|
「しぐさ」は「仕草」ではなく「思草」 多岐にわたる項目が口伝により受け継がれた。 口伝であったことから正確たる文書は現存せず、商人(あきんど)しぐさを「江戸しぐさ」と命名したのは「芝三光氏」であるという。 傘かしげ…雨の日に互いの傘を外側に傾け、ぬれないようにすれ違うこと 肩引き…道を歩いて、人とすれ違うとき左肩を路肩に寄せて歩くこと 時泥棒…断りなく相手を訪問し、または、約束の時間に遅れるなどで相手の時間を奪うのは重い罪にあたる うかつあやまり…たとえば相手に自分の足が踏まれたときに「すみません、こちらがうかつでした」と自分が謝ることで、その場の雰囲気をよく保つこと。 七三の道…道のど真ん中を歩くのではなく、自分が歩くのは道の3割にして、残りの7割は他の人のためにあけておく こぶし腰浮かせ…乗合船などで後から来る人のためにこぶし一つ分腰を浮かせて席を作ること 参考 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 今で言う所の「常識」 法律等のように「文章」にする物ではない。 当時の「江戸」は世界一の大都市。 だから知らない人とトラブルを起こさないように、平等に接する工夫が必要だった。 「江戸しぐさ」のできない人は「田舎者」(常識の無い者)とされ、スリにねらわれたとか〜。 (もともと「江戸」は地方人の集まりなのにね・・・) ところが〜、 日本に文化大革命(明治維新)が起こった〜。 国民皆兵の軍隊ができ、官僚制度が出来てしまった。 上下関係が強調されてしまったのだ。 この時から「日本の常識」が消え始めたと言えるかも〜。 たとえば、会社等で上司に「おはようございます」と挨拶をした時、上司は「おはよう」と答えるのが普通になっている。 しかし江戸時代まではお互いに「おはようございます」と言っていたらしい・・・。 文化大革命(明治維新)当時の「官僚達の姿」が判る〜。 |
日本の伝統
[ リスト | 詳細 ]
大相撲の夏巡業が6日、札幌市の月寒アルファコートドームで行われ、横綱朝青龍(27)は朝げいこから参加した前日とは一転、場所入りは正午過ぎ。 大島巡業部長(元大関旭国)に注意を受けた上、報道陣には暴言を吐くなど粗暴な振る舞いに終始した。 それでも大島部長は朝青龍に配慮した発言を繰り返し、角界の規律の乱れを象徴する1日となった。 横綱として模範的な態度を2日続けて取ることは、朝青龍には無理な相談だった。 朝げいこに姿を見せないだけでも問題だが、場所入りは土俵入りに何とか間に合わせた午後0時半前。巡業軽視を反省したことを疑われても仕方がない。 前日の精力的な姿は好意的に報じられたが、不知火巡業部副部長(元関脇青葉城)は「みんながほめるから来ないじゃねぇか。調子に乗ってんだよ、あいつは」と激怒。 もっとも朝青龍に気にした素振りはなく、素行不良は変わらない。 大島部長に呼び出されて「土俵に来るように」と注意されても、役員室を出る際は母国の罵り言葉を吐き捨てる。 取り巻く報道陣には「下がれ」「何考えてんだ、この野郎」と恫喝。 土俵入りを終えると、午後2時過ぎには会場を後にした。 朝青龍の言い分は「かぜをひいて頭が痛かった」。 去り際に「これから病院に行く」といわれても、前日深夜に札幌市の繁華街で多くの目撃証言があっては説得力を欠く。 巡業部の弱腰も情けない。 注意したとはいえ、大島部長は「何かをいって余計に北を向かれ(機嫌を損ねて)、ストライキされても困る。体調が悪いのなら、連絡してくれれば場所入りが遅れてもいい」と腫れ物を触るような姿勢である。今後も朝青龍の蛮行はやみそうにもない。(奥山次郎) 8月6日16時48分配信 産経新聞 明らかに「伝統」より「収益」を優先している・・・。 「客寄せパンダ」に頼らないとダメになったか〜〜〜。 日本の伝統は確実に崩壊か・・・。 横綱がいつから「グランドチャンピオン」に成ってしまったのだろう・・・。 相撲で一番強い人は「大関」。 その中で「心・技・体」にすぐれた人が「横綱」に成る・・・。 ずっと、そうだと思っていた・・・。 いつの間にか「相撲」は「K−1」に成っていた・・・。 こんな団体に、日本の伝統文化として国民の税金が投入されて良いのだろうか・・・。 |
|
出雲大社 60年に1度の「平成の大遷宮」
出雲国一宮で、旧社格は官幣大社。 近代社格制度下において唯一「大社」を名乗る神社。 祭神は大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)。 古来より「国中第一之霊神」として称えられ、その本殿は「天下無双之大廈」と評された。 縁結びの神様としても知られ、神在月(神無月)には全国から八百万の神々が集まり神議が行われる(神在祭 旧暦10月11日〜17日)。 正式名称は「いずもおおやしろ」であるが、一般には「いずもたいしゃ」と読まれる。 日本神話によれば、大国主神が天津神に国譲りを行う際、その代償として、天孫が住むのと同じくらい大きな宮殿を建ててほしいと求め、造営されたのが出雲大社の始まり。 古代より杵築(きつき)大社と呼ばれていたが、明治4年に出雲大社と改称した。 延喜式神名帳には「出雲国出雲郡 杵築大社」と記載され、名神大社に列している。 名神大社(みょうじんたいしゃ) 古来より霊験が著しいとされる名神を祀る神社。 明治4年(1871年)に官幣大社に列格し、大正時代に勅祭社となった。 現在は神社本庁の別表神社となっている。 創建以来、天照大神の子の天穂日命を祖とする出雲国造家が祭祀を担ってきた。 大国主神は国譲りに応じる条件として「我が住処を、皇孫の住処の様に太く深い柱で、千木が空高くまで届く立派な宮を造っていただければ、そこに隠れておりましょう」と述べ、これに従って出雲の「多芸志(たぎし)の浜」に「天之御舎(あめのみあらか)」を造った。 『古事記』 高皇産霊尊は国譲りに応じた大己貴神に対して、「汝の住処となる「天日隅宮(あめのひすみのみや)」を、千尋もある縄を使い、柱を高く太く、板を厚く広くして造り、天穂日命をに祀らせよう」と述べた。 『日本書紀』 所造天下大神(=大国主神)の宮を奉る為、皇神らが集って宮を築いた。 『出雲国風土記』出雲郡杵築郷 神魂命が「天日栖宮(あめのひすみのみや)」を高天原の宮の尺度をもって、所造天下大神の宮として造れ」と述べた。 『出雲国風土記』楯縫郡 垂仁天皇の皇子本牟智和気(ほむちわけ)は生まれながらに唖であったが、占いによってそれは出雲の大神の祟りであることが分かり、曙立王と菟上王を連れて出雲に遣わして大神を拝ませると、本牟智和気はしゃべれるようになった。 奏上をうけた天皇は大変喜び、菟上王を再び出雲に遣わして、「神宮」を造らせた。 『古事記』 斉明天皇5年、出雲国造に命じて「神之宮」を修造させた。 『日本書紀』 伝承の内容や大社の呼び名は様々であるが、共通して言えることは、天津神(または天皇)の命によって、国津神である大国主神の宮が建てられたということ。 その創建が単なる在地の信仰によるものではなく、古代における国家的な事業として行われたものであることがうかがえる。 出雲大社の祭神は大国主大神であるが、寛文6年(1666年)毛利綱広が寄進した銅鳥居に刻まれた銘文には「素戔嗚尊者雲陽大社神也」とあり、この当時には祭神が素戔嗚尊とされていたとみられる。 本殿は東大寺大仏殿(当時の伝承によれば十五丈・45m)や平安京大極殿より巨大であったとされる。 平安時代に源為憲によって作られた「口遊」で数え歌に歌われている 『雲太、和二、京三。今案、雲太謂出雲国城築明神神殿。和二謂大和国東大寺大仏殿。京三謂大極殿、八省。』 「雲太、和二、京三=出雲太郎、大和次郎、京三郎」 出雲大社 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋 一生に1度見られるかどうかの行事が始まった。 出雲大社は日本誕生の頃で謎が多い。 だから想像も自由。 考えるだけでも面白い。 「守(しゅ)・破(は)・理(り)」と書く。 先人の伝統技を無条件で受け継ぐ「守」 先人の内容を理解した上で、違うと思われる内容を改良する「破」 そして、自分独自の新しい理論を作り上げる「理」 取りあえずは先人が何をしていたのか? 出雲大社をこの眼で確認をする事? 天津神と国津神って何だろう? 天津神とは新興勢力の渡来人か? 国津神とは「ネイティブ・ジャパン」か? 大国主神は国譲りに応じる? 戦わずに降伏をしたのか・・・? 古代史、特に「神話時代」は資料も少なく、推理をした者勝? 皆で考えれば、神話の世界が実話の世界に成るかも〜〜〜〜。 |
古都に春を呼ぶ奈良・東大寺二月堂の修二会(しゅにえ=お水取り)が1日、本行入りし、長さ約6メートルの「おたいまつ」10本が、二月堂の舞台欄干から火の粉を散らした。 おたいまつは、練行衆(れんぎょうしゅう=こもり僧)が約20メートル下の参籠(さんろう)宿所から二月堂に上る際、付き人の「童子(どうじ)」が先導するための道明かり。 練行衆が1人ずつ階段を上って二月堂入りした後、舞台に回ったたいまつは、童子が欄干から打ち振ると、無病息災などをもたらすとされる火の粉が舞い落ち、境内に詰めかけた参拝客から歓声が上がった。 「おたいまつ」は14日まで毎夜ある。 【大森顕浩】 3月2日10時35分配信 毎日新聞 二月堂だけじゃなくて三月堂や四月堂も有る様だね・・・? 旧暦の2月1日から行われて二月に修する法会という意味をこめて「修二会」? 二月堂の名もこのことに由来している? 修二会(しゅにえ=お水取り)が有って、お堂が後から創られたのか? 堂が先に有って修二会(しゅにえ=お水取り)の方が後から始まったのでは? ・・・どっちでも良いか? 「伝統」は理屈で考えてはいけない? だけど「歴史」は明確にしたいけど・・・? 二月堂は年に一度しか使わないのかなぁ・・・? 奈良は「平城遷都1300年祭」で「ひとモメ」あるようだけど・・・。 現代の行政は「税金」で壊して「税金」で治す「高松塚古墳」を初めとしてムダ使いが多い。 アホな官僚は歴史や伝統保存の名の元に「偉大なるムダ使い」をしているとしか思えないのだが・・・? |
横浜市内では最古の名刹(めいさつ)「弘明寺(ぐみょうじ)」(南区)で60年以上続けられてきた節分の日(2月3日)の豆まきが今年から中止される。 狭い境内で警備員の指示に従わない来場者がおり、転倒事故などの危険があるからだ。 継続を望む声が上がる中、美松寛昭(みまつかんしょう)住職(44)は「自分のことしか考えない人が多く、警備の限界を超えている。子供たちに伝統行事を残せないのは悲しい」と話している。 弘明寺では戦前から毎年2月3日に「節分法会」を実施。 応募した年男年女が寺の境内で福豆をまき、鬼や天狗(てんぐ)が周辺を練り歩いてきた。 豆まきには、約600平方メートルの境内に、毎年約1000人が集まり、狭い境内で多くの人が福豆やお菓子を我先にと奪い合う。 実際に転んで軽いけがをする来場者もおり、05年から福豆を手渡しにした。 それでも危険な状態が続き、07年10月に行われた寺の役員会で中止を決めた。 来年以降も再開する予定はないという。 この決定に対し近くの主婦、榊原千代子さん(63)は「子供が豆を拾う時など確かに危ないと思ったが、豆まきをしないお寺が増えているのでやめないでほしい」と落胆していた。 参道にあたる横浜弘明寺商店街への影響も心配される。 商店街協同組合の魚住宏一副理事長(60)は「新規のお客さんを開拓する機会だったのに。影響が予想できない。商店街で配る福豆の量を例年の3倍にして、何とか節分の日が盛り上がれば」と話している。 美松住職は「何かあれば主催者側の責任が問われる時代になった。事故が起きてからでは遅い」と説明している。 【鈴木一生】最終更新:1月29日16時57分配信 毎日新聞 ・・・浅草の三社祭の神輿。 ・・・ついに、豆まきも? 「自分のことしか考えない人が多く、警備の限界を超えている。子供たちに伝統行事を残せないのは悲しい」? 的を得た「発言」だけに返す言葉が無い・・・? 幕末以前に日本に来た西洋人は、日本文化の完成度に驚いたと言うが・・・。 日本人が西洋化している? |




