日本の歴史
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現政権は、恐らく「竹島」を韓国に与えるつもりなのだろう。 日本の「海外3大汚職事件」と言われているのが〜、 この「任那譲渡」と〜、 1914年(大正3年)に発覚した「シーメンス事件」 1976年(昭和51年)の「ロッキード事件」 (現政権の黒幕は「ロッキード事件」首謀者の愛弟子) |
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恥ずかしながら〜、 今まで知りませんでした・・・。 |
麻生内閣は16日、総辞職し、在任358日で次期政権に交代する。 麻生太郎首相は昨年9月、「選挙の顔」として自民党総裁に選出されたが、世界的な経済危機を理由に衆院解散を先送りした後、内閣支持率は急落。 自らの失言もあり、党内では「麻生降ろし」の動きが絶えなかった。 「政権与党の矜持(きょうじ)」を問うた衆院選は歴史的な惨敗。 半世紀にわたる自民党政権に幕を引いた首相はいま、薩長連合軍に江戸城を無血開城した第15代将軍、徳川慶喜と同じ心境ではないか。(酒井充) ◇ 14日午前、首相はにこやかに警護官(SP)との記念撮影に応じ、残り少ない首相官邸での生活を穏やかに過ごした。 だが、その後の記者団のぶら下がり取材で表情は一変。 鳩山由紀夫民主党代表との会談について問われると「個別の会談の内容を私の方から外にしゃべったことは一回もありません」の一点張りで、最後はプイッと記者を振り切った。 首相は、昨秋の福田康夫前首相の辞任後、「選挙の切り札」として総裁に選出された。 当初はこの勢いを駆って組閣直後に解散する腹づもりだったが、つまずきは早かった。 組閣直後に中山成彬国土交通相が失言をめぐり辞任。 景気は急激に落ち込み、首相は「政局より政策」と解散を断念、経済対策にかじを切った。 だが、「景気対策による政権浮揚」のもくろみはもろくも崩れる。 目玉政策の定額給付金が不評だった上、所得制限の是非をめぐり発言がブレたこともあり信用はみるみる失墜。 連夜のバー通いや、漢字の読み間違いも批判された。 加えて自民党内は消費税論議や公務員制度改革などをめぐり内紛が連続、支持率下落に拍車をかけた。 反転攻勢の機会がなかったわけではない。 3月に西松建設の違法献金事件で民主党の小沢一郎代表(当時)の公設秘書が逮捕された上、北朝鮮の長距離弾道ミサイル発射実験などにより、4月には支持率は回復基調に乗った。 だが、首相は政策優先を掲げ、またも解散を見送る。 これが命取りとなる。 「かんぽの宿」譲渡問題をめぐる鳩山邦夫総務相と日本郵政の西川善文社長の対立は次第に激化。 首相はやむなく鳩山氏を更迭したが、東京都議選など地方選の連敗もあり、党内で「麻生降ろし」が起きた。 首相はなんとか封じ込め、7月21日に衆院解散にこぎつけたが、もはや党勢を回復させる手だてはなかった。 ただ、首相は4回にわたり事業規模計130兆円の予算を成立させ、景気回復の足がかりを作った。 ソマリア沖の海賊対策のため海賊対処法を成立させたことも功績といえる。 「昨秋に解散すれば、こんなに負けていなかっただろう。でも、これほどの経済対策はできなかった…」 首相は9日、訪問客に複雑な心境を吐露した。 祖父、故吉田茂元首相にはるか及ばなかったのはなぜか。 首相はなお慚愧(ざんき)の念に苛(さいな)まれている。 最終更新:9月15日13時17分配信 産経新聞 武家政権最後の征夷大将軍となった慶喜ちゃんは前年に「大政奉還」をして寛永寺で謹慎していた。 政権を渡すと言っているのに「さつマッポ」が江戸に攻め上ったからもめたのだ。 (警察を「マッポ」と呼ぶのは「さつマッポ」から来ているとか・・・) 「武力」で来るなら「武力」で迎える。 西郷と勝が話し合いで、これを防いだだけ・・・。 政権の明け渡しと「江戸城の無血開城」とは関係が無い。 慶喜ちゃんに「大政奉還」をさせ、日本の政界再編を提唱した「坂本龍馬」は翌月暗殺されている。 犯人は「新撰組」だとされていたが「見廻り組」が自ら名乗り出た。 新政府に成って「西郷隆盛」は、犯人を釈放している。 「坂本龍馬」の政界再編案は、慶喜ちゃんを国会議長にして、各藩が議員となった合議制を考えていたらしい。 これが本当だとすると、徳川方の「新撰組」や「見廻り組」がヤルはずはない。 「西郷隆盛」は政権奪取の立役者で盟友の「坂本龍馬暗殺事件」の調査を打ち切らせたとか・・・。 犯人(黒幕)に心当たりが有ったのかも〜。 今回の「政権交代」は「明治維新」と同じ「平成維新」なのか? ・・・まるで違うと思う。 自民党は「大政奉還」どころか、政権を持って逃げ回っていた。 それだけに「麻生内閣」は歴史に残ると思うよ。 自民党総裁で「総理大臣」に成れなかった「河野洋平氏」の様に・・・。 |
「島津斉彬」 開国して富国強兵をし、日・清・韓の三国同盟をする。 東アジアと欧米諸国の対置という世界観。 特にロシアとイギリスに対し強い警戒観を持っていた。 維新に成功し、列強の侵略を一応は防いだ日本の経験が活かせる。 後に「満州国」を建国した「石原莞爾」ほどの強い日本のリーダーシップ論は無かった。 「勝海舟」 大久保宛ての手紙で「勝氏へ初めて面会し候ところ実に驚き入り候人物にて、どれだけ知略これあるやら知れぬ塩梅に見受け申し候」と書いている。 「藤田東湖」 「先生と話していると清水を浴びたような少しも曇りない心になってしまい帰る道さえ忘れてしまった」 最も影響を与えた人物。 お由羅騒動(高崎崩れ)の後に朱子『近思録』を読み、その影響を強く受けた。 大義名分論は行動の規範になったもので、 日本古来の文化・伝統(天皇も含む)・道徳を大義とし、これを帝国主義諸国の侵略から守り、育てることが、その実践であると考えていた。 佐藤一斎『言志四録』 手写した『言志録』が残っており、西南戦争のときにもこの書を座右の書として持ち歩いていた。 「陽明学」 「知行合一」を理念としているので、知識を世人の役立つようにしようとした。 「春日潜庵」 陽明学者の潜庵を高く評価していた。 頭山満の回想では、 西南戦争後の明治12年(1879年)当時に西郷家を訪れた折に、応対した「川口雪篷」から西郷が愛読し手書きの書き込みがある、幕末の「陽明学者・大塩平八郎」の書『洗心洞剳記』を見せられ、西郷がいかに大塩を慕っていたかを知らされたとある。 ・・・。 キリシタンだった確率は低いと思う。 簡単に言うと 「儒教」→「朱子学」→「陽明学」に進んだ。 明代、国家教学となった朱子学は「科挙合格」という世俗的な利益のためにおこなわれ、陽明学が誕生することになる。 後醍醐天皇や楠木正成は「朱子学」の熱心な信奉者。 鎌倉滅亡から「建武の新政」にかけてのかれらの行動原理は、朱子学に基づいている。 江戸時代に入り林羅山によって「上下定分の理」が武家政治の基礎理念として再興され、江戸幕府の正学とされた。 皮肉にも「朱子学」の台頭によって尊王論と尊王運動が起こり明治維新へ繋がっていく。 1890年(明治23年) 『教育勅語』が下賜されると近代国家のイデオロギーとして本格的に採用された。 軍部の一部では特に「朱子学」に心酔する者が多く、 二・二六事件や満州事変にも影響を与えたといわれている。 古田博司(2006年 産経新聞「正論新風賞」受賞)は、昭和の陸軍が現実感を失った組織になってしまった理由について、朱子学化したからだとの所説を述べている。 江戸幕府は「科挙制度」を取り入れなかった。 「明」の姿を見ていたから〜。 ところが、明治政府が取り入れちゃった〜。 「公務員試験制度」は、現在の「天下り」「渡り」の元凶。 参考 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 |






