にいた松井容疑者は出頭後、逮捕され、容疑を認めている。 警視庁保安課はステージを回転させたり、入場券を販売してわいせつ行為を手助けした疑いで、新宿区と渋谷区の38〜61歳の従業員の男女4人を公然わいせつ行為ほう助の疑いで逮捕した。逮捕されたのは計6人。 野中容疑者はストリップ嬢のほか、演出も担当していた。 この日の公演は正午開演。 7人のストリップ嬢が出演する予定だったが、野中容疑者が一番人気だったという。 同容疑者を知る男性によると「アダルトグッズを使用した激しい自慰行為など、ショーの内容が強烈で有名だった」という。 普段の公演では露出した陰部を、インスタントカメラで客に撮影させることもあったという。 陰部に強いスポットライトを当て、見えやすいように演出していたとの情報もある。 渋谷の風俗に詳しい男性は「全国でもストリップは客が減っているが、道頓堀劇場は別格。開演前には行列ができる人気で、繁盛しているようだった」と話した。 松井容疑者を知る女性は「まじめな人で、踊り子さんに違法な公演をさせるような人には見えなかった」と話した。 同劇場は70年開館で「ポルノの女王」こと女優愛染恭子らが公演した老舗店。 95年に立ち退き要求などで一時閉館も01年に復活していた。 関係者が99年に札幌市内で開館した「札幌道頓堀劇場」では昨年4月、ストリップ嬢の専門学校生ら5人が全裸となり、客にカメラで陰部を撮影させたとして、劇場管理者を含む6人が公然わいせつ容疑で北海道警に逮捕されている。 2008年11月18日9時31分 日刊スポーツ とっくに閉館したとばかり思っていたけど・・・。 オラが始めて「ストリップ」を見に行った所。 当時話題になっていた「一条さゆり」のローソクショーをやると言うので、悪友達と出かけて行った。 「一条さゆり」 1967年〜1973年(引退翌年)まで11PM(よみうりテレビ制作・通称大阪イレブン)のレギュラー。 1973年には本人出演で、その半生を描いた映画『一条さゆり 濡れた欲情』も作られた。 1972年(昭和47年)に引退するまで9回公然猥褻罪で検挙されている。 「ストリップは大衆娯楽、猥褻にはあたらない」として最高裁まで争った。 その結果懲役1ヶ月が確定。 和歌山刑務所へ収監される。 出所後はスナックを経営していたが、交通事故にあって倒産。 1988年(昭和63年)7月には放火により全身やけどを負った。 晩年は労働者の街、大阪・西成の釜ヶ崎(あいりん地区)で暮らした。 その生活ぶりは近所の飲食店での数時間の労働で僅かな日銭で生計をたて、釜ヶ崎解放会館の三畳間で寝泊りをするという非常に寂しいものだったという。 1997年(平成9年)8月3日肝硬変の悪化で60歳で死亡。 劇場の中に入ると何処かで見たような人が客席に居た。 作家の「田中小実昌」だ。 「田中小実昌」 1947年、東京大学文学部哲学科に無試験入学するもほとんど出席せず除籍。 在学中からストリップ劇場での演出助手(のちに、コメディアンとして出演) その経験を元に踊り子や客達との交流を描いたエッセーで注目された。 推理小説の翻訳家として、主にハードボイルド作品を多数を翻訳。 1968年(昭和43年)に作家として活動を始める。 1971年、『自動巻時計の一日』で直木賞候補。 1979年、『ミミのこと』『浪曲師朝日丸の話』の2作品で直木賞を受賞。 同年、戦争体験や父の姿に題材を取った短編集『ポロポロ』で谷崎潤一郎賞も受賞した。 毛糸の帽子をかぶり、サンダル履きというラフな格好を好み「コミさん」の愛称で親しまれる。 ウィットに富んだユーモアで場を和まし、往年の深夜番組『11PM』をはじめとして、テレビドラマ、映画、CMといった様々な場面で活躍。 新宿ゴールデン街(東京都)の常連。 「健康のためなら死んでもいい」という名言を残し、小説を書き、そして飲む、という日常を送っていた。飲みに繰り出すと10軒は飲み歩いたという。 2000年2月、滞在先のアメリカ・ロサンゼルスにて肝不全のため客死した。 大きな文学賞を何度も受賞しているにも拘らず「ボチボチ書いているだけ。いいかげんな男なんです」と、自虐的とも、飄々さともとれるような独特の醒めた味わいの言葉を残す。 次女は小説家の「田中りえ」 「野見山暁治」は妻の兄。 「一条さゆり」のローソクショーは「トリ」に成るので、 それまでは若い「踊り子さん」のショーを見る。 ショーの合間には「コント」がある。 客席からは「ブーイング」が漏れる・・・。 「ストリップ」を見に来たのに、何故「コント」を見せるのだ〜。 ごもっともな「野次」が飛ぶ。 こんな客を相手に「コント」をやって、笑わせるのはた〜いへん。 箸が転がっても笑ってくれる、女子高生等はいないのだ〜。 ふてくされた「オッサン」達を一瞬にして笑いの世界に引きずり込まないと「暴動」が起っちゃうから〜。 当時、この劇場には「コメディアンの杉兵助」が所属していた。 「杉兵助」 24歳の時にたまたま訪れた浅草オペラ館で役者が不在で欠員が出来たので穴埋めで出演、戦後は地方などをめぐっていたが関敬六劇団などを経て、1969年から渋谷道頓堀劇場専属コメディアン。 1995年末の道頓堀劇場閉館の最終興行では弟子であるコント赤信号と共演。 翌年脳梗塞により死去。 ここに出てくる「関敬六」と言うのは〜。 「関敬六」 浅草フランス座に所属。 「渥美清」「谷幹一」の三人で下積み時代を支えあった。 1959年にはこのトリオで「スリーポケッツ」を結成し、一躍お茶の間の人気トリオとなる。 その後、スリーポケッツは解散し、1975年に自ら劇団を立ち上げる。 主に浅草を中心に活躍し、浅草の舞台史を彩る人物。 舞台や映画などでの精力的な活動が評価され、芸術祭優秀賞など、他の受賞歴も多い。 渥美の葬儀の際には「どうして友達なのに(病気の事を)言ってくれなかったんだよ。」と涙を流していた。 2006年8月23日午前2時8分、肺炎のため東京都千代田区の病院で死去した。 享年78。 「フーテンの寅」さんの原点。 「フーテンの寅」さん達が所属した「浅草フランス座」とは〜。 「浅草フランス座」 作家の「井上ひさし」をして「ストリップ界の東京大学」と言わしめた伝説の劇場。 無名時代の「井上ひさし」が劇場座付き作者をつとめ、同劇場のコント台本などを担当した。 舞踊中心の上品なストリップと幕間の爆笑コントを売り物にしていた。 主な出身者は〜。 八波むと志 渥美清 関敬六 谷幹一 東八郎 萩本欽一 坂上二郎 深見千三郎 ビートたけし ビートキヨシ 浅草キッド 海野かつを なお、姉妹劇場の「新宿フランス座」からは「三波伸介」を生み出している。 北野武はエレベータボーイをしながらコントやタップダンスを学んだ。 ちなみに 「フランス座」は軟式野球チームを持っていた。 エース「土橋正幸」はのちにプロ野球・東映フライヤーズに入団しエースとして活躍しヤクルトスワローズの監督に就任。 文芸部員だった「井上ひさし」も捕手として、土橋とバッテリーを組んでいた。 草野球からプロのエース、監督へと駆け上がった人は他に居ない。 「道頓堀劇場」と言うので「関西系」だとばかり思っていたのだが〜。 名称を「道玄坂劇場」にする予定であったが劇場看板を製作する際に看板業者のミスで「道頓堀劇場」という看板が完成してしまったのだとか・・・。 ものすご〜く、安易な気がするけど・・・。 関東の「笑いの本流」を継いでいる劇場だと思っていただけに残念・・・。 参考文献 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 |
お米は白河産の「コシヒカリ」 毎年美味しく戴いておりま〜す。 野菜は「路地物」 形は不揃い、多少の傷ありだけど〜〜〜。 調理してしまえば関係ない。 この米と野菜は、お嬢さんが市会議員をしている「佐川ばあちゃん」が丹精込めて作っているのだ〜。 「佐川ばあちゃん」は現在2町歩(約6000坪)の畑を一人で管理している。 勿論、田植えや稲刈の時は、大変で手伝いをして貰っているが・・・。 出荷時の売上では、満足にお礼ができないと嘆いていた。 日本の農業は、物流優先だとか・・・。 野菜は「箱にはいらない」「形が揃っていない」「見栄えが悪い」と売れない。 見た目重視で味は関係が無いらしい・・・。 「佐川ばあちゃん」は自然のままに育てるから、形はバラバラ、見栄えは悪い。 「色々な野菜」を育てているが、路地物なのでほとんどが物流に流れず自宅で消費している。 食べきれずに腐らせてしまう事もあるらしい・・・。 と、言うわけで、僅かなお金を支払って毎年、自宅に送ってもらっているのだ〜。 白河の関 奈良・平安時代頃に存在した国境の関で奥州三古関がある。 歌枕の関として松尾芭蕉をはじめ、 時代を代表する歌人・俳人達が訪れた「風流人の想いを描く地」 江戸時代 白河市は「白河藩」で「松平定信公」のお膝元。 徳川幕府第8代将軍・吉宗の孫で、田沼意次の後「寛政の改革」を実行した人。 「松平定信公」が白河藩主に就任したのは「天明の大飢饉」の最中でした。 自らが率先して倹約に努め、領民に対する食料救済措置を迅速に行なったのです。 お蔭で白河藩から「天明の大飢饉」による餓死者は出なかったと言われています。 特に東北地方は被害が大きかったので異例の事。 この時以来、領民は年貢米を納める時も上質のお米を献上しました。 それは「五箇地」で取れた「米」で「五箇地米」と言われたそうです。 現在は、その「五箇地」の土地と農法を引き継いで、話題の品種「コシヒカリ」を育てているのが「佐川ばあちゃん」なので〜す。 農協の品質検査で毎年「特米」に指定されている「自慢の米」だそうで〜す。 まだ、出荷のみとうしが立たない「路地物野菜」は残っているらしいので、関心のある方は問い合わせてみたら〜? 「佐川ばあちゃん」に問い合わせをする場合は、畑に出ている事が多いので「FAX」でしてね〜。 |
1978年8月に鹿児島県・吹上浜から北朝鮮に拉致された市川修一さん(当時23歳)の母・トミさんが15日午後3時22分、くも膜下出血で亡くなった。 91歳だった。 告別式は17日正午、同県鹿屋市輝北町上百引(かみもびき)1930上村葬祭輝北斎場で。 自宅は同市輝北町市成1126。 喪主は夫、平氏。 トミさんは10日朝、自宅台所で倒れて意識不明となり、病院で治療中だった。 次男の修一さんが、交際中の増元るみ子さん(当時24歳)と一緒に拉致されてから30年間、息子たちの帰還と再会を切望しながら、願いはかなわなかった。 同居する長男・健一さん(63)は「普通なら大往生といえるが、修一が帰らず、会わせられなかったことが残念で、悔しい」と涙ながらに語った。 拉致被害者家族会事務局長で、るみ子さんの弟・増元照明さん(53)は「2人の生還をもう少し待っていてほしかった。拉致被害者の親世代の高齢化が進み、時間がないことを政府は肝に銘じてほしい」と語った。 最終更新:11月15日20時28分配信 読売新聞 ヒトラーは「わが闘争」で 「私はボルシェヴィズム(共産主義者)から最も多くを学んだ」と公言しています。 「ボリシェヴィキどもからは、とくにそのプロパガンダにおいて、多くを学ぶことができる」と主張していたゲッベルス。 現在の日本政府は、ヒトラー以上に「ボルシェヴィズム(共産主義者)から最も多くを学んでいる」 それは「死に待ち行政」 北方領土・竹島問題・尖閣列島・・・。 何を言われても、当事者が居なくなれば終わりに出来ると思っている・・・。 国内で誘拐事件が起ったら? 犯人も判って、居場所も判って、交渉が決裂したら・・・。 警察は「強行突入」をするはず・・・。 結果として犠牲者が沢山出るかも知れないけど・・・。 日本は国家としての機能を失っています。 間に合わなくて、申し訳ありませんでした。 民主主義は「バカも1票、利口も1票」で「変革」は大変ですが・・・。 日本を根本から変えるように努力をして参ります。 早く「官僚天国」「官僚社会主義」の日本を終らせないと・・。 謹んでご冥福をお祈り申し上げます。 |




