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今読んでいる「偉大なる対話 水雲問答」(安岡正篤)の中で 面白い一節がありましたので紹介させていただきます。 ************************************** 「君子の交わりは淡として水の如し」(『荘子』山水篇)という言葉がありますが、 これをただあわい、あっさりした水と解釈しますと、君子の交わりは実に冷たい、 薄情な交わりのようにとられます。しかしそれは大きな誤りであって、 きわめて深い意味を持った言葉であります。 〜中略〜 これを説明するために茶の話からいたしましょう。 〜中略〜 さらに大切なことは湯加減であります。第一煎で茶の中に含まっている糖分 すなわち甘味を味わう。第二煎では茶の中のタンニンがもっている苦味を味わい、 最後に湯加減をなおして渋味を味わうのであります。元来甘いというのは、 まだ若い、出来ておらぬということの別名です。次に苦味、最後に渋味であります。 人間の味覚はこの渋味を愛するようにならなければなりません。 〜中略〜 が、それでは渋いという味が一番よいかと申しますと、そうではなくて まだ先があります。すなわち甘いとか、苦いとか、渋いとかいう言葉で表現できる味を 偏味といいまして、こういう偏味を抜けた無の味が一番よい。『老子』の中に無という 言葉がありまして、無味とはこの偏味のないことをいうのです。 その無味、すなわち甘いとか、苦いとか、渋いとかいう言葉で表現できない味を 淡と申しまして、これは味がうすいという意味ではなくて、 何ともいえない味という意味であります。 それではこの淡に値する飲物は何かというと水であります。水の味は、味がないとか、 味がうすいとかいうものではなくて、何ともいえない味、至極の味であります。 だから死にがけに、砂糖水を持ってこいという者もおらず、酒を持ってこいという者も おりません。やはり水であります。「君子の交わりは淡として水の如し」ということは、 そういう風に言葉で表現できない味があるということであります。 **************************************** まだ「甘い」幸兵衛の独り言でございました。
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私は裏千家だから言うわけではないですが、淡交という状態が好きです。 私ながらの解釈をしていますが、これが一番続くような気がします。
2007/1/25(木) 午後 8:57
おかげさまで今日もとても良い勉強をさせて頂きました。ありがとうございます。薄茶と濃茶についても「淡」の如しに点てる(実質的には「点てることが出来るよう努力する」)という表現が使えそうな気もいたしますが、これについては幸兵衛さんはいかがお考えになりますでしょうか?
2007/1/25(木) 午後 9:35 [ パイオンキュー ]
チャチャさん>淡交の意味については深く考えずいましたが、味わい深くまた奥の深いものですね。そのような交わりが広がれば理想的。 実・学・道のうちの道の修行が大切なことを改めて考えさせられました。
2007/1/25(木) 午後 9:41
パイオンキューさん>「淡」の如く点てる、ですか? 無心にお茶本来の味を引き出すことでしょうか。自然の贈り物である茶の本質を損なわないように導くことに心がけるべきなのかな、と思いました。私は茶筅を振るっているときはいつも「美味しくなりますように」と念じています。
2007/1/25(木) 午後 9:48