2008年11月2日、清朝第11代皇帝・光緒帝が突然この世を去って100年後の今年、国家事業の一環として立ち上げられた専門チームがその死の謎を解いた。 光緒帝の死因は噂どおり「ヒ素中毒」によるものだった。 「中国新聞網」の報道。 「清朝光緒帝死因研究報告会」は2日、光緒帝「崩御」は急性胃腸性ヒ素中毒によるものと断定。 1908年(光緒34年)11月、光緒帝は38歳の若さで幽閉先の南海で死去。 伯母である西太后に毒殺されたという噂が当初から流れていた。 この謎に取り組んだのは、「国家清朝史編纂修工程重大学術問題研究専門プロジェクト」の1つとして、国営テレビ局の中央電視台(CCTV)、清朝西陵文物管理処、中国原子能(エネルギー)科学研究院、北京市公安局法医検験鑑定センターの専門家らによって2003年に編成された特別研究チーム。 帝の遺髪や遺骨、埋葬時の衣服や副葬品などを繰り返し検査、分析。 「機器中性子放射化分析法(INAA)」や「蛍光X線分析法(XRF)」などの最新科学技術を駆使した結果、遺髪と衣服から合計で201mgのヒ素が検出されたという。 人間の致死量は約60〜200mgであることから、いかに大量のヒ素が投与されたかがわかる。 奇しくも08年11月14日は光緒帝没後100周年に当たるため、この時期に死因が確定したことに同チームは特別な感慨を抱いているという。 (翻訳・編集/本郷) 11月4日7時1分配信 Record China 光緒帝光緒帝(こうしょてい、こうちょてい、同治10年6月28日(1871年8月14日) - 光緒34年10月21日(1908年11月13日)、在位:1875年 - 1908年)は中国清朝の第11代皇帝。 道光帝の第7子・醇親王の第2子。 母は西太后の妹。 同治帝が早世した後に権力保持を狙う西太后によって擁立された。 即位したのは3歳の時であり、当然実権は西太后が握っていた。 光緒2年(1876年)の琉球失陥、光緒11年(1885年)の清仏戦争によるベトナムへの影響力喪失、光緒20年(1894年)の日清戦争による朝鮮への影響力喪失など、相次ぐ自国のふがいなさを光緒帝は嘆き、国勢回復を切望。 西太后の傀儡から脱し、自らの親政により清の中興を成し遂げようとした。 西太后は当初静観していたが、程なく袁世凱らの助力を得て光緒帝を監禁。 孫文のような中国の愛国者達は清に絶望し、完全な革命運動に走る事になった。 光緒帝が監禁されている間の光緒25年(1899年)には義和団の乱が勃発し西太后がこれを助力した事で清の半植民地化は加速し滅亡へと近づいていった。 戊戌の変法(ぼじゅつのへんぽう)とは、清王朝時代の中国において、光緒24年(1898年、戊戌の年)の4月23日(太陽暦6月11日)から8月6日(9月21日)にかけて、光緒帝の全面支持の下に行なわれた政治改革運動。 具体的には、科挙の改革とそれに代わるべく計画された近代的な学制の整備、新式陸軍の創設、訳書局・制度局の設置、懋勤殿の開設(議会制度の導入)など、主に日本に範をとった改革案が上奏・布告された。 伊藤博文は「中、米、英、日の“合邦”」を提案。 伊藤の来華中に戊戌の政変と呼ばれる西太后派のクーデターが発生したために変法運動は挫折。 上からの改革の失敗により、同様の手法により清を建て直すという手段への期待は失われ、光緒26年(1900年)の義和団事変後の清朝の惨状への失望も加わり、1911年の辛亥革命への大きな流れが形作られていく。 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋。 清王朝は20%の満人(満州に住んでいた人達、現、中国東北部)が80%の漢人を支配していた。 この後「ラストエンペラー」の時代になって行くのです・・・。 |
人物伝
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ビートたけし(61)が、TBS系特別ドラマ「あの戦争は何だったのか(仮題)」(放送日未定)に主演し、東条英機を演じることが12日、分かった。 メークを施したが、眼鏡とひげをつけた程度で、東条英機本人にそっくり。 同局関係者によると、たけし本人も扮装(ふんそう)した自分と東条の写真を見比べて驚いているという。 八木康夫プロデューサーは「たけしさんも『似ている。当時の演説の声を聞いたら、ちょっと高い声質も似ているんだよな』と、驚いていました」と語った。 物語は、太平洋戦争がなぜ起こったのかをテーマに、1941年9月6日の御前会議から12月8日の開戦までの3カ月間を中心に描く。 東条は、首相と複数の大臣を兼任、日本を戦争に導いた人間として戦後、A級戦犯となり死刑になった。 八木氏は「たけしさんは東条に対し、築いた地位や名誉を国の将来より優先した人間の弱さを感じているようです。それを演じることに意味を感じているのではないか。東条を演じるのは彼しかいない」と起用のいきさつを説明した。 2人が予想以上に似ていて「うれしい誤算。あんなに似ているとは思いませんでした」。 これまで、戦争の悲惨さを被害者の視点から描く作品は多かった。 だが、同ドラマは、政権を放り出す首相がいたり、省庁の縄張り争いなど、現代と共通点があったことに着目。 戦争危険性は今の時代にもあるというメッセージを伝えたいという。 セットもリアルさにこだわり、現代ドラマでは異例だが、軍人役の俳優の頭髪はほとんど角刈り。 顔と声も似ているたけしが演じるリアルな東条が、話題となりそうだ。 最終更新:10月13日9時45分配信 日刊スポーツ 確かに似ているかも・・・。 開戦派の陸軍大臣だった東条が近衛内閣を追い込んで〜、 10月16日に近衛首相は内閣を投げ出して、その後を継いだのだが〜〜〜。 ・・・? 戦争危険性って何が根拠なのだろう・・・。 政治家が「私利私欲」に走って政治が「北朝鮮」に近い。 「役人の無駄使い」「渡りに天下り」「社会保険不明金」「後期高齢者医療」「警察のでっち上げ」等、他事多彩・・・。 「内乱」「革命」の方が可能性があるのでは? でも・・・。 「衣食足りて、礼節を失った日本人」には出来ないと思うよ。 当時と政治情勢は似ているかも知れないけど〜〜〜。 世界的な経済状態がまるで違うのでは? こちらから戦争を仕掛ける可能性は皆無。 攻められる可能性の方が高い。 仕掛けるなら、とっくの昔に「拉致被害者」奪回に「北朝鮮」に攻め込んでいる。 内政が貧弱だから外政に眼を向けさせるのか? そこまで政治家や国民はバカなのかなぁ・・・。 |
三浦和義は石原裕次郎を育てあげた「水の江瀧子」の甥っ子(実兄の子)です。 「水の江瀧子」の本名は三浦ウメ。 事件後「水の江滝子」に改名。 三浦和義の父は会社員、母は料亭の娘。 幼い時期を北海道で過ごしたのち千葉県市川市で育つ。 小学生当時、水の江の家へ遊びに行くと俳優たちから多額のお年玉を貰い、その額が30万〜40万円に達していたという。 このことについて三浦自身は「嬉しかったけど、大人を見くびることにはなったよね。どうしても歪むだろうね」と語っている。 水の江は石原裕次郎を育てた日活のプロデューサーでもあり、三浦自身も石原宛の何万枚という年賀状のお年玉くじの整理を頼まれ、当選品を石原からプレゼントされるなど、石原とは当時接触があった。 水の江から俳優になることを勧められ、水の江のプロデュースする映画で石原裕次郎の少年時代を演じる子役として出演したことがある。 子役時代、撮影所のスチール担当者から「水の江さんの子供なんだから、やっぱり大きくなったら役者になるんだろう」と話しかけられたことがあり、三浦自身もこの実子説を信じていた。 神奈川県大和市立渋谷中学校在学中、複数回の家出を経験。 教師と喧嘩して窓から飛び出し、そのまま家から数十万円を持ち出して大阪に行ったこともある。 このころ、精神病院に入れられたこともあるという。 横浜市立戸塚高等学校に進学。 1966年、放火などの容疑で逮捕され水戸少年刑務所で7年間服役。 この間、横浜少年鑑別所からの脱走歴がある。 三浦和義については水の江の実子であるとの風評がありましたが、 1985年に「水の江滝子の実子説というのはなんの根拠もありませんよ」とはっきり否定しています。 水の江滝子は松竹歌劇団第一期生。
1942年に松竹少女歌劇団を退団して1943年から劇団たんぽぽを主宰しています。 水の江滝子は私生活では独身を通している事になっていますが〜。 1943年とは 1月2日 - ニューギニアのブナで日本軍全滅。 2月1日 - ガダルカナル島から日本軍撤退。 4月18日 - 山本五十六大将、米軍機の攻撃を受け戦死(海軍甲事件)。 5月12日 - アッツ島玉砕 5月24日 - 中学生以上の学徒勤労動員決定。 5月29日 - 米領アリューシャン列島にて海軍守備隊玉砕。 6月5日 - 日比谷公園にて山本五十六大将の国葬。 6月8日 - 日本海軍の戦艦『陸奥』が呉港沖柱島泊地に停泊中、爆発事故を起こし沈没 9月2日 - 東京・上野動物園で象を含む25頭猛獣と毒蛇を餌に毒を混入させ毒殺。 9月8日 - イタリアのバドリオ政権連合国に無条件降伏 9月23日 - 勤労挺身隊(25歳未満女子)の動員 9月30日 - 御前会議にて「今後執るべき戦争指導の大綱」を決定。絶対防衛戦設定。 10月14日 - フィリピン共和国成立 10月21日 学徒出陣壮行会挙行(明治神宮外苑競技場) 11月23日 - ギルバート諸島のマキン島、タラワ島にて海軍守備隊が玉砕。 11月27日 - カイロ会談 11月28日 - テヘラン会談(〜12月1日まで) 12月10日 - 文部省、学童の疎開促進。 12月15日 - 銅像等の非常回収開始。 12月24日 - 徴兵年齢を1歳引き下げ、満19歳からとする。 このような状況下で女性の地位も低い時代に劇団運営は難しい。 誰か「男」の力を借りたハズだと言うのが隠し子説の根拠です。 ここで名前が出てくるのが「永田貞雄」 浪曲師を志して挫折。 その後、日本プロレス興行社長等を務め興行界のドンと呼ばれた人。 1953年に起った「鶴田浩二襲撃事件」の首謀者「山口組三代目・田岡一雄」を説得して自首をさせた人物です。 金子堅太郎子爵や高橋是清首相、鈴木忠治「味の素社長」らの知己を得たといわれ、 1934年には遂に大看板である二代目天中軒雲月を妻に襲名させることに成功しています。 水の江滝子は「鶴田浩二襲撃事件」の前年に、俳優の鶴田浩二が興した新生プロに所属。 「鶴田浩二襲撃事件」は水の江の目の前で起ったと言われています。 水の江滝子と鶴田のマネージャーでもあった「兼松廉吉」が松竹少女歌劇の宣伝部長をしていた事や恋愛感情から所属したと思われる。 「兼松廉吉」には奥さんがおり「水の江滝子」と同じ松竹歌劇団だった「西条エリ子」で 1933年、労働条件改善を訴えた労働争議「松竹レビューガール労働争議事件」 西条エリ子達が会社側の要求を受け入れたため水の江が組合から除名した人。 「兼松廉吉」が1955年に自殺。 「兼松廉吉」の自殺の原因は 長崎で地元マネージャーがやくざに刺殺されて、神経衰弱になっていたという。 水の江滝子は1954年、長崎の「夜のプリンス」と呼ばれた長井末広(下関の合田の盃を下ろされた舎弟分。長井組組長)の殺害現場に偶然居合わせた(「九州やくざ者」より)。 参考 沢木耕太郎「馬車は走る」 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 以上の事から「水の江滝子」隠し子説の相手は ◎「兼松廉吉」 ○「永田貞雄」 △「永田貞雄」から紹介された政治家 ×「永田貞雄」から紹介された実業家 穴「永田貞雄」から紹介された地方の興行師(地元のヤクザが多い) 先輩達の話を元に、推測をしてみました〜。 真実は闇の中です。 水の江滝子自身が明確に否定していますので、あくまでも推測予想で〜〜〜す。 改名は本名の三浦ウメを「水の江滝子」にした。
水の江滝子は1993年、生前葬を華やかに行い、関係者を驚かせた。 現在は、毎回楽しみにしていた松竹歌劇団OB会にも一切出席することなく、ほとんど隠居的な生活を送っていると報じられている。 永田 貞雄(1904年1月26日 - 1993年9月30日)は、事件(1981年)当時健在だった。 すいませ〜〜〜ん。 「水の江滝子」を知らない人が多いみた〜い。 おじいちゃんか、おばあちゃんに聞いて貰うと判るけど〜。 「男装の麗人」 「ターキー」、「タアキイ」の愛称で親しまれ、日産自動車のキャンペーンガールに選ばれるなど、国民的な人気を得て1930年代の一世を風靡した人で〜〜〜す。 オラもNHKの「ジェスチャー」で晩年しか知らなかったので、亡くなった母親に現役時代の事を聞いたら、当時絶頂期だった「ビートルズ」人気等は「屁でもない」と言われてしまいました〜〜〜。 関連拙ブ |
1981年11月のロス疑惑「一美さん銃撃事件」を巡り、元輸入雑貨会社社長・三浦和義容疑者(61)(日本で無罪確定)が移送先のロサンゼルス市警の拘置施設で自殺したことについて、ロス郡検事局検事のルイス・伊藤さん(77)は11日(日本時間12日)、読売新聞のインタビューに応じ、「我々は真相に迫るつもりだった。こういう幕切れは一美さんの家族にとっても本当に残念だったと思う」と話した。 伊藤さんは、27年前の事件発生当初から捜査に携わり、三浦元社長が今年2月にサイパンで拘束されたのを受け、ロス郡検事局に復帰した。 日本で無罪が確定した元社長を今回、ロスの法廷で裁こうとした理由については「『このままではしめしがつかない』という思いが原動力だった」と明かしたうえで、「法廷で否認しても、必要な証人を用意して真実を解明するつもりだった」と語った。 一方、三浦元社長が88年10月、元妻の一美さん銃撃事件の殺人容疑などで逮捕された際、取り調べを担当した元警視庁捜査1課理事官の大峯泰広さん(60)は「ロスに移送され、追いつめられた心境になったのではないか」と推測する。 三浦元社長は大峯さんの取り調べの中で動揺するそぶりも見せず、容疑も一切認めなかった。 大峯さんはロス郡上級裁が逮捕状の殺人容疑については無効としながら、殺人の共謀容疑を有効と判断したことを指摘して、「彼は法律をよく勉強していたから、共謀罪に問われれば逃れられない、と考えたのではないか。これで真相は闇の中になってしまった」と残念がった。 最終更新:10月13日3時0分1配信 読売新聞 昨日、野球仲間から「何故、元社長なの?」と疑問の声が上がった。 「元万引き犯、じゃいけ無いの?」だって・・・。 日本の「増すゴミ」は「独自の取材」をせずに、他社の記事や伝聞・思い込みを書いてしまう事が多い。 だから、三浦のオッサンから訴訟を起こされると「ことごとく敗訴」してしまった。 迂闊な名称を付けると訴えられちゃうからかも〜〜〜。 松本サリン事件の「河野さん」も訴訟を起こせば勝訴したと思うけど・・・・。 弁護士「独立した調査必要」 ロス疑惑銃撃事件で米自治領サイパンで逮捕され、米ロサンゼルスに移送後、勾留(こうりゅう)中に自殺した三浦和義元会社社長(61)(日本で無罪確定)。 12日、事件で殺害された三浦元社長の妻、一美さん=当時(28)=の母はコメントを発表し、真相究明に至らなかったことに無念さをにじませた。 また、三浦元社長の親族は「自殺」に疑問を投げかけた。 自殺を防げなかったロス市警への批判も高まっており、「三浦元社長自殺」の波紋は広がり続けている。 【ロサンゼルス=松尾理也】 三浦和義元社長の自殺を受け、ロス市警は、本部長直轄で自殺の経緯について捜査を行うことを明らかにした。 市警によると、元社長は市警本部内の留置場の独房に収容されていた。 10日午後9時45分ごろ、通りかかった係官が、意識を失って倒れている元社長を発見した。 30分ごとに監視を行うことになっていたが、発見されたのは巡回のわずか10分後だった。 市警は自殺の懸念はないとみて、常時監視の施設には収容しなかった。 自殺に関する捜査は、銃撃事件の捜査とは無関係なチームが担当。 ブラットン本部長直轄で進められ、市警監察官やロス郡地検も捜査に加わるという。 しかし、こうした対応に対し、元社長の代理人、ゲラゴス弁護士は「(第三者による)独立した調査を行うべきだ」と述べており、留置場の収容者の自殺が後を絶たない市警への批判も高まりつつある。 在ロス日本総領事館の出木場(できば)勝・領事部長は報道陣に対し、「まずは市警による捜査の進展を見守る」としながらも「結果によっては邦人保護の観点から、日本政府として何らかの対応を取る可能性はある」と述べた。 「一美の霊は永遠に安らぐことない」母親 ■親族「自殺を考える精神状態でなかった」 事件で殺害された三浦和義元社長の妻、一美さんの母、佐々木康子さん(75)と三浦元社長の親族は12日、それぞれコメントを発表した。 佐々木さんのコメントは550字余り。 「三浦(元社長)が死んでも、一美の無念は変わることはありません。悲しみ苦しんだ遺族の思いは消えることがありません。三浦(元社長)が死んで一件落着のような風潮がもう出始めています。こんな理不尽なことが許されてよいのでしょうか」と胸の内を吐露している。 そして、「家族からの最後のお願い」として、「三浦(元社長)を有罪にする確信の元になった捜査資料を公開していただきたい。そうでないと、一美の霊は永遠に安らぐことがありません」と訴えている。 一方、三浦元社長の親族は「三浦(元社長)は、サイパンよりロスへ向けても裁判で戦う姿勢を強く持っていました」と強調。 三浦元社長が、自殺の数時間前にも、今後の戦略や食事にアレルギーがあることなどを外部に伝えていた点を指摘したうえで、「とても自殺を考える精神状態だったとは思えず、真実がいち早く解明されることを望んでいます」と記している。 □妻がロスへ向け出発 自殺した三浦和義元社長の妻は12日午後、神奈川県平塚市にある自宅兼店舗を出発し、同夕、成田空港から日本航空機で米ロサンゼルスに向かった。 空港に集まった報道陣は約50人。 一般の旅行客が搭乗手続きを済ませた後、成田国際空港会社の社員が付き添う中、妻は報道陣の質問には一切答えず、終始、うつむいたまま搭乗手続きを済ませ、航空機に乗り込んだ。 一方、殺害された一美さんの母親、佐々木康子さんの自宅=川崎市=の扉は固く閉ざされていた。 報道陣の姿も消え、ひっそりと静まり返っていた。 知人の女性は「事件に対する心境は尋ねられなかったが、必ず真実が明らかになると信じて、じっと待っていたのかもしれません」と話していた。 「留置場の収容者の自殺が後を絶たない」? 日本の留置場も未決囚の死亡が多いけど、ロスでもそうなの? キリスト教文化だから自殺は少ないはずだよね・・・。 日本より怪しいか? 「有罪にする確信の元になった捜査資料を公開していただきたい」 確かに・・・。 このままで終ってしまっては被害者及び被害者遺族は浮かばれない。 「三浦のオッサン」は日本の司法制度の盲点は知っていたが、 アメリカの司法制度には無知だった。 無罪を勝ち取った三百代言(弁護士)から「アメリカに行くな」と言われていたのに・・・。 調子に乗りすぎた? 隠し子説が本当なら、日本の司法が出した「無罪」判決も判る。 アメリカの司法では「大物」の影響力が無いから関係ない。 自殺した三浦和義元社長の元妻で、銃撃事件の被害者、一美さん=当時(28)=の母、佐々木康子さん(75)が12日、報道各社にコメントを寄せた。 全文は以下の通り。 元ポルノ女優を使って殺人未遂をおかし、そのわずか3カ月後、また複数の知人に一美殺害を依頼して、三浦は巨額の保険金を詐取しました。 しかし、被害者の人権よりも犯罪者の人権を重んじる日本では、三浦が裁判に勝ち、正義は実現しませんでした。 少年時代にあらゆる犯罪をおかし、日本の警察の優秀であることを肌身で知った三浦は、犯罪場所をロスに移したが、そこには共謀罪という罪があることを見落としていた。 墓穴を掘ったのです。 死んだことで罪がすべて許されるのなら、この世に倫理道徳はなくなります。 以前、ハンストをしたように、狂言として自殺をはかり、誤って死んでしまったのか、死のうとして死んだのか、それはわからないが、三浦が死んでも、殺された一美、千鶴子さんの無念は変わることはありません。 悲しみ苦しんだ遺族の思いは消えることはありません。 三浦が死んで一件落着のような風潮がもう出はじめています。 こんな理不尽なことが許されてよいのでしょうか。 日本の法律を超えて三浦を逮捕し、三浦の犯罪を明らかにしようとしたロス捜査当局の方々には、心より御礼を申し上げます。 そして家族からの最後のお願いは、三浦を有罪にする確信の元になった捜査証拠資料を公開して、三浦の犯罪がどのような犯罪であったのか、明らかにしていただきたい。 そうでないと、一美、千鶴子さんの霊は永久に安らぐことがありません。 10月12日 一美の母、佐々木康子 10月12日14時6分配信 産経新聞 日本では「被告人の自白」が重要視されるから 警察・検察は「ストーリー」を作り上げて「でっち上げ」た冤罪が多い。 「志布志事件」「富山事件」を見れば判る。 ところが「三浦のオッサン」はガンとして自白をしなかった。 隠し子説が正しいなら「裏から」手が廻っていて、 取調べは形だけだったとも考えられるけど・・・。 しかし、この事件の裁判は「逆の意味」で異常だった・・・。 複数の知人が殺害を依頼されたと言う証言も 殺害現場を目撃した人達の証言も 全て被告人の証言に負けてしまったのだから・・・。 日本の異常な司法制度に「クサビ」を打ち込んで貰えると思っていただけに〜〜〜。 残念〜〜〜。 「演技性人格障害」だった人間の、命を賭けた最後の名演技だったのか。 それとも、もう「臭い演技は見たくない」と思っていた人達に抹殺されたのか。 事件は又、闇の中に消えて行く・・・。 |
ビラにして配った男は元ちょうにち新聞の記者だった。 しかし、1937年の日中戦争(支那事変)が泥沼化しようとしている昭和14年(1939年)10月26日に退職している。 この10月に石原は自分の理念に元付き「東亜連盟」を設立。 この時に「石原莞爾」と知り合ったのかも〜〜〜。 ちなみに、この年は満州で「ノモンハン事件」が起き、9月1日にはドイツ軍がポーランドに宣戦布告をして「第二次世界大戦」が勃発した時期です。 石原は男に「最初はヒトラーが勝つ。終わりはスターリンが勝つ」と語ったといいます。 石原は東条から関東軍参謀副長を解任され、留守第16師団に着任して師団長に補せられていました。 東条は板垣征四郎陸軍大臣の下で、陸軍次官・陸軍航空総監・陸軍航空本部長に就き、 1940年(昭和15年)7月22日から第2次近衛内閣、第3次近衛内閣の陸軍大臣に成りました。(対満州事務局総裁も兼任) 中国側は東条を日本の満州権益拡大を主導する人物として警戒していた様です。 石原が現役を退いて予備役へ編入されたのが太平洋戦争開戦前の1941年3月。 太平洋戦争が始まると戦争をやめさせねば成らないと主張していた「石原莞爾」 「東条らの施政を見るに、国民に対し卑劣にも戦局の真相を隠蔽し、言論を封殺し、ただ冷酷苛烈なる怒号叱咤以外に大局的にいかなる処置も講ぜず、単に戦線を拡大するというチャンバラ本意の遣り口を見て、これでは日本は敗れるほかなしと・・・」 「海軍が破れた以上端的にいうが、この戦争はこのままでは負けだ」 「国民が総蹶起して軍閥を打倒し、政治革命を成就することだ」 彼の主張をビラにして配った男。 すぐに憲兵隊に拘束拘禁され獄死した。 東条は石原を恐れていたと思われます。 当時の「石原莞爾」は満州を少人数で占領し英雄視されていた。 だから、主張をした石原には手を出さずに「ビラ撒き」をした男を獄死させて終ったようです・・・。 1919年に第一次世界大戦後の「パリ講和会議」で「国際連盟」の設立が提案されました。 設立にあたって日本は「人種差別撤廃案」主張しましたが・・・。 多数決では勝っていたのに、アメリカに潰されたのです。 パリ講和会議 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%AA%E8%AC%9B%E5%92%8C%E4%BC%9A%E8%AD%B0 「石原莞爾」は満州建国を立案実行した時、 「パリ講和会議」の実態から白人(アメリカ)との間に起る「世界最終戦争」を想定し、 「黄色人種」が力を合わせて、10年間は国力を貯えるべきだと考えていたのです。 ところが、東条は「石原莞爾」の「満州建国」を見てイケイケドンドンで日中戦争から太平洋戦争へと突き進んでしまったのです。 |



