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こんばんは。
今日の新潟県北部は昼間から寒い日でしたが夕方から降雪が・・・
会社からの帰宅時には気温1℃に低下。車の上も真っ白に・・・・
家に到着する頃には地面まで真っ白になりました。私はまだスノータイヤを履いていますが
周囲の車は既に普通タイヤに履き変えた様ですね。皆さん速度を下げて慎重運転でした。
明日も撮影には出られませんので非鉄画像でお茶を濁しますです・・・・
今日の18時頃の自宅窓からの画像です。4月半ばの積雪は珍しい・・・
序でに私のコレクションをご披露です・・・
主に航空機が好きです。見るアングルに依って様々な姿が楽しめます。
左のカメラはキャノネット初期型(親父の愛機でした)右は次の型のキャノネット
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プラモデル
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不評を買った航続力の短い三二型の航続力を補う為、主翼長を二一型と同じ12mに戻し翼内燃料タンク容量を増やしたのが二二型。 早い話が二一型のエンジンを栄二一型に換装した機体です。
二一型と比較すると燃費性能は若干低下したが出力向上により運動性能は飛躍的に向上した二二型。
次の五二型は開戦から2年が経過した昭和18年(1943年)に1号機の試験飛行が行われた。
エンジンは三二型・二二型と同じく栄二一型(離昇1.130hp) 主翼を50Cmづつ切り詰め折畳み機構を廃止。
翼長11mとしたが翼端形状は三二型の角張った形状ではなく空気抵抗を考慮し丸く整形されている。
二二型までの左右一本ずつに集合された排気管は各シリンダーから出されたエキゾーストパイプがそのままカウリングの外に出された推力式単排気管。速度アップを狙ったもので若干の効果が有った様だがその排気音はやかましいもので有ったと推測される。
対するアメリカ軍は2,000馬力級の新型戦闘機を続々と投入する中で終戦まで日本海軍の中心的な戦闘機として奮闘するが時は既に劣勢に終始した。
五二型には派生型として甲・乙・丙型が有る。主に装備する武装の内容に違いがある。生産は三菱の他に昭和19年末には中島飛行機も担当した。五二型は敗戦までに生産された零戦のほぼ半数を占めた。
モデルとしては未作である零戦一一型 ・ 二二型 ・ 五三型 ・ 五四型 ・ 六三型 も含めて一番、零戦として優れていたのは、どの形式だったのか
戦後の坂井三郎氏の談話によると【私は全ての型式に搭乗しましたがゼロ戦が一番ゼロ戦らしかったのは、やはり二一型です。体と機体が一体となって思いどおりに飛ぶ事が出来ました。五二型以降の機体は発動機出力も殆んど向上せず翼荷重が大きくなってしまい持ち味が随分と薄れてしまった。】と語った。
さらに三菱の設計主務者である堀越二郎氏も【理想の零戦は二一型】と明言している。
日本軍が好んで採用した20mm機銃(陸軍呼称は機関砲)についても坂井三郎氏は語っている。
【対戦闘機空戦について極論すれば20mm機銃は全くの役たたずです。私は64機を撃墜したが格闘戦で20mm機銃で撃墜したのは僅かです。大部分は装弾数が多く信頼性の高い7.7mm機銃を集中的に打ち込んで撃墜した。20mm機銃は装弾数も少なく初速は遅く弾丸は重く弾道は、ダレるションベン弾なんです。格闘戦ではまず当たるものではない。
第一に弾道が全く異なる7.7mmと20mmを一機の戦闘機に積んで瞬時を戦う空戦をどうやって戦えと言うのか?
20mm機銃などと言う役たたずの代物を戦闘機に載せよと命じた「大鑑巨砲主義」に凝り固まった海軍中央の愚かな人間達です。】と語っている。
今回で大戦機の完成品は終わりです。次回は・・・
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零戦21型の速度・ロール性能・高空性能を引き上げる目的で改修された型が零戦三二型です。(A6M3)
エンジンを中島飛行機の開発した栄12型(離昇940HP) を2速過給器付きの栄21型(離昇1,130HP)に変更。
主翼の先端(折たたみ部分から)をカット。直線処理とした。
航空性能・ロール性能は改善されたが速度は大幅な改善は出来なかった。一説によると主翼内の20mm機銃の携行弾数を九九式一号一型の60発から二型の100発に増やしたがのちのベルト式給弾式でなくマガジンドラム式だったので収める主翼の厚みが厚くなり空気抵抗が増えた為だと言う。
しかし零戦三二型の最大の欠点として大きな問題になるのが航続距離の短縮である。
その原因として良く言われるのが主翼を短く切ったから・・・切った端面が角形で端面の空気抵抗が増大したからだと言われるが・・・航続距離の短縮の最大の原因は栄12型→栄21型への転装に有ると思う。
栄12型より90Kg重い栄21型エンジンは重心位置を二一型より後方に185mmずらす必要が有った。
結果、操縦席とエンジンとの間に設置した胴体燃料タンクの容積を減らす結果になった。
零戦二一型140ℓ→零戦三二型60ℓとなった。対策として翼内燃料タンクを380ℓ→420ℓに増加したが総量は減となった。反面、敵からの攻撃で翼内燃料量が増えた為、発火のリスクは増えた。
登場した時期はガダルカナル攻防戦。日本軍はラバウルから遠いソロモン諸島のこの島まで攻撃しなければならず航続距離が短い零戦三二型は致命的であった。
まあ登場時期が悪かった。それ以前に登場していれば評価も違ったものになっていただろう。
塗装パターンは史実として見た場合に自信が無いです・・・
モデルは台南航空隊(二代目)の谷水上飛曹ですが胴体白帯は実際には無かったかも知れません(ーー;)
次回は『零戦五二型』です。
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今回は説明の必要もない程の知名度機 『零式1號艦上戦闘機21型』 零戦やゼロ線とも称される三菱設計開発の機体です。
設計主務者は九六式艦戦から続く堀越二郎。十二試艦上戦闘機として昭和12年に海軍から要求された。
意外だがこの時余りにも高い性能要求にライバルの中島飛行機は開発を辞退したとの事。
堀越技師は【ないものねだり】の高い要求書の性能を超超ジュラルミン採用のの部材を軽量化を追求して徹底した穴開けまで施しその要求を満たした試作機が昭和14年4月に初飛行した。
まだ正式採用前の昭和15年7月に中国漢口に配備し重慶に出撃、大戦果を上げたのは有名な話である。
その後、正式採用されたのが11型。その主翼を航空母艦のエレベータで昇降出来る様に主翼端を手動で折り畳める機構・着艦フックの増設に改造したのが21型と言えばお分かりと思う。
今回の機は、ラバウルでの坂井三郎機の21型 (A6M2b) の V-103号機。(キャノピーの木製アンテナ支柱は通信機の性能が悪く電波状況が悪いのでノコギリで切り落とした)
坂井三郎の乗機はV-128号機とV-103号機が知られている。
V-103号機の機体番号は三菱第4728号 だが 三菱第3647号 との説。胴体の帯も本機は青色であるが赤帯の説や帯なし説も 垂直尾翼の白帯も有る?無い?等、諸説が有る様だ。
そのV-103号機も複数の機が【V-103】と記入された可能性も・・・と考えると違和感が無いのだが・・・
機体内部はいわゆる青竹色だが長岡の山本五十六記念館 長官機の一式陸攻の翼の内部がまさにこの色だった
キャノピーの上から出た所でアンテナ支柱は切られていたようです。モデルは根元から有りません
次回は 『零戦32型』 です。
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終戦間際に高度1万メートルの高空を時速570Kmで侵攻してくるB29を迎撃する日本の切り札として開発された防空戦闘機です。
震電(十八試局戦J7W1)の強いインパクトはその機体デザインです。
海軍航空技術廠、飛行機部 鶴野少佐(当時大尉)の研究していたエンテ翼で機体の最後尾に推進式のプロペラを配置した姿です。理想的な空力特性で機首に武装を集中配備出来る利点も有りました。
開発は昭和19年5月(1944年)試作命令が九州飛行機に出される。
九州飛行機が他の航空機製作会社の中で比較的に手空きであった事から選ばれた様である。
九州各地から招集された女学生・徴用工は最盛期には5万人を超え月産300機を目指した。
昭和20年6月に1号機が完成。翌7月に初飛行を試みる。現在の福岡空港で研究開発者の鶴野自身が滑走試験中に機首を上げ過ぎた為にプロペラを滑走路に接地。プロペラを破損させてしまい試作2号機のプロペラを外して1号機に付けた。
更にプロペラの地面接地を防止する為に尾翼の下面に小さい尾輪を2個追加して8月3日に再挑戦。見事に初移行に成功した。
この時の飛行は車輪を3本出したままの低空飛行である。続く6日、8日と試験飛行を行ったところで終戦になった。
ハセガワ 1/48スケール
全備重量4,950Kg 全長9,76m 全幅11,114m 全高3.55m 大型な機ですね。
プロペラは可変ピッチ機構が上手く作動せず量産機ではブレード面積を倍にして6枚→4枚羽根にした定速タイプに変更の予定でした。
エンジン 三菱ハ-43-42 出力2130HP 最大速度750Km(計画値) 上昇限度12,000m(同)
武装30mm機銃×4
架空戦記の中でこの震電をジェットエンジン化する事例が頻繁に出てくる。
開発当初、空技廠からガスタービンエンジンの使用の検討指示が有り複数の技術者もジェット化の話は有ったと認めているが実際の開発は無いまま話だけで終わった。
なおジェットエンジン機の中島飛行機設計の『橘花』はここ九州飛行機でも試作1号機がほぼ完成した状態で終戦になった。これらが実戦に投入されても大局は変わらなかったでしょうね・・・ 次回は三菱ゼロ戦21型です。
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