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教会と子どもたちへの定点観測はまだまだ続きます。

旧約聖書の学び

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礼拝後に受けている学びをまとめてみました。
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箴言

箴言は、毎日の生活の中でのいろいろな側面での知恵(「上手な生活」という意味)を教えているので、おそらく旧約聖書の中で最も実際的な書です。一つの箴言を読むのに数秒かかるだけですが、それを生活に適用するのは一生かかることです。

箴言の中の鍵になる言葉は、知恵、「巧みに生きる能力」です。不敬虔な世界で敬虔に生きることは、しかしながら、単純な課題ではありません。箴言は、神の民が、毎日の生活の実際的な出来事をうまく取り扱うための神の詳細な教えを提供するものです。神、両親、子供、近隣の人、そして、政府に対してどう関わるかなどです。主要な著者であるソロモンは、詩、たとえ、簡潔な質問、短い物語、そして、賢明な格言を組み合わせ、はっきりと記憶に残るようなかたちで、日常生活の問題を取り扱うのに必要な常識と神の見方を与えています。
箴言の著者は主にソロモンですがそれ以外にも複数の著者がいます。それぞれの区切りとなる章の初めに誰が書いたか記されています。(ソロモン、「知恵ある者」、アグル、レムエル)「知恵ある者」については諸説ありますがよくわかっていません。一説にはエジプト人によって書かれた行政事務についての文書に似ているといわれていますが、その文書が書かれた年代とソロモンが生きていた年代やヒゼキヤが編集できた時代とあわず、しかも似ている箇所は本当にわずかだったのでかかわりはないと考えられるそうです。

「伝道者の書」の伝道者と訳されている言葉「コーヘレト」のもともとの意味は「集会で語る者」という意味です。「伝道者」は知識を民で教える教師の役目も担っています。日本語に訳されたときになぜか「伝道者」とされましたが違うニュアンスを与えるという理由からか新共同訳では「コヘレトの言葉」という題に変えられています。

箴言の主題は、「主を恐れることは知識の初めである」(1:7a)です。神を恐れるとは、神の義、主権、そして、力に対して畏敬の念をもって立つことであり、神に謙遜に依存して、神を信頼することです。ここに相互の関係があります。というのは、「主を恐れることは知恵の初め[土台]」(9:10)ですが、知恵は、神の知識と恐れへと導くからです。(2:1〜5)

雅歌

雅歌はソロモンが書いたとされています。この歌の中に数多くの植物と動物の名が記されていることから多くの知識を持ち、初期の北王国と南王国の首都の名が併記されているところを見るとまだ王国分裂前であったと考えられます。歌の中に出てくる「花婿」がソロモンその人ではないかと言われています。ただし視点は主に花嫁であるシュラムの女の観点から書かれています。

純愛のような歌ですが、この歌を読んだとされるBC965年当時でソロモンはすでに60人の妻と80人の側室がいました。にもかかわらずこのような恋文を読める感性には正直ついていけません。もちろんその中には政略結婚も多数あったのでしょうが。
しかし彼が呼んだ歌の中でもっとも情熱的であり「歌の中の歌」と表題するように(1:1がそれにあたります)美しい歌であることには違いありません。

この詩の出来事について、作り話であるという説や神の愛の比喩的表現をしているという説があります。しかし、実際にあった史実として読むのが一番自然のようです。
このような本が聖なる本の中に入っていること事体に意義があると考えられます。結婚や性がタブー視されず神のご計画の中で行われることに祝福があるということにほかありません。

伝道者の書

「伝道者」と訳されている「コーヘレス」とは神様の言葉を伝えるものの意味はなく「集まりで語る者」という意味です。伝道者という訳では誤解を与えると考えたのでしょうか、新共同訳ではこの書のことを「コヘレトの言葉」と呼んでいます。
この本を書いたのはソロモンといわれています。コーヘレスの人生の個人的な側面以外に歴史的な出来事への言及がありませんが、伝承によると「青年期に雅歌を書き、中年期に箴言を書き、そして、晩年に伝道者の書を書いたと断言している。本書は、彼の愚かさと肉欲と偶像礼拝のゆえに無駄にした時間への後悔を表現しているのかもしれません。

伝道者の書のキーワードは虚栄です。虚栄とは、神さまから離れた人生の中から意味を見出そうとする無駄な努力のことです。
人生は、不公平、不確かさ、富の移り変わり、そして、正義が踏みにじられることで満ちているように思われます。しかし、伝道者の書は、無神論や懐疑主義に対して答えを与えていません。事実、人間の最高善の探求は、神のうちに終わらなければならないと主張しています。人生の満足は、この世界を超えてみることによってのみ見出されます。伝道者の書は、否定的なテーマの分析と同時に、善であり、義であり、主権者である神を恐れることによって、人生の虚栄を克服するという積極的なテーマを展開しています。

伝道者の書は神を抜きにして人間側から探求したものであり哲学的な書です。結果として神なしにはすべてがむなしいと結論付けられるのですが、その観点ゆえに文脈を無視して使われるならば一般的な聖書の教えと矛盾する言明を含んでいます。そのような特性を持っていたがゆえにユダヤ人学者が旧約聖書の聖典39冊を決めたヤムニア会議(AD90年ごろ)まで聖なる書かどうか議論のあった書物でもあります。(実際に聖典としてエズラの時期には旧約聖書の書物として認識されていたと思われますが、旧約聖書がこれらの本だとはっきりさせたのがこの会議です)

詩篇

詩篇は150編それぞれが独立しており詩篇を一貫性のある書物とみなしてのアウトラインを作ることは出来ません。

著者も多くの方が関わっています。表題に名前が書いてあるものはその方が書かれたものと思って差し支えないと考えられます。そうなると一番古い場所はモーセが書いていますので今から4000年前、新しいところはソロモンですので今から3000年前ぐらいでしょうか。
詩篇の半分ぐらいはダビデが作りました。表題に合った出来事は実際にそのような目にあっていることを歴史書で確認することが出来ます。

詩篇を解釈する時、4つ覚えておくべきことがあります。
(1)表題が歴史的出来事を示している時、その詩篇はその光のもとで解釈されなければならない。しかし表題がない時、歴史的な状況を組み立てることはむずかしい。状況を推測することは、多分、解釈の手順を助けるよりも傷つけるだろう。
(2)いくつかの詩篇は、イスラエルの礼拝の明確な側面と結びついていて(たとえば、5:7、66:13、68:24〜25)、このことは、これらの詩篇の理解の助けとなる。
(3)多くの詩篇は、明確な構成とモチーフを用いている
(4)多くの詩篇は、イスラエルのメシヤを期待していて、キリストにおいて成就している。しかしながら、比喩的に解釈しないよう、また、解釈の文法的歴史的方法を忘れないよう注意しなければならない。

詩篇の一部は礼拝での典礼として、また日常のディボーションブックとして読まれたようです。そして新約聖書での引用も詩篇が一番多いのも特徴です。それだけ日常的に親しまれてきたものと考えられます。
詩篇はメロディがありましたが現在は残っていません。復元しようとする研究もあるようですが、楽譜も伝承もなく無理だと思われます。

ヨブ記

ヨブはアブラハムと同じ時代かその前後の時代の人ではないかと思われます。ヨブ記が書かれた時代も早い時期ではないかとも言われています。著者ははっきりとは示されていませんが、アブラハムかヨブ自身かエリフかその時代の人かといわれています。ヨブ記はそもそもユダヤ的な背景というものがありません。神殿も祭司も存在せず家長自らがいけにえをささげています。「ヤーウェ」(主)という言葉も存在せず(出エジプト以降に出てくる言葉です)ヨブの寿命も200年ほど生きたことを見ると(アブラハムは175年生きました)その時代だろうと推測できます。

本書の問いは「神が愛であり、力に満ちているのなら、なぜ正しい者が災難を被るのか」です。災難そのものが中心テーマではありません。むしろ焦点は、ヨブが彼の災難から学んだことであり、創造すべての上にある神の主権そのものです。神の観点がなければ3−37章の問いに対して決して満足できる結論に至ることは出来ません。
「なぜ正しくても災難にあうか」は神様以外には分からないのです。ただそこに神様の深い考えがあり、そこに神の主権を認めることしか私たちには出来ないのです。私たちが正しくても高慢になったときには神の前にそれを認めて神の偉大さと主権を認めて罪を言い表すことが必要なのです。

ヨブ記は、たぶん4000 年前に生きた偉大な人物の生涯に起こった、物事を変えてしまうような危機に関心を寄せています。ヨブの神への信頼(1〜2 章)は、不平と助長された自己義認に変わりました(3〜31 章、32:1、40:8 参照)。しかし、彼の悔い改め(42:1〜6)は、彼の回復へと導きました(42:7〜17)。試練は、重要な変革をもたらします。この過程のあとの人間は、過程の前の人とは異なっています。
ヨブは記述を読む限りいくつかの罪を犯していると分析できますが、果たして私たちが同じような状況におかれたときに、ヨブよりうまく対処できるでしょうか。恐らくヨブよりもっと汚い言葉と思いで神や友人や社会などをののしらないでしょうか。

元々ヨブに悪いところはサタンでさえ見つけることが出来ませんでした。ヨブには厳しい試練が与えられ、彼はそれに耐えます。それに対して神はおほめの言葉をあたえるどころか「知識もなく言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか。」(ヨブ38章2節)と投げかけます。苦しい時に自分や周りの悪かったところを探そうとし、そこに理由を見出そうとします。そしてその理由に納得しようとします。しかし誰も苦難の意味はわかりません。ヨブだって神様から教えてもらえなかったのです。
もし自分が失敗しているのがわかったら罪を言い表せば言いし、失敗がなかったら(ほとんどはこれに当たると思われます)ベストを尽くせばいいのです。それに他の人に助けてもらうことは重要です。恥ずかしがることではないのです。「自分は弱い」と認めていることです。助けを求めたくなくなるのはその人が謙遜でなくなっているか、名乗り出た助け手がふさわしくないかのどちらかです。
またクリスチャンは特に助ける人になりたがります。しかししばしばその人が神のようにさばき主になって苦しんでいる人に「罪がないですか」と問い詰めることがあります。これこそ神の主権を侵しています。ヨブ記に出てきた3人の友人はヨブを心から心配して駆けつけました。必死に慰めようとしましたが、結果としてヨブを裁くようなことになってしまいました。
ではどうすればよかったのでしょうか。わかりません。でも、彼らは3日間何も言わずただそばにいてあげたのです。それは、ヨブにとって必要だったのではないかと思います。

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