その時「戦犯名簿」に自分の名前が無い事を知り、地方で騒ぎ立てた男がいた。
「満州建国を立案実行したのは、俺だ〜〜〜!」
余りにも五月蝿いので、GHQが出掛けて行った。
「貴方は東条英機と議論になり、退役させられたのではないのか」
「東条と議論等した事等は無い。そもそも、議論とは対等な知識を有する者同士が行なうもの。東条はバカだ。議論等成り立つはずが無い」と突っぱねた。
これを聞いたGHQは困ってしまったが〜〜〜。
結局「こいつを起訴するとヤバイ」と彼を「不起訴」にした。
この人こそ「満州建国」を立案実行した関東軍参謀「石原莞爾」
彼には数々のエピソードが残っている。
将校には写生の技能が必要であり、授業があった。
同期生一同がこれに困っていると、石原は自分の男根を写生し、
「便所ニテ毎週ノ題材ニ苦シミ我ガ宝ヲ写生ス」と記して提出し、
物議を醸して石原退学まで検討された。
この時は校長が石原の才能を惜しんで身柄を一時預かるということで一応解決した。
石原は酒やタバコをたしなまなかった。
将校団の宴会の席で連隊長から三度飲酒を強要された時に「飲まん」と大声で怒鳴りつけた。
以後、連隊長に気に入られることはなかった。
連隊から一人も陸大に入学した者がおらず不名誉だとして陸士成績が最優秀だった石原を受験させることが本人の意思とは関係なく決められた。
石原はどうせ受からないのだから勉強は不要だとして試験期間に入ってからも一切勉強しなかった。
5日間の試験期間中も試験の解答をさっさと提出して勉強せずに受験会場となった駐屯地の部隊の訓練を見学した。
しかし連隊からは石原だけが合格した。
陸大入試の口頭試問で「機関銃の有効な使用法」を聞かれ、
「飛行機に装備して敵の縦隊を射撃する」と解答した。
その詳細については黒板に図を書いて
「酔っぱらいが歩きながら小便をするように連続射撃する」と答えた。
当時、機関銃を飛行機に装備する着想はまだなかった。
陸大では他兵科部隊勤務が実施された。
その一環で砲車を車庫から出してこれを編成して行軍し、陣地に侵入するために砲列で射撃し、また車庫に収めるまでの行動を一人ずつ試験された。
学生は複雑な号令で指揮することになる。
最後の番であった石原は指揮官の定位置について指揮刀を抜刀し、
「いつも通りにやれ」と命令した。
陸大学生時代の成績は首席であったが、何らかの都合で点数が変更されたため2位であった。
冬でも薄汚れた夏服を着用する石原を天皇の前で講演させることに抵抗があったと言う説や、石原の講演内容について大学の注文を石原が拒否したためと言う説、朝敵であった庄内藩出身であったためと言う説がある。
歩兵第4連隊(第2師団所属。本拠地は仙台)長に就任すると、貧しい東北出身の兵が満期除隊後に生活の一助となるよう、厩舎でアンゴラウサギの飼育を教え、除隊する兵にお土産として持たせた。
内務班の私的制裁を撲滅するために、同じ出身地同士の兵を中隊に集めた。
連隊長自身が、兵食を食べて食事内容と味の向上を図り、浴場に循環式の洗浄装置を設置して清潔なお湯を供給し、酒保を改善するなど、兵士の生活改善に尽力したと言われる。
聨隊長時代,二年兵が満期除隊を迎えるのを見送っていた。
羽織袴姿で並ぶ満期兵を前にして,かつての中隊長が長々と訓示をしている。
突然,にわか雨が降ってきても,中隊長は訓示を止めない。
そのとき,石原は「中隊長のバカヤロー,紋付きは借り物であるぞ!」と怒鳴った。
演習に際しては、兵士達が農地を踏み荒らさないように、畦道を一列にして突撃させた。
検閲官が「こんな馬鹿な突撃があるか、連隊長の決心いかん?」と問うと、
石原は「連隊長戦死!」と叫んで、路上にひっくり返ったという。
1918年に陸軍大学校を次席で卒業した(30期)。
卒業論文は北越戦争を作戦的に研究した論文(「長岡藩士・河井継之助」)
1928年に関東軍作戦主任参謀として満州に赴任した。
自身の最終戦争論を基にして関東軍による満蒙領有計画を立案する。
1931年に板垣征四郎らと満州事変を実行、23万の張学良軍を相手に僅か1万数千の関東軍で、日本本土の3倍もの面積を持つ満州の占領を実現した。
ちなみに世界的なオーケストラ指揮者「小沢征爾」の名前は、板垣征四郎の「征」と石原莞爾の「爾」を貰った。
満州国の建国では「王道楽土」「五族協和」をスローガンとし、満蒙領有論から満蒙独立論へ転向していく。
石原が構想していたのは「偽満」と呼ばれるような、偽装植民地などではなく、日本中国を父母とした独立国であった。
日本人も国籍を離脱して満州人になるべきだと語った。
石原が目指した満州国は「東洋のアメリカ」(東洋人の合衆国)だったとも言われる。
関東軍の役割は飽くまでソ連の南下を防ぐ為のもので、満州国の政治に携わっていることを厳しく非難していた。
1936年の二・二六事件
石原は参謀本部作戦課長だったが、戒厳司令部参謀兼務で反乱軍の鎮圧の先頭にたった。
昭和天皇は「一体石原といふ人間はどんな人間なのか、よく分からない、満洲事件の張本人であり乍らこの時の態度は正当なものであった」と述懐している。
この時、軍中枢部の将校は反乱軍に阻止されて登庁出来なかったが、統制派にも皇道派にも属さず、自称「満州派」の石原は反乱軍から見て敵か味方か判らなかったため登庁することができた。
安藤輝三大尉は部下に銃を構えさせて登庁を阻止しようとしたが、石原は逆に「陛下の軍隊を私するな! この石原を殺したければ直接貴様の手で殺せ」と怒鳴りつけ参謀本部に入った。
1937年の日中戦争(支那事変)開始時には参謀本部作戦部長。
参謀本部は当初戦線拡大に反対であり、対ソ戦に備えた満州での軍拡を目していた。
戦線が泥沼化することを予見して不拡大方針を唱えたが、当時関東軍参謀長東條英機ら陸軍中枢と対立。
1937年9月に参謀本部の機構改革では参謀本部から関東軍に参謀副長として左遷された。
1937年9月に関東軍参謀副長を任命されて10月には新京に着任する。
翌年の春から参謀長の東条英機と満州国に関する戦略構想を巡って確執が深まり、石原と東条の不仲は決定的なものになっていった。
石原は満州国を満州人自らに運営させることを重視してアジアの盟友を育てようと考えており、これを理解しない東条を「東条上等兵」と呼んで馬鹿にした。
東条も石原としばしば対立し、特に石原が上官に対して無遠慮に自らの見解を述べることに不快感を持っていたため、石原の批判的な言動を「許すべからざるもの」と思っていた。
1938年に参謀副長を罷免されて舞鶴要塞司令官に補せられ、
1939年には留守第16師団に着任して師団長に補せられる。
太平洋戦争開戦前の1941年3月に現役を退いて予備役へ編入された。
現役を退いた石原は1941年4月に立命館・中川小十郎総長が新設した国防学講座の講師として招待された。
日本の知識人が西洋の知識人と比べて軍事学知識が貧弱であり、政治学や経済学を教える大学には軍事学の講座が必要だと考えていた石原は、大学に文部省から圧力があるかもしれないと総長に確認したうえで承諾した。
国防学が軍人のものだという旧時代的な観念を清算して国民が国防の知識を得ることが急務というのが講座設置の理由。
しかし東条による石原の監視活動が憲兵によって行われており、講義内容から石原宅の訪問客まで逐一憲兵隊本部に報告されている。
大学への憲兵と特高警察の圧力が強まったために大学を辞職して帰郷した。
この時「石原莞爾」と会い、その主張をビラにして配布した男がいた。
すぐに憲兵隊が男を逮捕拘禁したが獄死した。
この息子さんが以前からご指導を戴いていた先輩だった・・・。
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