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古い話であるが・・・ 昭和20年10月3日に日本海側で唯一進駐軍(米軍)が上陸した村上市瀬波海岸に当時の米軍LST型揚陸艦の錨が残されている。
以前にも記事で紹介した事が有ったが肝心の錨が無かった。錨が長い年月で腐食したので特殊な塗料で塗装し更に屋根付き展示施設の工事前で錨が移転保管中であった。
今回は展示施設の中に収められていたので写真撮影できた。
終戦当時、新潟港等は機雷封鎖により港に出入り出来なかった為に砂浜である瀬波海岸が選ばれて進駐軍が上陸した。
以前は雨ざらしだった。屋根付き保存建屋については、村上市からの直接の助成は無く瀬波地区の区長会の予算と街づくり協議会の予算で保存庫が建てられた。
ガラスが反射して上手く撮れない
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大平洋戦争・日本軍機
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昨年の暮れに見た映画【この世界のかたすみに】を鑑賞して映画の物語に関係する呉・松山・愛南町を紹介する続編です。
今回は松山城から愛南町の南レク紫電改展示施設見学記ですが南レクの紫電改は過去、2011年10月26・27日
11月3・6日に同じ書庫でごご紹介しております。重複するので今回は触れずに過去記事をご覧くださいませ。
これ以前には道後温泉で一風呂浴びて松山銘菓【タルト】を自宅にお土産発送。
松山城の麓から観光リフトに乗り城へ
松山城は1602年(慶長7年)築城。現存大天守は焼失後1852年(嘉永5年)建造。大天守を含めて重要文化財は12棟ある。
天守の窓から外壁を見ると傷んでいるね。幕末の現存天守です。
松山城の写真は余り残っていない。 この後、南下して愛南町の南レク紫電改展示施設に行った。
川西の水上戦闘機 強風
強風を陸上機に急遽変更したのが紫電一一型 中翼配置のままだ。2段引き込み油圧式の複雑な構造の主脚は故障が頻発した。
戦後、米国に運ばれテストされる紫電一一型。 戦後、川西の後継会社である新明和工業の製品に理容のお客さんが座る椅子を生産していた。 油圧式で上下するシステムは紫電の脚から来ている。
(現在は残念ながら生産から撤退した)
油谷班と書いてあるのは川西の工場の整備班の名前だ。
松山→鹿屋→長崎大村に移動した三四三空の紫電改は終戦直後,米軍マークを書かれ米軍に引き渡す為に厚木に空輸された。 343空隊員に依って空輸準備される紫電改
終戦後 油を掛けて焼却処分される紫電改
このシリーズ、一旦 終了致します。
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昨年の暮れに見た映画【この世界のかたすみに】を鑑賞して映画の物語に関係する呉・松山・愛南町を紹介する続編です。
呉からは広島県竹原に移動し四国、今治までフェリーにバイクを乗せて四国へ、しまなみ海道まで行くと遠回りで費用が掛かります。ノンビリ船旅を味わいました。
このフェリー、2009年に四国行き航路は廃止された。 しまなみ海道に客を取られ赤字が続いていた様です。
だったかな?
本四架橋を通行するよりCO2排出は少ないし料金は安いし何よりも体が休めるので私はフェリーが好きでした。
松山といったら紫電11型・21型(紫電改)で有名な第三四三海軍航空隊ですね。軍港呉を米軍の攻撃から守ったのは松山の三四三航空隊です。
今治(波方港)からは松山に走ります。まずは道後温泉に浸かりますが5月連休で大変な混雑、一番安い大きな湯に入るだけのコースを選択。私はバイクでしたが駐車場に停める長い車の渋滞には驚きました。
今回は分野が違うので道後温泉は紹介しません。
よく読んだ千葉てつや氏の漫画。戦争末期の本土防空を描いた343空の物語です。
343空に付いては詳しく解説されている書物・Web等、多く存在するので此処での解説の多くは省略する。
昭和19年12月25日343剣部隊編成(横須賀基地)
昭和20年1月19日松山基地に源田司令着任
昭和20年2月1日偵察第4航空隊を編入
昭和20年4月8日鹿児島県鹿屋基地に移動→国分基地に移動
昭和20年4月25日長崎県大村基地に移動
昭和20年8月15日終戦を迎える
昭和22年4月27日の松山基地跡周辺航空写真 米軍撮影 【出典・国土地理院】
源田実司令率いる三四三航空隊の活躍で有名である。松山には飛行場の北の松山海軍航空隊の予科練教育航空隊と戦闘機が配置された第三四三海軍航空隊(剣部隊)が隣合わせで存在した。
赤い○は紫電改等を格納した掩体壕。現在は3基が残るのみ
昭和22年 米軍撮影 【出典・国土地理院】
滑走路から随分離れた所に掩体壕が9基確認出来ます。敵の攻撃を躱す目的で滑走路・司令部建屋共分散配置された。これらは隣の予科練練習生も加わって建設された。
現在の松山掩体壕を紹介するお勧めのサイトです。
昭和37年5月6日撮影 滑走路南端が伸びている。掩体壕もまだ8基確認できる。【出典:国土地理院】
掩体壕群から空港の滑走路までの間に白い細いラインが見える。かっての誘導路の名残りなのだろうか?白いラインが畑の境界線として残っている。
赤○は第三四三海軍航空隊当時の滑走路への誘導路のコンクリートと思われる。
上野写真を拡大してみた。
戦後、米軍は343空大村基地にて紫電改80機を領収。そのうち6機をテストし3機をサンプルに米国に持ち帰った。そのうちの一機と思われる。テスト飛行・運搬は343空隊員に依って行われた。
写真はスミソニアン博物館、国立航空宇宙博物館に展示される紫電改二一型甲
松山編は次回にも続きます。
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海軍兵学校(現海上自衛隊第一術科学校)見学の兵器展示編です。
見学したのは2006年5月です。かなり時間が経ち、現在の展示状況とは違うかも知れません。
戦艦陸奥の主砲4番砲塔です。戦艦陸奥は大正10年竣工 その後のワシントン軍縮条約で新たな戦艦が昭和12年まで作れなかったので姉妹艦、長門と共に昭和9年〜11年に掛けて近代化大改修が行われた。
41センチ砲は最大仰角30度、射程30.200m推進機が水圧式から最大仰角43度射程37.900m。砲の推進機は空圧式に転換された。この主砲は旧型の外された砲塔である。
砲塔の下部 出入り口か?
駆逐艦 雪風にも搭載した日本海軍の標準的な艦上魚雷発車管である。
上記の魚雷発車管から発射する 当時、世界的に見ても優れた九三式酸素魚雷の後部。カウンタートルクを打ち消す2重反転スクリューで推進する。 全体を写していなかった
真珠湾攻撃にも使われた 甲標的(甲型) 二人乗り 全没排水量46トン 全長23.9m 前幅1.85m 深さ3.4m
主機 バッテリー駆動600馬力DC モーター 水中速力19kt 航続力80〜全速16マイル 装備魚雷97式酸素魚雷×2
甲標的は攻撃終了後は友軍の潜水艦等で乗員を救出する事を前提に開発された兵器で生還が極めて困難な決死の潜航艇ではあったが・・・後に登場する必死の特攻兵器ではなかった。
真珠湾攻撃では5隻が参加したが真珠湾口等で座礁、又は米軍に捕獲され戦果は上げていない。
戦死した搭乗員はその後に9軍神として大々的に日本軍プロパガンダの象徴にされた。ただ一人捕虜となり生き残った○○・・・名前・階級?(忘れました
この艦は戦後の昭和35年6月13日、真珠湾港外で米海軍により発見・引き上げられ翌年の昭和36年6月20日に真珠湾に寄港した揚陸艦しれとこに積まれ日本に帰り横須賀経由で江田島に同年7月28日に到着した。
雪風に付いての説明は・・・看板を参照願いたい。
一等駆逐艦【雪風】は、陽炎型の8番艦 佐世保海軍工廠で1940年1月20日就役。戦争を生き残り戦後は復員輸送船として主に南方のラバウル・ポートモレスビー・バンコク等多くの邦人を帰還させた。引き上げ船として活躍中、妊婦が船内で男児を出産した事やその後の漫画家【水木しげる】氏も雪風で帰還した。
昭和21年12月までに1万3千人以上の邦人を運んだ。
昭和22年7月、台湾に賠償艦として引き渡され長く台湾軍の艦艇として活躍したが1971年夏の台風で座礁、解体された。 主錨は江田島の庭に・・・操舵の舵輪は教育参考館に展示されている。
船体下部に2本の魚雷を抱いている姿が大和ミュージアムにあるが実際は船体の先頭部に炸薬を詰めて敵艦に体当たりする特攻兵器なのだろう。 頭部弾薬600Kg
試作型の船体は先頭形状がエンピツの様に尖っていて友軍の艦艇に誤って刺さり沈没させてしまった。量産型は丸く成形されている。本土決戦用に終戦までに230艇が完成していたが実戦に使われる事は無かった。
全没廃水量19.3t 全長17.28m 前幅(全高)13.0m 水中速力10.0kt 安全潜航深度250m
航続力 水中450マイル 水上36マイル 推進機関はエンジン/バッテリー
この場面も映画 【海軍兵学校物語 あゝ江田島】 で見覚えがある風景だ。
出典:国土地理院
昭和23年1月7日 米軍撮影の江田島 黒い点々は進駐軍のテントだろうか?↑
出典:国土地理院
2013年6月4日の写真 比べてみると変わっているところ変わらないところが分かる。
次回、松山城・343空・南レク公園の紫電21型(紫電改)は年明けにご紹介致します。
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戦前、江田島といえば、海軍兵学校を意味した。
海軍兵学校は、海軍機関学校、海軍経理学校とともに生徒三校と呼ばれた。その規模ではイギリスの王立海軍兵学校、アメリカの合衆国海軍兵学校とともに、世界三大士官学校のひとつにも数えられ、全78期から、総計1万2433名の卒業生を出している。
江田島に通った軍人は、同じ釜の飯を食った海軍兵学校の同期(クラスと呼ばれた)を何よりも大切にした。日本海軍にいる限り、どうしても出世に差が生じ、クラスでも上官と部下になることもあったが、職務を離れれば「貴様と俺」で話が通じる対等の立場であるという不文律があった。クラス同士の会合は準公務として扱われ、またクラスが戦死した場合残された家族は生き残ったクラスが可能な限り面倒を見るという暗黙の了解が存在していた。こうしたことは美風として語られ、戦後に至るまで兵学校出身者の絆は強かった。(出典:ウイキペディア)
江田島と言えばイメージに浮かぶのがこの赤レンガの旧日本海軍兵学校生徒館だろう。
2006年5月の訪問です。現在は環境が違うかも・・・
東京築地に有った海軍兵学校は、繁華街が近い環境が生徒に悪影響を及ぼすとの事から明治21年8月に江田島に移転した。昭和20年終戦により戦後11年間は占領軍の教育施設等に使用したが昭和31年1月に返還され当時、横須賀に有った海自術科学校が移転、現在に至る。
構内には電柱が無い。何と戦前に地中化工事がされているとの事。
日清戦争の前年、明治26年に海軍兵学校生徒館として建築。生徒の生活・教育の場として使われた。
イギリス人の設計でイギリスから軍艦で一個づつ油紙で包まれた高級赤レンガが輸入された。
屋根は当初は日本瓦だったが明治38年の地震後にスレート葺きに変えられた。
正門で住所・氏名を記入して江田島クラブで待つと海自OBの説明係により見学に当たっての規則が説明されて集団見学となる。内部を見学出来るのは大講堂・教育参考館のみで後は生徒が使っているので外観のみの見学となる。見学時間は約1時間半。途中退場は不可。
詳しくは下記 海自第一術科学校HPまで
黒松が並ぶ。 真っ直ぐに上に伸びているのは・・・毎日、生徒と共に 『気を付け
赤レンガ庁舎のレンガは明治26年建立とは思えないほど表面が滑らかで風化していない。イギリス積みだ。
赤レンガ庁舎は外から覗くだけ・・・・
構内配置図です。
日本海軍兵学校 西生徒館として昭和13年に建てられた当時はクリーム色の3階建てであったが老朽化により平成10年から全館改築し現在の建物になった。現在、第一術科学校学生館として使用されている。
外壁は隣の島から切り出した花崗岩が使用されている。内部はほぼ吹き抜け構造になっている。
大講堂の説明を聞く見学者たち
この他に内部を見学出来る建物に教育参考館が有るが内部は撮影禁止になっているのでお見せする資料は有りません。
日本帝国海軍の栄光と終焉の資料館です。海軍の伝統保持・自己修養と学術研究を目的に昭和11年に建てられた。
内部には戦艦陸奥の船首に付いていた菊花紋章。特攻隊員の遺影・遺書などどれも感銘を受けるものでした。
昭和31年に占領軍から返還され海自施設になった。
海軍の貴重な歴史資料が1,000点以上展示されている。脱帽で入館し撮影禁止です。
建物は撮影可能だが・・・当時の私は感銘の余りからか?建物も撮影していなかった。
教育参考館の外観は海自 第一術科学校HPでご覧ください。
次回は、江田島 兵器展示編です。
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