剣豪、と聞いてまず宮本武蔵の名前を挙げる人は多いだろう。 昭和初期に朝日新聞で連載された吉川英治の小説「宮本武蔵」は爆発的な人気を呼び、後世この作品をベースに、いくつもの映画が生まれた。 新しいところでは、平成15年にNHKの大河ドラマとなり、井上雄彦氏のベストセラー漫画「バガボンド」も吉川の小説が原作だ。 しかし、描かれている数々の決闘の中には、常識的に考えれば首をかしげたくなるものもある。 慶長7(1602)年ごろ、一乗寺下り松(京都市左京区)で行われた、武蔵と吉岡一門による決闘もその一つだ。 武蔵によって相次いで「主」が討たれた名門・吉岡道場の門下生は、リベンジを誓い武蔵に挑む。 70人以上の門下生を前に、武蔵はまず大将の吉岡源次郎(又七郎)を一刀両断。一門の剣豪たちを次々と倒し、吉岡道場を壊滅させる。 数々の映画やドラマでも描かれた名シーンだが、いくら史上最強の剣豪といえども、70人を相手にしたら逃げ切ることすらできないのではないかという素朴な疑問が浮かぶ。 司馬遼太郎が「真説宮本武蔵」で描く決闘の様子は趣が異なる。 武蔵は約束の地に先回り。 暗がりで見えにくい中で近づいてきた又七郎を襲撃。 そして「武蔵は、眼の前の数人を斬りはらって、山中に逃げこんだ。みごとな喧嘩のうまさである」と評している。 ◇ 武蔵といえば、佐々木小次郎を破った巌流島の決闘が有名だ。 だが、決闘を見守った細川家側の記録「沼田家記」はこう記す。 「小次郎蘇生(そせい)致し候へ共、彼(武蔵)の弟子共参り合せ、後にも打殺し申し候」。 木刀で“殴られた”後、間もなく意識を取り戻す小次郎。 だが、隠れていた武蔵の弟子たちの襲撃に遭い、絶命したというのだ。 真偽は定かではなく、小次郎自体も実在の人物かはっきりしていない。
元々は二人の弟子達の争いだった。 当時の「佐々木小次郎」は70歳を超えていたと言う説もあるとか・・・・。 武蔵には謎が多く、出自も判然としない。 養子・伊織が残した「小倉碑文」によると、武蔵は美作(岡山県北東部)に生まれ、兵法家の新免無二の子となっているが、「宮本家系図」では播州(兵庫県西部)生まれで、父は田原甚右衛門家貞。無二は養父と記されている。 家貞の没年が武蔵が生まれる前の天正5(1577)年だったため、「家系図」による播州出自説は劣勢に立たされたが、家貞が天正8年に生きていたことをうかがわせる史料が見つかり、系図の「親」の没年は誤記との見方もある。出自論争は決着していない。 ◇ 吉川英治が描く武蔵像はどこまで本当なのだろう。 下り松での決闘前、武蔵が必勝祈願に訪れたという八大神社(京都市左京区)の竹内紀雄宮司は「神社に決闘の記録は何もありませんが、決闘は行われたと思います。でも70人というのは多すぎで、いくら武蔵でも十数人が精いっぱいでは」。 武蔵をめぐる論争は昔からあって、中でも有名なのは直木三十五と菊池寛の間で交わされた激論だ。 武蔵は同時代の名だたる剣豪と太刀を交わしていない。 集合時間に遅刻して相手をいらつかせる心理戦も仕掛ければ、奇襲も辞さない。 直木はそういう武蔵の姿勢をラジオなどで徹底的にけなした。 これに対し、菊池寛は昭和7年10月号の「文芸春秋」で反論。 竹刀ではなく真剣で勝負に挑み続け、勝ち星を重ねた武蔵の偉大さ書き連ねた。 2人の論争は、当時の新聞に「菊池武蔵と直木小次郎の巌流島の決闘」と称された。 吉川も「決闘」に参加した1人。 新聞紙上で武蔵を礼賛した吉川に、直木は「吉川は私の論難に考証的根拠がないのを指摘しながら、自分が何ら考証的根拠を示さず…」と批判する。 直木の批判を受けて、吉川が「宮本武蔵」を書いたことをうかがわせる著書がある。 吉川は「随筆宮本武蔵」で多角的に武蔵を分析し、実像に迫っている。 直木の批判に対しても「僕はそのまま引き退がるつもりではなかった。宿題として、自分に答えうる準備ができたらお目にかけるつもりだった。以来忘れた事はない」と記している。 吉川の小説連載が朝日新聞で始まったのは昭和10年。 直木はその前年に他界している。 「吉川英治が本当に読んでもらいたかったのは、直木三十五だったと思いますよ」(竹内宮司)。 小説「宮本武蔵」にフィクションが混じろうとも、それは「考証的根拠」に基づく吉川の演出ではないか。 武蔵の生き方に魅せられるファンは今でも絶えない。 吉川の「直木小次郎、敗れたり」という声が聞こえるようだ。(渡部圭介) ■宮本武蔵 江戸初期の剣客で、二天一流の祖。 武蔵が記した「五輪書」によると、出生地は播磨になっている。 生年も同著で寛永20(1643)年に60歳を迎えたという記述から推測されており、異説もある。 島原の乱には養子・伊織とともに出陣。 その後、熊本藩の細川忠利の招きで客分となった。 熊本市にある「武蔵塚」が墓とされている。 剣の道以外にも絵画や彫刻、造園などの諸芸にも秀でていた。 水墨画の名手でもあり、重要文化財に指定されている作品もある。 2月1日12時4分配信 産経新聞 水墨画は「味」が有ると思うけど・・・。 『五輪書』は、宮本武蔵の著した兵法書で、宮本武蔵の代表的な著作。
武蔵は晩年の寛永20年(1643年)から死の直前の正保2年(1645年)にかけて、熊本市近郊の金峰山にある霊巌洞で執筆されたとされる。 自筆本である原本は焼失したと伝えられ、写本は細川家本を始め、楠家旧蔵本・九州大学本・丸岡家本・狩野文庫本、底本不明の『劍道祕要』収録などがある。 自筆本が現存せず写本間での相違も多いことや、武蔵の時代よりも後の価値観に基づく記述が多いこと、さらに同時代の文献に武蔵が五輪書を書いたと傍証できるものがないことなどから、武蔵の死後に弟子が創作したという説もある。 五輪書 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋。 歴史小説は「歴史の真実」とは別だと思っていたけど、 ここまで、違っていたのか・・・。 |
日本の歴史
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あのね・・・。 ヨッチャン・・・。 カレーは嫌いじゃないけど・・・。 前回の「ボンカレー」は非常に珍しいパッケージだと判ったから、お礼を言ったけど・・・。 昔、近所の「おばさん」から野菜を貰って、建前で丁寧に御礼を言ったら〜。 すぐに食べ切れないほど、野菜を持って来てくれて困った・・・。 オラの喜んだ顔が美しかったからかもね〜。 「おばさん」の気持ちを考えたら嬉しくて〜、無理して食べちゃった。 オラは歴史やレトロ好きだけど〜。 ヨッチャン、だからってね〜。 毎回「カレー」じゃ無くても良いんだよ。 気持ちは嬉しいけど・・・。 当時の「資生堂パーラー」は二階建てで、一階の客席中央を吹き抜けにして、天井から大きなシャンデリアが下がり、二階は両袖だけが客席で正面にオーケストラボックスがあったとか・・・。
亡父から聞かされた戦前の「資生堂パーラー」と当時の銀座の様子は↓。 ヨッチャン。 他にもっと軽くて便利な物が有るでしょう〜。 福沢諭吉の肖像が描かれた小さな紙とか・・・。 |
1月22日17時55分配信 時事通信 ふくいく・・・? 知らない品種。 天神様の梅はみんな「飛梅」だと思っていたから〜。 御神体は〜、ご存知「菅原道真公」で〜す。 菅原 道真
(すがわら の みちざね、みちまさ、どうしん、正字体では菅原 道眞、承和12年6月25日(845年8月1日) - 延喜3年2月25日(903年3月26日)) 日本の平安時代の学者、漢詩人、政治家である。特に漢詩に優れた。33歳のときに文章博士に任じられる。宇多天皇に重用され右大臣にまで昇った。しかし、左大臣藤原時平に讒訴され、大宰府へ権帥として左遷されそこで没し、為に、朝廷に祟りをなし天神として祀られる。現在は学問の神として親しまれる。 本当は「祟り神」なんだよね。 菅原道真が左遷された大宰府で憤死した後、京には異変が相次ぐ。 政敵藤原時平が延喜9年(909年)に39歳の若さで病死。
醍醐天皇の皇子で東宮の保明親王(時平の甥・延喜23年(923年)死去) その息子で皇太孫となった慶頼王(時平の外孫・延長3年(925年)死去) 延長8年(930年)朝議中の清涼殿が落雷を受け、大納言藤原清貫ら朝廷要人に多くの死傷者。 道真の祟りだと恐れた朝廷は、道真の罪を赦すと共に贈位を行った。子供たちも流罪を解かれ、京に呼び返された。 清涼殿落雷の事件から道真の怨霊は雷神と結びつけられ、火雷天神が祭られていた京都の北野に北野天満宮を建立して道真の祟りを鎮めようとした。 以降、百年ほど大災害が起きるたびに道真の祟りとして恐れられた。 「天神様」として信仰する天神信仰が全国に広まることになる。 各地に祀られた祟り封じの「天神様」は、災害の記憶が風化するに従い道真が生前優れた学者・詩人であったことから、後に天神は学問の神として信仰されるようになった。 菅原道真 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 現代は「祟り」がないとされているから、どんな悪さをしても平気な時代になってしまった〜。 ちなみに、大阪市東淀川区にある「淡路」「菅原」の地名は、道真が大宰府に左遷される際、当時淀川下流の中洲だったこの地を淡路島と勘違いして上陸したという故事にちなんだ地名だそうで〜す。 知らなかった。 淡路には何年間か住んだ事があるのに・・・。 |
◇骨董品店営む高橋一美さんの蔵改装 新選組三番隊長、斎藤一の墓がある福島県会津若松市七日町にオープンした「会津新選組記念館」が、ファンの注目を集めている。 京都守護職を務めた会津藩主・松平容保が隊名を付けたという説もあり、戊辰(ぼしん)戦争で藩士とともに戦った新選組と会津のかかわりを示す資料館だ。 骨董(こっとう)品店「骨董むかしや」を営む高橋一美さん(41)が館長。 店舗は明治中期の1889年に作られた蔵で、2階を資料館に改装した。 20代のころ、戊辰戦争の戦没者を慰霊する「会津まつり」で、火縄銃の演武を披露する「会津藩鉄砲隊」を組織。 当時の銃などを研究、収集するうち、新選組と会津藩のつながりを知ったという。 「市内には土方歳三が湯治した温泉や近藤勇の墓もある。調べるにつれ、新選組と会津のかかわりの深さを実感した。七日町には、斎藤一の墓がある阿弥陀寺のほか、隊士が宿泊した清水屋旅館もあった。地元に情報を発信し、観光客とも交流できる拠点がほしかった」と高橋さん。 戊辰戦争当時の鉄砲、隊士が使っていたものと同じ鎖かたびらなど新選組関連資料のほか、母成峠の戦いで使われたとされる木製砲、会津藩祖・保科正之や家老田中玄宰の書状などもある。 開館は午前10時から午後5時までで不定休。 高校生以上300円、中学生以下200円。【太田穣】 最終更新:1月13日16時1分配信 毎日新聞 近藤勇の墓もある? 知らなかった・・・。 近藤勇の墓所 法蔵寺の首塚近藤の遺体は東本願寺法主が受け取り埋葬したとされるが、一説に同志により奪還され、愛知県岡崎市の法蔵寺に葬られたともいわれ、同寺に近藤の首塚がある。
また東京都三鷹市の龍源寺(先述の出身地、現・調布市野水のすぐ近く)や処刑場の近隣であるJR板橋駅前にも旧同士だった永倉新八により建立された墓所がある。 福島県会津若松市の天寧寺には土方歳三が遺体の一部を葬ったとされる墓があり、山形県米沢市の高国寺にも近藤勇の従兄弟近藤金太郎が首をひそかに持ち帰り埋葬したとされる墓がある。 毎年、近藤勇を弔う為に「近藤勇忌」が流山市や会津若松市等で行われている。 戒名は貫天院殿純義誠忠大居士。 辞世の句は漢詩(七言律詩)で作られており、この句が刻まれた句碑が龍源寺境内の墓所にある。 孤軍援絶作囚俘 孤軍たすけ絶えて俘囚となる。 顧念君恩涙更流 顧みて君恩を思えば涙さらに流る。 一片丹衷能殉節 一片の丹衷よく節に殉ず。 雎陽千古是吾儔 雎陽千古これ吾がともがしら。 靡他今日復何言 他になびき今日また何をか言わん。 取義捨生吾所尊 義を取り生を捨つるは吾が尊ぶ所。 快受電光三尺剣 快く受けん電光三尺の剣。 只将一死報君恩 只まさに一死をもって君恩に報いん。 近藤勇 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋 結構アチコチにあるんだね。 平氏打倒で真っ先に立ち上がった「源頼政」は敗北し、宇治平等院で自刃した。 しかし、墓所が関東各地に有るのに似ている。 新撰組は流山で再起を謀っていたが、4月3日、新政府軍包囲により局長近藤勇が新政府軍へ出頭。 この時、土方歳三が近藤の切腹を止めて出頭を勧めたと言われる。 土方歳三は江戸へ向かい勝海舟らに直談判し近藤の助命を嘆願したが実現せず、慶応4年(1868年)4月25日、近藤は板橋近辺(現JR板橋駅前に墓所有り)にて処刑(斬首)された。 しかし、土方歳三は近藤勇が処刑される以前の4月11日に江戸を脱出している。 土方歳三は新政府軍と再度宇都宮で戦った際に足を負傷し、会津では約3ヶ月間の療養生活を送り、この間に近藤勇の墓を天寧寺に建てた。 土方歳三は近藤勇の遺骸とは巡り合えなかったはずだ。 不自然、遺体が有る可能性は低い 会津若松市の天寧寺には遺骨ではなく土方歳三が近藤勇から生前に貰った形見の品が埋まっているのかも〜。 土方歳三 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』参照 だけど・・・。 何故、土方歳三は近藤勇の切腹を止めて出頭を勧めたのだろう。 武士にとって、切腹の方が名誉だと思うのだが・・・。 |
香港、イタリアのナポリと並ぶ「世界三大夜景」の1つと称される函館山からの眺め。 夜間、眼下にきらめく街の光は幻想的でさえある。 函館山の麓、路面電車が走る市電の十字街駅近くの坂の上には、教会や洋館が点在し、異国情緒にあふれている。(加納洋人) 安政6(1859)年の開港にともない西洋文明が流入し始めた函館。 明治期に入ると、市街に西洋料理店が立ち並ぶようになった。 函館山の麓に本店を置く、レストラン「五島軒」はその1つ。 今年、創業130年を迎える。 ■130年の歴史持つ五島軒 「五島軒の創業は明治12(1879)年。ロシア料理とパンの店として開店したんです」と五島軒の若山直(なお)社長(63)。 若山社長が語る五島軒創業に至るいきさつは、幕末から明治初めにかけての激動の歴史を浮き彫りにするものだった。 新政府軍と旧幕府側が1年半近くにわたって戦った戊辰(ぼしん)戦争は、明治2(1869)年に函館の五稜郭に立てこもっていた旧幕府海軍の榎本武揚(えのもとたけあき)らの軍が降伏したことで終結。 このとき、後に五島軒の初代料理長となる旧幕府側の五島英吉(ごしまえいきち)が残党狩りを逃れて、ロシア領事館内にあった函館ハリストス教会に逃げ込んだ。 英吉は教会で下働きをしながら、ロシア料理を習得。 明治12年に教会から出てきて、五島軒の創業者、若山惣太郎(そうたろう)とともに店を開いたのだという。 函館ハリストス教会? 知らなかったので調べてみました〜。 函館ハリストス教会は、安政5年(1858年)に建設された領事館付属の聖堂で、現聖堂は大正5年竣工 「ハリストス」は「イエス・キリスト」の事だって・・・。 ■115年ぶりのロシア人司祭 五稜郭落城で英吉が逃げ込んだ函館ハリストス正教会は、今も函館山の麓にある。 「ガンガン寺」の愛称で親しまれているこの教会では、明治26(1893)年以降、日本人司祭が続いていたが、昨年9月、115年ぶりにロシア人の司祭、ニコライ・ドミートリエフ氏(48)が着任し、話題をよんだ。 「ロシア人の私が115年ぶりに着任したのは、2009年が函館開港150年の記念の年だから。もう1つの大きな理由は、私たちの教団、日本ハリストス正教会にとって、2011年がとても重要な年だからです。1861年に聖ニコライ・カサートキンが来日して、2011年で150年になるんです」 流暢(りゅうちょう)な日本語でドミートリエフ氏は着任の理由を説明してくれた。 ニコライ・カサートキンは幕末に来日し、ロシア正教を日本に広める礎を築いた人物だ。 「2011年には、函館市民とともに大きな記念行事を行いたい。今後は、市民向けの合唱団をつくるなど、地域に密着した活動を深めたい」とドミートリエフ氏は函館市民との交流に意欲をみせた。 1861年に聖ニコライ・カサートキンが来日? 何処かで聞いたような名前だと思ったら〜。 御茶ノ水にある「ニコライ堂(東京復活大聖堂)」(竣工1891年、再建1929年)に名前を残した人。 ニコライは日本の寺院の檀家制度のような、一村まるごとを改宗させるという手法で、着実に布教を進めていった。 1904年、日露戦争が開戦。
ニコライは帰国する勧めを断って日本にとどまり、日本人正教徒達を激励し続けた。 度重なるロシア軍の惨敗の報せに苦悩したが「諸君は皇軍の為に祈れ」と指導し、日本人の指導者・日本の正教会の主教という姿を貫き通した。 ロシア語通訳を必要とした日本政府に応え、日本正教会は正教信仰を持つロシア人捕虜のケアにも当たった。 明治最後の年、1912年に大主教ニコライは永眠。 この時、明治天皇から恩賜の花輪が与えられた。 外国人宣教師の葬儀に際して時の天皇から花輪が与えられるのは異例の事。 無神論を標榜するボリシェヴィキによって1917年にロシア革命が勃発しソ連が成立。 これ以降、1991年のソ連崩壊に至るまで「反露感情」のみならず「反共感情」にもさらされていく・・・。 救世主ハリストス大聖堂ロシア正教会はソ連に於いて大規模な弾圧を受け、ソロヴェツキー諸島の修道院群はレーニンの命令で強制収容所に転用され、救世主ハリストス大聖堂は1931年にスターリンの命令でダイナマイト爆破された。 初代京都主教を務めたペルミの聖アンドロニクは、生き埋めにされた上で銃殺されるという。 1921年から1923年にかけてだけで、主教28人、妻帯司祭2691人、修道士1962人、修道女3447人、其の他信徒多数が処刑されたとする文献もある。 実際には共産主義国家から大弾圧を受けている被害者であり、共産主義者はこぞって一切の好意を持っていなかったにも関わらず「親露=容共」というあらぬ嫌疑をかけられてしまう。 極めて理不尽な情況が生まれた。 1945年に高齢のセルギイ・チホーミロフ府主教は特別高等警察に逮捕され拷問を受ける。 釈放後ほどなくして、同年8月10日、終戦の数日前に府主教セルギイは永眠した。 拷問による衰弱死だったといわれる。 74歳であった。 戦後はGHQから、ソ連の影響下にあるモスクワ総主教庁ではなく、のちにアメリカ正教会に発展する事になる「北米メトロポリア」と関係を持つように指令された。 全世界の正教会にとって頭の痛い存在であったソ連邦が存続していた以上、安寧が訪れる事はなかった。 「靖国問題」や「憲法問題」など日本ハリストス正教会は他の諸教団とは一線を画して政治運動と一切関わりを持っていない。 日本ハリストス正教会による天皇と為政者への祈りも実はこれに倣うものであるとしている。 現日本国憲法下において天皇の地位が日本国民の統合の象徴である事から、天皇への祈りは即ち日本国民全体への聖なる祈りであるとの意味合いも込められている。 参考 日本ハリストス正教会 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 以前に在日韓国人の友人がいて、家族で故郷「韓国」に帰って行った。 暫くしてから遊びに行って、中学生の息子と話したら〜。 「俺は韓国人が嫌いだ!」と言うではないか〜。 理由を聞くと、日本帰りなので学校で虐められているらしい。 「お前は韓国人だ。誇りを持て!」 そう言うと、うつむきながら小さく頷いた。 日本に居た時にもイジメられていたのだろう。 やっと母国に帰ってホッと出来たと思ったら〜〜〜。 日本時代より酷いイジメに合ってしまった様だ。 オラは職場でも家庭でも居場所が無かったから息子の気持ちが、 よ〜〜〜く判った。 「ハリストス」もんも、同じ立場だったんだね。 「誇りを持て!」は自分に言い聞かせたのかも知れないなぁ・・・。 ■五稜郭に箱館奉行所復活も 米国の東インド艦隊司令官、ペリーの来航を機に、欧米列強からの圧力が強まり、開港した函館。 開港は西洋文明の流入と同時に、外国の脅威ももたらした。 その象徴ともいえるのが、元治元(1864)年に江戸幕府が北方警備の拠点として建造した城郭、五稜郭だ。 戊辰戦争の際、旧幕府軍が最後の抵抗を行った拠点で、平成18年にNHKが放送した山本耕史さん主演のテレビドラマ「新選組!!土方歳三最期の一日」の舞台となった場所としても知られる。 その五稜郭跡では現在、函館市による五稜郭の本陣だった箱館奉行所の復元工事が進められている。 「発掘調査で奉行所の庁舎跡の礎石や柱などの遺構を調べ、残された平面図や古い写真などと照らし合わせたうえでの復元工事です。遺構は砂とコンクリートをかぶせて保存し、その真上に建物を建てた。柱などはまったく同じ場所に建てました」 工事の設計、監理を担う文化財保存計画協会の新原朋史さん(31)は、すでに棟上げが終わり、奉行所らしさを見せてきた建物の前で工事の行程を話してくれた。 専門の宮大工が工事を担当、主に青森のヒバを木材に使い、伝統的な工法で作業を進めている。 工事を担当する宮大工の棟梁、大谷紀明さん(43)は「立派なものができたと、1人でも多くの人に喜んでもらえる奉行所をつくりたい」と話す。 復元工事の完成は平成22年夏。 土方歳三らが活躍した幕末、明治初期のロマンがよみがえることになる。 最終更新:1月2日21時26分配信 産経新聞 今年の函館には、幕末の歴史ロマンが有るのかも〜〜〜。 |






