どうなっちゃうの?日本の将来

県から土地の寄附を強要されている。すでに占有されて竹島状態・・・。

名字と名前の由来

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名字大国

種類の多さは世界トップクラス!?“名字大国”日本のルーツとは?


  日本人の名字は、諸説あるが、15万種類以上もあるといわれている。
  まあ、よその国もきっと事情は同じなんでしょ?
 と思いきや、実はお隣の韓国では285種類ほどしかないらしい。
  また同様に中国も、約3500種類ほどしかないという。
  同じアジア圏なのに、名字の総数がこんなにも違うのはなぜ?

「日本と中国文化圏では名前の成り立ちが異なります。日本が“名字”を使用しているのに対し、中国文化圏で使われているのは“姓”です。日本では名字と姓がごちゃ混ぜになっていますが、本来は別々の意味を有するもの。たとえば姓は、その一族の先祖を指し示すもので、古代の中国では皇帝から授けられました。自分たちの先祖を敬う中国文化圏では、代々その姓を名乗り続けているため、種類が少ない。一方、日本における名字とは、昔の人が他人と自分を区別するため、自分で名付けたケースが多いのです。さらに、1875年にすべての国民に名字を持つことが法律で義務づけられ、これを機に名字の種類が増えたのです」
(姓氏研究家・森岡 浩さん)

ちなみに法制定以降は、名字の変更は原則として法律で禁じられたが、昔は自由に変更することができたため、多種多様な名字ができる土壌があったとか。

ところで、日本には2文字の名字が多い気がするけど、中国や韓国で1文字が多いのはなぜ?

「中国の“姓”は、慣習で原則漢字1文字と決まっているそうです。韓国も中国文化圏の影響が非常に強いため、漢字1文字が多いですね。それに比べ日本の名字は、『石川』『田中』など、地名に由来するものが圧倒的に多いのですが、日本の地名は、奈良時代に『漢字2文字にしよう』というお触れがありました。その影響で地名に由来する名字も漢字2文字が多くなったのではないでしょうか」(同)

ちなみに韓国では、結婚しても先祖は変わらないからか、夫婦ともに姓は変えないとか。
名字って奥深い!

(R25編集部)
※コラムの内容は、フリーマガジンR25から一部抜粋したものです


最終更新:R253月11日(水) 12時 0分配信 / エンターテインメント - エンタメ総合



これを読むと自分の「名字の歴史」が判るかも〜〜〜。





1875年にすべての国民に名字を持つことが法律で義務づけられたのは〜、
四民平等になったからではない。

徴兵制を実行するのにみんなが「八っあん」「熊さん」では実施が出来なかったからだとか〜。


名字は自由に変更することができたため、多種多様な名字ができる土壌があった。


親戚一同が集まった時、みんな同じ名字なので名前で呼ぼうとしても思い出せない。

そんな時、住んでいる地名を言うのでは・・・?

そんな良い例が「藤原」さん。
近江の「藤原」さんは近藤。
遠江の「藤原」さんは遠藤。
加賀の「藤原」さんは加藤。
伊勢の「藤原」さんは伊藤。
伊豆の「藤原」さんも「いとう」だけど、漢字で書く時は伊東。


分家した時に、本家に遠慮して違う名字にした。
簡単な所では「大田」さんの分家は「太田」

まるで違う名字にした人も多かったが〜。

分家でも大きな活躍をすると、その人の名前を名字にした一族もいる。
「且元」「頼近」等


ちなみに、幕末の志士達は多くの名前を使い分けていた〜。



日韓併合で「創氏改名」を強制したと言うのはウソ。
第一次世界大戦後、日本は世界の五大国になりました。
そこで、朝鮮半島の人達は名字で出生が判ってしまうので、名字の変更を許可したのです。
日本は1等国に成っていたので世界を渡航する朝鮮半島の人達は、進んで日本名を選んだ。

戦争中「洪思翊(こう しよく)中将」は、改名もせずフィリピン戦犯裁判で処刑されました。
朝鮮民族の矜持を持っていた方だと思います。



現在の日光は昔、浄土をあらわす「補陀落山」と呼ばれていたそうです。
奈良時代に『漢字2文字にしよう』というお触れがあり読み方が似ている「二荒山」に変更。
「二荒山神社」等が有名ですが〜〜〜。

江戸っ子が「二荒」を音読みで「にっこう」と言ったそうです。
江戸中で「にっこう」と呼ぶので、仕方なく音読みに「日光」の文字を当てて現在に至っているとか〜。


日本でも昔は夫婦ともに姓は変えない人は多かった。
源頼朝の奥さん「政子」さんは〜、
「北条政子」
「源政子」とは言わない・・・。


「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」

歴史は自分で学ばないと騙されますよ〜。














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張替

張替家の歴史
 お婆ちゃんの実家、張替(はりがえ)家は、下総国猿島郡の名族でした。
針谷(はりや、はりがや、はりたに)氏や針ヶ谷氏等と同族で、おそらく分家筋が本家と区別する為に漢字を替えたのです。
 針谷氏が(はりや、はりがや、はりたに)等と読み方が変化した様に「張替」も当初は(はりがい>はりがや>はりがえ)と長い時代で発音が変わったと思います。

「張」は「墾」
 「はり」とは「開墾した所」の意味でハラ、ホリ(原、堀)等と同じ意味です。
 古代では、新たに開かれた田を「墾田(はりた)」と呼んでいました。
 法律用語では中国読みの「こんでん」と呼ばれていたのです。
「はり」には「墾」ではなく「治」「張」の字が当てられました。
(例、尾張、夕張、三重県名張市等)

「谷」も「かい」と読めば開拓の意味です。
例えば「熊谷」の発音はクマガヤとJR駅に表示してありますが「クマガイ」が正しく、隅地(クマチ、すみっこの土地)を開拓したの意で、熊が住んでいた谷の事では有りません。
昔は湿地帯の事を「や」と言ったので「谷」の字を当てたかも知れません。
 そうすると「張替」「針谷」は湿地帯を開拓したの意味になります。

昔の漢字は表音文字
 床屋のおじさん(お婆ちゃんのお兄さんで競輪が大好きだった。オラのゴッドファーザー)がお爺ちゃんに「先祖は大陸の血が入っているかも知れんなぁ」と言っていたそうですが、張替の「張」の文字に捕らわれた言葉だったのでしょう。

 戦後の日本人は漢字の意味に捕らわれがちですが、基本的には間違いです。
 昔の日本は話し言葉が先に有り、漢字が渡来するとその発音に適当な字を当てた表音文字(現在のひらがなと同じ)で文字の意味は無かったのです。
 これを「仮借(かしゃく)」と言います。

 針谷氏は榛谷(はんがやと発音)氏の後裔とされています。
 この榛谷氏の出自は、秩父氏です。
 秩父氏は坂東八平氏(千葉・上総・三浦・土肥・秩父・大庭・梶原・長尾)の一族で、平安時代の末期に、桓武天皇を祖とした賜姓皇族の平氏で関東の南部に本拠地を持ち、武士団を起した先駆者達で「桓武平氏」と呼ばれました。

桓武平氏系図
桓武天皇─葛原親王┬高棟
         └高見王─高望王┬国香(常陸大掾)
                 ├良兼(下総介)
                 ├良持(鎮守府将軍)  
                 │ ┠────────将門
                 │ 女        
                 ├良正
                 ├良文(張替家の遠祖)
                 │ ┠────────┬忠頼
                 │ 女        │
                 │          └忠光
                 └女
                  ┠──────────藤原為憲
                 藤原清経


高望王(839―911)
 高見王の皇子。母は、藤原是緒(右京大夫)の娘。正和6(839)年9月7日、京都に生まれました。
 寛平元年(889)年5月13日、宇多天皇は桓武天皇の皇孫に対して「平」姓を授けて臣下としました。これによって高望王は平高望と改名。従五位下に叙せられ、「上総介」に任じられて東国へ下向していきました。
 当時、無位無官の王には時服料のみが与えられ、その時服料は五位の大夫の年収の16分の1と規定されていました。つまり、王という身分がかえって生活に支障をきたすようになっていたのでした。
 そのうえ、中央政府では藤原氏が権力を握っており、藤原氏ではない高望に出世の見込みはありません。そのため、彼は東国へ行って中央権力から逃れるという道を選んだといわれます。

秩父氏
平良文の子、村岡次郎忠頼。
忠頼の子、将常が武蔵権守となり秩父郡中村郷(秩父市)に本拠地を置いて「秩父」を名乗りました。
将常の子、武基は秩父の牧の別当。
武基の子、武綱は前九年の役で源頼義に「武功第一也」と賞賛されました。
武綱の子、重綱は出羽権守、武蔵国留守所総検校職等の在庁官人になりました。

 総検校職は、武蔵支配に重要な意味を持っており、秩父一族は秩父・大里郡を中心に武蔵、下総、相模等に分布しました。
 一族は畠山、小山田、稲毛、河越、江戸、高山、榛谷の武士団に別れたのです。
 これは分家を立てる時に、与えられた領地の地名を苗字としたので、兄弟でも名字が違ったのです。
 重綱以後、秩父氏は惣領筋の畠山氏が継承しましたが、鎌倉時代に重忠が二俣川で討死後は、次男筋の河越氏に移りました。

榛谷氏は何処に本拠地を置いたのでしょう?
 榛谷氏の祖は、榛谷重朝(????-1205) です。
 小山田有重の次男。母は八田宗綱の娘か。通称は榛谷四郎。
 はじめ「小山田四郎」を称していましたが、伊勢内宮の荘園・武蔵国榛谷御厨(現在の横浜市保土ヶ谷区の辺り。「はんがや」は「ほどがや」の語源と言われています)の荘官として赴任し、榛谷を称しました。
 その後は畠山重忠と行動をともにし、重忠とともに頼朝に降伏。その武勇と篤実な性格が頼朝の信頼を買い、養和元(1181)年4月、寝所の番士11人の1人に選ばれています。また、兄・重成とともに弓の名手として知られ、弓の催しには必ずと言っていいほど射手として参加し、鎌倉を代表する武将のひとりであったことがわかります。

●寝所祇候衆11人●
 江馬四郎義時、下河辺庄司行平、結城七郎朝光、和田次郎義茂、梶原源太景季、宇佐美平次実政、榛谷四郎重朝、葛西三郎清重、三浦十郎義連、千葉太郎胤正、八田太郎知重

 寿永元(1182)年6月7日、由比ヶ浜で弓の技を競う催しがなされ、はじめに行われた牛追物に下河辺行平・和田義盛・和田義茂・三浦義連・愛甲季隆とともに射手として参加しました。
 その後も20年以上にわたって幕府に出仕し、兄・重成が入道して引退したのちも弓の上手として知られていました。また、頼朝亡きあとの正治2(1200)年2月26日、頼家が鶴ヶ岡八幡宮に参詣した際の後陣の随兵として加わっています。
 しかし、元久2(1205)年6月23日、畠山重忠が謀叛の疑いで討たれた直後に無実とされ、その讒言の張本が兄・重成であると断じられ、榛谷重朝も北条時政の命を受けた三浦義村によっておびき出され、鎌倉経師谷において三浦義村の軍勢に攻められて嫡男・重季(太郎)、秀重(次郎)とともに討ち取られました。

『吾妻鏡』元久二年六月二十三日条
「…三浦平六兵衛尉義村、重ねて思慮を廻らし、経師谷口において、謀りて榛谷四郎重朝、同嫡男太郎重季、次郎秀重等を討つなり。稲毛入道、大川戸三郎が為に誅せらる。子息小沢次郎重政は宇佐美与一これを誅す。今度合戦の起りはひとへにかも重成法師が謀曲にあり。いはゆる右衛門権佐朝雅、畠山次郎において遺恨あるの間、かの一族反逆を巧むの由、しきりに牧の御方に讒し申すによって、遠州ひそかにこの事を稲毛に示し合はせらるるの間、稲毛親族のよしみを変じ、当時鎌倉中に兵起あるの由、消息に就きて、重忠途中に於いて不意の横死に逢ふ。人以て悲歎せずと云ふことなしと云々」

 重朝の子孫はその後、三浦氏の被官となっていたようで、宝治合戦の際に三浦泰村一族とともに討死した衆の中に、子孫と思われる「榛谷四郎」とその子息「榛谷弥四郎」「榛谷五郎」「榛谷六郎」の名を見ることができます。さらに、畠山重忠の讒言の張本人とされた兄・稲毛重成の子孫と思われる「稲毛左衛門尉」「稲毛十郎」の名も見ることができます。

 榛谷氏は三浦介義澄の子・胤義(九郎判官)が建暦3(1213)年5月の鎌倉騒動(和田義盛の乱)のあと、義盛の旧領・上総国伊北庄(現在の夷隅郡)を恩賞地として与えられ、この際に榛谷氏は胤義の代官としてこの地に赴いたと思われ、胤義が承久3(1221)年の「承久の乱」で滅んだのちも当地の在地豪族として留まったと思われます。
 そして、時代的に「榛谷四郎重朝」の孫と思われる「榛谷四郎」、そしてその子「榛谷弥四郎」「榛谷五郎」「榛谷六郎」が三浦泰村の家人として宝治合戦(1247年)で討死しました。
 こののち鎌倉時代で榛谷氏の活躍は見られませんが、室町時代が訪れると、「上総国守護職」は佐々木秀綱(佐々木道誉の嫡子)・千葉介氏胤の支配を経て、永和2(1376)年から犬懸上杉氏の上杉朝宗(中務少輔入道禅助)が就任しました。このとき、榛谷重氏(小太郎)は犬懸上杉氏の重臣として伊北庄の代官職を務めていたと思われ、応永23(1416)年10月2日、朝宗の子・氏憲(上杉禅秀)が関東公方・足利持氏と対立して反乱を起こす(上杉禅秀の乱)と、これに荷担。禅秀が敗れて自害したのち、上総国の諸豪族は「守護の命に従って兵を出しただけである」として持氏に降伏しようとしましたが、持氏はこれを許さなかったため、豪族たちは榛谷重氏を総帥とした「一揆」を結成して持氏に反乱を起こしました。
 この集団を「上総本一揆」といいます。

 応永24(1417)年5月9日、持氏は一色左近将監を大将とした軍勢を上総国に派遣。一色軍は上総国市原郡八幡に陣を張って一揆勢と対しましたが、そこに市原郡に所領を持つ常陸大掾家の一族、鹿島憲幹(出羽守)・烟田幹胤(遠江守)・烟田胤幹(左近将監)の軍勢が参陣して、一揆勢を壊滅させました。こうして一色軍は鎌倉へと帰りましたが、翌年正月にふたたび一揆が起こったため、木戸範懐(内匠助)を大将とした軍勢を派遣。下総守護職・千葉介兼胤はじめ、地理に詳しい鹿島・烟田氏の援けをうけて半年後の5月6日、総帥・榛谷重氏はついに降伏しました。重氏は鎌倉へ護送されて由比ヶ浜で処刑されました。こののちの榛谷氏の動向は不明です。

(古地図には、現在の竜ヶ崎市の辺りに「榛谷駅」が記されており、後に榛谷一族はここに本拠地を置いていたのかも知れません)

 その後の榛谷からの出自、針ヶ谷、針谷(はりや、はりがや、はりたに)氏の場合は、現在の「埼玉県浦和市針ヶ谷、千葉県長生郡長柄町針ヶ谷」等の地名が残っており、どちらかが本拠地だったと思います。
(針ヶ谷は昔、榛谷の文字だったかも知れませんね)

 針ヶ谷、針谷氏の分家筋が猿島郡を受け継ぎ「張替」を名乗って支配したと考えられます。
 つまり、張替家は桓武平氏ー秩父氏ー榛谷氏ー針ヶ谷、針谷氏ー張替氏となった一族なのです。

参考
 武士と農民がはっきりと別れたのは、江戸時代からです。それ以前は半農半武が一般でした。
 織田信長が専業武士を育て、豊臣秀吉が刀刈りをして、徳川家康が制度化したのです。この時(江戸時代)から武士(職業軍人)と農民(一般市民)にはっきりと別れたのです。

 張替家の遠祖「平良文」は渡邊綱の父「源宛」と弓術による一騎打ちをしたのですが互いに決着がつかず、それぞれの力量を認め戦いを中止して、無二の親友となったという話に出て来る人です。
「今昔物語・巻第25の3」


参考文献
「名字でここまでわかるおもしろ祖先史」丹羽基二著 青春出版社
「名字と日本人」武光誠著 文春新書
「地名から歴史を読む方法」武光誠著 河出書房新社
「埼玉県の歴史」角川書店
「千葉県の歴史」角川書店

ばあちゃんの名前の謎

「いく」が、ばあちゃんの名前です。
 子供の頃「変な名前だな」と思っていました。友達の女の子には、ほとんど付いている「子」が付いていないからです。何故、ばあちゃんのお父さんやお母さんは「子」を付けなかったのでしょうか?

女の子に初めて「子」を付けたのは嵯峨天皇だと言われています。内親王には〇〇子。臣籍降下した皇女には〇〇姫としたのです。だから一般庶民は「子」を付けるのは畏れ多い事だったので、意識して付けなかったのです。(「子」は「小」「粉」に通じて、かわいらしいの意味があります)

 明治維新の動乱も落ち着いた、明治22年に芸者に「子」を付けるのが流行しました。
「この流行を法律手段で禁止せよ」と書きたてた新聞があったそうです。

 明治の女性作家等に「子」が付いていますが、ほとんどがペンネームです。
 ちなみに与謝野晶子の本名は「鳳しょう」私名を「晶」としていました。
 乃木大将の奥さん静子夫人は「シヅ」です。
 豊臣秀吉の奥さんは「おね」と呼ばれますが「ねね」が正式名称です。
 本人の署名は「ね」だけでした。

 女性の二文字名は江戸時代には、最もポピュラーなことでした。
 他人が呼ぶ時は敬称の「お」を付けて「おいくさん」等と呼ばれました。
テレビ時代劇等で名前を聞かれて「おいくと申します」等と言う場面がよく出てきますが、自分に敬称の「お」を付けるのは間違いです。
「いくと申します」と言わなければいけないのです。

 ちなみに、平安時代の頃は女性に名前を聞くのは、求婚を意味していたそうです。

現在では名前を聞くのは当たり前で、お友達になるには携帯電話の番号を必死に聞き出したりしますが、これより大変な事だったようです。
 昔は、本名を直接言葉にしませんでした。穢れると考えられていたのです。
 ですから、歴史的書類には本名を書きませんでした。
名前が出ないのは女性差別だと言う人達がいますが、日本の文化なのです。

 女性は勿論、男性も字(あざな)や役職名等で呼ばれたのです。
 現在でも飲み屋さんに行くと、誰でも「先生」か「社長」です。
 
 大正時代になると「子」を付ける人達が増えて来ました。
 大正全期で流行した名前は「芳子」「久子」「文子」「清子」「千代子」だそうです。
 この頃から、二文字名の人達は公文書以外では「子」を付けて署名するのが普通に行われていました。又、手紙等を出す時は「子」を付けるのが礼儀とされてきました。
 女学校等ではその様に指導していた様です。

 つまり、ばあちゃんに手紙を書く時は「いく子様」になるのです。
 でも、ばあちやんはずっと「子」を付けませんでした。頑固だったのかな?
 いや学校で教えて貰わなかったので知らなかったのだと思います。

「いく」と言う名前は、ばあちゃんが生まれた当時、珍しい事では無かった様です。
 漢字で書くと「行く」「良く」「往く」「幾」「善く」「育」「郁」等が考えられますが、私は「一九」では無いかと思うのです。
 理由は、陰陽道では奇数が吉とされているからです。だから、奇数が重なる日は吉日とされています。1月1日、3月3日、5月5日、7月7日、9月9日(重陽の節句、宮中では大切な日です)
二桁はありません。この最初と最後の「一九」が全てを包括して、最高に良いからです。
 

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