「機動隊が来たら、『ピンク大のやつらを前に行かせろ、ピンク大は前へ』なんて叫んでいましたね」。同志社大学全学闘(全共闘)のメンバーだった元闘士(60)は大学紛争時の“学閥”について興味深い話を始めた。 ピンク大とは桃山学院大学のこと。 「桃」の頭文字から、そう呼ばれていたが、逮捕の恐れのある危険な場所に他大学のメンバーを行かせ、いわば「人身御供になれ」という乱暴なかけ声だった。 元闘士によると、関西の場合、入試の難易度順そのままに、作戦立案は京都大の学生で、現場指揮官は同志社大、前線には桃山学院大やそのほかの学生が出て行くことが少なくなかったという。 「権威」に反発し、「大学解体」まで叫んだ彼らが、現実の闘争では「大学名」を前面に出す。 このエピソードには「自分たちの闘いに、そのような序列はなかった」と反論する全共闘OBもいる一方、 「全国全共闘のトップが、東大出身者だったという事実が、われわれもまた学歴社会につかっていた証拠だ」 「セクトの細分化が進むにつれて大学による序列が次第にできていった」と分析した人もいた。 今となっては正確な事実の検証は難しいが、当時を知る警察OBは「運動の指導者は国立大の学生に多く、われわれとしても逮捕したら起訴に持ち込みたかった」と振り返り、こう指摘した。 「前線の『兵隊』なんて一晩留置されて釈放されるケースも多かった。指導者たちもそこが分かっていたからこそ、前線に無茶をさせ、自らが逮捕されれば、組織が壊滅させられるほどのダメージを受けると考えていた。結果として彼らの内部にも大学による序列化のようなものが生まれたのではないか」 東大・安田講堂の陥落から約10カ月が経過した昭和44年11月5日、山梨県内の山荘「福ちゃん荘」で、宿泊中の赤軍派メンバー53人が凶器準備集合罪などで一網打尽に逮捕される「大菩薩峠事件」が起きた。 赤軍派はその2カ月前に東京・日比谷公園で行われた全国全共闘結成大会で初めて登場した新左翼の最過激派。 彼らは首相官邸占拠計画を立案し、大菩薩で軍事訓練をしようとして警察当局に見破られたのだ。 当時、全共闘運動は下降線に入っており、運動から距離を置く学生が増えていた半面、さらに過激な行動に活路を見いだすグループが出始めた時期でもあった。 この赤軍派の組織構造について、ハワイ大学のパトリシア・スタインホフ教授は、その著「日本赤軍派」(1991年)の中で社会学的視点から分析している。 着目したのは、事件で押収された組織図のノート。 トップには一流大学出身者ばかりが並び、次いで書かれたサブリーダークラスには、入学難易度の高くない私大の学生たちが記載されており、最底辺には青年労働者や高校生の名前が記されていた。 スタインホフ教授は「あたかも日本のビジネス界の縮図」と表現し、 「赤軍派は国家権力打倒をめざしたが、その基盤をつくっている学歴優先主義は問題にしていなかったようである」と指摘している。 実際、赤軍派創設時の最高指導部「政治局」の7人をみると、議長の塩見孝也氏をはじめ京大が4人。早稲田大1人、同志社大1人、大阪市大1人と上場企業の役員リストといっても違和感のないようなメンバーが並んでいる。 学生運動もやはり学歴社会だったのだろうか。 東京大学の学生だった元闘士(60)に尋ねると「学歴ですべてを決めることはなかったと思うが、東大には東大なりの、私大には私大なりの役割分担があった」と話し、次のようなエピソードを教えてくれた。 「東大はバリケードの作り方があまりにも貧弱で、日大全共闘が強固なバリケードに作り直してくれたこともあった。やはり東大は勉強ばっかりのおぼっちゃまで、力仕事は苦手だったのだろう」 右翼学生たちとの衝突が日常茶飯事だった日大全共闘には、強固なバリケードをつくるための特殊チームもあったという。 この元闘士は「組織をつくれば、ピラミッド構造にならざるをえない。名称はともかく指揮官、参謀、兵隊という区分けが存在するのは当然でしょう。指揮官や参謀には頭脳が必要だし、兵隊には体力がないとダメ。これは自然な発想ではないか。時代や思想とは関係のないことだと思います」。 彼らが後に歩んだ人生も大学によって大きく分かれた。むろん、指導者になったばかりに人生の大半を獄中で過ごした“学歴エリート”もいたが、大半の学生は何ごともなかったかのように社会人となり今、定年退職の時期を迎えている。関西の私大で学生運動をしていた元闘士(58)は言う。 「私が知っている範囲でも、東大出身の元闘士はその後、弁護士や学者といった社会的地位の高い職業についており、有名私大の連中もそこそこの企業で出世した。ただ、中堅私大の元活動家たちは就職活動も難しく、最近もリストラや倒産などで厳しい人生を強いられている。そうした構図は現代の学生とほとんど同じであり、やっぱり日本は東大を頂点とした学歴社会なんです」 最終更新:12月27日22時33分配信 産経新聞 懐かしいね・・・。 若い時は、決起に逸る。 間違いも多い。 オラの様に「純真無垢」で美しい人間は常に騙されていた・・・。 しかし騙され続けて、自分で「歴史」を学ぶ様になってからは、簡単に他人が信用出来なくなってしまった・・・。 「騙し続けて欲しかった・・」 そんな歌があったなぁ・・・。 他人に騙せれ続ける人生と他人が信用出来ない人生。 どちらが幸せだったのかね? 現在の世相が、当時と似ている気がするのだが・・・。 昭和44年(1969年)の世相とは〜。 01/18 東大に機動隊8500人導入,安田講堂など占拠の学生と攻防戦.神田駿河台付近で 東大闘争、支援学生が解放区闘争.19日安田講堂封鎖解除. 毎土曜日,新宿西口広場の「べ平連」の集まりに反戦フォーク演奏会. 今年は「蟹工船」がベストセラーになったとか? 若い人は安易な行動には走らない方が良い。 「綺麗事」に騙されると、オラの二の舞だよ。 03/13 都立武蔵丘高校卒業式で生徒20人が式場占拠,機動隊導入(各地で混乱). 04/28 沖縄デー.全国各地で集会・デモ.都内各所でゲリラ活動. 09/18 芝浦工大で内ゲバ事件初の死者. 08/09 日本漁船が歯舞諸島沖でソ連警備艇と衝突,沈没.11人死亡. 荒れている時代だった・・・。 05/23 初の「公害自書」発表. 05/26 東名高速道路全線開通. 06/10 43年度の国民総生産(GNP),世界第2位に. 06/12 初の原子力船「むつ」進水. 高度成長の真っ只中だったけど・・・。 11/17 佐藤首相訪米.佐藤・ニクソン共同声明で47年沖縄返還を表明. 後に、この佐藤首相に「ノーベル平和賞」が贈られた・・・。 「ノーベル賞委員会が犯した最大の誤り」の拙ブは↓ http://blogs.yahoo.co.jp/w1919taka/47357275.html 今年は、金が金を産む「金融資本主義」のバブルがはじけた。 サブ・プライムローンのファンドは危ないと数年前から言われていたのに・・・。 リーマン・ブラザースの崩壊でハッキリ表面化してしまった。 過去の失敗から学ぶ事は多い。 しかし過去と同じ事をやっていたら、日本経済は確実に滅びる・・・。 良かったら、書庫「渋沢栄一」を読んでね〜。 |
日本の歴史
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天皇陛下は23日、75歳の誕生日を迎えた。 陛下は今月上旬に不整脈や胃の炎症などが確認されたことから、負担軽減のために例年実施している記者会見を取りやめ、感想を文章で示した。 陛下は体調について「人々が心配してくれていることに感謝します。最近は、体調もひところに比べて、良くなってきているように感じています」と回復の様子を記した。 さらに「昨今、私や家族の健康のことで、国民に心配をかけていることを心苦しく思います」と心情を吐露。 「私も、健康に問題がないとは言えませんが、医師の注意を守り、これからも国と国民のため、また、より良き皇室の姿を求めて務めていきたいと考えています」と気持ちを表した。 病気療養中の皇太子妃雅子さまに対しては「家族が皆で、支えていくのは当然のことです。私も、皇后も、将来重い立場に立つ皇太子、皇太子妃の健康を願いつつ、二人の力になっていきたい」とご夫妻を気遣った。 また、6月の岩手・宮城内陸地震の被災者らを案じ、日本人4人のノーベル賞受賞を喜んだ。 経済危機に関しては「働きたい人々が働く機会を持ち得ないという事態に心が痛みます」と記した。【真鍋光之】 ◇天皇陛下ご感想◇ 1 しばらくの間は、日程を軽くするようにとの医師の勧めに沿って、今回は、記者会見を取りやめることになりました。 私の健康について人々が心配してくれていることに感謝します。 最近は、体調もひところに比べて、良くなってきているように感じています。 2 今年は、日本に上陸した台風は一つもなく、天候に恵まれ、農作物もおおむね良い収穫が得られたことは喜ばしいことでした。 それでも、全国各地で局地的な大雨が発生し、また、6月には岩手・宮城内陸地震が、7月には岩手県北部を震源とする地震が発生しました。 これらの災害で、死者や住宅の損壊などの被害が生じたことは痛ましいことでした。 岩手・宮城内陸地震の被災者が、冬を迎えて仮設住宅住まいを余儀なくされていることを案じています。 また、河川や下水道の急激な増水によって多くの人命が失われたことも、痛ましいことでした。 3 今年は、北京でオリンピック競技大会とパラリンピック競技大会が開催されましたが、それぞれの大会での日本選手の活躍ぶりは、心に残っております。 また、南部陽一郎博士、小林誠博士、益川敏英博士の3名の方がノーベル物理学賞を、下村脩博士がノーベル化学賞を受賞したことも、喜ばしいことでした。 どちらも、多くの人々に明るい気持ちと励ましを与えたことと思います。 4年前に新潟県中越地震の被災地を訪れた際には、ヘリコプターで上空から視察することしかできなかった旧山古志村を9月に訪れましたが、復興が進み、闘牛や錦鯉(にしきごい)の養殖などが再開されていることを心強く思いました。 4 昨今、私や家族の健康のことで、国民に心配をかけていることを心苦しく思います。 私も、健康に問題がないとは言えませんが、医師の注意を守り、これからも国と国民のため、また、より良き皇室の姿を求めて務めていきたいと考えています。 皇太子妃が病気の今、家族が皆で、支えていくのは当然のことです。 私も、皇后も、将来重い立場に立つ皇太子、皇太子妃の健康を願いつつ、二人の力になっていきたいと願っています。 5 世界的な金融危機に端を発して、現在多くの国々が深刻な経済危機に直面しており、我が国においても、経済の悪化に伴い多くの国民が困難な状況に置かれていることを案じています。 働きたい人々が働く機会を持ち得ないという事態に心が痛みます。 これまでさまざまな苦難を克服してきた国民の英知を結集し、また、互いに絆(きずな)を大切にして助け合うことにより、皆で、この度の困難を乗り越えることを切に願っています。 最終更新:12月23日5時1分配信 毎日新聞 天皇陛下75歳の誕生日、おめでとう御座います。 天皇陛下も大変だよね〜。 一般人ならとっくの昔に「楽隠居」なのに・・・。 「歴史」を学ぶまで「天皇制」の存在理由が判らなかった。 戦後民主主義の教育では、否定的に学んで来たからだ。 「ウグイス泣くよ(794年)平安京」 この平安京に遷都したのが「桓武天皇」 その子供の「嵯峨天皇」が財政難を理由に自分の子供達を「臣籍降下」させた。 「臣籍降下」とは「皇位継承権」を剥奪して家来にする事。 「嵯峨天皇」は「臣籍降下」をした子供達に源を同じくする意の「源」の姓を与えた。 これが「源氏」の始まり。 その後の天皇もこれを見習い「臣籍降下」をしたので「源氏」は21流も有るとか・・・。 又「桓武天皇」の傍流は、都を離れ関東の過疎地に赴任して行った。 これを「桓武平氏」と言い、地元の豪族は進んで婚姻を願った。 これが「平氏」の始まり。 天皇家の血筋が全国に沢山散って行ったのです。 それから約1200年。 100年を3代と単純計算すると〜。 12×3=36代。 仮に一組の夫婦が2人の子供を育てたとすると〜。 「鼠算」で計算すると、日本の人口を遥かに上回ってしまう。 実際には、もっと多くの人達が日本中に散らばった。 私見ですが、日本人の8割位は「天皇家」の血を引いている。 血筋が「近い」か「遠い」かは別だが・・・。 しかし日本人は「中山成彬前国土交通相」が言うような「単一民族」では無い。 日本の「天皇」は諸外国の異民族が征服した王朝とは違い、国民の総本家だと思うのだが・・・。 |
赤穂義士でただ一人切腹せずに天寿をまっとうした寺坂吉右衛門。 足軽の身分だったが、子孫は主君の側近として仕える武士に“出世”していたことを記す書状が、兵庫県赤穂市の大石神社で見つかった。 寺坂をめぐっては「逃亡した」「討ち入り成功の伝達役だった」など諸説あり、義士に数えられないとする見方もあるが、書状からは本人や孫が義士として厚遇された様子がうかがえる。 書状は、大石内蔵助の一族の流れをくむ子孫が、同神社に寄贈した「弘前大石家文書」の一部。 寛政2(1790)年、当時寺坂の子孫が仕えていた高知新田藩の山内家に、寺坂家の現況などを問い合わせたのに対し、山内家の家臣が答えた書状とみられる。 文面には「今は3代目の吉右衛門で、婿養子のため血脈は続いていないが、主君の側頭を務めている」などとあった。 側頭は主君の近くに仕える身分。 寺坂は、義士が吉良邸討ち入り後、泉岳寺に立ち寄った際に姿がなく、その後、寺男を経て山内家に仕えたことが知られている。 このため、歴史家や忠臣蔵ファンの間で、寺坂を義士として扱うか評価が分かれ、赤穂市が市史で寺坂を除く46人説を採り、同市議会で「義士は何人か」という質疑があったことも。 調査した同神社の佐藤誠非常勤学芸員は「足軽だった寺坂が討ち入り後、他藩に仕官でき、孫が側近にまで出世していたことは、当時の社会が寺坂に対して義士としての功績を認めていた証拠」と話し、忠臣蔵資料に詳しい赤穂市教委市史編さん室の小野真一学芸員は「寺坂の子孫の様子を記す史料は珍しい。 孫が主君の側近にまでなったということは、当時の“義士ブランド”の価値を知るうえで興味深い」と話している。 12月4日22時42分配信 産経新聞 「忠臣蔵」の時期になって来たね。 毎年恒例だから子供の頃から、何回見ているか判らない。 中でも「寺坂吉右衛門」は好きな人物。 寺坂吉右衛門の「その後事情」は「不明」のままで良かったと思うんだけど・・・。 「死ぬも地獄」「生きるも地獄」 切腹した人達が「同情賛美」されている中、 汚名を着せられながら、後世を生き抜いたと思っていたから〜。 どちらかと言えば、生き残る方が大変だったと思うよ・・・。 だけど「寺坂吉右衛門」の子孫の方々には、事実が判った方が良かったのかもね・・・。 寺坂吉右衛門 元禄15年12月14日(1703年1月30日)の吉良邸討ち入りでは裏門隊に属していた。 しかし、討ち入り後に赤穂浪士一行が泉岳寺へ引き上げたときには吉右衛門の姿はなかった。 討ち入り直前に逃亡したという説、討ち入り後に大石内蔵助から密命を受けて一行から離れたという説、足軽の身分の者が討ち入りに加わっていることを大石内蔵助が公儀に憚りがあるとして逃したという説があるが、真相は不明である。 忠臣蔵の物語では討ち入りの様子について、浅野家のゆかりの者へ伝えるよう大石内蔵助から命を受けて瑤泉院や広島に蟄居していた浅野大学の元へ行ったように描かれ、忠左衛門が吉右衛門を「不届き者」呼ばわりしたのは、公儀に追手を出されない為の配慮であったなどという描写も見られる。 討ち入り後の吉右衛門には、大目付仙石久尚の決定により寺坂には一切の追手はかからなかった。 そのまま忠左衛門の娘婿の伊藤十郎大夫に奉公している。 伊豆大島に遠島に処された忠左衛門の遺児吉田伝内にも忠義を尽くしている。 遠島の際の見送り、赦免後の出迎え、伊藤家までの護送、すべて寺坂が行っている。 しかしその後伊藤家を離れたようで享保8年(1723年)3月頃には江戸麻布の曹渓寺で寺男をつとめている。 さらに同年6月頃には曹渓寺の口利きで山内主膳家に仕えた。 このときに今日にまで残る吉右衛門の「親類書」が提出されたという。 延享4年(1747年)に病没して曹渓寺に葬られる。 戒名は節岩了貞信士。享年八三。 後年、慶応年間に入ってから泉岳寺の義士墓所に供養墓が建てられており、ここでの戒名は、遂道退身信士となっている。 寺坂吉右衛門 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E5%9D%82%E5%90%89%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80 ちなみに敵役の吉良上野介は・・・。 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E8%89%AF%E7%BE%A9%E5%A4%AE 米沢藩の財政を立てなおした「上杉 鷹山」との関係は〜。 母方の祖母の瑞耀院が米沢藩第4代藩主・綱憲(吉良の長男)の娘。 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E9%B7%B9%E5%B1%B1 |
中国の李肇星前外相が3日、首相官邸で麻生太郎首相を表敬訪問した。小泉政権時代、日中関係が緊迫していたころから外相として“丁々発止”をやり合った仲だが、この日は肩を抱き合い旧交を温めた。 首相は、13日に初めて単独で行う日中韓首脳会議に触れ、「意義深い。毎年続けていきたい」と意欲をみせ、李氏は「首相の日中関係発展への積極的な貢献に敬意を表する。首相を多くの中国人が支持している」と強い期待を示した。 日本国内では内閣支持率が急落し、求心力低下が言われ始めている首相にとっては強い「援軍」だったようで、この後、記者団に対し「ずいぶんいろいろやり合った仲だったけど…。時代は変わったなあ」と日中関係の改善ぶりに感慨深そうだった。 最終更新:12月3日18時54分配信 産経新聞 中国は「征服王朝」の歴史。 しかし、征服されても漢人は平気で生き抜いてきた。 それは、何故か? 「元」のモンゴル統治や「清」の満人統治でも統治者を「漢人化」したと言うのだ。 ・・・確かに統治者は「都」を漢人の土地に置いて、結局「漢人化」している。 中国が日本やイギリスを嫌いな訳は「漢化」されないからだと言っていた。 国内で人気急落の「麻生首相」に残された道は日本を「漢化」する事? 参院法務委員会は3日の理事懇談会で、日本人と外国人の間に生まれた子供の国籍取得要件から父母の婚姻を外すことなどを内容とした国籍法改正案を4日の委員会で採決することを決めた。 採決に当たって、虚偽認知の防止策を盛り込んだ付帯決議を行うことも決めた。 同改正案は与党と民主党などの賛成により、5日の参院本会議で可決、成立する見通しだ。 付帯決議には、 〈1〉国籍取得の届け出に疑義がある場合、父親と子供が一緒に写った写真の提出をできる限り求める 〈2〉施行状況を半年ごとに国会に報告し、科学的な確認方法の導入を検討する−−ことなどを盛り込む。 国民新党は3日、参院で統一会派を組む民主党に対し、「DNA鑑定などを義務づけなければ偽装認知が起きる危険性がある」として法案の修正を提案したが、民主党は受け入れなかった。 国民新党は採決で反対する方針だ。 最終更新:12月3日22時25分配信 読売新聞 恐らく、中国人からの申請が多くなると思う。 「DNA鑑定」をしたら「ウソ」がバレル。 ニセ日本人を作って「票」にしたいのだと思うけどね・・・。 民主党も国会会期中に「小沢代表」を先頭に大挙して「中国詣で」をしたから・・・。 日本の将来はどちらに転んでも「漢化」されて行く? 寛平6年(894年)に「菅原道真公」は「遣唐使」を廃止した。 危険を犯してまでも「中国(漢人)」から学ぶ事はなくなったのだ。 それ以来、先人たちは日本独自の「文化」を作るように努力をして来たのに・・・。 何で今更「漢化」されなきゃいけないの? |






