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事実がすこしずつ変えられていく。 大衆が受け入れやすい話が「真実」として残って行くのだろうが、それで良いのだろうか? 先日亡くなった「談志師匠」も同じ様な悩みを抱えていた様だ。 若い時に、得意としていたのが「源平盛衰記」 「源平盛衰記」は林家一門のモチネタだったようだ。 故林家三平師匠も談志師匠に負けずに演じて、 「三平も、まんざらバカではないですから」と自分で言っていた。 オチは義経が平家の舟に飛び移り姫を介錯しようという時、平家の武将がかけつける。 そこで時世を八木節で歌うと義経は「合いの手」入れて踊りだす。 それにつられて平家の武将も踊り出す。 その為、平家は西海に没落する。 「談志師匠」は、このオチが現代に合わないと思ったのか、講談調の話にして時節の笑いを入れてオチを削った。 オラは歴史が嫌いだったが、一発でハマッタ。 上方の「米朝師匠」は、埋もれた話を必死に掘り起こしたようだが、何が面白いのか判らない話がかなり有ったとか・・・。 古典落語は、面白さが判らなくなると消えて行く運命なのかもね。 三遊亭白鳥 萩の月の由来 サゲに工夫が凝らされている。 古典を現代風に判りやすく変化させるのは当然だと思うが、笑いを取れば良いのか? 甚五郎と自分で名乗ってしまったのに風来坊? 虎屋の大きな看板がたらいの中を回る? 新作で勝負すべきでは? 立川談笑 薄型テレビ算 テーマだけを古典から取っているから、まるで違う話の様に聞こえる。 付録 古典に一番近いと思われる上記の原型。 志の輔 ねずみ 桂枝雀 つぼ算 おまけ この人を見よ―立川談志 西部邁ゼミナール 2010年10月30日放送 、
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落語の世界
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落語家の立川談志さんが死去落語家の立川談志(たてかわ・だんし、本名・松岡克由=まつおか・かつよし)さんが死去したことが23日、分かった。75歳だった。 東京都出身。昭和27年、五代目柳家小さんに入門。 早くから才気を表し、先輩からは“天狗(てんぐ)″と非難されたものの、38年に真打ちとなり、五代目立川談志となる。 以後、日本テレビ系番組「笑点」の大切りの仕切り役なども務め、毀誉褒貶(きよほうへん)はあったが、江戸っ子風の威勢のよさと、歯にきぬ着せぬ毒舌でトップクラスの人気落語家になった。 社会的発言を好み、46年には参議院選挙に出馬して当選。 三木武夫内閣で沖縄開発政務次官に就任したが、問題発言によりわずか36日で辞任した。 1期6年の議員活動の後に本業に戻ったが、58年には師の小さんと対立して落語協会を脱会、立川流を創設して家元となるなど、落語界の異端児の健在ぶりを示した。 平成9年に食道がんを告白。 近年は持病の糖尿病などの悪化で療養を続けていた。 著書に「現代落語論」「立川談志独り会」など。 産経新聞 11月23日(水)15時57分配信 立川談志 短命 普通、落語のマクラは「落ち」の伏線(理解してもらうヒント)になっているのだが・・・。 談志師匠のは本題に入る、自分のタイミングの為に有ったのか? 走り幅跳びの助走だな。 最もマクラ(助走)の方が面白い時の方が多かった・・・。 本人は話の出来に、納得がいかなかったのかぁ〜〜〜? 見ている方はそうは思わなかったけど。 好きな落語家が、減っていくなぁ・・・。 知らない昔の映画や歌謡曲の話を、もっと聞きたかったなぁ。 ご冥福をお祈りいたします。 付録 『言いたい放だい2008大晦日スペシャル』2008年12月31日放送 日本国憲法。この哀れな代物 http://blogs.yahoo.co.jp/w1919taka/54312224.html 1962年 - 入門が5年も遅い古今亭志ん朝が、「36人抜き」で小ゑんより先に真打になり、生涯最大の屈辱を味わう。
1978年 - 6代目三遊亭圓生ら三遊派が落語協会脱退。 落語協会分裂騒動となる。 この脱退については諸説あり、落語史としても今なお、不透明の部分の多い歴史でもある。 談志と5代目圓楽を黒幕とする説が多い(5代目圓楽は著書で新協会設立の話を圓生に持ちかけたのは談志であると述べている。また、志ん朝の香盤を下げるために仕組んだとする見方もある)。 しかし、反響の大きさに慌てている談志の姿も目撃されてもいる。 また、参加しないと思われていた志ん朝が参加してしまったため、慌てて参加を取りやめたとも言われる。 川柳川柳の著書によると、談志は脱退した三遊派で構成される『三遊協会』の次期会長は自分だと思い込んでおり、圓生に確認したところ、「次は志ん朝だ」と答えられたため、思惑が外れて計画から手を退いたとある。 金原亭伯楽の著書にも同内容のことが書かれている。 2011年11月21日14時24分、家族に看取られて死去。死因は喉頭癌。75歳没。 談志の死去の報は、一門の弟子たちを含む落語界・芸能界・知人の誰にも伝えなかった。 家族のみで通夜・告別式(密葬)を挙行。 2日の間、死を誰からも隠し通した。 2日後、事務所(談志役場=息子慎太郎の会社)が死の事実をプレス・リリースしたが、その際も弟子たちに知らせなかった。 弟子たちは、死の2日後に、テレビニュース等で談志の死を知ることとなる。 1966年5月15日の放送開始から1969年11月2日まで日本テレビの演芸番組『笑点』の司会を務めているが、後年「笑点ってのはよう、アタシが作った傑作なんだよ」と語っている通り、笑点は談志が自ら企画して実現したものである。 「源平盛衰記」 立て板に水の時代。 この頃が絶頂期だったかな? 初めて聞いた時、歴史が嫌いだったけど面白いんだと思った〜。 談志陳平の言いたい放だい 2008年8月2日放送 (政権交代予想・テレビ局の実態・北京五輪) 、
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三遊亭小円歌「俗曲」 三遊亭園歌に女性の弟子が居るのを知らなかった。 ブログを訪問した時、初めて知った。 子供の頃から「授業中」の(山の穴)で関心が有ったので驚いた。 落語は、八さん、熊さん、横丁の御隠居。 バカ殿に、家老の三太夫。 ほとんど男が主人公の話が多いので、女性では無理だと思っていたから・・・。 画像で高座を見れば「俗曲」 納得したのと同時に、これでは園歌の弟子になった意味が有ったのか新たなる疑問が沸いて来た。 三遊亭 小円歌 東京都台東区浅草出身、落語協会所属の三味線漫談家。 自称「日本(=世界)に2人しかいない女流三味線漫談家」。 花柳流日本舞踊の名取りでもある(芸名:鳳千佐)。 三遊亭圓歌からスカウトされた際、「お前を女優にしてやる」と口説かれ、その気になって入門したものの、気付けば芸人にされていたという。 その辺の「成金おやじ」と変わらないね・・・。 だが、真剣な女性達も居たのだ。 ザ・ノンフィクション・おんな落語家への道 三遊亭歌る多 1981年9月 - 國學院大學経済学部を中退し、3代目三遊亭圓歌に入門。前座名は歌代。 1987年5月 - 二つ目に昇進し、歌る多に改名。 1993年3月 - 落語協会初の女真打に昇進。 2002年2月 - 女真打の扱いが無くなり、通常の真打と同じ扱いになる。 2010年7月 - 落語協会理事に就任。 歌る美 2011年4月30日【二つ目に昇進】歌る美改め「三遊亭美るく」になったようです。 過酷な階級社会に、自ら飛び込んだ歌る美、多ぼうの二人。 工作員には理解できない世界。 ? 30歳になってもお年玉が貰えるの〜〜〜? 親御さんの気持ちが判るなぁ。 大変な修行に耐えているんだね。 一般社会人の方が「楽」だったと思うけど・・・。 「しゅはり」だね 古典落語は男性中心の話が多いから違和感が出てしまう。 だが、女性を中心にした「新作」なら受け入れられる可能性があるかも・・・。 、
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米朝 『江戸荒物』 米朝師匠からは、上方の文化や歴史を教えて貰った。 師匠の「江戸弁」は似合わないが、話が面白いから「よし」としよう。 3代目 桂米朝 入門当時滅びかけていた上方落語の復興に尽力し、6代目笑福亭松鶴、5代目桂文枝、3代目桂春団治と共に、昭和以降の「上方落語の四天王」と呼ばれる。 地方においては昭和40年代(1965年 - 1974年)であってもなお、落語に対する理解は低く、米朝が高座に上がって落語を始めても、客からは「何を一人で喋ってるんだ? 遊んでないで早く落語を始めろ!」と野次が飛んでくる有様だった。 地方ではテレビの『笑点』でやっている大喜利が落語であると、その程度の認識であり、その苦労は並大抵のものではなかった。 オラも「関東の落語、関西の漫才」と言われて育った。 事実、昭和の時代に「花月」に通った事があるが、出し物は漫才と歌と演劇コントだった。 「新花月」では若手漫才師に「面白くねえぞー」の野次が飛んでいた。 芸人は土下座し、客同志がケンカに成っていた。 師匠の功績は大きいが〜〜〜、 落語家で江戸弁の事なら、この人。 長短の枕だが、関東人のオラでも勘違いしていた事が多い。 桂文治 (10代目) 1979年、桂派宗家。 1996年、芸術選奨文部大臣賞受賞。 1999年9月、4代目桂米丸の後任で落語芸術協会会長就任。 正調の江戸弁を大切にしていた噺家。 2004年1月急性白血病に倒れ、同月31日芸協会長の任期満了日に死去。 80歳没。 文治没後の会長職は、既に翌日の昇格が内定していた副会長の桂歌丸が就任した。 「『こたけむかいはら』(小竹向原)というのは間違っている、江戸言葉では『向こう』というのが正しいから、正確には『こたけむこうはら』なんだ」 「やじうま(野次馬)」ではなく「やじんま」 「何を言やがるんでえ」ではなく「何をいやんでぇ」 「やかましいやい」ではなく「うるせいやい」 「ありがとうございました」では縁が切れるから「ありがとうございます」や「ありがとう存じます」 付録 二人の亭号は「桂」 昔は、同門だったようです。 3代目以降、東西に分裂し「桂文治」の名は東西に3代目・4代目があったらしい。 「桂」の亭号の由来に関しては、初代文治が大阪市北区にある佳木山(「桂木山」とあるのは誤り)太融寺の檀家であったことから、寺の山号から連想して名付けたのだという。 (大阪市西成区天下茶屋にある石碑「桂塚」の碑文の説。『落語系圖』p63に翻刻あり。) 一方、『落語系圖』p65所載の説によれば、初代文治の先祖が「桂中納言左近」という人であったため「桂」を名乗ったとあるが、詳しいことは不明。 参考文献『ウィキペディア(Wikipedia)』 おまけ 文治 長短 流れるような江戸弁なら、今は亡きこの人。 古今亭志ん朝 「水屋の富」 江戸時代の水屋と水売りの違がいを知った話です。 本所・深川は「忠臣蔵」の時代に「江戸」に成った所。 枕だけで、江戸時代の庶民文化が判る。 「東の志ん朝、西の枝雀」と言われた時代に、枝雀も「水屋の富」を演じていたが、関西の人に水屋が理解できたのだろうか・・・。 ,
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風間杜夫が演じる林家三平の高座 本物の画像を探したのだけれど、 見つからなかった〜。 風間杜夫が演じる「林家三平」は、本物以上かも〜〜〜。 本物は声だけだが・・・ 小話自体は詰まらないのだが、何故か笑いを取っていた。 「昭和の爆笑王」等とも言われた。 「正蔵」を継いだ「彦六」師匠は「正蔵」を返上した。 三平は、父親の名跡「正蔵」は継げないと自分で思っていた様だ。 こぶ平は平気で「正蔵」を継いじゃったけど・・・。 東京国税局から1億2000万円余りの申告漏れを指摘された。 帝国ホテルで850人を集めた襲名披露パーティー。 全国60カ所での披露興行も実施。 「父親で“昭和の爆笑王”林家三平の時代からのタニマチが大勢駆けつけ、100万円単位の祝儀を弾んだ」(落語関係者) それをほとんど申告していなかった。 芸の実力で稼ぐ時代では無いのかもね・・・。 いっ平が「三平」を継いだが、親父を越えるのは大変だろうなぁ。 おまけ 林家三平と三遊亭圓歌は仲が良かったらしい。 三遊亭圓歌 授業中 懐かしい「歌奴時代の山のあな」 最近は演じないどころか、 「よく山の穴やれ?って言われるけど忘れちゃったよ!いくら穴が好きでもそうは入ってらんない!モグラなら死んじゃってるよ!」 今では、聞けない演目です〜。 、
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